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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
92/176

90:何度でも繰り返し、同じ答えに辿り着く

 完全に少女の気配が追えなくなるまで、『彼女』はただじっと、表通りの方を眺めていた。


 不意に、背後で鈍い音が響く。

 振り向いたそこでは、こちらに背を向けて座り込んだ子供が、何度も地面に向かって拳を振り下ろしているところだった。


 ガッ、ガッ、ゴッ、ガヅッ。

 白い拳が傷付くことも厭わずに――否、そんなことにすら意識を割くことが出来ない様子で、子供はひたすらに地面を殴り続けている。


 唇を噛み締めて俯いた顔は、落ちた髪で影が出来ている。加減も考えず振るう拳が、既に薄い紫色へと染まり始めていた。


 ――ゆっくりと。

『彼女』は子供に歩み寄る。


 踏んだ地面に音はせず、日差しの中に『彼女』の影は落ちない。それでも『彼女』は身を屈め、子供の傍に膝をついた。


『――畜生』


 絞り出すように子供が呟いた。今にも喉から血が噴き出しそうな、乾き切った声。


『畜生。畜生、畜生、畜生、畜生――』


 ぶつぶつと呟に続ける子供の傍に座り込む。執拗に痛めつけられる拳から視線を外し、子供の顔を覗き込んだ。


『何を、したの。私は、何をした。軽率に首を突っ込んで、中途半端に優しくして』


 真っ暗な絶望に染まった双眸が、能面のような無表情に張り付いている。

 どろりと渦巻く重いものは、他でもない自分自身に対する嫌悪と憤怒と、後悔と。


『他人に暴力を振るって、勝手な善意を押し付けて、挙げ句、伸ばされた手には応えられないで、沈黙に逃げて――』


 低く低く、押し殺したような重い声音が、そこでようやく感情を孕んだ。

 自分の手を――初めて他人を傷付けた手を見下ろして、子供はぐしゃりと悲痛に顔を歪めた。


『一番酷いことをしたのは、私だったじゃないか……!』


 罅割れた瞳が空を仰ぎ。

 幼い子供は、悲鳴のような慟哭を上げる。


 ――嗚呼――


 じっとその姿を見つめて、『彼女』は静かに目を伏せた。


 子供の心の中を、『彼女』はよく分かっていた。

 この一件があった時、子供が屋敷を抜け出すのは三回目で、同時に初めて時間をかけてシェパの街を見て回る予定の日でもあった。


 浮ついた気持ちであったこと。街そのものに慣れていなかったこと。感情に任せて拳を振るってしまったこと。中途半端な優しさで、他人の傷を深くしてしまったこと。少女が本当に必要とする意味で、助けてやることが出来なかったこと。

 きっとそんな全てがぐちゃぐちゃになって、子供の心臓を刃物のように突き刺している。


 もう立ち去ってしまったはずの少女の立ち姿が、今も子供の後ろに見えている気がした。

 痩せた少女の幻影は、恨み言すら言わずに口を噤み、ただ薄暗い嘆きと絶望を込めた眼差しで、茫と子供の背中を見下ろしていた。


 自責と自己嫌悪に耐えかねた子供が、渦巻く感情をぶつけるように再び拳を持ち上げる。

 いっそ砕いてしまう気かと思えるほど、子供の動作には躊躇も容赦もない。

 放っておけば拳が使い物にならなくなるまで振るうだろうと、その横顔が語っていた。


 最早幾度目の行為になるか、傷と内出血に染まった手が地面目掛けて振り抜かれる。

 固く握り締めた小さな拳が音もなく空を切り――そして、横から伸ばされた『彼女』の手に掴まれた。


 狭い道を、ざあ、と風が吹き抜ける。渦巻いた風が、子供のフードを跳ね上げた。


 ぱさりと落ちたフードの下から覗く、青灰色の双眸が――見えないはずの、存在しないはずの『彼女』の顔を、今、初めて映し出した。


『――苦しいんだ』


 真っ暗な瞳で『彼女』を見つめて、子供がぽつりと呟いた。

 生気の抜け落ちたような無表情。『彼女』は少しだけ眉間に皺を寄せて、子供の言葉を聞いていた。


『苦しい。苦しい。情けない。酷いことをした。傷付けた。私の偽善が、あの子をぐちゃぐちゃに傷付けた』


 ――そうだね、と『彼女』は呟く。


 背後に見える少女の幻影が、子供に向かって手を伸ばしていた。

 血色の悪い、指先の荒れた手。子供の背中に触れた手の存在に、けれど『彼女』は視線を向けなかった。


『介入なんてするべきじゃなかったんだ。事情も聞かずに暴力を振るった挙げ句、私はあの子に余計惨めな思いをさせただけだった。救い切る力も持っていない私が、軽率に誰かを助けようなんてするべきじゃなかった』


