94:わたしはきみを救わない
ざざ、とディスプレイの画像が荒れて、ラトニは苛立たしげに舌打ちをした。
ジャミングを受けているのか、それとも損傷が進んで遺跡の機能そのものが衰えているのか、先程から頻繁に砂嵐が入るせいで制御室の監視が困難だ。
一人送り出した少女を案じて意識を尖らせているラトニは、苛立ちをぶつけるような速さでタッチパネルを叩き続ける。
タタタ、タタタタタタ。最初は困惑交じりだった操作は、今や文字を追うかの如く迷いが無い。
無数の明かりに照らされて、無表情に画像を見つめる少年の深海の如き鮮やかな蒼髪が浮き上がっていた。
(彼女が黒石をなくした件といい、遺跡で捕まった件といい、制御室を占拠された件といい、此処の連中は碌なことをしませんね……。野盗なんて大嫌いだ)
たん、と少し乱暴に、幾つかのキーを同時に押し込む。
制御台の柵に背中を預け、他人事のように腕組みをして眺めていたノヴァが声をかけてきた。
「番犬、不安は分かるがあまりピリピリするなよ。これは古いし、何より遺跡の中枢を握る精密機器だ。雑に扱えば破損する」
「分かっていますよ、少し気が急いているだけです。時間を置くと折角解きかけたプログラムが変更されて、また最初からやり直しになってしまうので」
ノヴァの方は時折思い出したように口を挟む程度で、今のところ働くつもりはないようだった。幾分億劫そうな様子だが、紺瑠璃の目はじっとディスプレイを見据えている。
手元から目を離さないまま会話をするラトニの傍らには、青く輝く大小の球体が幾つも浮かんでいた。
ラトニの指がパネルを叩くと、一つの球体の赤道面上に溝が生じた。かちりと浮き上がった細い円弧状のパーツが九十度回転する形で動き出し、現れた長方形の窪みに嵌め込まれる。
次に球体の半ばから亀裂が入り、右側およそ三分の一が分離した。出来た隙間からキリキリと音を立てて細いパーツがせり上がり、そのパーツもまた途中で割れて、中から新たなパーツが覗く。
ラトニが操作を進めていくたび、球体はかちりかちりとパーツを組み換え、その姿を変えていく。
最後に大きなキーを押すと、球体はパキリと砕け、細かな光となって散り消えた。
ふぅ、と吐き出すように一呼吸。
皺の寄った眉間をぐり、と強く押してから、ラトニは再び操作に戻った。
膨大な魔術の知識と技術――などといったものが、操作に要求されなかったのは幸いだった。
代わりに求められたのは、堆く積み上げられた複雑なジェンガの塔を解体し、同時にその形を全く別のものに作り替えていくかのようなセンスと勘、繊細さ。
加えて、秒単位で変化する魔術構成に理解・対処する状況把握能力と、命令系統を制御室に握られた遺跡へと強引に干渉し、システムを書き換えるための莫大な魔力量。
これに比べれば、三メートルミル離れた所から長いピンセットを操って針の穴に糸を通す作業の方がずっと簡単に思えるだろう。
これはオーリには無理な役割だな、とラトニは頭半分で考える。
魔術師であるか否かだけではない。事前知識も経験もなくぶっつけ本番でこなすには、どうあっても荷が重い事態というものが確かに存在するのだ。
オーリという少女は、決して馬鹿でも愚物でもない。人にない知識や発想力、野生の獣じみた勘や思い切りの良さも持っている。
しかし同時に、彼女はお世辞にも天才の部類に入れる人間ではなかった。
今回、頭ではなく体を張る役割に迷わず手を挙げたのは、本人こそが一番よくそれを理解していたからだろう。
「術人形の方は?」
「視覚を繋げてチェックしていますが、やっぱり映像は途切れ途切れです。最低限、オーリさんの傍に張り付くことは出来ているようですが」
「仔猫が操作台に辿り着くまで、消えずにいられそうなのか?」
「……確証はないですが、恐らく」
