96:瓶底から見上げる空の色
山中で待つよう指示を与えていたはずのジドゥリは、どうやら盛大に崩壊する遺跡から出てこないボスたちを案じて遺跡周りをうろついていたらしい。
ラトニが動力室の隣室に移動し、崩れた屋根の隙間から水弾を二発打ち上げると即座に察知して飛んできたため、彼らは速やかに脱出へと移行することができた。
立っていられないほどの震動に襲われる動力室から、四人と一羽は全力疾走で転移門を抜ける。
世界と世界を隔てるシャボン液のような膜を通り抜けた後、一気に呼吸がしやすくなったと感じたのは、やはり魔力濃度の高さが無自覚に身体に影響を及ぼしていたからだろうか。
辺りを見回しても、存在するのはどこまでも続く山野と、転移の魔術文字が刻まれた石柱の一部だけで、あの広大な遺跡の姿は影も形も見えない。
目に入った夜空は煌々と輝く翠月が浮かび、けれどあの寒々しいほどに鮮やかなオーロラのベールを纏ってはいなかった。
転移の石柱は、少なくとも完全に遺跡が落ち着き、長い時間をかけて人間を迎え入れる余力を取り戻すまで、再び起動することは出来ないだろう。
そうして密やかに閉じた転移門がこの世界と異相世界を繋ぐ道を断ち切り、静かに一連の騒動の収束を告げた。
「――さて、何処まで予定通りだ、大猫」
美しくも冷ややかな、翠の光の降り注ぐ中。
ふわりと身を翻し、そうして魔術師が口火を切った。
片眼鏡の向こうに輝く紺瑠璃が、アリアナを見据えて細くなる。
ばさり、布が膨らんで。
左右非対称のちぐはぐな衣装が、夜風を孕んで化生の翼のように舞った。
――きゅうう、と。
言葉を受けて細まる瞳は、宝石を想わせる深い紫暗。
男をゆっくりと振り向いて、アリアナは奇妙な余裕さえ含んだ笑みを唇に刷き、わざとらしく小首を傾げた。
少し乱れた長い鳶色の髪が、機嫌の良い猫の尻尾のように、風を受けてゆらりと揺れた。
「あら、何のことかしら? 私は『突発的な事態に対処』しながら、何とか『自分の仕事』をこなしていただけよ」
「自ら連れ込んだ子供らを放置してか? 大猫は随分と飼い主に忠実だと見える」
「その片方につけていたはずの予防策を、壊してくれたのはあなただったと思うんだけど。お陰であんなにも、合流するのが遅くなってしまった」
「ほう、合流する気があったのか。オレはてっきりあの仕込み、人様の会話に聞き耳を立てる無粋な蚤虫だと思ったんだが」
くつり、と嘲ったノヴァが、芝居がかった仕草で形の良い顎に手を当てた。
じわりと滲む空気は不穏なものだ。一切の温度が感じられないそれは、肌へと染み入るように暗く、重い。
切り込むノヴァの発する圧は、薄暗い沼底に棲む異形の魔物の威圧にも似たものだ。
けれどアリアナは怯まない。翠月の光の下でなお艶めかしいほど赤い唇を、横にした弦月のように釣り上げ、のらりくらりと掴めぬ空気で対峙する。
「あそこは例外なく敵しかいない場所だもの、用心するに越したことはないわ。無事に合流できるか、随分と焦ったものよ」
「脱出間際に焦って合流した割には、随分と的確な質問をしてきたな。まるで全て分かっていたようじゃないか」
「私も色々調べてたのよ。恙無く進んで良かったわ、これでも本職なものだから」
「諜報員か工作員か。いずれにせよ信を預けるには心許ない」
「そういうあなたはどうなのかしら? あんな所にいた理由を詳細に調べ上げてみたい程度には、とてもとても興味深い人材みたいだけど」
言葉を交わすそのたびに、二人は得体の知れない何かを刃の如く突き付け合う。
探り合っているのか――否、既に何かを確信し合っているからこそ、だろうか。
「――嗚呼、怖い怖い。あまり長居をしていると、何処かの暴食漢に喰われてしまいそうだわ」
「化け猫め。お前如きには勿体ないが、純金のカトラリーでも用意してやろうか」
交わす言葉も、表情も。
全てが嘘と戯れで構築されているかのように、彼らの腹は掴めない。