 ――そうかな、と『彼女』は返す。


 少女の痩せた手が、今にも子供を抱き込もうとしていた。子供はからからに乾いた目で、『彼女』に向かって懺悔のような言葉を続けている。


『もっと、何か。出来ることがあったんじゃないかな。偉そうに介入する前にもっとよく考えていれば、何か、きっと、もっと』


 ――後悔してるの? 自分のやってしまったことが怖いの?


『当たり前だよ。怖い。苦しい。間違えてしまった』


 ――そっか。分かるよ。


『分かるもんか。畜生。畜生。怖い。どうしよう。また間違えてしまったら、また誰かを傷付けてしまったら』


 少女の腕が、子供を強く抱き締めた。

 骨ばった腕が、ずぶりと子供の中に沈んでいく。自らの存在を子供の心の隙間に埋めて、一つに溶け込もうとするかのように。


 子供の声から、どんどん温度が消えていく。君には分からないよ、と繰り返す子供を、『彼女』は目を逸らさずに見つめていた。


『怖いんだ。きっとまた、あの子の時みたいな失敗をする。傷付けるのが、傷付くのが、何よりも怖くて怖くて仕方ないんだ。

 だったらもう、いっそ私なんて、何もしない方がずっと良い。迷ってばかりの役立たずな私なんて、消えてしまえば――……』


「分かるってば」


 子供の拳を握る手に力を込めて。

 細い細い喉を震わせ、『彼女』は情けなく眉を下げて笑った。

 穏やかに、困ったように、小さな罅の沢山入った、子供の心に触れた。


「――だってそれは、私がずっと重ねてきた苦悩だもの」


 そうして『彼女』は――子供と同じ色の髪と目と、子供よりほんの少しだけ成長した体格を持つ少女は、無力に罅割れた瞳の子供を、救えなかった人の幻影ごと自分の胸に抱え込んだ。

 かつて通り過ぎた、一番愚かで浅はかで視野が狭かった頃の、幼稚な自分を抱き締めた。


「分かってるよ。『私』はこの先また、何度も何度も間違える。いつだって怖くて仕方ないけど、それでも立ち止まることは出来ないから、私は今も出来ることを探してる」

『そんなこと、誰も君に頼んでなんかいないじゃない。今だってずっと、君は迷い続けているんでしょう?

 所詮異世界、他人事の世界。恐怖と迷いを繰り返すくらいなら、このまま此処で「自分」を消してしまえば良い。

 それで終わりだ。帰りたかった優しい世界のことだけ夢見て、眠ってしまえば良い。馬鹿で偽善者で中途半端で、独りぼっちの哀れな君は、全部おしまいになれる』

「嫌だよ」


 目を細めて、『彼女』は笑った。一秒も迷う気にならなかった。


『鷺原桜璃』が生まれた世界のことを、懐かしんだし恋しがった。知らない世界を楽しもうと思いながら、それでも最初に生きた世界のことは、別格として心の奥にしまっていた。


