回復
それ以降、俺と沢木を名乗る女性の間に会話はなかった。
病室は重い空気に包まれていた。握ったままの手も、力が入っていない。たった数分の沈黙が、何時間にも感じられた。
どうしたものかと考えていると、廊下をバタバタと走る音が聞こえてきた。彼女が繋いだ手をさっと離したと同時に、両親が病室に駆け込んできた。
「ああ、よかった。気がついたんだね…。」
母親の顔色は悪く、目の下にはくまが出来ていた。
「ちづるさん、すまないね。ちづるさんもろくに寝てないんじゃないか?」
父親は俺より先にこの女性の事を気遣った。
そして、この女性の事を“ちづるさん”と呼んだ…。
「いえ、私は大丈夫です。それより石田君が…。」
「ああ、下で先生から聞いたよ。あとで違う先生が診察してくれるそうだ。」
3人はみんなして俺の方を見つめている。なんだか気恥かしくなってしまった。
皆の憔悴しきった様子を見ると、本当に俺の事を心配してくれていたんだなと、嬉しくてしょうがなかった。
その後、両親と話をした方がいいと言って、彼女は病室を後にした。
おそらく声を出そうとしても無理だろうと思い、彼女に手渡された紙とペンを使って、会話をする事にした。
母親が言うには、病院の手続きなどは全てあの女性がしてくれたらしい。そして父親はたった3日で、彼女の事をかなり気に入っているようであった。
俺にあんな素敵な恋人がいるなんて、と母親も冗談交じりに彼女を褒めていた。
両親とのやり取りで分かったのは、彼女が沢木ちづるであるという事だった。俺が倒れる直前、彼女はこの病院で点滴治療を受けていたらしい。
そして退院して会社に戻る途中、道端の人だかりに囲まれている俺を見つけ、病院まで付き添ってくれたというのだ。
両親が病室に到着したときには、若い男女の社員がいたというから、村田と杉野で間違いないだろう。そうなると、あの女性は沢木ちづるでしかないのだ。
俺は釈然としないまま、その事実を受け入れるしかないのだろうか。
声が出なくなったのも何か関連があるのかもしれない。顔以外は全て沢木で間違いないのだ。
「あの子も結構イケメンだったわよね。我が息子には敵わないけど。ほら、なんて言ってたっけ?」
「村田」
両親は俺の顔を口を開けたまま見つめている。聞こえなかったのだろうか。
「だから、村田君。一つ下の後輩…あれ?」
声が出ている。
先ほどまで出ないであろうと思いこんでいた為、やむなく筆談していたのだが、つい口をついて声が出たのだ。
「声出るじゃない!何?二人してドッキリでもしかけてたの!?」
「おいおい、ちょっとこの状況でするような事じゃないんじゃないか?」
母親の方は安堵もあり、笑い話で済みそうだが、父親の目は全く笑っていない。
「違う。本当にさっきまで出なかったんだ。驚いているのは俺の方だよ。」
俺の真剣な顔を見て、父親も納得したらしい。
「おい、母さん。ちづるさんを呼んで来い。」
「そうね。あー良かった。」
母親は沢木を呼ぶためロビーへと向かった。
その間、父親と二人きりになったのだが、相変わらず沢木の事を褒めちぎっていた。
お前も隅に置けないなあとヒジで俺の腕をグイグイつついてくる。
母さんの若い頃もあんな感じだったと、父親が昔話に花を咲かせようとしていた矢先、母親が一人で戻ってきた。
「もうちづるさん帰っちゃったって。」




