92:蛍火樹
元居た大樹の広間に戻り、オーリは眉根を寄せた。
――大樹を生やした巨大な池の、水位が減っている。
捩れた根が何百と絡み合って出来た太い樹には、相変わらず一枚の葉も生えていない。
壁や天井を覆う水のベールは、今も爽やかな音と共に、茶色い幹へと湿気と冷気を投げかけ続けて。
その真ん中にある池だけが。
未だたっぷりと水を湛えていることには変わりないが、何があったのかその嵩は大分低くなり、濡れた幹が姿を見せていた。
こっそりと背後を見やれば、半円形に持ち上がった操作台にはラトニが立って、ノヴァの先導でタッチパネルを叩いている。
宙に浮かんだディスプレイの数枚がゆっくりと映像を変えつつあって、彼が早々に操作方法を理解しつつあることが窺えた。
真剣な顔で映像を見つめているラトニの邪魔をすることは気が引けて、オーリは一人で池と樹を観察してみることにした。
樹を覆う結界に触れないギリギリの距離まで接近していく。覗き込んだ水の中に、白い何かがちらりと見えた。
(何だあれ。棘……いや、蕾か……?)
水と角度に邪魔をされて全体像は見えないが、恐らく普通の花とは比べ物にならないくらい大きな白い蕾。固く閉ざされたそれが一つ、まるで水を寝床にしたかのように慎と存在している。
水位が変わったことで、低い所にあった蕾が見えるようになったのか。はたまた蕾のついた枝そのものが、急激に上へと伸び上がりつつあるのか――。
「――気になるか」
ぽん、と肩を叩かれて、ビクッと体が跳ね上がった。
見上げれば、そこにはいつの間にやらノヴァが立っていて、腹の読めない微笑と共に、池と大樹を見つめている。
「あの、あれは花ですよね? いつ咲くんですか?」
「水から出れば蕾が綻ぶ。白い大きな、美しい花が咲くそうだ」
楽しげに返すノヴァの顔が、何だか純粋に美しい花の咲く姿を楽しみにしているようには思えなくて、オーリは素直に賛同することが出来なかった。
「水を吸って魔力を得て、樹は急激に枝と根を伸ばす。蕾の位置は高くなり、水位は更に下がっていく」
「へえ……」
遺跡の灯りに照らされているにも拘わらず、ノヴァの顔は何処か奇妙に仄暗い印象を受ける。釣り上がった口端が愉悦を孕んでいるように見えて、オーリは眉を寄せた。
「……花が咲く姿を見たいんですか?」
注意深く、顔色を窺うように問うたオーリに、ノヴァはこくりと頷いた。
「ああ、見たいな。そのためにオレは此処に来たんだ。長々と逗留し、野盗共にまで手を貸してやった。だから――」
ノヴァの瞳がオーリを見下ろす。薄く濁った一対の紺瑠璃。自分の心も腹の中も、脳髄までも透かして見られたような錯覚を感じて、ぞくりと背中を寒気が走った。
「もしもこの花を、見ずに終わると言うのなら。
きっとそれは、オレが――」
「――――オーリさん、来てくださいっ!!」
深淵に誘う魔物の灯火を想わせる密やかな男の声は、唐突に空気を裂いたラトニの叫び声によって掻き消された。
我知らず意識を奪われかけていたオーリは、その声にはっと我に返る。
ぱちりと口を閉じたノヴァが、じんわりと澱みを滲ませた空気を収めてラトニの方に視線を移動させた。
――こちらの異常な雰囲気に気付いて、咄嗟に口を挟んだのだろうか。オーリは一瞬だけそんなことを思ったが、どうやらそうではないようだとすぐに察した。
オーリたちの方に顔を向けることもなく、ラトニはひたすら険しい表情でディスプレイを睨み続けている。彼が注視しているのは、月明かりに照らされた山中の景色だった。
動くもの一つない光景の中に、一体何を見つけたのか。彼女は首を傾げながら、のんびりと歩き出したノヴァを追い越し、急ぎ足で相棒の元へと向かった。
――『あちらに至る道筋を』、『お前たちに見出した時なんだろうよ』。
うっそりと囁かれたノヴァの言葉については、聞き返す機会を失ったまま。
※※※
操作台に飛び乗ってラトニの隣に並ぶと、眉間に深々と皺を寄せたラトニは、視線を前方に固定したままディスプレイの一枚を指差した。
宙に浮かぶ不可触の画面は、上空を飛ぶ何かによって山の景色を映し出しているようだ。
怪訝に思いながらも意識を向けたそこに見出した光景に、オーリはすっと眉を寄せた。
――何だか、何処かで見たことがある景色のような気がした。
(これ、遺跡の周辺風景のはずだよね? 此処には転移を使って移動してきたし、そんな遠方に私たちが足を延ばしたことはないはずだ。なら何処だ。何処でこの光景を見た……?)