 ――かつての世界と家族に心を残し、それでもこの世界で背筋を伸ばして生きていくと、決めた日のことを覚えている。


「『君』は、初めて本当の意味で現実と向き合った日の私なんだ」


 噛み締めるように言葉を紡いで、『自分』を包む腕に力を込める。


 少女の幻影は、いつの間にか見えなくなっていた。

 子供は何も答えずに、鏡のような目で『彼女』を見上げていた。


「私は馬鹿だから、何度でも間違えて、後悔して。やっと答えを出してまた進めると思っても、また忘れかけて立ち止まる。

 そのたびに改めて思い出して、また歩き出して――そうして何度でも繰り返すんだ」


 ――幼子を狙った強盗、強姦、誘拐。二度目に見かけた時は介入するのを躊躇して、無傷で助け出すことが出来なかった。

 きちんと両親のいる子だったらしく、こっそり送り届けた小さな民家で、怪我をして意識のない我が子を見た母親が、悲鳴のようにその子の名前を呼ぶのを聞いた。


 ――薬師に本格的な弟子入りを望んだ日、問答無用で放り出された。薬学舐めるなと言われ、毎日来られるようになってから出直しなと怒鳴られた。

 口が悪くてしょっちゅう拳が出て、でも貧乏な患者にも優しい誠実な人だと知っていたから、顔も事情も晒せないことが心苦しかった。何度も何度も通い詰めて、地面に頭を叩き付けるように土下座して、薬師が折れるまでそれを続けた。


 ――農村の生活が知りたくて村を訪ねた時、まともに話なんて聞かせてもらえなかった。顔も見せず、身元も知れない妙な子供として、嫌そうな目で邪険に追い払われた。

 子供たちから切り込もうと考えても、農村の子供との関わり方なんて知らなかった。少し仲良くなった頃に、気付いた親の介入でその子たちが離れていくなんてこともよくあった。


 ――初めてストリートチルドレンに出くわした時、会話は三十秒も続かなかった。冷ややかな目で警戒され、うっかり拠点に近付いてしまって、侵入者用の罠に引っ掛けられて怪我をしたこともあった。

 今は仲良くしているストリートチルドレンのリーダー格も、最初は随分と刺々しかった。上流階級特有の雰囲気を敏感に感じ取って、道楽なら余所でやれと、敵意に満ちた目で吐き捨てられた。


 何回も、何十回も傷付けて傷付けて傷付いて、それでも繰り返すことを止めたくなかった。

 ――止めずに進むと、自分で決めた。


「最初の一年間は、どれだけ頑張ったって褒めてもらえることなんかほとんどなかったよ。

 事あるごとに失敗して、そのたびにああやっぱりなって冷たい目で見下されて、惨めで悔しくて悲しくて、臆病風に吹かれて逃げたくなって」


 ――怒涛のような一年だった。


 ――挫折しかない一年だった。


 ――狂おしいくらいに、泣き喚きたいくらいに、独りぼっちの一年だった。


「でも、間違いっ放しで終わったら、きっと一生後悔する。最初に持っていなかった手段を、明日は手に入れられるかも知れないもの。昨日奪われたものを、明日は取り戻す手段を思いつけるかも知れないもの。

 ――君は、最初にあの子のことをどう思った? 立ち去ってしまったあの子の背中に、一番強く思った後悔は何だった?」

『――わた、しは、』


 問われて、子供は答えを躊躇った。自分の感情を探り出して、見つけた言葉に困惑している。


「謝りたいだけだった? 詫びたいだけだった? 消えてしまいたいだけだった? 償いたいだけだった? ――私は違ったよ」


 淡々と、問いの言葉を重ねていく。

 酷い痛みを堪えるように、子供が胸を鷲掴んだ。子供の顔がくしゃりと歪み、乾き切ったその目から、初めてぼろりと涙が零れた。


 ――暴力が嫌いだった。悪意が嫌いだった。奪われるのが嫌いで、虐げられるのが嫌いで、だからこそそれを他者に向けることを疎んでいた。


 幼い子供は無条件で守られるべきものだった。そうであって欲しかった。守られて生きた記憶があるからこそ、他人にだってそうしてやりたかった。


『――たすけ、たかった……』


 小さく、小さく。

 ようやく絞り出した声は、それでも溢れ出しそうな悔恨と懺悔を孕んでいた。

 自分を包み込む『彼女』の腕を、やりきれない思いを抑えられなかったように、苦しくて仕方ない何かをその心臓に刻み込むように、きつくきつく子供が掴んだ。


『助けて欲しいって言ったあの子を――私は、助けてやりたかった……!』

「――――うん」


 ぼろぼろと、ぼたぼたと。

 大粒の涙を頬に伝わせて哭く子供を、『彼女』は目を閉じて抱き締めた。


「私も、そう思ったんだ」



 ――ぱきん、と。

 世界が割れる音がして。



 ――そこはもう、薄暗い街の中ではなかった。

 綺麗な湖と、からから廻る沢山のかざぐるま。

 燃えるような夕焼けの赤に彩られた、静かな山の中だった。


「――偽善だとか、傲慢だとか。そういうのは、もう飽きるくらい考えたよ」


 足元に落ちていた、硝子みたいなばらばらのピース。それを一つ一つ拾い上げて、『彼女』は丁寧に組み上げていく。

 かちりと隙間が合わさるたびに、繋ぎ目がすうっと消えて、大きな複数のパーツになる。透明なピースを全て組み上げてしまった後は、薄い赤色に色付いたピースを、パーツの繋ぎに使っていく。