双方に殺気も怒気も無く、むしろ悦すら感じ取れるほどの顔で笑い合っているにも拘わらず。
二人の間に満ちるのは、只々おぞましいほどの重圧を伴った――
「――ギスるならシェパに帰ってからにしてくれませんかねぇ!? ほんと私、早く帰らないとヤバいんでぇぇぇぇぇぇ!!!」
涙目で再会を喜ぶジドゥリに激しく頬擦りされつつ。
体力切れを起こし、地面に突いた腕をプルプルさせながらへたり込んでいたオーリが、何やら殺伐とした空気を繰り広げる大人たちに力の限りツッコんだ。
無表情な顔を真っ青にして転移酔いと戦っていたラトニが、静かに口を押さえて「……ぉえっ」とえずいた。
※※※
気力体力を絞り切ったオーリとラトニが二人だけだったなら、ここから山越えをしなければならないシェパの街になど夜が明けても辿り着くことは出来なかっただろう。
なのでオーリに懐いたジドゥリがそこにいたのは何よりの僥倖であり、シェパには行かないというノヴァとその場で別れ、残りの三人はシェパまで空路を辿ることになった。
同乗することになったアリアナに、ジドゥリは相変わらず果てしなくイヤそうな顔をしていたが、流石に空気を読んだのか、ごねて暴れて時間をロスすることもなく。
街の入り口で降りたアリアナと適当に挨拶を交わした後、オーリは急いでジドゥリの進路を屋敷の方へと向けさせた。
「話の持っていきかたは、ちゃんと考えているんですよね」
ほとんど回復していない体力を押してオーリに治癒魔術をかけていたラトニが、淡々とした声でそう確認してきた。
青く輝く水に傷口を覆われながら、オーリはこくりと頷く。
「うん。確証はないけど……父上様の考え次第では、八割方成功すると思う」
「いまいち出方の分からない、思考の読みにくい方だと言っていませんでしたか? 本当に言いくるめることが出来るんですか?」
「言いくるめるって言うか、有耶無耶にする方向に持って行こうと思ってる。その場しのぎで何度も通じない手段だけど、だからこそ、今回一回限りなら使える可能性が高い」
屋敷の灯りが大きくなってきて、オーリはびゅうびゅうと吹き付ける夜風の中で目を細めた。
眼下の屋敷は、ここからでも分かるほどに慌ただしい。
その喧騒が、手遅れ――即ち『既に犠牲者が出てしまった』事実を意味しないことを祈って、オーリはジドゥリに高度を下げさせた。
「そうですか。……あなたのことですから、どうせ悪辣極まりない策略を立てているんでしょう」
「はは、ひどいなぁ。私は保身に余念がないだけだよ」
「褒め言葉のつもりですよ。あなたの計算高さは、あなたをただの子供だと思っている人間には絶対に見抜けない。
その化け猫の皮を剥がせる人なんてそうそういないでしょうから、気合いを入れて演ってきなさい。責任、取るんでしょう?」
「うん。……当然」
責任。許されていない外出を、誰にも言わずにしていた罪。
発覚したその時の対処も、オーリはずっと考えていた。タイムスリップや催眠術なんて使えない彼女だから、その手段はどうあってもお粗末なものにならざるを得ないけれど。
黒石を使って不可視の幻覚を纏ったオーリたちは、常人の目からは捉えられない。
ラトニが治癒を終えたのを確認して、彼女は慎重に腰を浮かせた。
「じゃあ、行くね。私が降りたら、幻覚が切れないうちに全速力で孤児院に戻って」
「お気をつけて」
短く返された言葉を最後に、不可視の幻覚に身を隠したまま屋敷の屋根へと飛び降りる。
即座にジドゥリの気配が遠ざかっていくのを感じながら、開いた窓から素早く滑り込み、普段着に着替えるために自室へと走った。
ここから先は演技力の勝負だ。一見馬鹿らしいほど穴だらけの言い訳を、如何に堂々と押し通すかに全てが懸かっている。
ラトニには八割と言ったが、これは何としても成功させねばならないものだった。
そうでなくては、オーリ以外が煽りを受ける。オーリの愚行の責を問われ、止められなかった罪を負う。
