部屋
俺は目を覚ましてから2日後には退院させられてしまった。
診察の結果、今回の体調不良の原因は、何らかの心因的なことによる一時的なものだということで納得させられた。
漠然とした診察結果に不安を覚えたが、検査でどこも異常が見られないという事だったので、ひとまず安心して良いとのことだった。
しかし、意識を失うというのは生まれて初めての体験だったので、正直言うと納得はできなかった。
今後は要経過観察という事で、週に一度診察を受けにくるよう説明があった。
ひと通り話が終わると、両親とは病院で別れる事になった。
あの時、病室を出て行ったきり、沢木は一度も顔を見せなかった。母親が電話で俺の声が戻った事を伝えたらしいのだが、良かったですねの一言で終わってしまったらしい。
とはいえ彼女も病み上がりだ。それにも関わらず俺の看病につきっきりだったというのだから、まだ本調子ではないのだろう。
沢木の事を考えていると、会いたくなった。会社にはもう出ているのだろうか。
俺は居ても立ってもいられなくなったが、病室で気まずい雰囲気のままであった事を思い出し、メールを送る事にした。
『無事に退院しました。沢木さんはお仕事に復帰されましたか?』
よし、これでいいだろう。無難な内容に満足して送信する。するとすぐさま返信が帰ってきた。
これだけ早いってことは、携帯をいじっていたのだろう。まだ仕事には復帰していないのかもしれない。
『もう私には構わないで。』
冷たい文面に俺は愕然とした。
確かに病室で筆談していた時には重い空気が流れていた。それも俺のあの質問が原因なのは分かる。
しかし、ここまで突き放されるとは思ってもみなかった。
正直、安易な考えがあったのは確かだ。声が戻ったことで、あの時別人に見えた沢木の顔も、以前のように認識できるのではないかと考えていた。
先生連中にはこのことは申告していない。話がややこしくなると思ったのが、正直なところである。
しかし、これらは俺の問題なのである。彼女には関係ない。
彼女との筆談で俺が最後にした質問は、彼女をひどく傷つけていたのだ。
『会ってお話できませんか?』
おそらく良い返事は返ってこない。しかし、諦めるわけにはいかない。何としても話す機会を持つのだ。
『私の事知らない人と話なんかしたくない。』
『その事についても話しておきたいんです。』
『断る。』
『今ここで足踏みするわけにはいかないんです。僕には沢木さんと一緒に前に進んで行く義務があります。』
このメールを最後に、沢木からの返信は途絶えてしまった。
すでに日が暮れようとしている。退院したというのに、病院の敷地内にかれこれ3時間は滞在している。
いくら待っても返信が来ないので、仕方なく家に帰る事にした。
家までの道のりは途方もなく長かった。やはり以前のように、周りの声は聞こえてこない。ヒソヒソと蔑むように俺の方を見ている。
沢木にも突き放され、周囲の反応も以前に戻った。
俺の世界は急速に白く塗りつぶされようとしている。だが今の俺にはそれに抗う力はない。
それほど沢木の存在が大きかったのだ。
沢木は俺がいないとダメみたいと言ってくれた。俺も沢木なしではいられない。こんなにもお互いがお互いを必要としているというのに、なんだこのざまは…。
失意のうちに部屋があるフロアまで階段を上りきったところで、俺の部屋の前に一人の女性がいるのが目に入った。
ドアに背中を預け、バッグを両手でつかんだまま、天を仰ぎみている女性は沢木だった。
残念ながら顔は病室で見たときのままであったが、俺の世界が再び色付き始めたのを感じる。
顔などどうでもいいのだ。沢木は沢木なのだから。
「おかえり。杉野さんに住所調べてもらったの。もう怖いものなんてないんだから。」
沢木はそういうと、こちらに近寄り俺の手を取った。やはり沢木の手の感触だ。
会いたかった。ずっと沢木さんの返事待ってたんですよ。
「記憶が戻って良かったね。それより私に何か言う事があるんじゃないの?」
ごめんなさい。ひどいことを言ってしまって。
沢木は俺の口元を見ながら愕然としている。
「声…戻ってないじゃない。」