「善い人の皮を重ねて重ねて重ねて重ねて、いつかそれが本物になると信じていた。いや、信じたかった。だって、本物にならなければ救われないと思ってたから。あの女の子が――そうして何よりも、私自身が」


 かちり、かちり。澄んだ音が鳴る。


「分かってるよ。私が経験した暗がりなんて、普通に暮らしてる人の知る半分にも満たないって。強盗に怯えないで済む頑丈な壁に守られて、毎日屋根の下で眠れて、食事に困らない暮らしが出来る私なんて、ちょっとやそっと辛い思いしたってたかが知れてる。

 全部全部エゴだよ。自己満足だ。そうでしょ? 清廉な人間になんかなれないよ。私は何処まで行っても、ただの『天才になりたい凡人』でしかないんだもの」


 ピースを合わせるたびに、青い光がじんわりと走る。

 自分と同じくらいの大きさの、透明な像が出来上がっていく。


「でもさ、綺麗で強い人間でなければ、手を差し伸べちゃいけないのかな。一度間違えてしまったから、二度と何かをしようとしちゃいけないのかな。

 今苦しそうにしている誰かを、守りたいと思って何が悪いの。

 ――私はきっと、誰かを救える何かになりたかった」


 ――あの日。

 散々泣いて後悔して、屋敷に帰ったオーリは、真っ直ぐ図書室に向かって走った。

 目的は薬草のことを書いた本。更にその後、数回の外出を経て少女のいる娼館を割り出して、出来るだけ沢山の薬草を集めて、窓から忍び込んで少女の部屋に置いてきた。


 少女の姉がどんな病気かなんて、薬師でも医療師でもない身には分からない。

 けれど届けるものが薬草ならば、直接病気に使える品種でなくても、売って薬に替えることは出来るだろうと。

 顔を合わせる勇気はなくとも、何度も何度もそれを続けた。


 そうして頻繁に薬草を摘みに出ていた頃、丁度同じように薬草採取に来ていた薬師――ジョルジオ老人に出会って。紆余曲折を経て弟子入りを許されるに至った頃には、姉妹はもう娼館からいなくなっていた。

 姉妹が何処に行ったのかは分からない。けれど、最後に覗き見た二人の顔が存外明るいものだったので、せめて幸せになっていれば良いと今でも願っている。


「何十回も失敗した。心も折れた。でも、今の私が手に入れた選択肢は、最初の私が持っていたものより、ずっと多いと信じてる」


 疲労と無力感に蹲りそうになると、何度でもあの少女の顔が蘇ってきた。そのたびに歯を食いしばって、追い立てられるように立ち上がって、終わりの見えない試みへと挑んで。


 いつしか少女のことを思い出すことはなくなったけれど、その時にはもう、立ち止まろうとは思わなくなっていた。


 ――きっと、あの頃からだった。

「助けて」という言葉に、応えられないことが怖くなったのは。


「怖がってるって言ってたね。ああそうだよ、その通りだ。私はずっと、自分にとって優しくない世界に向き合うことが怖かった。生ぬるいくらいに優しい世界の記憶があるからこそ、一切の良識が通じないこの世界が怖かった。

