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あの日、あの声と出会ったのは偶然だった。
大学の講義が長引き、いつもと違う時間帯に最寄り駅に着いた。
大学から最寄り駅までのバスの中は、学生であふれていた。
最寄り駅に着いた頃には、ずっと踏ん張っていた足はガクガクになり、どこでもいいからとりあえず座ってしまいたかった。
少しヒールのある靴を履いた朝の自分を恨みたい。
バスの中から次々と人が吐き出される。バスからようやく解放された私の口からも、ため息が一つ吐き出された。
長引く講義に、満員バス。
私の大嫌いなもの。
今日は大嫌いが二つも重なってしまった。ますます気分が重くなる。早く家に帰りたい。ガクガクの足で重い体を支えながら改札を抜けると、タイミングよく電車が来た。
幸いなことに、電車に乗っていたほとんどの人がおり、座席が空く。
少し時間がずれるだけで人の流れはこんなにも変わるのか。
座席に体を預けると、すぐに意識がぼんやりとしてくる。
「お前は真面目すぎるよ。もう少し気楽にやりな」
目を閉じると、先ほどまで受けていた講義の教授の言葉が頭によぎる。
真面目すぎるってなんだ。
私にとってはこれが普通なんだ。
ほっといてくれ。
自分の殻から抜け出したいと思っても、「周りがつくりあげた私」がそれを許さない。
どうせ私は、自分の殻を自分では壊せない。
私の殻を壊してまで本当の私と向き合ってくれる人もいない。
きっと、教授の言ったことは的を獲ている。
だからこそ、今まで自分の中で気づかないように、腫物みたいに触れないようにしていたことを不意打ちで射られたのが悔しかった。
じわり、じわり、と閉じた瞼の裏に悔しさが迫ってくる。
鼻の奥がつんとしてきて、咄嗟に目を開く。
大丈夫。
揺らぐな、私。
真面目で何が悪い。
困ったことがなかったとは言わないが、いいことだってたくさんあった。
だいじょうぶ。
もはや、教授からのたった一言が私に思った以上のダメージを与えていることに苦笑するしかない。
家に帰るまであと四十分。家に帰れば、母のご飯が待っている。
きっと愛犬も帰ったら遊んでくれるだろう。
そうすれば、私はいつもの私に元通り。
気持ちを切り替えようと、ウォークマンを取り出す。いつの間にかポケットの中で絡まっていたイヤホンのコードを解く。
意外にも簡単に解けたことにほっとし、イヤホンを耳に押し込む。
使い方が悪いからだろうか。
私のイヤホンは大抵二、三カ月で寿命を迎えてしまう。
コードから導線がむき出しになってしまったり、片耳だけ聞こえなくなってしまったりで、使えないわけではないが、その不完全さが気になって結局買い換えてしまう。
そういえば、このイヤホンは結構長持ちしている方だ。
あと少しで使用期間四カ月になる。
最高記録じゃないか。
コードを撫でて、指に絡ませてみると、重かった気持ちが少しだけ浮上した。
ランダムで曲を流し始めると、つい最近解散したユニットの曲が流れてきた。
ドラマの主題歌に取り上げられたことでブレイクしたユニットだが、その後は鳴かず飛ばず。結局いつの間にか解散してしまった。
解散の原因は、よくある音楽の方向性の違いというやつらしい。曲が売れなかったことも、解散の理由も、私には全然興味がなかった。ただ、この曲は好きだった。
まっすぐ過ぎず、綺麗すぎず。
どんな時に聞いてもこの曲だけは私の中に簡単に入り込んでくる。
再び目を閉じると、また頭の中がぼんやりとしてきた。
今日は一段と疲れているようだ。寝過ごすことだけは避けなければ。
そうは思っているものの、体はどんどん重くなっていく。イヤホンから頭の中に流れ込んでくる曲も、もう誰の曲かさえも分からない。
このまま降りる駅まで寝てしまおうと決めたとき、膝の上に抱えていたリュックが、突然腕の中から滑り落ちた。
リュックの金具が床にぶつかった。
ちゃらり、音がした。
靄がかかっていた頭の中が、一瞬で晴れた。
何が起こったか状況が掴めず、足元に崩れ落ちているリュックを眺めていた。
その近くに佇む小さな男の子の姿を見つけ、ようやく理解した。
「あの。ごめんなさい。引っかかっちゃった」
男の子が自分の持っているバックを私に向かって掲げて見せた。