――幼い貴族子女が一人、誰も気付かぬうちに屋敷から消えた。
この一件、場合によっては――誰かの首が、文字通りの意味で飛ぶ。
※※※
煌々と灯りの灯されたブランジュード邸は、屋敷の護衛兵に混じって、街の警備隊員たちもばたばたと駆け回っていた。
特に忙しいのは広間に立つ一人――薄緑色の目に灰色がかった短い銀髪の男が、部下から上がってくる報告を捌きながらあれこれと指示を飛ばしている。
シェパ警備隊総副隊長、イアン・ヴィーガッツァ。
険しく眉を寄せた顔の強張り方が、現在彼にかかっているプレッシャーの大きさを何より雄弁に物語る。
そのプレッシャーの原因は、イアンのすぐ傍にいる人間だろう。
オルドゥル・フォン・ブランジュード。ふっさりした茶髪とちょび髭が特徴の当代ブランジュード侯爵は、一見気の良さそうな中年男という風情に反し、全く目の笑っていない笑顔でイアンの報告を聞いていた。
「街境の門番に確認しましたところ、本日オーリリアお嬢様らしき子供が門を潜った様子はないそうです。子供連れの大人は何組かおりましたが、いずれも性別や年齢がオーリリアお嬢様とは合致しなかったと申しておりました」
「全員身分証は確かだったのだね?」
「はい。それから、子供だけの集団が何人か通っているそうです。いずれもシェパ住民ですが、そちらは皆軽装で、街の外に遊びに行くか、植物採集や親の遣いなどの目的であるらしいとのことでした」
シェパの住民、またシェパを拠点とする冒険者や近辺の村人であるならば、出入りに身分証や通行証など一々要求されない。
少女一人紛れ込むことは可能だろうが、オルドゥルは首を横に振った。
「子供だけで通ったのなら違うだろう。オーリリアは生まれてこの方、屋敷から出たことがほとんど無い。あの子の足で走っても、一番近い門までさえ辿り着けないよ」
「はっ。屋敷近辺からの乗合馬車などの使用の形跡はありません。現在は誘拐の疑いに焦点を当て、子供を隠せるほど大きな荷物を持った人間、或いは街の中に不審な人間が留まっている痕跡を中心に捜査しています」
「そうかい。アーシャ、何か意見は?」
「……っ、御座いません」
壁際に控えていた、美しい薄紫色の髪に侍女服の女――アーシャ・マクネイアが、急に振られた話に肩を震わせてそう応じた。
既に、心当たりのある場所を自ら駆け回った後なのだろう。整った顔を蒼白にした彼女はきつく両拳を握り締め、自分が何も出来ないことを恥じ入るように兵たちの動きを目で追っていた。
翠月夜を楽しみにしていた無邪気な主の顔を思い浮かべながら、きり、と唇を噛み締める。
「旦那様、どうかもう一度、探しに行く許可を頂けないでしょうか。お体の小さいお嬢様が、何処かの隙間に紛れ込んで出られなくなっているのかも」
「天井裏も床下も、庭木の上も散々確かめただろう。もう良いアーシャ、お前は黙って待っておきなさい――オーリリアがどういう状態で見つかるかによって、お前たちの処罰も変わるのだからね」
口調こそは穏やかだが、そこにぞるりと纏わりつくような澱みを感じて、アーシャはぞっと背筋を震わせた。
発見される息女の状態によって処罰が変わる。
オルドゥルの言うそれは、赦されるか否か、などという話ではない。
馘首が一番甘い予想で、或いは投獄級の重い処罰になるか、死んだ方がマシなほど重い処罰になるか。
罰を受ける使用人は複数いるだろうが、特にそれが重いのは護衛兵のトップと、そして他ならぬ息女付き侍女の自分であると、彼女はよくよく分かっていた。
――オーリリアお嬢様、と詫びるように呟いた声は無意識のこと。
自分の命すら保証されない状況で、それでも可愛い可愛い主の無事を祈るアーシャに、イアンが一瞬だけ気の毒そうな視線を向けた。
「副隊長、シェパの宿屋は調べ尽くしましたが、いずれにもお嬢様はおりませんでした」
「周辺住民への聞き込みは?」
「なかなか進みません。お嬢様の容姿を知る者が少ないようで」