小鳥型の術人形――『クチバシ』に、あまりしっかりと魔力を込められなかった自覚はある。
自動操縦で放った『クチバシ』が一度だけ魔術を使った感覚があったが、それでどの程度消耗したのかは分からなくて、ラトニはほんのりと苦い顔をした。
(本来の役目を果たす前に消えかねないと判断したなら、オーリさんがちゃんと『クチバシ』を止めてくれるでしょうけど……)
オーリに『クチバシ』の操作権を預ける術式を組み込めていれば良かったのだが、無いもの強請りは意味がない。
もう『クチバシ』の正体もバレてしまったことだし、今後の課題だな、と考える。
――さて、次はどれに触れるべきか。
ふわふわと居並ぶ球体に意識を向けて、ラトニは一番小さな球体をじっと見る。
少し迷ってから、視線をその二つ隣のものへ。
キィン、キィン、と乾いた音を立て、細い光の筋が球体の表面に浮いたり消えたりしているのを観察して、しばらく下唇に親指を当てて考え込んだ後で決断した。
「それを解くなら、さっきやったχειρコードを当てはめて大雑把に公式の当たりを付けろ。大枠はBK7ー1ー9にそのまま使われている」
「はい」
端的なノヴァの指示に、ラトニは素直に従う。小さなディスプレイを一つ起動させ、指定されたポイントを探し始めた。
遺跡と蛍火樹を再冬眠させるための術式変更は、凄まじく複雑なパズルのようなものである。
解読するための鍵を探し、道を探し、手探りで押し進めていく作業は、もしもラトニ一人だったなら何処から手を着ければ良いのかすら分からなかっただろう。もつれた紐を指先一つで解くようなノヴァの助言は、悔しいことに驚くほど的確だ。
その代わり、ノヴァは同じ説明を二度はしてくれない。
ラトニが応えられるギリギリの範囲を見極めて、その要求に応じられねば無言で価値評価を引き下げるのだろう。
(教師としては微妙な人格ですね。出来ない人間を忍耐強く導けるタイプではない。けれど、馬鹿みたいに高い要求に応えるだけの潜在能力と向上意欲さえ有していれば、その実力は飛躍的に叩き上げられる――か)
ディスプレイの表面をなぞって、ラトニが片手を振る。
ざあっ、と音を立て、彼の手が動いた軌跡を追うように、虚空に青い光の帯が生じた。
よく見ればそれは、びっしりと規則正しく並んだ細かな魔術文字で形成されていた。
魔術文字の集合体である長い長いその帯は、ラトニの前で大人しく解読される時を待っている。柔らかに明滅する魔術文字を一通り観察し、彼は悔しげに歯噛みした。
(チッ……)
残念ながら、ラトニにはこれを解読できない。
これまでの作業とは全く違うアプローチ。操作を続けるにはこれを読み解く知識が要るが、どうやら付け焼き刃の助言やセンスでどうにかなるレベルではないようだった。
不安はあるが致し方ない。指示を仰ごうとノヴァを振り向きかけた時、制御室を映していたディスプレイがザッと鮮明になった。
そこに浮き上がったのは、待ちわびていた相棒の顔。
けれど、映し出された彼女の足下に地面がないことに気付いた直後、彼女は鞭のようにしなった巨大な根に吹き飛ばされ、緑光のプールに叩き込まれていた。
「――オーリさんっ!!?」
金色の目を大きく見開き、ラトニは動揺に悲鳴を上げる。
反射的に身を乗り出した彼の傍らで、しかしその時、突如としてバチリと光が弾けた。
「――――っ!?」
はっとして、光が走った方を振り向く。
そこにあったのは、先程自分が出力した光の帯。魔術文字で形作られたそれが、虚空でぼろりとその形を崩しつつあった。
破片となって落ちた魔術文字は地面に落ちる前に組み変わり、ばちばちと音を立てて増殖していく。
瞬く間に膨れ上がった魔術文字の塊が、空中でぐるりと円を描いた。
その正体に思い至る前に、一際強い光と共にラトニたち目掛けて猛烈な風が襲いかかる。
――轟っ!!
