挨拶
俺はノートパソコンを取りに3階のフロアへ立ち寄った。
今日は火曜日なので午後から週に一度の業績報告がある。発注作業はない為、午前は報告用の資料作成に時間を充てる事になる。
これまで通り3階のフロアで資料作成をしても良いのだが、データ統括部としての仕事を優先させる方がよい。報告用の資料は、上のフロアで作成しよう。今日から本格的に全社データ一元化のプロジェクトに取り掛かるのだ。自分に気合が入っているのを確認したところで、背後から挨拶が飛んできた。
「おはよう。石田君。」
沢木の声はいつもより透き通っていた。声色は高く弾んでいるように聞こえる。
「おはようございます。」
俺と沢木は目が合うと、お互いにすぐ視線を外した。改めて会社で同僚として会うと、気恥かしくてむず痒くなる。
昨晩、どんな顔で沢木に会おうか散々迷っていた俺の表情は、おそらくだらしなくふやけた顔をしているだろう。
「今日も上のフロアで仕事するの?」
「はい。本格的に動き出そうと思います。」
俺が上のフロアで仕事をしようと思ったのは、これまで通り沢木の隣でまともな仕事が出来る自信がなかったからでもある。
俺の返事を聞いて、沢木は一瞬寂しげな表情を見せたが、すぐに笑顔を作った。
「メールするね。」
沢木は小声で俺に囁くと、そのままタイムカードを打刻しに行ってしまった。
俺はこそばゆさを感じるとともに、朝から激しくバクバクと動く自分の心臓に不安を覚えた。
俺には沢木がいる。そう思うだけで今日一日休憩なしで働けそうだ。
「おはようございます。」
フロアを出てエレベーター前に向かう途中、次々と出くわす社員全員が、俺とすれ違いざまに立ち止まり、皆キョトンとした表情で振り返る。
「お、おう…おはよう…。」
何だ、その覇気のない挨拶は。それでも業界最大手の会社の社員か。
そう思うと同時に、違和感を覚えた。普段挨拶などしてくる事のない人間が、俺に挨拶をしてきた。
いや違う。挨拶を“返して”きたのだ。俺が他人に挨拶をしているのだ。
それに気づいた瞬間、顔が真っ赤になった。自分から他人に挨拶をするなんて、これまででは考えられない事だった。しかも、考えもなしに自然とそうしていたのである。
あとから聞いた話では、その日の午前中、化粧品部門があるフロアは終始ざわつき、部長が一喝するという一幕があったという。