翠月の光に照らし出されているのは、何の変哲もない山中の一場面だ。草原があり、きらきらと水飛沫を上げる大きな滝があり、どうどうと水の落ちる滝壷がある。
獣の姿は何処にも見えない。ざわざわとざわめく黒い木々だけが、そこに動くものとして存在している。
滝――に、妙に意識を引かれた。眠っているのか存在しないのか、暗い滝壷の中には魚一匹見て取れない。
何だか寂しい光景だな、と考えた直後、オーリはカッと目を見開いた。
「…………っ!!!?」
柵に飛びつくように身を乗り出して、目を皿のようにしてディスプレイの向こうを観察する。
食い入るように見つめても、生物の姿は影すら見えない。それが決定的に異常なことであると、オーリとラトニはよく知っていた。
「――ラトニ、此処、まさか」
「恐らく」
動揺を押さえられず切れ切れの言葉を繋げたオーリに、ラトニは険しい顔を保ったまま頷いた。
「この地形、間違いありません。ここは僕らも知っている場所です。シェパの領地内に存在するはずの『冬駕籠の滝』――それが何故かここにある!」
彼自身、目を疑っていたのだろう。懐疑と苛立ちをぶつけるように柵を掴む小さな拳は、よく見れば微かに震えているようだった。
――冬駕籠の滝。
二人がその場所の存在を知ったのは、ほんの二ヶ月ほど前の話である。
言葉を解す双頭の大蛇と、その眷族である蛇たちが住まう、良質な水脈と植物に恵まれた区域。
以前二人は、蛇たちの冬眠に使っていたというその地がとある魔獣に乗っ取られ、追い払うための助力を頼まれた――正確には巻き込まれた――ことがある。
無事に住処を取り戻した今は、蛇たちは揃って遅い冬眠についているはずなのだが――
「でもおかしいよ――だって、『どうしてここには』『蛇たちがいないの』!」
冬駕籠の滝を隅々まで見渡しながら、オーリが裏返った声を上げた。
蛇たちが冬眠から覚める時期は聞いている。今はまだ、目覚めにはほんの少し早い頃合い――気の早い者がぽつぽつ起き出すにしたって、打ち揃って姿を消すのは明らかにおかしい。
「……違和感は、ずっとあったんです」
ぎり、と奥歯を鳴らして、ラトニがぽつりと口火を切った。
「これだけ大規模な遺跡が、野盗たちに見つかるまで手付かずで此処に眠っていたこと。
シェパで聞いていたより遥かに――明らかに異常なレベルの影響を及ぼす『翠月夜』。
そして何より――山中で、遺跡内で、僕は一度たりとも『普通の』生き物の姿を見たことがない」
オーリは目を見開く。
そうだ、確かにそうだった。
彼らがここで見た人間以外の獣は、オーリたちに同行したジドゥリと、この遺跡の『設備』の一つである扁平な魔獣だけ。
これだけうろつき回っていながら、オーリはこの遺跡で羽虫一匹、蜘蛛一匹、見かけたことがなかったのだ。
――異常だ。どう考えても異常だ。
ならば一体、この場所は。
自分たちがずっと歩き回っていた、この場所は――
ラトニの眉間の皺が深さを増した。ビリビリと警戒する猫のように金色の双眸を釣り上げて、ラトニが結論を吐き出した。
「僕らは遠方の地に転移して来たんじゃない――此処はずっとシェパの領地内だったんです! 転移の魔術文字が刻み込まれていたあの柱の欠片は、鍵であると同時に門だった。
――間違いない、此処は【異相世界】です!」
※※※
異相世界。
それは文字通り、この世界からほんの少しだけずれた所にある、『世界の裏側にある世界』のことだ。
文明不明、生物不明。ただ、オーリたちが生きるこの世界に比べ、著しく魔力に満ち溢れた土地であることが分かっている。
観測する手段は確かにあるらしいし、それを専門に研究する者とて勿論数多くいるだろう。
けれどその調査内容が表沙汰になることは極めて稀であり、況んや魔術に縁のない一般人からすれば、謂わば『異世界』であるそれの存在や詳細などやはり都市伝説と大差ない。