「人が潜伏できる倉庫や空き家などを――」
次々と寄せられる報告に耳を傾けていたイアンは、きぃ、と響いた小さな音を聞きつけて反射的に視線を向ける。
開けっ放しの大きな扉ではなく、回廊に続く小さなドアが、少しだけ押し開けられていた。
報告があるなら早くしろ、と喝を飛ばしかけて――恐々と覗き込む人間の姿に目を剥いた。
「――オーリリアお嬢様っ!?」
濃茶の髪に、青灰色の目。つい数時間前に絵姿で確認した愛らしい容姿そのままの子供が、おどおどと眉尻を下げ、見知らぬ男たちで溢れた室内を覗き込んでいた。
驚倒したイアンの叫び声に、真っ先にアーシャが反応した。
揃ってぎょっと動きを止め、ドアに注目する兵たちの間をすり抜けて、アーシャは矢のように少女の元へと駆けていく。
怯えた子犬のようにびくりと震える少女の前に辿り着き、迷わず膝をついて、柔らかな頬を包み込むように撫でた。
「お嬢様! お嬢様なのですね!? ――ご無事だったのですか。皆ずっと、お探ししていたのですよ! お怪我などは御座いませんか!?」
顔色の悪いアーシャの目は、少女を映して涙を零さんばかりにゆらゆら揺れている。
保身ではなく、ただただ自分を案じる色だけがそこにあるのを確認して、行方不明とされていた少女――オーリリア・フォン・ブランジュード令嬢は、ふるりと目を潤ませた。
ぎゅっと唇を引き結んで、少女はアーシャを見上げてこくこくと何度も頷いてみせる。
必死で泣くのを堪えるようにごしごしと目を擦る少女に、アーシャは思わず頭を撫でかけ、最早自分にその資格がないことを思い出してその手を引いた。
こつこつと足音がして、背後からオルドゥルがやってくる。
娘本人が姿を見せたことで、あの薄気味の悪いプレッシャーは一時なりを潜めていた。見た目は柔和な笑顔でオーリの前に立ち、彼は「オーリリア」と娘の名を呼んだ。
「どうしたんだい、その格好は。怪我はないようだが、随分汚れているじゃないか」
少女の服装は、上質な白のブラウスに、柔らかなモカブラウンのボレロ。今朝着せられたそのままの衣装は、しかしあちこちに汚れと解れが見て取れた。
「ごめんなさい、お父様……庭に入ってきた鳥に、チョーカーの飾りを片方取られちゃったんです」
泣きそうな声でそう言ったオーリに、オルドゥルの目が娘の首を見た。
ボレロと揃いの、可愛らしいチョーカー。それにぶら下がるふわふわした毛玉のような飾りが、一つ千切れてなくなっていた。
「庭を走って追いかけたんだけど、取り返せなかったの……。疲れて座り込んでたら、いつの間にか眠り込んでしまってて……」
ぐす、と鼻をすすって、オーリは悲しそうに俯く。汚れてしまった服の裾を掴んで、叱られるのを怖がるように震える少女に、アーシャが慰めたそうにおろおろと身じろぐのが分かった。
「そうかそうか、可哀想に。だが、そんなに無理をしなくて良かったんだよ。今までずっと眠り込んでいたのかい? そうも疲れるほど走り回っていたのかね?」
「……いいえ、お父様」
宥めるような口調で確認するオルドゥルを、オーリの双眸が控えめに映した。
青灰色の澄んだ瞳が、ゆら、と微かに光ったように見えた。
父の顔色を窺いながら、少女は慎重に慎重に、言葉を紡ぎ上げていく。
「――私、一度は確かに目が覚めたんです。だけど、その時は夜になってて、空を見て。そうしたら、綺麗な翠の月が出ていて――」
一言一言、ゆっくりと区切りながら彼女は語る。
あたかも彼女自身にすら、何が起こったのか分かっていないのだと主張するように。
少しずつ表情から笑みを消していく父の様子を、透明な涙の浮かぶ目で密やかに観察しながら。
「そうしたら、急に心臓のあたりが掴まれたみたいに苦しくなって」
オルドゥルの顔から、完全に笑みが消えた。
微塵も感情を波立たせない視線を、彼はチョーカーに注いでいる。
黙考するように。
腹の読めない眼差しで。
――掛かった!
