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須田くん登場です。
休み明けの月曜日ほど大学に行きたくない日はない。
しかも、1限に履修している講義がある月曜日だったらなおさらだ。
本日はそんな月曜日。
あったかおいしいご飯が待っている実家暮らしは最高だが、朝の満員電車には耐えられない。
長引く講義に、満員バス。
私の大嫌いなものリストに、満員電車も追加された。
1限の時間に間に合うように電車に乗ると、必然的に通勤、通学ラッシュに巻き込まれてしまう。通学にかかる1時間が座れるか座れないかは、私にとって死活問題だ。
そういうわけで、1限がある日は毎日が戦争だ。
そう意気込んではいたものの、今日は呆気なく座席戦争に負けてしまった。
仕方なく、途中下車してくれそうなスーツのおじさんが座る前に立つ。
つり革に掴まり、流れていく風景に目を向ける。
今日は少し荷物が多い。
というのも、実はリュックの中には山野藤の小説が入っている。
我ながら、ラジオを聞いてすぐに小説を買うなんてミーハーだと思う。
ミーハーになってしまうくらいに、山野藤は私にとって不思議で、変で、魅力的な人だった。
運よく座席戦争に勝ったなら、読もうと思って持ってきたのだ。
残念ながら、つり革に掴まりながら片手で小説を支えるなんて高度な技術は持ち合わせていない。
小説を読むのは先送りになりそうだ。
山野藤の作品も読んだことがない上に、小説も普段読まない私は、まずどの作品を読んだらいいか。
それが土日でずっと考えていたことだった。
何冊も出版されていることが、余計に選択を難しく感じさせた。
その一方で、作品の紹介ページを見たり、例の非公式ファンサイトを見たりと、作品を手にする日を想像して、随分そわそわしていた。
早く山野藤の世界に行ってみたかった。
土日のバイトの休憩時間にもスマートフォンで非公式のファンサイトをチェックしていた。
そのお蔭で、読書好きのバイト仲間におすすめを教えてもらえた。
「山野藤さんのファン層は幅広いからね。児童書もおもしろいよ。少しだけ恋愛要素も入ってるから、本苦手な人も読みやすいと思う」
実は児童書が一番好きなのだ、と本好きの彼がおすすめしてくれた一冊が、今リュックの中に入っているそれというわけである。
図体のでかい彼が、児童書という単語を発するというギャップに惹かれて、その日のバイト帰りに早速購入した。
さすがに「児童書です」と主張しているサイズの本を購入するのは、児童書の彼も抵抗があるらしく、児童書が文庫化したものを教えてくれていた。
結局、電車の中で山野藤の世界に行くことはなく、満員バスに乗りかえ大学に到着した。
講義室に入ると、席を確保してくれていた美衣子が手を振ってきた。
友達の隣の席に滑り込み、荷物を下ろして、講義の準備をする。
周りを見渡して、いつもより教室が狭く感じることに気が付いた。
「今日、出席率高くない?」
何かあったっけ、と言いながら、リュックの中に山野藤の本が入っているのを確認し、思わずにやりとする。
「えー、いっちゃん、あなたまさか忘れてるわけないよね?」
化粧を直しながら、美衣子は、恐ろしい子だわ、と呟いた。
今日は特に課題も何もなかったはずだ。美衣子も化粧直しをしているくらいだから、テストがあるわけでもなさそうだ。
「今日は、いつもの教授じゃなくてその教え子のイケメン眼鏡教授が来るの!」
いつもと違う色のリップを塗りながらわくわくしている姿は、まさに恋する乙女である。
「通りでいつも見ない顔の女子が多いわけね」
「もー、いっちゃんもそんなこと言ってないで!ちょっとは気合入れようよ!」
ずい、と鮮やかなリップを差し出されたので、丁重にお断りをする。
「私は、美衣子とは違う方向の、勉強面でのやる気を持ってますので。そういうのは間に合ってます」
