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慌てて視線を逸らせた。また逃げてしまった。
全身を熱くさせるほどの羞恥のなかに、敗北感と後悔、罪悪感が溶け込み私の心を侵食する。
そう。今は講義中。講義に集中するのだ、私は。
いつもの真面目モードの仮面を被り、そっと息を吐き出した。
長袖の薄手のニットを撫でるように捲ると、手首に隠れた腕時計がそっと顔を出す。
講義開始から27分。欠席ぎりぎりのライン。
学生の出席を機械で管理する大学が多い中、吾が大学では出席カードを講義終了時に提出することで出欠を確認するようになっている。大講義室を使用しない場合に至っては、講義開講時に席が指定され、生徒がいるかいないか座席を見れば一目瞭然、ということだ。
この講義は受講者が多く、席指定もない。講義を担当していたおじいちゃん教授は専らの出席カード派であり、「講義開始30分以上は欠席扱い」という30分のボーダー以降、講義室に入って来た学生には直接氏名を聞くという徹底した対応を取っていた。と言っても、吾が大学では出席に関してはどの教授も基本的に同じような対応を取る。
講義開始後、30分以内に講義室に来れば、遅刻扱い。
講義開始後、30分以上過ぎた後講義室に来れば、欠席扱い。
ちなみに、遅刻3回で欠席1回分となる。
そして、15回の講義のうち6回以上の欠席で最終試験受験資格の剥奪。
つまり、単位を落とすことになる。
須田くんが「遅刻魔の須田くん」として有名なのは、遅刻欠席を度々繰り返すにも関わらず、この危険なラインを見事に掻い潜り最終試験受験資格をもぎ取り、尚且つ、成績上位者の地位を譲らないからなのだ。
もちもん、普通に講義に参加していれば、最終試験資格獲得や単位を落とすなどの心配はしなくていいのだが。
須田くんの登場に気が付いた黒井教授が名前を言うように促していた。
おじいちゃん先生は黒井教授にきちんと出席対応についても申し送りしていたようだ。
さすが、抜かりがない。
「須田です。須田 光」
須田くんの声が講義室に響くと、やっぱりな、という雰囲気が漂った。
「30分は過ぎてないから、遅刻、だな」
それだけ言うと黒井教授はさっさと講義を再開する。
小言の多いおじいちゃん先生と須田くんとのいつものやりとりがないことに少しの寂しさを感じながら、気持ちを切り替えるため、ペンを握りなおした。
今日も須田くんは遅刻でした。
気持ちを切り替える、とは思ったもの、体に閉じこもったままの熱に促されルーズリーフの端にそう書いた。書いてからくすりとし、ようやく気持ちが落ち着いた。まだ少しふわふわする気持ちは見逃してあげよう。
秘密は早く隠すに限る。
そそくさと、消しゴムでたった今書いた文字を消し始める。
とん。とんとん。
背中に軽い衝撃を感じ、手を止め振り返った。
「いっちゃん、よかったら今までのところのノート見せてくれない?」
振り返ると須田くんが両手を合わせ、ごめんなと肩をすくめながら尋ねてきた。
不意打ちで須田くんの顔を真正面から見てしまい思わずたじろく。
わたわたと自分の机の上にあるルーズリーフをかき集めると、真面目の仮面の上にさらに無表情の仮面を付ける。いくら隠そうとしても、気持ちがひょっこり顔を出すのではないかと気が気ではない。
須田くんの役に立てるのであれば、須田くんと話す口実になるのであれば。
自分の気持ちを認めてからというものの、下心もひょっこり顔を出すのだから大変だ。
何食わぬ顔をして、はいどうぞ、と差し出す。
「ん。ありがと。近くにいっちゃんがいてよかった」
急いで書き写してしまうから、と少しだけ口元をほころばせる須田くんの表情に表れるのは、感謝と安堵。
ときどき遠くから見ていた須田くんは表情が乏しいぼんやりとした人だと思っていた。
山野藤の本がきっかけで話をするようになって、連絡先も交換して、同級生の一人から知り合いの須田くん、友達の須田くんへと変化していった。
そして、私の好きな人。
どんな須田くんでも、須田くんは須田くん。
私は私のはずなのに。
どうしてこんなに胸が苦しいのだろう。
いつの間に、須田くんのことを知らない、須田くんに恋する前の私に戻れなくなってしまったんだろう。




