声
会社を飛び出したところで、結果は一緒だった。街ゆく人の視線が全て俺に向けられている。
声はやはり聞こえない。これだけ人がいるのに、何一つ聞こえてこない。
嫌だ。もう以前のような思いはしたくない。
どんな悪口でもいい。誰か俺の噂話をしてくれ。
俺が心の中で街ゆく人達に懇願していると、ふいに頭に激痛が走った。思わずコンクリートの地面にうずくまる。
「誰か…。」
俺はそのまま気を失ってしまった。
気がつくと俺はベッドの上だった。
ここはどこだ。状況を把握しようと目を動かす。視界に入ってくるのは先ほど見た光景だった。
ここはおそらく病院だろう。先ほど沢木が寝ていた病室にそっくりだ。まさか同じ部屋というわけではないだろうが、先ほど俺が駆け付けた病院の様だ。
病室は入口の扉が開けっ放しにされていて、俺がいるベッドから廊下の様子が見える。看護師が忙しそうに歩いているのが見えた。
あの…。俺の声に看護師は素通りしてしまった。
次に通った看護師も俺の言葉に気付かない。仕方なくベッドから降り、廊下に出ようとした時、出会いがしらに誰かとぶつかった。
「きゃあ!」
ぶつかった相手は尻もちをつき、持っていたバッグを廊下に落としてしまった。
すみません。俺がそう言うと、その相手はバッグを拾い、腰を押さえながらこう言った。
「これで二回目だね。石田君とぶつかるの。」
この人は何を言っているのだ。初対面のくせに俺の名前を知っている。いや、初対面ではない気がする。何か懐かしい様な…。だがはっきりと誰なのか分からない。もしかしたら同じ会社の人だろうか。
「よかった。目が覚めて…。」
混乱している俺をよそに、その人はそう言って突然泣き出してしまったではないか。
あの…。失礼ですが、どちらさまでしょうか?
「どうしたの?」
その人は心配そうに俺を見つめている。
「もしかして声でないの?」
どういう事だ。俺としては先ほどから言葉を発しているつもりなのだが…。
「どうしよう…。先生呼んでくる。」
その人は俺に自分のバッグを預け、廊下を走りだした。
あ…あ…。自分の中では確かにそう発声しているのだが、音として耳に聞こえてこない。やはりあの人が言うように声が出ていないのだろうか。
とにかく先生を呼んでくるとのことなので、このまま待つ事にする。
ふと手渡されたバッグの持ち手に目がいった。
熊のぬいぐるみが付いている。沢木とデートで行った遊園地のマスコットだ。あの人も遊びに行ったことがあるのだろう。
それにしても毛並みの悪い熊だ。買ってから何年も経っているのだろう。
ん?そんな…。どういう事だ。
バッグも沢木がデートの時に持って来ていたものと一緒ではないか。
さっきの人は誰なんだ。
バッグを見つめながら俺が考えこんでいると、先生を連れてさっきの人が戻ってきた。
「彼です。先ほど目が覚めたみたいで。でも声が出ないみたいなんです。」
「分かりました。石田さん、あちらのベッドに戻りましょうか。」
医者と思われる中年の男性が俺を元いたベッドに誘導した。
俺がベッドに腰掛けるとその医者は脈を取りながら俺に話しかけた。
「ご自分の名前を言ってもらってもいいですか?」
いしだ…やはりうまく喋れていない。耳では自分の声が聞こえない。
「私の名前は?言える?沢木、沢木ちづる…。」
その人は自分の事を、俺の最愛の人の名で呼ばせようとした。




