別れ
俺と弘美ちゃんは小学校の体育館の裏で大泣きした。
今日が最後だと思うと涙が止まらなかった。悔し涙はこれまで散々流してきたが、それらのどれとも異なる涙だった。こんな涙もあるのだと、弘美ちゃんは教えてくれたのだ。
「帰ろうか。」
お互いにひとしきり泣き終えると、彼女はそう言った。
もう辺りは真っ暗になっていた。もちろん彼女のお迎えの時間はとうに過ぎている。
「はい。」
俺が小さく呟くと、彼女は俺の手を握り、立ち上がらせてくれた。
「見送りに行ってもいいですか?」
俺はもう一度だけ彼女に会える機会が欲しかった。
次にもう一度会うまでの間に、気持ちの整理をつけたかった。
「わかった。じゃあ土曜日の朝9時に泉クリニックに来て。親に寄ってもらうから。」
彼女と二人きりでは会えなさそうだ。
だがそれでもいい。もう一度だけ会えるという事実が今の俺には必要だった。
待ち合わせた時間より1時間早く泉クリニックについた俺は、何をするでもなくぼーっと立ちつくして彼女を待った。
9時前になると、明美先生がクリニックに出勤してきた。不思議そうな顔をしながら、俺に近づいてくる。
「どうしたの?こんな早くに。今日はカウンセリングじゃないわよね?」
「はい。ちょっと宮野さんと待ち合わせをしていて…。」
明美先生は彼女の名前を聞くと、暗い表情になった。
「そう。彼女の引っ越し、今日だったわね。」
それだけ言い残し、明美先生は院内に入っていった。
弘美ちゃんに対する明美先生の態度が冷たい事に、少し怒りを覚えたが、今そんな事はどうでもよかった。
早く弘美ちゃんに会いたい。
俺の気持ちはそれだけだった。
時計に目をやると、針は9時ちょうどを差していた。
時計から目を離すのと同時にと、一台の車がクリニックの駐車場に入ってきた。宮野家の車だ。
車はいつもの駐車場の端に停まるのと同時に、後ろのドアから弘美ちゃんが飛び出してきた。
「ごめんね。遅くなって。」
彼女はいつものマスク姿だった。
「いえ、僕の方こそ無理言ってすみません。」
「ありがとう。お見送りしてくれて。」
彼女はいつもの無表情ではなかった。
マスクの下で口元が緩んでいるのが分かる。
「あの…これ。ずっと前に遊園地に行った時買ったものだけど、使う事なかったから。」
俺は彼女に自分の代わりになるものを渡したかった。
部屋中探して、昨日の晩やっと押入れの小さな箱から見つけ出したのだ。
遊園地のマスコットの熊のぬいぐるみ。キーホルダーになる大きさのものだ。
俺が何の悩みも抱えていなかった小学生の頃の、本当に楽しかった思い出として大事に取っておいたものだ。
「よかったら弘美ちゃんに持っていて欲しい。」
彼女の両親が車の中からこちらの様子を窺っているのが見えた為、さっと彼女の左手に握らせた。
「ありがとう。」
彼女はとても嬉しそうだ。
「最後にお願いがあるの。」
弘美ちゃんはうつむいたまま、熊のぬいぐるみを見つめている。
「本当に最後のカウンセリング…。優人くんは醜い顔で生まれてきた。そしてこれからもその醜い顔で生きていくの。」
彼女は初めて俺を下の名前で話しかけた。そしていつものカウンセリングを始めた。
「酷い事を周りから言われると思うわ。でも、私以外の人の声に耳を傾けないで…。あなたが信頼していいのは私だけ。私がいればあなたは大丈夫…。」
彼女は涙を流しながら続けた。
「他の女なんか好きになってはダメ。だって好きになられた子がかわいそうでしょ?こんな醜い顔の男に言い寄られちゃ…。」
知らず知らずのうちに俺の頬にも涙が伝っている。
「私とだったら前を向いて歩いていける。前に進んでいけるの。なぜなら私がそうだったから…。」
彼女は言葉を詰まらせた。
「次は優人くんの番よ。覚悟はできた…。」
彼女は俺の言葉を待っている。
俺は彼女に最後の言葉をぶつけた。
「弘美ちゃんの事が好きです。だから俺の事は忘れて、前を向いて生きていって欲しい。こんな醜い男が言い寄ったら、弘美ちゃんが可哀そうだ。だって…」
弘美ちゃんはとても綺麗だから。
声にならなかった。
何故だかは分からない。最後の一言が喉から出てこなかった。
「行くね。」
そう言って彼女は車に戻っていった。
俺は無言で彼女の後姿を見送った。




