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大学四年生にもなると、必修の講義はほとんどなくなる。
その代り、卒業要件を満たすために今までサボってきた学生は単位修得と就職活動に追われ、なかなか多忙な日々を送る。
私は、運よく前期の間に内定をもらった。
教授に言われた「真面目すぎる」ことをアピールした結果の内定獲得だった。
ほら。やっぱり、真面目なのは悪いことじゃない。
自分を売り込むのは得意なのだ。
ただ、問題なのは、言葉で上手く誤魔化しているから、中身が伴っていないということ。
そうは言っても、これからも上手く誤魔化しながら、来年の今頃は、きっと社会人の一員として真面目に仕事をしているはずだ。
そうあってほしいし、そうありたい。
一限の講義が終わり、美衣子と大学構内のカフェでブランチを食べることになった。ちなみに美衣子は、今までサボってきた学生だが、先日内定をもらったらしい。
残すは、卒業要件を満たすのみだ。
「なーんで起こしてくれなかったのー、いっちゃん!」
薄情者だ、と横でぶつぶつ言ってくる美衣子になぜかコーヒーを奢ることになった。
イケメン教授の講義で寝ていた本人になぜ私が奢ってあげなければならんのだ。
そうは思うものの、気持ちよさそうに眠っていた美衣子を起こさなかったという多少の罪悪感に苛まれて、大人しく奢ってあげた。
「でも、美衣子よかったじゃん。イケメン教授からお呼び出しがあって。帰り際に声かけられたときはびっくりしたけど」
「私はそういうお呼び出しを求めていたわけじゃないのー。もっとキラキラしてて、わくわくするような!そんなどっきどきのお呼び出しを求めていたのよ」
コーヒーを飲みながらため息をつく美衣子を見て、黙っていれば美人なのに、と思わずにはいられなかった。
美衣子は私とは正反対な夢見がちな女の子なのだ。
「きっと、いろんな意味でどっきどきだよ。やったじゃん。声かけられたとき、周りの女子も注目してたし」
「きっとそれは同情のまなざしというのだよ、いっちゃん」
「美衣子って、いろいろ残念だけど、意外と冷静に自分のこと見れてるよね」
「意外ってなによ、失礼な。いっちゃんだって、クールで毒舌だけど、本当はすごーく面倒見がいいって知ってるよ」
ほめて、ほめて、と言わんばかりの表情で私を見つめてくる美衣子と、愛犬の姿が重なる。
美衣子のこのまっすぐさにいつも私は救われている。
それと同時に、敵わないと思う。
人として、同じ女性として、とても魅力的だ。
でも、何だか悔しいから、美衣子には絶対に言ってやらない。
「あーはいはい。ありがとーございます。美衣子は面倒見てもらってる自覚があるのね。えらい、えらい」
「ちょっと、棒読みすぎるよ!しかも、犬じゃないんだから撫でないで!」
本心を上手く伝えられない。
それがもどかしくもあるけれど、美衣子ならいいかと思ってしまう。
私と美衣子の距離感はそれくらいがちょうどいい。
「あ、やべ。腹黒教授との約束の時間だ」
美衣子は手早く残りのコーヒーと食べかけのブランチを口に押し込むと、ばたばたと席を立った。
つい数時間前までイケメン認定だった教授は、腹黒認定されてしまったらしい。
居眠りしていた美衣子を呼び出すあたりから、美衣子の見立ては間違っていないのではないかと思う。
「いっちゃんはもう帰るよね?また連絡するから、今日の愚痴聞いてね」
「うん。健闘を祈るよ。いってらっしゃい」
憂鬱だと言いながらも、腹黒教授の元にいくのだから、美衣子は実は本当に腹黒教授のことが気になっているのかもしれない。
そういうのも言わないのが私と美衣子のお約束。
美衣子がいなくなると、途端に静かになった。
スマートフォンで帰りのバスの時間を調べてみると、たった今行ってしまったようだ。次のバスまでは30分以上ある。
もう少しカフェで時間をつぶすことが決定した。
リュックの中に入っていた、山野藤の本を取り出す。
書店でかけてもらったカバーをそっと外し、表紙をひと撫でする。
児童書のカバーとは異なり、登場人物のイラストが描かれていない代わりに、ビー玉のイラストが描かれている。
そういえば、児童書の彼がラムネの中のビー玉を取り出したようなイラストだと言っていた気がする。
そう言われれば、確かにラムネのビー玉を思い出す。
カバーを外したまま、一枚、また一枚、ページをめくっていく。
同じ通学電車に乗る高校生の女の子と、その女の子に想いを寄せる男の子。
異なる高校に通う二人が交わることはなかった。
高校時代の淡い思い出として大切に胸にしまっておこうと思い、日々は過ぎていく。
とうとう卒業の日を迎えた男の子。
最後の通学電車に乗り込んだとき、交わるはずのなかった二人の歯車が回り始める。
一言で言ってしまえば、まさに、王道青春小説。
そうは言っても、あらすじを読んで、ありがちなストーリーだと思っていた自分が今では恥ずかしい。
小説だと割り切り、こんなの現実ではありえないと思う一方で、私にもこんな出会いが訪れないだろうかと思わずにはいられない。
続きが気になってしまい、早くページをめくりたくてたまらない。
甘酸っぱい想いが胸の中をいっぱいにする。
切なさの伏線と、遊び心がそこらじゅうに散りばめてあり、思わずほろり、くすりとしてしまう。
そして、なにより、主人公の彼らがまっすぐで、不器用で、愛おしかった。
なるほど。これが山野藤の世界なのか。
ページ数の多い小説ではなかったが、読み応えがあり、気が付くと時間も忘れて山野藤の世界にのめり込んでいた。
本を閉じると、思わずため息が出た。
感嘆という言葉はこの瞬間のためにあるのかもしれない。
読み終わった本の表紙のイラストを見て、にやりとする。
この小説でなくてはならない存在のビー玉が読む前よりキラキラして見える。
本にカバーをつけて、次はどの作品を読もうか考えを巡らせる。
そうだ。
また児童書の彼におすすめを聞こうか。
早速スマートフォンを取り出し、児童書の彼に送るメッセージを打ち始める。
きっと、初めて山野藤の本を手にしたときのようにそわそわしていて、いつもより周りが見えていなかったのが悪かったのだ。
机ががたりと揺れた。
カップに残っていたコーヒーがこぼれ、しみをつくった。
「うわー、まじごめん。だいじょうぶだった?」
まったくもって大丈夫なんかじゃない。
声がした方に顔を向けると、いつぞやの茶髪男子がいた。
須田くんに話しかけていた男だ。
「全然大丈夫じゃない」
「あー、そっかーよか…ん?」
余裕の笑みで「大丈夫です」と返すつもりが、むしゃくしゃして思わず本音がでた。
もちろん、にこりと余裕の笑みをうかべたまま。
だって、買ったばかりの山野藤の本がコーヒーに浸ってしまったのだ。
あの透明でキラキラしていたビー玉が、今ではコーヒーの中に沈んでしまっているのだ。
全然大丈夫なんかじゃない。
どうしてくれよう。
結果的に、乗る予定だったバスを3本見送った。
読み終わった後のサイダーみたいな爽快感は、茶髪男のせいでコーヒーの海に飲み込まれてしまった。