「いや!今日は何としてでも!いっちゃんにも気合を入れてもらいます!だってさ、もしかしたら、『君たちかわいいね、この後お茶どう?』なんて展開になっちゃったりしちゃったりするかもしれないじゃん!下手な鉄砲も数撃ちゃあたる!これ鉄則。ってことで、塗っちゃいまーす。」
美衣子、その妄想はさすがにひどいよ。
押しつけられたリップによって、その言葉が美衣子に届くことはなかった。
「よし。いっちゃんもいつもよりかわいい。というより、大人のお色気ムンムンって感じ?」
リップひとつでそんなに印象が変わるわけがない。
大人のお色気ムンムンってなんだ。
美衣子は時々言うことがいろいろと残念だ。
美衣子に言いたいことはたくさんあったが、私たち頑張ろうね、と謎の握手を無理やり交わされると同時にチャイムが鳴った。
「ねぇ、美衣子さん。あの人が、イケメン教授なのでしょうか。随分とラフな格好をしてらっしゃるけど」
講義が開始されてから、数分後。
ドアが開き、眼鏡をかけた長身の男の人が入って来た。
ぼさぼさな頭に、黒縁眼鏡。フードのついた白のトレーナーにジーパン。
とても教授のようには見えない。
「いやいや。あれ、たぶん須田くんだから。ほら、いつも結構遅れてくる子だよ」
「え、須田くんって、あの須田くん?来るの早くない?」
「んーそういわれれば、はやいね。あれ、今日眼鏡だ」
「そういえば、いつもは眼鏡かけてないよね。誰か分かんなかった」
そんなことより、イケメン眼鏡はまだ来ないのぉ、と不貞腐れた美衣子は机に突っ伏してしまった。
遅刻魔の須田くん。
そう言えば、誰のことを言っているのか、私の所属している学科では知らない人はいないと噂されている。
二百人近くいる同学年、同じ学科の中で、須田くんと話したこともない私でさえ知っているのだから、結構有名人なのだと思う。
一年生の頃から、授業開始時間から遅刻にカウントされるぎりぎりの時間まで講義に出席せず、もう少しで遅刻扱いになるというタイミングでいつも現れる。
それなのに、単位を落とすことなく上手くやってのけるのだから、教授の中でも、学生の中でも話題になるのは仕方のないことだろう。
それが4年生になる今まで続いているのだから、ある意味すごい。
今日は大幅な遅刻ではないから、もしかしたら、噂が独り歩きしているだけなのかもしれない。
普段と違って眼鏡をかけている須田くんが新鮮で、姿を目で追っていると、須田くんは私たちの斜め前に少し離れて座っていた男子集団の一人から声をかけられていた。
声をかけた茶髪男子は、にやりと笑いながら何かを囁いた。
須田くんは茶髪男子をひと睨みすると、後ろに視線を向けた。
目が、あった。
そう思った。
どきりとして、視線を誤魔化そうとしたが、そうしようと思ったときには、須田くんはもう私の方を向いていなかった。
茶髪男子の頭を軽く叩きながら、席を詰めるように強制していた。自分の空間が確保できると、どかりと座り、もう後ろを向くことはなかった。
その後、イケメン教授が入って来たが、美衣子は突っ伏したまま夢の世界へ旅立ったようで、別の意味でイケメン教授から目をつけられていた気がする。
美衣子の隣に座っている私は、何度もイケメン教授と目があったが、その度に、今日初めて目があった須田くんのことを思い出していた。
真っ黒な髪。
ぼさぼさで寝癖がついていた。
時々遠くから見る須田くんは眼鏡をかけていなかった。
今日はいつもはかけていない眼鏡をかけていた。
そのおかげで、長めの前髪が眼鏡にかかり、いつもより目がはっきりと見えた。
意外と肌が白くて、綺麗だった。
羨ましい。
美衣子には悪いが、イケメン教授の何倍も、
初めて間近で見た須田くんは格好よく見えた。
なんだか無性に、
児童書の彼に教えてもらった山野藤の本が読みたくなった。