身構える暇もなく、ラトニの軽い体が吹き飛ばされた。
柵にぶつかりかけた彼の襟首を、ノヴァの手が無造作に掴む。
吹き付ける風の向こう。新たな空間と繋がったそこから、複数の気配が現れつつあった。
ぺたりぺたりと接近してくる足音に、ラトニは奥歯を噛み鳴らす。
「転移門か……!」
苦々しげな顔で、少年は魔術文字の群れ――円状に開かれた転移門を見やった。
システム内に仕込まれていたトラップにでも引っかかったか。見覚えのある扁平な姿の魔獣が二十匹ほど、平たい足をぺたぺた言わせながら距離を詰めてきている。
真っ赤な目が鈍く輝く、不気味な姿の魔獣だ。黒緑色の毛皮に散らばる赤い斑点が、乾いた返り血を想わせる。
魔獣たちの尻尾がひゅんと振れ、一気に大剣サイズまで巨大化した。
何処かグロテスクにてらてら輝く毛皮が、威嚇するように激しく逆立つ。
ラトニたちを見据えた魔獣たちの爪と筋肉が、バキバキと音を立てて急速に膨張。赤い燐光を纏って四肢を伸ばす魔獣たちは、どう見ても目の前の人間たちを排除するべき敵と認識していた。
「どうする? ここは退いて、制御室に向かうか?」
今や狼ほどにも膨れ上がった体躯の魔獣たちが、不穏な魔力を纏いつつ、じわりじわりと距離を詰めてくる。
どさりと無造作にラトニを放り出し、ノヴァがゆっくりと首を傾げてみせた。
ラトニは横目にディスプレイを見上げる。
ほんの数秒だけオーリの姿を映した後、再び画像は砂嵐に支配されてしまっていた。
ぐっと拳を握り締めてから、彼は首を横に振る。
「――いいえ、ここで迎撃します。この動力室を押さえておくのが、僕とあなたの役割ですから」
「仔猫を助けに行かなくて良いのか? 何やら苦戦していたようだが」
「そうやって一々僕らを試すのをやめてください。不愉快です」
吐き捨てて、ラトニはしっかりと両足で立ち上がった。
ざあざあと室内に満ちる水の音に、疲労の溜まった意識を這わせる。
真っ直ぐ横に伸ばした右手が、透明な水を纏って渦を作った。
動力室を離れるわけにはいかなかった。
オーリが制御室を掌握する前に、ラトニはこちらからプログラムを書き換えておかなければならない。
最初に分散するのが最善と判断した以上、今から彼女を追うことには何の益もない。
「オーリさんなら大丈夫ですよ。何故なら彼女は、まだ自分の宣言を果たしていない」
やり遂げると、彼女が言った。
ならば彼女はやるだろう。彼女はあれで矜持が高い。
だから、彼女にこちらを任されたラトニは、彼女があらゆる障壁を打破し、ラトニに『示す』その瞬間を待たねばならない。
自分がやるべきは、撤退ではなくミッションの続行。この魔獣たちを可及的速やかに排除して、操作の続きに移ること。
「それに僕自身――自分のミスの結果に背を向けるのは気に食わない」
魔獣の群れを睨み据えて、煌と輝いた双眸が金色の燐光を散らした。
冷静沈着、無関心。孤児院ではそんな表現ばかり受けているが、ラトニにだって意地も矜持もきちんとあるのだ。
果たすと決めた役割を、邪魔するものなど言語道断。度重なる不測の事態で積もりに積もったフラストレーションも手伝って、いい加減攻撃的にもなろうというものである。
魔獣たちの四肢に力がこもった。
今にも飛びかからんばかりの体勢でこちらを囲み込む魔獣は、ラトニがあと少し動けば即座に攻撃してくるだろう。
更に、魔獣の背後の転移門は未だ閉じる様子がない。
向こう側からちりちりと伝わってくる大量の気配は、恐らくここにいる魔獣たちと同じもの。何らかの制限があるのか今はやって来ないが、時間が経てば増加する可能性は否めない。
(目の前でオーリさんを攻撃された挙げ句、駆けつけることも出来ない。それもこれも、全部野盗連中と、こいつら――遺跡の付属物共のせいだ)
とことん邪魔をしにかかる魔獣たちに、手加減など一切不要。
最愛の存在を傷付けられた腹いせも込め、応えるように水が巻く。號と鳴ったそれを一気に解き放とうとした時、するりと長い指が顔の横を通って前を指した。
「――連中のうち数体、纏めて適当に拘束しろ。他の魔獣は全て無視して良い」
奇妙な衣装を纏った右腕で背後から右肩を抱え込まれ、顔を並べるようにして告げられた言葉に咄嗟に従う。
弾けた水が縄となって魔獣の三体を拘束し、同時に残りの魔獣が一斉に襲いかかってきた。
かちり、とノヴァが自らの顔に何かを着ける。
丸いレンズに銀の縁取りの、繊細なデザインの片眼鏡だ。
男がうっそりと笑った瞬間、レンズの向こうの瞳がゆらりと輝いた気がした。
ノヴァの唇が高速で動き、腕が軽く一薙ぎされた。
何を言ったのかは聞き取れなかった。けれどその直後、触れてもいないはずの魔獣たちの四肢が、文字通り弾け飛んだ。
大量の血と肉片をぶち撒けて沈んだその姿に驚愕する間もなく、水の縄に拘束された三体が、ぐっと彼らの元に引き寄せられてくる。
「……っ!」
ノヴァの意図に沿って勝手に動いた水の縄に、ラトニは唇を噛み締めて瞠目した。
既に発動している魔術の操作権を、力業で奪い取られた。そうと悟って戦慄する間に、ノヴァは既に次の行動に出ている。
――ざぐっ!