予想の的中を確信し、オーリは心の中でぐっと拳を握り締めた。
チョーカーの飾り毛玉に仕込まれた魔術のことを聞いてから、ずっと考えていたことがあった。
この仕込みについて、ノヴァは「際限なく魔力を吸収するものだ」と言っていた。それは取り込み過ぎた魔力の制御がきかず、所有者であるオーリが危うく死にかけるほどのもので。
けれど、そこで疑問が一つ。
即ち――安全装置のついていない危険な玩具を、よりにもよって幼い貴族の子女に与えるものか、否か。
答えは勿論、否である。
これが確かな職人の手を通されたものなら、オーリの身に害を為さないための安全装置が、必ずついていたはずだ。
恐らくその『安全装置』こそが、何処かで失われてしまった『もう片方の毛玉飾り』。
魔力吸収機能が体に悪影響を与えるレベルに至ったと判断した時、その機能を調整・停止するためのブレーキだった。
――事の発端はチョーカーであり、それが壊れた原因は名前も分からぬ鳥である。
チョーカーの仕掛けを知らなかった――否、知らせてもらえなかったアーシャたちが、それを防げなかったのは道理のことで。
つまり、オーリの発言によって――この一件は『人為的なミス』から、『不運な事故』にすり替えられるのだ。
「苦しくて苦しくて、確かそのまままた倒れちゃったと思うんです。どうしようお父様、アーシャ。私、何かの病気なのかなぁ……?」
「お、お嬢様……!」
ぎゅう、と胸元を掴んで不安げに見上げれば、アーシャは酷く動転したようだった。
オーリの首や額に手を当てて体温を調べ、青い顔で視線を彷徨わせ始める。どうやらオーリを暖めるためのものを探していたようで、護衛兵が慌てて持ってきた毛布に少女を包み込み、丁寧な動作でソファに座らせてくれた。
「今はどこも苦しくないのですか? 嗚呼、この季節はまだ冷えますのに、外に長居して風邪を引いているのかも……大丈夫ですお嬢様、きっと後で旦那様が医療師を呼んで下さいますからね。先生にしっかりと診てもらいましょう」
やはり彼女は何も知らなかったようで、オーリを気遣うアーシャの姿に演技の気配はない。
一方オルドゥルの方は何やら考え込んでいるらしく、オーリは思考の邪魔をしないよう、努めて悄然とした態度を形作った。
「……そう言えば、まだ確認していなかったな、オーリリア。お前は、今までずっと一体何処にいたんだね? 屋敷の何処かにでも隠れていたのかい?」
――それはオーリにとって、待ちわびていた質問。
オルドゥルの思考を誘導するために、決定的に必要だった一言。
「――え? 何を言ってるの、お父様」
父の問いかけに、オーリは答える。
小動物じみた、不安げな、きょとんとした眼差しで。
何を言われているのか、まるで分からないと言いたげに。
「私、隠れてなんかいませんでしたよ。だって私はずうっと、あの一番大きな回廊にいたんだもの」
ぐっ――と。
ほんの一瞬、オルドゥルの呼吸が止まったのが分かった。
怪訝そうなアーシャとイアンと、何も分からないまま撤収作業を進める兵たちの姿をこっそり視界に入れながら、オーリは祈るようにオルドゥルを見つめ続ける。
(――推測しろ!)
