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玄関を開けると、愛犬が部屋から飛び出してきた。
数カ月前から体調を崩し、室内犬になった彼女は、今では帰ってくると人間より先にお出迎えをしてくれる。先日熱を出したときは、嘔吐したり、体が硬直したりで、随分と辛そうだったが、今日は体調が良いようだ。
耳の後ろをひと撫でしてあげると、気持ちよさそうに目を細める。
靴を脱いでリビングに向かう私の後ろを、とてとてとついてくる姿がなんともかわいい。
チワワやトイプードルというような小型犬でも、血統書付の犬でもない、雑種だが彼女は我が家のアイドルであり、癒しであり、家族である。
吾が犬は世界で一番かわいい。
いつもより遅い帰宅だったためか、リビングでは夕食が始まっていた。
「ただいま」
「おかえり。荷物置いて、手洗っておいで」
夕食の匂いに後ろ髪を引かれながら、自室に行って荷物を下ろす。
下したリュックのポケットから、あの駅名キーホルダーが飛び出してきた。
拾いあげて、もう一度よく見てみる。
「ざっしょのくま」とひらがなで書かれた側の隅の方に、数字とその単位であるだろうアルファベットが並んでいた。
「エイチ、ゼット」
言葉に出してみて、ヘルツのHzだとようやく理解した。
Hzということは、ラジオ局が関係しているのだろうか。
それにしては、番組名が書かれていない。
まさか、『雑餉隈』というラジオ番組なのだろうか。
次々に浮かんでくる疑問と、一向に出ない答えに、考えることを放棄した。
とりあえず、お腹がすいた。手を洗って腹を満たすのが先決だ。
キーホルダーを机の上に置くと、ちゃらり、音がした。
夕食は大抵家で食べる。
帰ったら温かいご飯が待っているのは、実家暮らしの特権だと思う。
大学で仲良くしている友達も多少遠くても実家から通っている。
そうなると、大学帰りに飲みに行くにしても、帰りの時間を気にしてゆっくりできない。友達との外食は、ブランチタイムか、昼食というのが私たちの中での暗黙のルールだった。
今日も今日とて、あったかいご飯にありつけたことで、教授に言われた一言なんて簡単に忘れてしまっていた。
我ながら単純である。
「そいうえば、冷蔵庫にプリンあるよ」
いつもの焼きプリンのやつ、と愛犬を構いたおしている母が何ともなしに言う。
母はいっだって偉大である。
大好きな焼きプリンを手にして、自室に戻る。
机の上には、駅名キーホルダー。
プリンを食べながらとりあえず眺めてみる。
「ざっしょのくま」が漢字で書かれた側には、薄紫のラインが一本。
下地の白色によく映える色だ。
よく見ると、同じ色で「wisteria」と隅の方に小さく書いてあった。
Hz
ざっしょのくま
Wisteria
ネットで検索すれば番組が分かるかもしれない。
プリンをひと掬い口の中に放り込み、スプーンを咥えたまま、傍にあったノートパソコンを起ち上げた。
ラジオなんて普段聞かないから、さっぱりだ。
あの男の子は聞くのだろうか。
それとも、ラジオを聞くのは、男の子のお兄ちゃんの方だろうか。
検索してみると、予想していた通り、ラジオ番組『覆面作家 山野藤のwisteria radio』のホームページがヒットした。
「ふくめんさっか、やまのふじ」
言葉にしてみると随分ときれいな名前だと分かる。
山や野に咲く藤の花。
藤の花の色は、そういえば紫色だ。
なるほど。
薄紫のラインがキーホルダーにあったのは山野藤の藤なのかもしれない。
ホームページの一角にはパーソナリティー紹介のページがあった。
山野藤・代表作『苺のないショートケーキ』『冷たい人ほど。』など今話題の小説家。覆面作家ではあるが、声のみ公開。もはや覆面作家ではないのかもしれない(本人談)
作家先生も自分のラジオを持つ時代なのだな、と妙に感心する一方で、山野藤の覆面作家の定義がおもしろいと思っている自分がいた。
「声のみ公開って言っても、しゃべる声で性別分かるんじゃないのかな」
そんな疑問に答えてくれる人もいるはずがなく、プリンをまた一口食べた。
毎週金曜日 23時からの30分。
こうして私は、山野藤のあの声と出会った。