一人
これまで通り仕事を続ける旨を部長に報告した後、任されている発注を淡々とこなした。
会話の感じから、部長にはほとんど何も知らされていないようだった。新部署の設立は、急な話であったようだ。
今後このフロアでの仕事もあるという事で、俺のデスクはそのままにされることになった。とりあえずは沢木と完全に離れ離れになる事はないだろう。
黙々と発注数量を打ち込んでいると、携帯からメール着信を知らせる音が鳴った。画面を覗くと、沢木ちずるの名前が表示されていた。
『お疲れ様(笑顔)。異動になったって本当?杉野さんから連絡がありました(驚き)。外回りから帰ったら詳しく聞かせて欲しいな…(涙)。』
沢木から初めてのメールだった。杉野の件から、すぐに全員のアドレスを登録した。母親以外から生まれて初めての異性からのメールは杉野であったが、アドレスを登録してからは沢木が初めてだ。なんだかこじつけのようだが、何としても沢木を初めてにしたいという心理から、むちゃくちゃな解釈をしてしまっている。
『お疲れ様です。午後から早速フロアが変わります。また折を見て連絡させて頂きます。』
正直、どのようにメールをしたらよいかわからなかった。昨日の告白の事も触れるわけにもいかず、事務的な文章になってしまった。なんだよ、“折を見て”って…。
俺はすぐに携帯をポケットにしまい、発注作業に頭を切り替えた。仕事中にメールなどしたこともなかったので、どこからともなく罪悪感が芽生えてきたのだ。
今日は俺のサラリーマン人生において、重要な分岐点であることは間違いない。心してかかるのだ。
午後1時。高橋取締役の部屋のドアをノックする。
「石田です。高橋取締役はおられますでしょうか。」
ノブを回す前に一声かける。あちらが時間を指定してきたので、居るのは分かりきっていたが、失礼がないように最大限の配慮は欠かせない。相手はあの高橋なのだ。
「入りなさい。」
俺がドアを開けると、高橋自ら出迎えてくれた。いつもそばに居る秘書らしき男性社員は居ないようだ。
「時間ぴったりね。できれば今後は5分前行動を徹底しなさい。」
のっけから厳しい言葉を頂いてしまった。
「申し訳ございません。以後、気を付けます。」
「よろしい。」
高橋はにこりと微笑むと、ソファに腰掛けるように言った。ソファの前のテーブルには、2㎝の厚さはあろうかと思われるA4用紙がクリップにまとめられて置かれていた。
「早速、あなたのこれからの仕事について説明するわね。」
高橋は自分もソファに腰掛け、テーブルの上のA4用紙の束を俺に差し出した。目を通せという事だろう。
「端的に言うと、全社で扱うデータを一元化し、本社並びに現場の人間にもそれらのデータを扱えるようなシステム作りをして欲しいの。」
高橋は部長が俺にしたのとあまり変わらない説明をした。先ほど部長から説明された時も感じていたのだが、あまり革新的なものではない気がする。 確かに現状では、それぞれの部署にデータの権限があって、横断的に他部署のデータを活用することはできない仕組みになっている。原因としては、社内に縦割りの意識があって、部署ごとに他部署のデータは必要ないというのが挙げられる。実際、俺がいる化粧品部門は、洗剤部門のデータなど必要ない。化粧品部門だけのデータで仕事はできてしまうのだ。
「わが社のトップをはじめとして、危機感が足りないと思うの。うちの屋台骨は化粧品部門である事は分かってるわよね?」
「はい。創業当時から売り上げ構成比率はダントツです。」
「じゃあ何かの要因で化粧品部門が崩れたらどうなるかしら。今の化粧品頼みの風潮を変えて、万が一の時は他の部門で補完できるように強化する。これが今早急に取り組まなければならない問題だと思うの。」
つまりは化粧品部門が抱える貴重なデータを他部門でも活用できるようにするというのだ。確かにうちの花形である化粧品部門には膨大な有益データがある。それに比べて歴史が浅い部門には、データやノウハウといったものが過少なのだ。
自分の治める化粧品部門のみならず、全社的な展望を持っているのは社長夫人であるためか。今の社長も化粧品畑一筋で上がっているため、そこまで広い視野は持ち合わせていないのだろう。部門同士の意地の張り合いは、何も生み出さないのだ。
「わが社を刷新する第一歩の作業だと言ってもいいかしらね。どう?石田君。」
俺を見つめる目は、貫かれそうになるほどの力を秘めていた。そんなに力を込められなくても、俺は高橋の話には賛同できた。
「分かりました。具体的なスケジュールを策定し、本日中に報告致します。なお、各部署からの協力が必要となります。この部署の担当者だけではできない事もあろうかと思われますので、その時は高橋取締役に甘えるかもしれません。」
「そうそう。この部署、君一人だから。言ってなかったわね。」




