電話
社長の支持を得てからというもの、プロジェクトは気持ち悪いほど順調に進んでいった。
全ての部門が協力的になり、中には何人か派遣しても良いと言いだす部門まで現れた。
俺の帰宅時間もこれまでのように遅くなる事はなくなった。この調子なら沢木の企画も再び手伝う事が出来るかもしれない。
そんな事を考えながら、帰りの電車の中で、沢木へ送るメールの内容に頭を悩ませていた。
沢木の提案通り、平日はメールでお互いの一日の出来事を報告しあう。しかし、ここ最近プロジェクトが順調な分、メールのネタになるような出来事はそうそう起こらないのだ。
ただ今日に関しては、ネタに困ったというよりは、少し違ったことで頭を悩ませていた。
今日は金曜日である。土日のどちらかには沢木とデートが約束されている。どのように沢木を誘おうかと頭を悩ませているのだ。
まずは土日のどちらにデートをするのか、これを二人で決めなければならない。心を躍らせながらメールの文章を作成していると、突然メールの着信があった。
送り主は沢木だった。
今作っていた長いメールの完成を諦め、沢木のメールを表示する。
『お疲れ様。ごめん、風邪ひいちゃった。』
沢木のメールは俺が作りかけていたメールとは対照的に、短い文章だった。
俺は自分のデスクに戻った時、部長と会話している沢木がマスクをしていたのを思い出した。
今日一日、デートの事で頭がいっぱいの俺は、デート相手の健康状態など考えもしなかったのだ。
沢木のメールの“ごめん”は、この土日にデートが出来ないというメッセージであろう。
俺は急いで返信文を作った。
『大丈夫ですか?明日から休みなのでゆっくり治してください。』
何度か読み返したが、何となく冷たい内容に感じられる。
だが仕方がない。体がしんどい時にメールなど気が進まないに決まっている。
この返信でメールのやり取りを終わらせてあげるのだ。
俺のメールが送信された直後、電話が震えた。
沢木からの電話だ。俺は出ていいものか悩んだ。沢木は平日はメールのやり取りだけにしようと言っていた。これは約束を破る事になるのか。いや俺から電話した訳ではない。大丈夫だろう。
そんな事を考えている間もスマホは震え続ける。電車が駅に着いたと同時に俺は電話に出た。
電車が駅に到着しても、ドアが開いてホームに降りるまで、話す事は憚られた。マナー・モラルの問題だ。
沢木からしたしばらく電話口で無言の俺に不安を覚えたのかもしれない。 電話口で震えるような声で俺の名前を呼んでいる。
「すみません。今電車おりました。ちょっと着信を取るタイミングが早かったです。」
俺の言葉を聞いて、沢木は突然泣き出した。何かを言おうとしている声は、風邪をひいているためか野太く低いものだった。
しばらく沢木の嗚咽が続き、落ち着きを取り戻す間、俺は黙っているしかなかった。
何か声をかけてあげようにも、何と言っていいのか分からなかったのだ。
「大丈夫ですよ。ゆっくりでいいので落ち着いたら話してください。僕の携帯、通話し放題なので。」
結局出た言葉がこれである。通話し放題って、これではまるで俺が長時間通話を逆に気にしているように聞こえてしまう。しかも通話料がかかるのは向こうである。
ゆっくりでいいので、というところを強調したかったのだと弁明すると、沢木は少し落ち着きを取り戻した。
それから少し間をおいて沢木は話し始めた。話の内容は、これまでの彼女からは想像できないほど弱気なものだった。
企画がうまく進んでいない事、俺の仕事が順調な様子を見ると余計に焦ってしまう事、高橋のフロアに俺が入り浸っているのが気に食わない事など涙ながらに思いの丈を吐き出していく。
確かに最近の沢木はどこか浮かない表情が目立った。それを目にしても俺は何もしてやれなかった。沢木のプライドを傷つけたくないと思い、励ましの言葉の一つもかけていない。
今思えば、俺から送ったメールはすべて、俺の仕事がいかに順調に運んでいるかという内容のものばかりだ。
結局、彼女のプライドを傷つけていたのは俺ではないか。
沢木はひと通り話し終えると、すっきりしたと言って電話を切った。
途中から話を聞いているのか聞いていないのか分からない俺の反応に、愛想をつかして電話を切ったのかもしれない。
俺は頭がすっきりしないまま、改札へ向かった。
歩いている途中、普段と違う光景に気付く。
ひと駅間違えて電車を降りていたのだ。