男の子のバックのキーホルダーと私のリュックの紐が絡んでしまっている。
イヤホンを外し、男の子と目を合わせる。
「大丈夫。こっちこそ寝てたから。邪魔なのに気付かなくてごめんね」
足元のリュックを持ち上げて、キーホルダーを解放してあげようと手を動かす。
すぐに解けると思ったが、なかなか解けそうにない。
男の子からじっと見られているのに耐えられず、口を開いた。
「ひとりで電車乗ってるの?」
「うん。お姉さんは?」
「ご覧の通り、ひとりだよ」
「じゃあ、ぼくと一緒だね」
男の子は、私の指先から視線を外し、とん、と私の隣の座席に腰かけた。
「ぼくがやろうか?」
男の子は自分のバックと私のリュックを膝の上に持ち上げた。
「じゃあ、お願いします」
「まかせて。こういうの好き」
私よりも小さな指がするすると絡まっている部分をすべる。
小学校高学年くらいだろうか。
真っ黒な髪が車内の空調の風でさらさらと揺れている。
会話の中で感じていた大人っぽさに対して、少し下唇を突き出す仕草は幼さを感じさせる。
「解けそう?」
「これ、解かなくていいんじゃない?」
え、と声を上げると同時に、男の子は自分のキーホルダーのチェーンを外した。
座席のシートに、すとん、キーホルダーの残りが落下した。
「絡まってるとこが解けないときは、無理して解かない方がいいんだって」
男の子は、リュックの紐から解放されたキーホルダーとそのチェーンを両手で持って、得意げな顔で私の目の前に掲げて見せた。
「なるほど」
私は無意識のうちに呟いていた。
随分年下の男の子の言葉に、妙に納得してしまった自分が可笑しい。
「兄ちゃんが言ってたんだ」
「へぇ、お兄ちゃんいるんだ?」
「うん。問題を解決しようとするんじゃなくて、時には諦めてみるのも大事なんだって」
キーホルダーにチェーンを通して元に戻しながら、これも兄ちゃんにもらったの、と直ったばかりのキーホルダーを私の手の上に乗せた。
「これって駅の名前?」
「そう。兄ちゃんが住んでる駅の名前」
金属のプレートに青い文字で漢字が三文字並んでいる。
一文字一文字は見たことがあっても、三文字並ばれると、私にはまったく意味が分からない。
裏を向けると、ひらがなで「ざっしょのくま」と書かれている。
「これ『ざっしょのくま』って読むんだ」
「おもしろいでしょ?」
「うん、知らなかった」
男の子にキーホルダーを返しながら、どこにある駅だろうと路線図に目を走らせる。そのあとで、男の子のお兄さんがこの近くに住んでいるとは限らないことに気が付く。
「あのね」
男の子が駅名キーホルダーを手の中で転がす。
「ぼく、次の駅で降りるの」
「そっか。気を付けてね」
「お姉さんもね」
もうすぐ次の駅に着く。
停車駅のアナウンスが流れ、乗換の案内が始まる。
男の子は座席から立ち上がり、私の正面に立った。
「お姉さん、これあげるよ」
目の前に差し出されたには、駅名キーホルダー。
「でも、これお兄ちゃんに貰ったものでしょ?」
突然のプレゼントに驚きつつ、私なんかが貰っちゃ悪いよ、と断りを入れた。
「お姉さんと話したの楽しかったから」
男の子はキーホルダーを私の手に握らせた。
「ほら、毎日が記念日って言うでしょ?今日はぼくとお姉さんの記念日だよ」
大人びたことを言う男の子に少し意地悪をしたくなった。
「それもお兄ちゃんから教えてもらったの?」
「それは、ないしょだよ」
目を細めて、無邪気な笑顔を見せる男の子の方がどうやら私より上手だったようだ。なんだか可笑しくなって、声を出さずに笑った。
電車から降りる寸前で、男の子はもう一度振り返ると念押しした。
「そのキーホルダー、レアものだよ。だってお兄ちゃんがくれたものだからね」
「わかった。大切にするね。ありがとう」
私の返事を聞くと、今度は振り向かずに男の子は電車の外へと駆けだした。
ドアが閉まり、電車が走り出すとあっという間に男の子が降りたホームは見えなくなった。
座席に座り直し、目をつぶる。
男の子と、男の子が大好きなお兄ちゃんが並んで歩いている様子が浮かび、思わずくすりと笑ってしまう。
気が付くと、さっきまで体に纏わりついていた重い気持ちがいつのまにかどこかへ行ってしまっていた。
手の中に残された小さなキーホルダーが、ちゃらり、音をたてた。