昔はもっと二つの世界の境界が曖昧だったとか、この世界と異相世界で揃って一つの世界だったとか、説は様々あれど、どれも確たる証拠はないままだ。
後者の説を例えるなら、一つの樹の枝から生じた一枚の葉が、ある日表と裏の丁度真ん中でするりと剥がれ、同じ形状、同じ大きさの二枚の葉になったと言えば良いだろうか。
それならば二つの世界の基本形が酷似している理由には説明がつく、と思いながら、オーリはぐるぐると混乱する思考で、これまでのノヴァの言動を記憶から引き出していた。
(嗚呼そうだ、そうだった。特製メープルシロップを取り出した時のノヴァさんの言葉。あの時の、違和感の正体はこれだったのか)
彼は言った。
『シェパに来て良かったことは、このメープルシロップに出会えたことである』、と。
遺跡に来るための転移はシェパ以外からも通っている。オーリがシェパの出身者だと知るわけもないノヴァが、あの瞬間シェパに『来た』と表現するのは、言葉運びとして些かおかしい。
けれど、ノヴァが最初から転移の絡繰りに気付いていたなら話は別。
即ち彼の言葉はそのまま、『今自分たちがいるこの場所が、まさにシェパである』という意味に取れるのだ。
「道理で冬駕籠の滝があるはずだよ。ずれた世界軸のその向こうに、ずっとシェパはあったんだ。
異相世界は私たちの世界をそのまま映し出しているわけじゃないから、全く同一の生き物の姿や、人の住む集落がないのは当たり前。それでも、長い間変化のない大雑把な地形なんかは、やっぱりほぼ同じ姿をしてるんだ」
「冬駕籠の滝は長年大蛇さんたちの冬眠場所となっている場所です。あれほどの魔力に恵まれた土地、相当に長い年月を存在してきたと考えて良いでしょう」
苛立たしげに爪を咬みながら思考するオーリの言葉に、ラトニも低い声で賛同する。
顔を見合わせた子供たちが同時にノヴァを振り返り、無言で仮定の正否を問うた。
満足げに笑ったノヴァが芝居がかった仕草で片手を広げ、正解の意を二人に示す。
「此処が異相世界なら、遺跡で事が起こったとしても人里への被害は無い――なんて、そう上手くは行かなさそうですね」
小さな指でパネルを叩きながら、ラトニが淡々と呟いた。
「この遺跡は、『今まさに覚醒しつつあるところ』と言っていましたね? これは元々何のために存在する建築物なんですか? 完全に目覚めたら、此処で何が起こるんですか?」
矢継ぎ早の問いかけに、ノヴァがするりと視線を外した。
紺瑠璃の瞳が向かうのは、広間の中心に位置する巨大な樹。薄い唇を愉悦と恍惚に釣り上げて、ノヴァは心底楽しげに微笑した。
「――【蛍火樹】」
囁くように落とした声は、まるで高名な写真家が美しい景色を愛でるかのような、静かな熱を含んだ響きを帯びていた。
「この遺跡は、あの樹一本のために存在する。巨大な建築物の全てが、花一つ咲かせるための揺りかごであり、また開花を促すための水だ。
平常は、遺跡が最低限の魔力を樹に流入させることで、樹を枯れさせず、同時に開花もさせないよう、蕾の形で休眠状態を維持している。だが遺跡が完全に目覚めると同時に、流入する魔力量は著しく増大し、遺跡の存在する座標軸は異相世界からオレたちの住まう世界へとシフトする。
碌な制御者もなく現出した遺跡は衝撃波で辺り一帯――そうだな、最低山一つ分は消し飛ばす。更地となったその後で、蕾が花を開かせるだろう」
蛍火樹と呼ばれた樹と、明らかにその時を心待ちにしている様子のノヴァを交互に見て、オーリは焦りに目を泳がせた。
「……ラトニ。異相世界でなく私たちの世界軸で、冬駕籠の滝以外、この近辺に人里や、地理的に重要なポイントはある?」