ノヴァの右手が握ったナイフが、自らの左腕を切り裂いた。滴り落ちた血液が赤い帯となり、生き物のように空中を泳いで、拘束されたまま暴れる三体の魔獣へと纏わりつく。
透明な水に絵の具を落としたかのように、真っ赤な血は見る見る毛皮の色を染め上げて――
「……そう言えばノヴァさんは、魔獣を独自に改造して使役することが出来るんでしたね。どんな高度な魔術かと思ったら、こういう絡繰りでしたか……」
ゆっくりと緊張を解いて、ラトニはぼそりと呟いた。
水の縄がほどけて消えた後、そこにいたのはのっぺりと赤みがかった毛皮を持つ、三体の大人しげな魔獣たちだった。
毛皮の色を除けば見た目はさして変わっていないものの、あの不気味な眼光は消えている。
自身の血液という最上級の魔術媒体を用いた上での、強制的な存在変換。
流石にその効果は凄まじいもので、残滅された同胞になど目もくれず、ネジの切れた人形のように動きを止めた彼らは、じっと座り込んでノヴァの顔を見上げていた。
「一体はここで待機、二体は転移門を通って元の場所に戻り、そちらから干渉して転移門を閉じろ。向こう側にいる魔獣は、可能な限り潰しておけ」
淡々と命じられ、魔獣たちが速やかに服従する。
くるりと彼らが去っていった数分後、硝子が割れるような音と共に崩壊していく転移門に背を向けて、ノヴァはディスプレイに向き直った。
うっすらと楽しそうに目を細めて、見事なブラインドタッチでパネルを軽やかに操作していく。
光る帯と化して浮いていた魔術文字が、端からほどけてくるくると螺旋を描き始めた。輝く螺旋は周囲の球体に巻き付き、赤や黄色に色を変えながら輝きを放つ。
忙しなく変化する光の乱舞に顔を照らされ、ノヴァが楽しげにメープルシロップの小袋を咥えた。一気に吸い込んで唇を舐め、間を空けず次の小袋の蓋を開ける。
「番犬、出血大サービスだ。よくよく見ておけ、これほどの魔術は現代にも少ない」
「はい。ありがとうございます」
片眼鏡を指で押し上げ、目を細めてそれらを見据えるノヴァの傍らで、どうやら手伝ってくれる気になったようだと、ラトニも深々と安堵の息を吐いた。
オーリやラトニの選択を気に入ると、ノヴァは少し機嫌が良くなり、二人に助力してくれる。
更に今回は、ラトニに丸投げするには無理があるから、ということもあるだろう。ノヴァの要求は高いが、技量の見極めが上手いせいか、現実的に不可能なことをやれとは言われない。
「嗚呼、なんて美しい……かつてはこれほどの芸術が世界中に散らばっていたにも拘わらず、現存数が少ないなんて歴史への冒涜だ。素晴らしい遺産の価値も分からず破壊し回った不作法者共を切り開いて、はらわたをシャベルで掻き出してやりたい」
(あ、やっぱりただの知識欲かも知れない)
魔術マニアか、学術マニアか。いずれにせよこういった専門分野に著しく傾倒している人間は、下手に刺激すると大体こちらが後悔することになる、とオーリも言っていた。
うっとりと唇を緩めて熱のこもった吐息を吐き出すノヴァに、ラトニは微妙に心の距離を開ける。
それからしっかりと目を凝らして、凄まじい勢いで形を変え始めた球体と、残像すら見えそうな速度で踊るノヴァの両手を、一秒たりとも見逃さないように観察を開始した。