天井裏や床下、庭木の上なら、使用人や兵たち皆、目を皿にして見て回るだろう。その何処かに隠れていたなどと言っても、場所を問いただされた瞬間に嘘がバレる。
しかし、此処に人はいないと、一目で見て分かるような開けた場所なら?
屋敷で一番大きな回廊は、庭を突っ切って真っ直ぐ伸びる、見晴らしの良い通路だ。
屋根と柱はあっても壁はなく、雨の日は吹きさらしになるそこに、子供一人座り込んでいて見つからないはずがない。
オーリの証言は九割方が嘘で構成されている。平常なら当たり前のように疑われ、真実を追及されるだろう。
――ただし、こと今回に限って、その疑惑は覆される。
突発的限定的な、原因不明の異常現象。
それは、魔術に慣れぬ幼い子供が強い魔力を発現させた時、ごく稀に引き起こす事態である。
「――どうしてかなあ。沢山の人が何人も何人も何人も私の周りを通り過ぎたのに、どうして見つからなかったのかなあ? ずうっと私を探してくれていたお父様は、どうして私を見つけられなかったのかなあ?」
――何故、持病も持たない健康な子供の心臓が、唐突に異常を起こしたのか。
――何故、意識を失うほどに具合を悪くしてしまったのか。
――何故、ずっと目の前にあった少女の姿を、誰一人として捉えられなかったのか。
その疑問が指し示す答えを――オーリは一つに『絞らせる』。
最も『ありそう』で、最も『父に都合の良い』一つに、狡猾に誘導していく。
そうして――
父がゆっくりと笑みを浮かべた。
優しい父親の仮面を被った、けれど確かな満足と喜悦の滲むそれを見て、オーリは自分が賭けに勝ったことを知った。
「オーリリア。もしやお前、『誰にも見つかりたくない』と思ったりはしなかったかい?」
「……っ、はい、ごめんなさい……。折角お父様がくれた贈り物、すぐに駄目にしてしまったから、悲しくて、怒られるのも怖くて……」
「そうか、そういうことだったのか……。嗚呼、分かったよ、オーリリア。大丈夫だ、そんなことは気にしなくて良い。私は怒ってなどいないから、何も不安に思うことはない。疲れているのに、色々と聞いてばかりで済まなかったね」
「……はい、お父様」
素直に頷きながら、オーリは己の思考がじわじわと固まりゆくのを感じていた。
やはり、チョーカーに仕込まれていた魔力吸収の魔術は父の仕業だったのだ。
あれは正しく父の意向だった。父が命じて職人に作らせた――だからこそ彼はオーリの言動から、こんなことになった理由を正しく推測した。
重要なのは、「オーリが怪我をしていない」こと。
そして、「オーリは危険なことをしていなかった」「屋敷から出ていなかった」ことにすること。
使用人が行方を把握していなかったミスは、より注目度の高い別の情報で塗り潰す。
ジドゥリに空から送られ、黒石を使って室内に入り込み着替えた後は、「ずっと回廊にいた」「誰にも見つかりたくないと思っていた」という証言により、「姿を隠す魔術」が自動発動していたと思わせる。
更に、「月を見てから胸の辺りが苦しくなった」という言葉で、翠月夜で魔力親和性が急上昇したことによる魔力回路の異常を示唆。
責任の所在を使用人以外――加えて、『チョーカーの情報を誰にも教えなかった』オルドゥル自身に持っていく。
思えば王都の神殿で彼女が魔力の少なさを宣告された頃から、オルドゥルは何やらオーリの目をじっと眺めることが増えていた。
強い魔術師の存在は極めて貴重だから、家系に魔力持ちが生まれることを望む貴族も多い。
オルドゥルも例に外れずそれを望み、瞳に魔力の証たる「青」を持つ娘に期待をかけていたというのなら、今回のような強硬手段に出たのも納得できるだろう。