「今いる異相世界以外の地理は分かりません。ですが、確か山中に小さな村落が複数あると聞いたことがあります。加えてそれほどの規模で地形が変われば、水脈や天候も影響は免れ得ないでしょう」
「ただでさえ土砂崩れや鉄砲水が多いのに、まだ悪化するとかとんだ鬼畜! 被害想定範囲内に冬駕籠の滝は!?」
「山一つ吹き飛ぶんでしょう? 確実に入ります」
がっごん!とオーリが手摺りに額を叩き付けた。しばらく動きを停止してから、がばっと顔を跳ね上げて、ノヴァの方を見て叫ぶ。
「ノヴァさん、遺跡の現出を止める方法は!」
「うん、止めに行くのか? 今回の破壊規模なら、シェパの街は無傷で済むぞ?」
「でも犠牲者が出るんでしょう! 村落もあるし、冬駕籠の滝には今も沢山蛇が眠ってる。だったら、止められる人間が止めないと!」
「見捨てれば良い。目を逸らして、今すぐ安全な街に逃げ帰れば済む話だ。
命懸けでシェパを救ったとて、その功績を知って賞賛する者なんて誰一人いない。同様にお前が逃げたって、それを知って怯懦を責める者など誰一人いない」
「でも、それは悪いことだ!」
吼えるように叩き返した声は、隠し切れない怯えと迷いに揺れていた。
情けなく眉尻を下げ、唇を震わせて、それでもオーリは真っ直ぐ顔を上げて前を見据える。
ノヴァの言葉に、確かにそうだと頷く自分が存在する。危険なことに首を突っ込むより、すぐにでも屋敷に帰って、とっくにオーリの不在に気付いているだろう両親や使用人たちに申し開きをする方が賢明だと、冷静に諭してくる自分がいる。
けれど記憶の奥底で向き合った、一番太くて頑丈な芯が、今もオーリに囁き続けるのだ。
――今自分がやるべきことは本当にそれなのか、とか。
――自分なんかが首を突っ込むこと自体が傲慢なんじゃないか、とか。
そんな自問よりずっと小さく、しかし目を逸らせないほどはっきりと。
――――助けられるものなら助けたい。
ただ、その一言だけを。
自分がそれをすることが本当に正しいのかなんて、答えはまだ見つからない。
でも、このまま逃げて、結果本当に何かを失ったことを知った時、きっと死ぬほど後悔する。
シェパの、冬駕籠の滝の誰一人としてオーリの逃亡を知らなかったとしても。
彼女が怯懦に屈したことを、他ならぬ彼女自身が知っている。
彼女と、彼女が誰よりも誠実でありたいと思っている、彼女の相棒が知っている。
――オーリはブランジュード家の後継だ。シェパはブランジュードの治める土地で、つまりは彼女の守るべき場所だ。
けれど今は、名前も立場も置いておこう。
放っておけない。見捨てたくない。
今はそれだけで良いのだと、少しだけ開き直った凡人の少女はそう思う。
「――あなたが行くなら僕も行きますよ」
ディスプレイに遺跡内の光景を映し出しながら、当たり前のようにラトニが言った。
「元より、此処に突入したのはあなたを迎えに来るためです。異相世界の植物が僕らの世界でどんな影響を及ぼすのかも分かりませんし、シェパが荒れては結果的に僕らの生活まで脅かされる。現出を防げるのなら、出来る時にやった方が良いでしょう」
「確かにそうだね……。うん、いつも付き合ってくれてありがとう、ラトニ。アリアナさんは大分待たせちゃうけど、皆で無事に帰るためだし、仕方ないよね」
「…………、……ああはい、アリアナさんね。そうですね、覚えてますよ、ええ」
「今またあの人の存在忘れてたよね?」
ラトニの記憶力は、時と場合によりひどいザル仕様らしい。
半目でラトニを見つめるオーリと、素知らぬ顔でふいとそっぽを向いたラトニを眺めて、ノヴァがゆるりと首を傾げた。
「理想論だ。実に幼く愚かしい、後先考えない子供の行動だ。――だが、」
紺瑠璃の瞳が瞬く。束の間過ぎった感情の正体は、オーリには分からなかった。けれどノヴァは子供たちの上に、決して不快ではない何かの答えを見たらしかった。