 ――でもさ、手を差し伸べることが出来ないのはもっと怖いんだ。あの子の言葉に答えられなかったあの日、あの子が浮かべたような表情を、私は二度と見たくない」


 言葉を紡いで、『彼女』は笑う。幾度目かになる同じ決意を、改めて自分に刻み込むように。


「私はオーリ。オーリリア・フォン・ブランジュード」


 言い聞かせるように呟いて。

『彼女』――オーリは、かちん、と最後のパーツを嵌めた。


 そこに完成していたのは、幼い少女を象った人形だった。

 伸ばした髪に、大きな目の――オーリそっくりな姿の透明な人形が、ちょこんと膝を曲げて座っていた。


 人形には一箇所だけ、ぽっかりと穴が空いていた。

 胸の真ん中――心臓の部分だ。そこに嵌めるパーツの在処は、もうとっくに分かっている。


「沢山間違ってきた。今も、間違ってることは沢山あるんだと思う。私は特別に頭が良いわけじゃないし、わざと目を逸らしてることだって幾つもある程度には身勝手だ。

 でも、私はここまで来たことを後悔しない。走り続けることを止めようとも思わない。取り零したものは沢山あるけど、掬い上げられたものも沢山あると信じてる」


 オーリはそうっと、自分の胸に手を当てる。じんわり真ん中が熱くなって、滲み出るように体の中から何かが出てきた。

 拳ほどの大きさの、真っ赤なピース。灼熱の液体と化し、彼女が呑み込んでしまったはずのそれが、穏やかな温もりを伴って手のひらに落ちてきた。


 ぎゅっと強く固められた、一番大切な心の中心。オーリは動かぬ人形を抱き締めて、赤いピースを迷わずその胸に嵌め込んだ。


 一際強い光を発して、ピースが人形に溶け込んでいく。

 光が止んだその時には、先程まで人形を組み立てていたはずのオーリの姿は消えていた。


 ――風が吹く。

 合図をするように。背中を押すように。


 取り残されていた人形の、その胸の奥。最後のピースを嵌め込んだ場所に、ぽつりと小さな赤色が滲んだ。

 刹那広がる、温度と色彩。水に絵の具を落としたように、広大な草原に清風が吹き渡るように――透明な人形が見る見るうちに、生きた命の色に染まっていった。


「怖い。逃げたい。どうしたら良いか分からない。でも、それで良いんだ。何回蹲っても、立ち止まっても、もう一度歩き出すことを決めている」


 人形が――否、オーリが、しなやかに手足を伸ばして立ち上がる。

 風にそよぐ濃茶色の髪と、丸い大きな青灰色の瞳。彼女は周りを見渡して、何処かから聞こえてくる呼び声に唇を緩ませた。


「――大丈夫。今の私にはもう、どこまでも一緒に歩いてくれる相棒がいるから」


 縋るように、訴えるように呼ぶ小さな声に。

 応えることへの障害は、もう何もない。




※※※




 ラトニがノヴァの裏をかく手段として水素爆発を選んだことについては、幾つかの理由がある。


 まず、爆薬として使用する水素や酸素。水分子の分解から得たこれらの気体は無色無臭なので、魔術にのみ警戒する人間ならまず初見では気付かないというのが第一だ。

 更に水に溶けにくい気体の性質から、大量の水に満ちたフィールドにおいても、空気中の気体量が減りにくいというメリットがある。


 そもそも水素という物質は、空気中に4%〜75%程度の割合で含まれた時、可燃性の性質を獲得する特徴を持つ気体である。

 この状態の水素に着火するには静電気程度のエネルギーで良く、また拡散性が高い。つまりその破壊力に対して、空気より遥かに軽く、酸素と混ざって燃え始めた瞬間に上昇して消えていく水素は、安全確保上非常に有利な物性を有するのである。


 ――尤も、これはあくまで理論であり、当然ラトニが実際に試すのは今回が初めてのこととなる。

 今世と前世でオーリに教えられた知識からでは、具体的な爆発の規模や二次被害のことなど全く分からなかったので、彼は実行に当たって念入りに防御壁を重ねた。


 裏返せば、ラトニはそれだけの大規模破壊力を想定していたということであり、ひいてはノヴァに与えるダメージに関してもそれなりの――少なくとも、一時的にその行動を阻害させる程度の――効果があると期待していたのだ。


 故に、その瞬間。

 確かに疾った水素爆発の白い閃光が、けれど爆音と爆風を生み出す前にふつりと消失したことに対して。


 あたかも点灯したと思ったばかりのランプの灯が、分厚い黒い布で無造作に覆い隠されてしまったかの如き光景に、ラトニは満月を想わせる黄金色の両目を極限まで見開いていた。