魔力に満ちる夜、翠月夜。
この日に間に合わせるために、オルドゥルは職人に作成を急がせ、日常的に身に着けられるアクセサリーという形で、魔術を仕込んだ小物を贈った。
そして娘は、正しく父の狙いに『沿ってみせた』。
心臓の痛みを魔力回路の活性化、人の目から隠れたことを不安定な魔力の起こした現象だと考えるなら、今のオーリはまさに、急激に魔力に目覚めかけているところだと推測できる。
故にこそ。
そうと考えたオルドゥルが次に取る行動は――
「私もレクサーヌも、お前を心配していたのだよ。夕方頃に帰ってみれば、お前が行方不明だと言われてね。お前はいつも言いつけを守る良い子だったから、一体誰が何をしたのかとね」
「ごめんなさい、お父様……。お母様にも謝りたいです。明日はお母様にご挨拶できますか?」
「構わないよ、あれも二、三日は屋敷にいるだろう。
しかし、本当に無事で良かったよ、オーリリア。朝になったら医療師を呼んでやろうな。今日はもう月など見ずに、早く眠ってしまいなさい」
「あの、あの、お父様、アーシャたちのことも、怒らないでください。私が鳥を追いかけた時、すぐに言わなかったのが悪いから」
アーシャの服の裾をきゅっと掴み、上目遣いで縋るように訴えたオーリに、オルドゥルは少しだけアーシャに目をやった。
アーシャはぴくりと肩を震わせ、しかし毅然と背筋を伸ばして沙汰を待つ。
――大事にはならないだろう、とオーリは予想した。
使用人たちがオーリの行方を見失ったことに対して罰を与え、主人としての体裁を繕うことよりも、「オーリが魔力を得た」ことの方が重要であると判断するならば、恐らく父は何よりも、『魔術の才能に目覚めた娘』を『これ以上刺激しない』ことを優先する。
今件において一番「罪が重い」と判断される一人は、オーリの傍付き侍女であるアーシャだ。
けれど、アーシャを心の支えにしている幼い子供から今彼女を取り上げれば、不安定な幼い精神が魔力の暴走を引き起こすかも知れない。
更に、偶発的に得たばかりでそのまま定着するかも判然としない魔力を不用意に揺らがせ、折角の子供を壊す可能性は、僅かなものでも排除したいことだろう。
元より魔力の発現とオルドゥルの細工を原因とするならば、アーシャの「罪」は一気に軽くなる。
そして、何故か娘に仕掛けた魔術のことを余人に晒すつもりがないらしいオルドゥルにとって、アーシャを見逃す以上、より責任の軽い他の使用人を罰することは出来ないのだ。
「――嗚呼、勿論だよ、オーリリア」
ぞるり、と這い上がるようなほの暗い闇を伴って。
オルドゥルは口端を吊り上げてうっすらと笑い、そう言葉を紡いでみせた。
「可愛い一人娘のお願いだ、そういうことならアーシャたちは許してあげよう。考えてみれば、『取り替える手間』も億劫だ」
「ありがとうございます、お父様!」
何も言わねばやはり『すげ替える』気だったのかと思いながら、オーリは精一杯無邪気な振りをして笑ってみせた。
満足そうに頷いたオルドゥルが、思い出したように少女の首を指差す。
「それと、チョーカーは返しておくれ。そのうち改めて、もっと綺麗な装飾品をあげような――それはもう、使い物にならないようだから」
「はい、お父様」
従順に首肯したその言葉が、奇妙な問答の終わりを告げて。
チョーカーを受け取ったオルドゥルが広間を出ていってから、じっと背後で控えていたアーシャとイアンが、ようやく深々と息を吐き出す気配がした。
涼しくなった喉を撫でながら、オーリは緩く目を細め、父の消えた扉をじっと見つめ続けていた。




