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「全然大丈夫じゃない」


まさか、満面の笑みで大丈夫じゃない、と言われるとは思っていなかったようで、茶髪男子は返事の言葉を途中で止めて、困ったように頭を掻いた。


私だって困っているのだから、そんな顔するのは止めてほしい。


「いや、ごめん。大丈夫。本にちょっとかかっただけだし」


本当は全然ちょっとなんかじゃない。

本を持ち上げると、カバーからコーヒーの雫が、ぽたり、落ちた。

ため息と共に、涙がこぼれそうになる。

買ったばかりの、しかも好きだと思えた本がこんな姿になるなんて。


「あの、えっと、その、悪い」


ようやく大丈夫じゃない理由に気が付いたのか、茶髪男子は申し訳なさそうに口をもごもごさせていた。


「いいよ。乾かせばまた読めるだろうし」


そう言ってはみたものの、コーヒーのシミは取れないだろうなとまた落ち込む。とりあえず、タオルで水分を取っておくか。

リュックからハンドタオルを取り出し、カバーを外した。案の定、ビー玉の表紙には茶色いシミが広がっていた。

慌ててハンドタオルを押し当てる。

きっと気休め程度でしかないだろうが、何もしないよりはマシだと思いたい。

何もしないまま、自分で買った私だけの山野藤の本をあきらめたくない。

そう思った。


「いっちゃんさん。その本、貸して」


呼ばれたことのない呼び方をされて、一瞬、反応が遅れた。

声をした方を向くと、ぼさぼさ眼鏡の須田くんが立っていた。


「いいから。その本貸して。明日返すから」

「え、いや、でも、この本、私の、です」

「いいから。ちゃんと返すよ。取ったりしない」


今日、初めて目があった須田くんと、

今日、初めて話をしている。


「こいつが机にぶつかったの、半分俺のせいだから」

お詫びをさせてほしい、とハンドタオルに包まった本をそっと握ってきた。

「ほんと悪かった!須田もこう言ってるし、その本弁償するから!」

ごめんな、といつのまにか須田くんの後ろに隠れていた茶髪男子も便乗してきた。


「あ、の、いいんです。この本、大事な本だから、そこまでしてもらわなくても」

「大事な本なら、なおさらちゃんとお詫びしたい」


本を握る須田くんの手に、ぎゅっと力が入ったのが分かった。


「この本買うから。だから、その新しい本と交換しよう」


自分で買ったこの本だから大事って意味なんだけどな。

どうやら上手く伝わっていなかったらしい。

大丈夫だから、と断りを入れる前に、茶髪男子がそれは名案だとかなんとか言って私の手から本を抜き取ってしまった。


「じゃあ、そういうことで」

この後予定があると言って茶髪男子は早々に走り去っていった。

去り際に、頭を下げながら、ごめんと一言残していった。

なんだか無性に気に食わない人だったが、本当はいい人なのかもしれない。


茶髪男子が去ったことで、私と須田くんだけが、ぽつり、残された。


「本当に悪かった。俺も悪いんだけど、近藤のことも本当悪かった」

なんかいろいろ無理やりで、と付け加えながら須田くんは頭を下げた。


「あの人、近藤くんって名前なんですね」

「え?」

「え、違うんですか?」

「いや、違わない」

違わないけど、と言ったきり、須田くんは少し黙り込んだ。


私はなにかまずいことを言ってしまったのだろうか。

表情があまり変わらない須田くんに不安な気持ちになる。


「もう、怒ってない?」

「え?」

「本のこと。原因つくった俺が言うべきことじゃないと思うけど、もう怒ってないの?」


そうか。

今の須田くんのその表情は、困っているのか。

須田くんも私と同じで不安だったのか。

少し下がった眉毛に、きゅっと閉じられた唇。

さっき提案したときとは異なる、少し弱い声。

そんな状況でも、まっすぐに私を捉える視線に、私の方がまた狼狽えてしまう。


「もう、大丈夫です。須田くんが本を交換してくれるなら」


へらり、と笑って須田くんに私の山野藤の本を託すことに決めた。

近藤くんにここまで無理やり話を進められたが、須田くんの提案を断るのも今となっては、何だか申し訳なかった。


「ちゃんといいやつ選んでくるから。いっちゃんさんが満足してくれるやつ」


一冊の本、しかも題名も作者も分かっている本を買うときに、良いも悪いもあるのだろうか。

でも、きれいな本と言わなかった須田くんに好感が持てた。

私の詠んだ山野藤の本は、もう新品ではない。

自分で買った私の本が大事だったのだ、という思いがもしかしたら伝わっていたのかもしれない。

なんとなくそんな気がした。


それよりも、はるかに気になるのは。


「あの、いっちゃんさんって、なんですか」


「きみのことだろ?」

「いや、だからってそんな呼び方」


されたことないです、といいながら、堂々と私のことをいっちゃんさんと呼ぶ須田くんが無性に面白かった。


「きみのことをお世話になってる教授たちからよく聞くんだよ。お前も、いっちゃんみたいにもっと真面目にやんなさい、って。怒られてるんだ」

「だからって、さん付けで呼ばなくても」

いっちゃんさん、なんてどう考えても違和感ありまくりだ。

「だって、教授たちはそろってきみのことをいっちゃん、いっちゃんって読んでるし、かといって、いきなりいっちゃんって呼ぶのは変だろ?」

だから、さんを付けて呼んだんだ、といかにも正しいことをしたように説明された。


「須田くんって面白いですね」

「そんなこと言うなら、いっちゃんさんだってもっと真面目で物静かな人かと思っていたよ。特に、近藤に対する態度とかね。すごく面白かった」



初めて話した須田くんに、遠回しに真面目じゃないと言われた。


そのことが、私の心を軽くした。

きっと言った相手が近藤くんだったら、無言で睨むくらいの対応をしたと思う。もしかしたら、須田くんはそこまでお見通しなのかもしれない。


「いっちゃん、でいいです」


須田くんになら、いきなりでも呼ばれてもいい。

そう思えた。


「じゃあ、俺も一つお願い。敬語は止めて欲しい」


近藤と話していたときは、敬語使ってなかったよね、と言った須田くんの下唇が少し突き出していて、その仕草が子供っぽくて可愛く思えた。


「うん。分かった」


たった数時間でお気に入りになった山野藤の本が、他の人の手に渡ることになるなんて思ってもみなかった。

しかも、それが遅刻魔の須田くんとは、全く想像もしていなかった。



「ところで、いっちゃんはなんで俺の名前知ってたの?」



チャラいって有名な近藤のことは知らなかったみたいだけど、と付け加えられて、私の近藤くんの印象は学内共通なのだと安心した。


「前に。友達に、聞きました」


決して間違ったことは言っていない。

ただ、本人の前で、須田くんは遅刻魔として有名です、と言える勇気を私は持ち合わせていなかった。


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