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 須田くんにお礼を言おう。


 そう決心したものの、なかなかメッセージの送信ボタンが押せずに土日が過ぎ、大学で講義がある日になった。いつものように大嫌いな朝の満員電車に乗り込む。

 

 満員電車は嫌い。

 しかし、この中にはラジオに投稿していた人のように、誰かに出会い、好きになり、恋人になり、はたまた別れ、また出会う。そういう繰り返しの中で、たくさんの感情がこの電車の中でも生まれているのだと思うと、なんとなく温かな気持ちになった。

 その一方で、私は今日も人の流れに身を任せ、大学に到着した。


 「いっちゃん、こっち!」


 講義室に入ると、美衣子が笑顔で手を振る。

 「おはよ。相変わらず朝は早いよね、美衣子って」

 「早起きは得意なんだよねぇ」

 「あー。早起き、は、ね。」

 「ちょっと、そのセリフは聞き捨てならんぞ、いっちゃん」

 「朝には強いのに、講義始まった途端に寝ちゃうような子に何の言い訳が?」

 「そ、それは…」


 自分でもよく講義中寝てるなーって分かってはいるけどさ、だって朝に強いのと講義で寝ないのとは別問題っていうか、生理現象だからしょうがないっていうか、そもそも講義がおもしろくないのが悪いっていうか、なんていうか…と小さくなりながらごにょごにょと言い訳をしている美衣子に思わずくすりとする。


 「今日の講義もあの教授なんでしょ?頑張って起きときなよ」


 美衣子が目を付けられた、例の腹黒眼鏡と言われている教授。

教授の話をすると美衣子は苦い顔をしたが、口元が少し上がり、なんとなく頬が赤い気がする。


なるほど。

これは美衣子のためにもいろいろな意味で協力してあげなければ。


 「今日もイケメン教授なんだよね!?顔思えてもらうためにも最前に行こーよ!」

 「朝からだるいけどさ、イケメンの顔拝めるってだけでもこの講義取ってよかったよ~」

 「やばっ!あたしすっぴんだし!ちょっ、化粧してくるわ!」


ざわざわとする講義室の中で目立つのは、イケメン教授を射とめようとする女子大学生の方々。

全然気にしていないというそぶりでスマホを眺めているが、そんな声のひとつひとつに、ぴくり、と反応する美衣子はまるで小動物だ。

 

 「美衣子、前の席空いてるよ?」

 「いいの。前に行ったって絶対いいことないもん!」

 また寝ちゃうかもしれないし、と俯く美衣子。

 「居眠り防止には協力してあげるよ?強がっちゃって…」

 あれだけ愚痴に付き合わされたのに、たった数日で名前を聞いただけで頬を染めるだなんて、どれだけ印象が変わったんだか。あの教授なかなかなやり手だな。俯いてしまった美衣子の顔をそっと覗きこもうとすると、勢いよく顔を上げた美衣子が私の手を取って一息に答えた。


 「違うもん!後ろの方が段差あって全体像が見えやすいから黒井先生がかっこよく見えるんだもん!」


 「あ。そう、なんだー」

 「そうなの!あの人、スーツの似合い方が半端ないの!だから近くで顔を見るだけじゃもったいないのぉ!体全体を少し遠くから見るのがベストなのぉ!ねぇ分かる!?いっちゃん!スーツの良さが!!しかもあの人悔しいぐらいにイケメンだから!スーツの中身も良いとか…悔しいけどぉ!悔しいんだけど、認めざるを得ない!!」


 相変わらず残念な美衣子だった。

 そういえば、前にスーツフェチだと言っていた気がする。そのとき、隆平くんの大学入学に向けてのスーツは自分が選ぶと張り切っていた。


 「はいはい、分かった分かった。そんなに教授のことが好きなのね」

 「うん!好き!」


 「へぇ。呼び出しても何かと逃げ回るから嫌われてるのかと思ってたけど」


 通路側に座っていた私の後ろから声がした。


 「は?」

 「え?」


 反応に遅れた私と美衣子は、教壇へと歩みを進めるスーツを着た黒井教授の姿を見た後、顔を見合わせた。教壇に着く前にぴたりと足を止め、こちらを振り返る。眼鏡の奥の目が美衣子を捕える。


「あ、言い忘れてた。新井、この講義終わったら1年の講義の準備手伝え」


 ちなみに拒否権なんかねぇよ、と付け加えるとにやりと笑った。

ざわざわをした講義室の後方から突然現れた教授に最前列を陣取っていた方々は黄色い悲鳴をあげる。そんなことを気を留める様子もなく教壇に立った教授は早速講義を始めた。


ちょうど講義開始を知らせるチャイムが鳴る。


「あ、の、美衣子、だいじょうぶ?」


 握りしめた小さな手をぷるぷると震わせながら、視線の先にはあの教授の姿。

これは羞恥からの震えなのか、それとも…。


「ふざけんじゃないわよっ!あんの腹黒眼鏡っ!!好きなのはあんたの体だけだっつーの!」


 まじないわー、ほんとうざい、自分が好かれてると思うとか自意識過剰すぎるでしょ、はーあ!これだから男って、と声を最小限に抑えながらもぶつぶつと怒る姿に同情しつつも「好きなのは体だけって言い方もどうかと思うよ」と私も小声でアドバイスしておいた。


「お前らおもしれーなー!」


 怒りの治まらない美衣子をなだめていると、背後から声がした。

 今度は誰だ。

 お願いだから、もう講義に集中させてください。

 腹黒眼鏡教授の講義と言えども、落とすわけにはいかない。


「あ、近藤くん」

「よっ!名前覚えててくれたんだ!」


 振り返ると、そこには山野藤の本をコーヒーの海に沈めてくれた茶髪男子、近藤くんがにこにこしながら座っていた。この前はごめんな、という言葉にコーヒー色のあのときの気持ちが込み上げるが、しょぼんとした近藤くんと須田くんのおかげで、いくらかましになっていた。

 気にしないで、と返しつつ思わず近藤くんの近くの席をひっそり確認したのは仕方がないと思う。


 なんせ、代わりの本を買ってきて貰ったにも関わらず、お礼もそこそこに逃亡。

 まして、追加でお詫び一冊が入っていたことへのお礼の連絡すらしていない。


 そんな私が須田くんと顔を合わせるのに平然としていられるわけがない。

 とりあえず心の準備が欲しい。


 近藤くんの周辺にはちらほらと人がいたものの、ぼさぼさ頭の須田くんはいなかった。

 ほっと息をつくと、隣の美衣子が「知り合い?」と疑問を浮かべながら袖を引っ張ってきた。



 今日も須田くんは遅刻です。



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