「――細工も仕上げも、見事の一言」


 舞台役者のように片腕を伸ばし、何処までも不遜に泰然と、男の声が朗々と笑う。


「だが、惜しいかな――オレにはまだ、届かない」


 ――それは、巨大な口だった。


 目も鼻も、頭も胴体もない。ただ空間の一部がぱっくりと裂けたが如く、口端の釣り上がった真っ黒な口が、けたけたと笑うような形でノヴァの傍に浮かんでいる。


 大きさは、大人一人をそのまま丸呑みできる程度だろうか。

 大岩さえ噛み砕く姿を幻視するような、尖った長い牙がずらりと並んでいるのが見えた。


「――まさか――」


 使われなかった四重防壁の中、オーリを抱き締めて唇を震わせながら、ラトニは愕然と声を上げる。

 己の前で、一体何が起きたのか。人並み以上に回転の速い脳みそが、信じがたい解答を弾き出す。


 歪んだ三日月のような、巨大な『口』の怪物を従えて。

 紺瑠璃の瞳の魔術師は、夜風に踊る外套を化生の翼のように纏い、傷一つない立ち姿で月下に君臨する。


「まさか、爆光や爆風ごと――あの爆発を『喰った』のか……っ!?」

「――『悪食の黒(マグネデーセ・ニゲル)』」


 薄い唇から悠と落とされた声色は、己の従える『何か』に対する明確な命令の意志を持って。

 瞬きをした次の瞬間、『口』はラトニの目の前まで突っ込んできていた。


 ――速いっ!


 一瞬で距離を詰められて、ラトニが引きつるように呼吸を止める。

 ガッと大きく開かれた『口』は凄まじい速さで防御壁に喰い付き、結界を囲い込んでいた水の巨腕を綿飴でも食べるようにごっそりと抉り取った。反射的に構成を組み替えて留めようとするも間に合わず、次の瞬間には全ての水が『口』の向こうへと収まってしまう。


(喉も腹もない、咀嚼すらしている様子がないというのに、あれだけ膨大な量の水が一気に食い尽くされただと!? 一体どういう仕組みになっている……!)


 見せつけられた強力さに、ラトニは慄然と背筋を震わせる。動揺と焦燥に流れる汗が、細い首筋を不快に濡らした。


 これは魔術消去ではない。もっと暴力的で絶対的な、まるで力任せに拳で叩き潰すような魔術だ。


 魔術消去への対抗策であった緻密な魔術構成などは意味が薄いと悟って、ラトニはぎりぎりと歯軋りした。

 けれど、もしも諦めて対応を投げ出せば、十秒後にはラトニとオーリの身体が同じように食い千切られているだろうことは想像に難くない。

 瞳が燐光を散らし、渦巻く魔力に煽られた青い髪が威嚇するように逆立った。


 破裂音。

 ラトニが結界に注ぐ魔力を追加し、同時に『口』へと水弾が撃ち込まれる。

 上顎や下顎などの口腔部分に数発、『口』と空間の境目を狙って数発。その全てが牙をぎらつかせた『口』の中に吸い込まれ、黒い空間へと無為に消えゆく。


「そうだな――番犬」


 そうしてとどめとばかりに迫る『口』を、一人後方で眺めながら。

 ノヴァは満足げな溜め息を吐いて、微笑と共に囁いた。


「よく抗った。もう良いぞ」


『終わり』を告げるその言葉に、ラトニが息を呑んだ。


 構えることも許さず間合いをゼロにしてきた『口』が、吐息すら感じそうな距離で大きく開く。

 ぞっとするほど真っ暗な口腔が、ラトニの視界を一杯に満たし――――二人を傷付けることなく結界だけを喰い尽くして、幻のように消失した。


「――……御眼鏡には、適いましたか」


 防壁一つ、操る水の一滴すらなく、ノヴァの前に生身を晒して。

 ラトニはじっとりと汗を掻きながら、ノヴァを見上げてそう問うた。


 ノヴァが一方的に戦闘を止めた理由は、苛立たしいが既に察している。不快そうに目を細めて、食えない男を睨み据えた。

 ピリピリと警戒しながらも攻撃動作に移る気配のないラトニに、ノヴァもにこやかに答えを返した。


「ああ、合格だ。――見事に『再構築』を成し遂げた、仔猫の分も合わせてな」


 その言葉にはっとして、ラトニが腕の中のオーリを見下ろした。


 固く閉ざされていた血の気のない瞼が、ふるりと小さく震えたのが分かる。

 数秒の間を置いてうっすらと覗いた綺麗な青灰色の双眸に、ラトニはようやく、深々と息を吐き出した。


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