月光影
この時間のことを、昔の人はなんていったんだっけ。
近衛が歩いている民家の隙間を通る路地も、このずっと先にある大通りも、人影はない。狭い夜空を見上げると、星がいくつもはっきりと見える。
足元を流れているはずの水の流れは聞こえず、ゆがんだコンクリートの蓋が動く固い響きだけが返ってくる。
夏休みも盆に突入し、近衛の周りでも町から出ている人が増えてきた。小菅も大浦も親の田舎に帰っているらしい。
盆の夜更けは、なお一層静かである。いつもなら探せば何軒かからは明かりが漏れているのに、まだ見つけられない。いつもならこれだけ歩いていれば2,3人は見かけるはずなのに、気配すら感じない。
この町の人は、きっとみんな里帰りをしているのだ。この町には自分しか残っていないのだ。
どこまでもまっすぐ続く暗渠の上を、目的もなく歩いていく。誰もいない世界を、だれにも干渉されずに、進んでいく。
取り残された感覚は、別段悲しく感じるわけでもなく、高ぶるわけでもなく、初めから心の中にこびりついているようだった。
途中から意味もなく歩数を数えだした。
「1,2,3・・・」
声に出しても暗闇の中に声が消えていく。自分が大きい声を出しているのか、小さい声を出しているのか、よくわからない。
100を超えると、口に出すのも大変で、そのために歩く速さが遅くなる。足よりも口のほうが疲れてくる。そのくせ、暗渠の終わりは見えずに、代わり映えのない暗闇が続いていく。
327まで行ったとき、少し先に石ころのようなものが落ちているのが見えた。数えるのをやめて、石をけ飛ばす作業に神経を集中させる。ときにはブロック塀にあたり、ときにはコンクリートの隙間に挟まり。右に左にふらつきながら、近衛とともに暗渠の上を歩き続ける。石とコンクリートがぶつかる高い音が心地よく、夢中で蹴り続ける。
キィン。
急に石の音が変わった。気づけば、目の前には白いガードレール。暗渠の上を抜け、大通りまで出ていた。さっきまではまるでなかった人工的な真っ白い明かりだけが右にも左にも、遠くまでまっすぐ続いている。
蹴っていた石はどれだろうかと、周りを探してみたが、どれだか全くわからない。いくつかを軽くけってみたが、さっきまでの音を聞くことはできなかった。
また一人か。
大きく息を吐いた。
普段は人通りの多い市道も、見えるのは街灯と、わずかながら照らされる建物の輪郭。相変わらず何の気配も感じられなかった。
ガードレールを超えて道路の真ん中に立ってみる。登下校の最中に歩こうものなら、誰かしらに怒鳴られるはずなのに、中央のオレンジの線を踏んでも、くるくると回ってみても、だれにも何も言われない。
どうせ一人なのだから。
足を止めて、道路の真ん中に大の字になって寝る。
こんなにでこぼこしているもんなんだ。
遠目には平らに見えた道路は、とげとげでぼこぼこだ。教室の床よりも、校庭の砂よりも、ずっと寝心地が悪い。頭も肘も背中も、そこら中に刺激が走る。
車が来たらどうなるのかな。
自分の上を通り過ぎるのか、避けられてしまうのか、怒られるのか。轢かれて死ぬのか。
いろんな考えが思い浮かび、映像となって脳裏をよぎる。車が来ることを期待している自分がいた。
体中に痛みが走るが、動く気持ちになれない。近衛が歩く音もなくなり、何も聞こえない。
感覚もどんどん消えていっている。体中の痛みがにじんで薄れる。手足が動かなくなり、体がこの世界に溶け込んでいっている。
全てが止まってしまったこの世界を、ただただ心地よく感じている。
くしゅん。
くしゃみをした。その勢いで、体が少し動いた。すると、消えていた体の痛みが戻ってきた。風が前髪をこする。遠くから鳥の鳴き声が聞こえた。
体を起こしてみると、腕にとげとげでぼこぼこの跡がついていた。立ち上がると、少しふらついた。
さっきまで見ていたはずの空をもう一度見ると、いつの間にか青みがかっていた。輪郭しか見えなかった建物も、うっすらと色味が分かるようになった。
少しずつ世界が戻っていくような気がした。
なんとなく、道路の真ん中からどいて、ガードレールをまたいだ。そのままガードレールに座っていると、白い車が右か左へ、すごい速さでかけていった。目でずっと追っていくと、どんどん車体が小さくなっていく。どこまでもどこまでも見えそうな気がした。しかし、不意に角を曲がって消えてしまった。
ガードレールから降りて歩き出す。まっすぐ続く狭い路地をまた歩く。来るときには見えなかったブロック塀の模様も、そこからはみ出ている木の葉も見える。どんどん景色が明るくなる。
「仕方がないので、帰ります。」
明るくなっていく街に一声かけて、暗渠の上を走りだした。ゆがんだコンクリートの蓋が動く固い響きが不規則に鳴っている。見上げると狭い空に星は見えなかった。




