顔
この女性はどうして沢木の名を名乗るのだろう。
俺が目にしている女性は沢木ではない。背格好は似ているが、沢木とは似ても似つかない顔をしている。
こう言っては失礼だが、美人というわけではない。沢木のような華やかさとは対極の、地味を極めた感じだ。そんな地味な印象の女性が、先ほどから俺の為にテキパキと動いてくれていることに、違和感を覚えずにはいられなかった。
「おそらく心因的なものでしょう。」
中年の医者はそう言って、その女性の方を見た。
女性は青ざめた表情をしている。
「そんな…。やっと目が覚めたのに。」
俺はその女性の“やっと”というフレーズにある事が気になった。
一体どのくらい意識を失っていたのだろうか。この病室には時計はあるが、カレンダーは見当たらない。
“やっと”と表現するくらいなのだから、長い事眠ったままだったのかもしれない。
「石田君。今、家族が向かってくれてるから…。到着されるまで一緒に待ってよう。」
彼女は腰をかがめて俺の手を握った。
その手の感触は、俺の知っている沢木の手の感触そのものだった。
あなたは一体…。
言葉にしようとしても、やはりうまくいかない。
「そうだ。紙とペン!これで会話できる。」
彼女はそう言うと、自分のバッグからスケジュール帳を取り出し、何ページ分か裂きだした。
「これに話したい事を書いてくれる?」
俺に紙切れ数枚とボールペンを握らせると、彼女は隣に腰かけた。
その様子を見た中年の医者は、一旦診察に戻ると告げ、病室を出て行った。おそらく彼の仕事はここまでだろう。次にこの病室を訪れるのは、精神科のような分野の先生に違いない。
「何か言いたい事はない?」
彼女の問いかけに、先ほど気になった事を聞いてみる事にした。
[僕はどれくらい寝てましたか?]
「石田君が会社の前の道端で倒れてから、今日でちょうど3日目よ。その間ずっと起きなかったの。」
たった3日か。彼女が涙を流してまで喜んでいたので、てっきり一年くらい眠っていたのかと勝手に思い込んでいた。
[家族は実家から来るのですか?]
「ううん。近くのホテルにご両親が泊まられているの。私と交代でお見舞いに来ているのよ。」
さすがに美也までは来ていないか。まあ仕事もあるし、しょうがない。
そんなことよりも、俺にはまず最初に聞かねばならない事があるのだ。
目の前にいる彼女の事だ。
これだけ俺の事を心配してくれているのに、この質問は失礼ではないかとついつい後回しになってしまったが、これだけは聞いておかなればならない。
ペンを持つ手が震え、字が波打ってしまいそうになる。
[あなたは誰ですか?]
彼女は絶句している。
表情が曇っていくのが分かった。やはり聞くべきではなかったのだろうか。
彼女は俺の目を見つめたまま、涙を流している。
「本気で言ってるの?私だよ…。沢木ちづる。あなたの恋人…。」
沢木ちづる…。声も、手の感触も、話し方も沢木である。歩く姿も、背格好も、持っているバッグも熊のぬいぐるみも、全て沢木なのだ。
その顔を除いては…。




