お弁当
データ統括部の“詰所“に入る前に、高橋取締役の部屋をノックした。
高橋に伝えなければならない事があったのだ。
「おはようございます。石田です。高橋取締役はいらっしゃいますか。」
中からは何の反応もなかった。まだ出社してきていないのだろうか。
仕方なく隣の詰所に向かおうと振り返った瞬間、高橋が秘書を連れてエレベーターから出てきたのが目に入った。
俺の姿を見つけると、高橋は秘書に何かを囁いた。すると秘書は再びエレベーターに乗り込んでしまった。
カツカツと廊下を闊歩し、こちらに近づいてくる姿は“美しい”という表現がぴったりである。
沢木もそうだが、綺麗な女性というのは、朝だろうが、夜だろうが、何をしていようが、綺麗なのだ。今日の高橋も隙がなかった。
「おはよう。嬉しいわ。早速身につけてくれているのね。とってもお似合いよ。」
高橋は俺の首元を見ながらそう言うと、満足げな表情を浮かべた。
「ありがとうございました。こんな素敵なネクタイを頂くなんて、恐縮しております。」
高橋からの贈り物はネクタイだった。私の部下にふさわしい恰好をしなさいと言って、手渡された小箱のことを、今朝になって思い出したのだ。
色は薄い紫がかった黒を基調としており、銀色のストライプが斜めに入っている。高価である事が一目でわかるほどの高級感があり、俺が着ているスーツが寂れて見えてしまう。
高橋が何故俺にこのようなプレゼントをしたのかは定かではないが、高橋の嬉しそうな表情を見ていると、今日身につけてきて良かったと思えた。もし小箱の存在を忘れたままでいたら、高橋はこんなにご機嫌ではなかっただろう。
「それで、あなたの今日のスケジュールは?」
高橋の質問に我に返った。
「本日は全部署へプロジェクトの説明に回ろうと考えております。午後には部門ごとの業績報告がありますので、今のうちから回れるだけ回ろうかと。」
「わかったわ。何か困った事があったら報告しなさい。それから…。」
高橋は俺の目をじっと見つめている。表情は真剣というか、思いつめたような感じさえする。
「何でもないわ。とにかくあなたのやりたいようにやりなさい。」
そう言うとドアを開け、自分の部屋へと入っていった。
俺が午前中に説明に回った部署は、いずれも好意的に話を聞いてくれた。どれも収益力という点で弱い部門ばかりだったが、高橋取締役の考えに賛同し、是非とも早急に実現させてくれと言ってきた。
それらの部署をハシゴしているうちに、この会社が買収によって大きくなっていた事を実感させられた。
世間一般には化粧品会社として名が売れているが、中にはこんなものまで扱っていたのだという部署もあるのだ。買収によって同じ会社になったにもかかわらず、扱いは買収前の方がよっぽど良かったのではないか、という印象を受ける部署もある。
どの部署も、顧客に関するデータが欲しいのだ。よくもここまで同じ会社でありながら、データの共有をしてこなかったのかと疑問に思う。
一旦ここまでの経過を、高橋に報告しようと思った。データ統括部“詰所”に戻ると、そこには高橋がいた。
「ごめんなさいね、勝手に入らせてもらったわ。そろそろ帰ってくる頃だと思って。」
勝手も何も、もとは高橋の資料室なのだから、何も遠慮する必要はないのだ。ましてや今は俺の直属の上司である。
「いえ、構いません。ちょうどご報告に伺おうと思っておりましたので。」
「そう。で、どうだったかしら?感触の方は。」
「はい。今のところ難色を示す部署はありません。ただ、これから説明に上がるところは、わが社でも売上構成比の高い部署になりますので、どのような反応を示すかは分かりません。」
売上構成比が高いだけではない。プライドも高く、他部署との協力を良しとしない部門も出てくるはずだ。それらの部署が、このプロジェクトを嫌がる理由は一つだけだ。他部門に利が生まれるのが我慢ならない。そのプライドだけが全社のデータ一元化を拒む大きな壁になるのだ。
「そうね。でも怖気づいちゃだめよ。あなたは取締役である私の指示で動いているんだから、部門が取締役に楯突くなんて許されない。それは皆わかっているはずよ。だからあなたはできるだけスムーズにプロジェクトを進める事に尽力しなさい。」
「かしこまりました。」
「午後からは業績報告だったわよね?」
「はい。化粧品部門はいつもトップバッターなので、報告が終わり次第、部署回りを再開します。」
「そう。はい、これ出しといてあげたわよ。」
高橋はずっと手に持っていた紙の束を、俺の方に差し出した。
それは業績報告で使用する化粧品部門の業績データであった。昼休憩を資料作成に充てようと考えていたのだが、それを高橋がやっていてくれたのだ。
「あ、ありがとうございます。」
恐縮しきりの俺に、高橋はにこりと微笑んだ。
「どうせお昼にでもやろうと思っていたんでしょう?ダメよ、若い男がご飯なんか抜いちゃあ。」
高橋はそう言うと、どこから取り出したのか、俺のデスクに綺麗な布で包まれた箱をそっと置いた。
「お口に合うかわからないけど、良かったら召し上がって。」
高橋は俺の反応も見ずに、部屋を出て行ってしまった。俺の口は開いたまま塞がらなかった。
これは一体どういう事だろう。どのような状況なのだろうか。俺は頭で理解できないまま、お弁当と思われる目の前の箱をぼーっと見つめていた。




