理由2
「高橋取締役はチャンスが欲しいと言ってきた。彼女は必死だった。その真剣な姿に、私は恐怖すら感じたの。取締役はこんなに胸が高鳴ったのは、生まれて初めてだと言っていたわ。」
普段の落ち着いた様子の高橋しか見た事がない俺にとって、沢木の語る高橋の姿は想像しがたいものだった。
「彼女は私を羨ましいとも言った。年も近く、部署も同じ、挙句の果てにはデスクまで隣にある。それは私にとって運命かもしれないと…。だけど、私が新商品の企画のことで、石田君を彼女の前に連れ出し、彼女と出会わせた事も運命とは思わないかと言ってきた。高橋取締役にとっても、石田君との出会いは運命と言えるものだったのよ。」
沢木の言葉は次第に語気を強めていった。
「高橋取締役は、石田君が自分にその気がなければあきらめると言った。結果が出れば、何も手出しはしない。私たちの好きにすればいいと。だけど今の時点で結果を求めても、私の勝ちは揺るがない。だから時間が欲しいと…。」
沢木は俺の目をじっと見つめた。唇はかすかに震えている。
「プロジェクトが終わるまで、平日は仕事も含めて石田君と一緒に過ごさせて欲しい。土日は私の好きにすればいい。彼女はそう言ったの。」
沢木が俺に提案してきた制約は、このやり取りから出てきたものだったのだ。
「取締役は何度も私に懇願した。でも私はそんなチャンスでさえも、あの人に与えるのが怖かった。年齢こそ上であるが、あの人の美しさには男を惑わす魅力がある。石田君から見ても、高橋取締役は魅力的なはずだと思ったの。」
確かに高橋は魅力的だが、俺の頭の中には沢木しかいない。いくらチャンスを与えても、高橋になびく事など有り得ない。
沢木はどうしてこの事を話してくれなかったのだろうか。もしこっそり話してくれてさえいたら、やりようはいくらでもあっただろうに…。
「頑として拒否していた私に、彼女は最後の切り札を出してきた。彼女は残念だと言った。このまま純粋な気持ちで石田君にアプローチしたかったと。私も甘かった。高橋取締役が、何も考えずに情に訴える事など、有り得ないのよ。」
沢木の表情はこわばっている。
「結局、私は高橋取締役の提案を受け入れた。受け入れざるを得なかったの。」
沢木は再び下を向いてしまった。俺は沢木の手を握った。
沢木はかすかな力で俺の手を握り返してくる。
「私が提案を受け入れると、新商品を東京の百貨店に納入してもいいと言ってきた。その代り、石田君を企画のメンバーから外せと…。平日は仕事であっても私と石田君に会わないで欲しいと言われたわ。できれば電話もして欲しくないって…。」
最後の切り札。それは一体何なのだろう。
一つだけ分かっているのは、その切り札が沢木の決心をいともたやすく揺るがせるものだという事だ。
沢木は高橋の“最後の切り札”が出てから、次々と高橋の言う事を受け入れている。
「最低だよね。私、石田君はモノじゃないって言ってた張本人が、石田君をモノのように扱っちゃったんだから…。軽蔑したでしょ?」
「いえ、そんな事は…。」
口ごもる俺を横目に沢木は再び話しだした。
「罰があたったのかも。それから毎日、気が気でなかった。いつ高橋取締役から勝利宣言が飛び出すかもしれないと思うと、仕事どころじゃなくなっていったの…。あれだけ自信があったのに…。石田君が目の前からいなくなっただけで、不安で、怖くて、何も手につかない…。」
沢木は再び泣き出してしまった。
もう一度沢木の頭を抱き寄せる。
「もう大丈夫ですから。」
沢木はうんうんと頷きながら嗚咽を抑えようと咳込んだ。
「高橋さんに何を言われたか分かりませんが、僕が沢木さんを守ります。だからもう大丈夫です。」
沢木の返事はない。
気になって沢木の顔を見ると、ポカンと無表情になっている。
「あの、沢木さん?」
“僕が沢木さんを守ります”なんて一生に一度言うかどうかの恥ずかしいセリフを吐いたのである。こんな状況とはいえ、少しは反応して欲しかったのだが…。
いや、何かがおかしい。この光景はいつか目にした事がある。
「沢木さん?大丈夫ですか?」
「あれ?石田君。どうしたの?」