「停滞した世界を動かすのも、現実に倦んだ者を惹きつけるのも、いつだって我が身を省みない度を越えた馬鹿者共の叫び声だ。
扉に至る道筋は一つではなく、新たに見つけた芽をむざむざ摘んでしまうのも惜しい。今回は将来投資の意味が大きいが――呼応を求める獣の咆哮に、応えてみるのも面白いか」
操作台の柵に腰を下ろし、くるりと人差し指を回したノヴァの手元に、新たなタッチパネルが出現した。
たん、と軽やかに指を踊らせたノヴァの姿に、一拍置いてほっとしたようにオーリが頬を緩めた。
「ありがとうございます! ノヴァさんは性格が悪くて愉快犯だから、最悪邪魔をされるんじゃないかと思ってました!」
「素直と正直が常に美徳とは限らないことを覚えておけよ、仔猫。
肝心の対処法だがな、端的に言えば遺跡を再び眠りにつかせれば良い。蛍火樹の花は一度咲けば滅多なことでは枯れないが、その分咲くまでには十全な世話が要る」
ブィン、と音がして、新たに大きなディスプレイが開いた。
石の壁に囲まれた、広大な部屋だ。緑色に揺らめく光が部屋中に満ちていて、オーリは一瞬目が眩みそうになる。
「よく見ておけ、ここが制御室だ」
覗き込んでくる子供たちに、目を細めてノヴァが告げた。
その言葉に従って、オーリもよく目を凝らしてみて、
「……これ、大分様変わりしてるけど、私とノヴァさんが会った部屋ですよね」
眉を寄せて問うたオーリに、ノヴァは無造作に頷いた。
底も見えないほど深部まで地下を貫いていた深い深い大穴が、今や緑光の水を波々と湛えた巨大なプールと化している。
薄暗かった照明は眩しいほどに明々と灯り、中心部にある奇妙な何かの影を浮き上がらせていた。
「ノヴァさん、あの影は? あそこには確か、変な形のオブジェがあったはずなんですけど」
「あれは『媒介』だな。お前がオブジェと言ったものは、制御室の操作台だ。今は操作台にいる奴が、一応の命令系統を握っている」
「……奴、って。まさか、あれの中身……」
「ああ。――人間だ」
とん、とノヴァがパネルの一部を叩き、部屋の中心部がクローズアップされた。
緑光のプールのど真ん中、半径三メートルミルもない足場の上に木の根が寄り集まって、ずんぐりした茶色い塊を作っていた。
初めて見た時、あそこには大穴の真ん中に直立する長い円柱と、それが載せる奇妙な形のオブジェがあった。ぞっとするほど深い崖に隔てられていた足場は、今は泳げば楽に辿り着けそうな様相になっている。
塊の隙間から、じんわりと明滅する光が見えた。
あの奥に、人間がいるというのだろうか。
ディスプレイを凝視しながら、オーリの喉がごくりと音を鳴らした。
どくん、どくん、どくん。ゆっくりと脈動する根の集合体を見つめながら、「まるで繭みたいですね」とラトニが呟いた。
「制御室には魔力炉が備え付けられている。そこにくべられた魔力が引き金となり、遺跡中から引いた魔力が動力室を通って精錬され、更に水を介して蛍火樹に注がれる仕組みだ。
仔猫、お前は遺跡のあちこちで根を見ただろう。あの全ては、ここにある蛍火樹一本から生じたものだぞ。何せ遺跡が目覚めてこの方、この樹は凄まじい勢いで成長しつつある」
瞠目して、オーリは蛍火樹を振り返った。
思い出すのは、一人で遺跡を歩き回っている時にあちこちで見た光景。罅割れた床石の間から、植物らしき質感を持った、茶色い何かが見えていた。
あの時はてっきり、元より二重構造になっていた床が劣化して壊れたものだと思っていたが、どうやらそうではなかったらしい。
正しくは、遺跡の目覚めにより急激に成長を始めた蛍火樹の根が、床石を押し上げて割ってしまったのだろう。
あの制御室で脈動しているのも、きっと蛍火樹の一部分だ。
動力室の幹と制御室の根がどうやって繋がっているのかは分からないが、たった一本の樹がそこまで肥大し、遺跡中に長い根を張っていることに、得体の知れない恐怖を感じて背筋が寒くなる。
「遺跡があちこち破損しつつあるとは思ってたけど……これ、いつ建物が崩れてもおかしくないよね」
「樹が休眠をやめて成長を再開した今、遺跡そのものも、樹の保護という役目を終えて壊れかけているということですか?」
「そうだ。だから、遺跡が用をなせないほど崩れ切る前に、蛍火樹をもう一度休眠につかせなければならない」
時間が経てば、張り巡らせられた根と、機能し始めた遺跡の覚醒動作そのものが、最早立て直せないほど遺跡を崩壊させてしまうだろう。
けれど、今は覚醒に向かいつつあるスイッチを首尾よく切り替えられたなら、再び樹が休眠する環境を作り直すことくらいはできるはずだ。
「方法は一つ、制御室と動力室の命令系統を同時に動かして、遺跡に停止命令を出す。動力室だけでは駄目だ、強制力が弱過ぎる」
「オッケー、つまり、まずは乗っ取られた制御室を取り返さなきゃならないってわけですね。
だったら制御室は私が行きますよ。ラトニは引き続き動力室の掌握、ノヴァさんはラトニの補助をお願いします」
「オーリさん一人で行くんですか?」
「炉があるのは制御室でも、エネルギーコアがあるのはこの動力室でしょ? だからこっちは操らなきゃいけない魔力量が膨大過ぎるし、制御室に比べて操作性能が低い分、命令の組み換えが複雑すぎるから、魔術師ですらない私には無理だと思う」
魔術の素人どころか並以上の魔術師でも出来るか分からない、ぶっつけ本番の遺跡機能の操作。
それをラトニに押し付けることには正直申し訳ないものがあったが、教えられて早々にパネルを操っている姿を見る限り、オーリよりも遥かに可能性があるに違いない。
ノヴァを一人で動力室に残す手もあるが、多分彼は『補助』でないとやってくれないだろう。
自分の手で全て片付けるようなつまらないことをするくらいなら、このまま放置した方がよっぽど面白い、とか言いそうだ。今頃手のひら返されても困るので、余計なことは頼まないでおく。
「ならオーリさん、これを持って行ってください」
右手でごそごそと懐を探って、ラトニがオーリに何かを渡した。
古びた、丸い懐中時計。以前ジドゥリの巣で手に入れたものだと思い出して、オーリは首を傾げながら受け取った。
今も壊れたままらしく、ぴたりと停止した針が指す時間は八時に程近い。
これがどうしたのかと問う前に、ラトニが更に左手を差し出した。
「あと、『これ』も。魔力節約のために機能は色々切ってありますが、連絡用には使えるでしょう」
短く告げたラトニの手のひらに、小さな生き物が出現した。
水色の羽の、賢そうな面差しの小鳥。今の今までその鳥が生き物だと信じ込んでいたオーリが、一拍置いてぱかりと間抜けに口を開いた。
「く……クチバシぃぃぃぃぃぃ!? ちょっと待って、どういうこと! まさか、まさかキミ、最初からずっと……!!」
「はいはい、顎外してないでさっさと受け取ってくださいよ。それ、僕の意識も乗せてないただの魔力の塊なんで、楯にしようが投石に使おうが何の問題もありませんから」
面倒くさそうにラトニが手を振れば、クチバシはパタパタとオーリの肩に飛んで止まった。
とんでもないタイミングで受けたとんでもないカミングアウトに、最早言葉もないといった様子で小鳥と相棒を高速で見比べているオーリへと、ノヴァが「そろそろ転移門を開けるぞ」とマイペースに告げた。
「あの操作台に座っている人間は、黒石を媒介に、無理やり遺跡機能を引き出している。どうやら野盗の一人で――名はサイジェス・ワイマート、と言ったかな。
とっとと行って、あのカチカチの玉座から叩き落としてこい」




