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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
90/176

88:賢い君は答えをもう知ってる

 水底で見つけたそれは、水と同じ色をした何かの破片(ピース)だった。

 水中に落としてしまえば見えなくなってしまいそうなほど透明度の高いそれは、水底に届く僅かな日光を反射して複雑に輝いていたらしい。


 つるりとして硬いそれは、見た目は硝子に似ていたが質感は硝子のそれではなく、触れると仄かに温かかった。

 三十かそこらはあったそれを、時間をかけて残らず岸に引き上げる。

 大きめの林檎と同じくらいのサイズのピースは、弧を描いている箇所や角張った箇所、ギザギザした箇所など様々あって、同じ形のものは一つもなかった。


 ピースを手の中で弄びながら、ジグソーパズルみたいだという感想が過ぎる。

 立体のジグソーパズルはやったことがなかったな、と考えて、『彼女』は思い出したように首を傾げた。自分は何処かで、平面のジグソーパズルをやったことがあるということだろうか。


 別のピースを左手に取って、右手に持っていた一つに噛み合わせてみる。うまく凹凸が嵌まらずに、かちかちと虚しく音が鳴った。

 また少し考えて、左手のピースを地面に置いた。代わりに取り上げた別の一つで試してみて、また嵌まらずに取り替える。


 やめようとは思わなかった。どうせ他にすることもない。

 それに、これが本当にジグソーパズルなら、どんな形が完成するのかも見てみたかった。湖の底から引き上げた不思議な宝物のような欠片たちは、きらきらと光を散らせて『彼女』の手を誘っている。


 何度も試しているうち、ようやく二つのピースがぴったり嵌まった。

 当然だが、全体像はまだまだ見えてこない。続いて別のピースを取り上げて、同じ試行を開始した。


 ――それから、どれだけパズルに夢中になっていたかは分からない。

 やがて疲れたように投げ出した『彼女』の両手の傍には、大きな何かの欠片が、ごろごろと幾つも転がっていた。


 最初に見つけたピースを組み合わせて作った、歪な形の、大きな透明なピース。

 ここまで組み上げたは良いものの、その先の組み方が分からなくて、『彼女』は頬を膨らませる。


 残っているのは、小さなピース複数から成る大きなピースが四つ、そして手付かずのままの小さなピースが五つ。

 大きなピースを解体して組み直してみたこともあったが、何度やっても最後はこの形になって行き止まる。


 嗚呼、埒が明かない。

 むっすりと不満そうに唇を尖らせ、『彼女』は未だばらばらの欠片たちを眺めた後、凝った肩を解すように空を見上げた。

 しばしの間、思考の空白が時間を埋める。抜けるような蒼穹をぼうっと眺めていれば、爽やかな風が吹き付けた。からからと回るかざぐるまに、振り回された赤が踊る。


 ここまで時々ピースを放って欠伸をしたり、組み上げたピースを手に取り直してじっくり見つめたりもしていたから、それなりの時間が経過していることは確かのはずだ。

 一体今が何時頃なのか知らないが、空の色は『彼女』が此処に来た時から、少しだけ暗くなっているように感じられた。


 此処での時間がどれくらいの早さで流れているのかは分からない。

 夜になったら、やっぱり月が出るのかなあ。そんなことを考えて、溜め息を一つ吐き出した。


 繋ぐ先を見つけられなかった小さいピースの、その中でも他より少しだけ重くて大きい一つを片手で掴み、『彼女』はぽんぽんと投げては受け止める動作を繰り返す。

 そうしながら、そう言えば、と不意に奇妙なことに気が付いた。


 ――この場所には、動物の姿がない。

 鳥も、獣も、魚も。

 この穏やかな世界の中で、『彼女』だけが動いて考えて、感情を持って息をしている生物だった。


 からから、からから、からから、からから。

 赤い円を描いて、かざぐるまが廻っている。静かな世界に色を付けるのが、自分の使命だとでもいうように。


 どうすれば、この世界から抜け出せるのかなぁ。

 抜け出した先で戻るべき場所すら思い出せないまま、『彼女』は疑問を募らせた。


 ――早く帰らないとなぁ。


 当たり前のようにそう思って、手の中のピースを見下ろして。

 そうして、『彼女』は目を瞬いた。


 ――透き通っていたはずのピースに、色がついているような気がした。


 錯覚だろうか、と思いつつ、ピースを光に翳してみる。

 どうやら錯覚ではなかったようで、ピースは水に絵の具を落としたように、じんわりと薄い朱色に染まっていた。


 他のものを確認してみるが、そちらは透明なままだった。

 もしや汚れたのではあるまいなと、『彼女』はピースを手に湖へと向かう。ばしゃばしゃ洗ってみても、滲んだ朱色は取れないばかりか、僅かに濃くなったような気さえした。


 太陽が、ゆるりと傾く。

 更に明度を低めた日差しが、掲げたピースを透過して――



 ――――影が侵蝕するかのように、一気に朱色が濃さを増した。



 じじ、と手のひらに痛みが走って、『彼女』は悲鳴のような息を洩らす。

 咄嗟に何が起きたのか分からず見開いた目が、驚愕と動揺にくらりと揺れた。


 あれほど硬かったはずのピースが、どろりと溶け出していた。

 初めて見た時硝子製のようだと思ったそれは、今や正しく熱された硝子のように形を崩し始めている。

 見る見る上がっていくその温度に、此処に来て初めて『彼女』の顔が青ざめた。手放さねば火傷で済まないだろうが、どんどん溶けていくピースを移せる器などあるわけもない。


 事態が一気に悪化したことを、『彼女』は理解して息を呑んだ。

 焼け付く両手を冷ますため、このまま水に突っ込めば大火傷は免れるだろうが、もしもピースが水で冷えても固まらなかった場合、溶解してしまったピースを回収することは二度と出来ないに違いない。

 また、手のひらが焼け爛れることを覚悟でこのままピースを持っていたとしても、液体と化したピースをいつまでも留めておけるとは思えなかった。地面に滴って染み込めば、やはり結果は同じこと。


 一つたりともピースを失ってはならないと、本能的に悟っていた。

 既に九割が溶けてしまったピースは炎を映したような赤色に輝き、どろりどろりと粘性のある液体と化している。

 じゅうう、と手のひらが音を立てて、少しでも激痛をごまかそうと強く歯を食いしばった。


 他のピースは無事だろうかと、『彼女』は背後を振り返る。ごろごろ転がる大小のピースのうち、小さな方の四つが、手に持つピースと同じ色にじわじわと染まりかけていた。

 溶け出す様子はまだ見えない。けれど、このまま放置すればきっと四つ全てが同じ道を辿るだろうと予想できて、ぞわりと震える体に顔を歪めた。


 太陽が傾く。風が吹いた。手のひらを伝った真っ赤な液体が雫を生み出そうとする光景が、スローモーションのように目に映った。


 ――逡巡はなかった。


 次の瞬間、『彼女』は思い切り頭を逸らし、灼熱の液体を口に流し込んでいた。




※※※




 幾分呆れた心地で、ワンパターンだな、と思いながら、ノヴァは軽いステップで身を翻した。

 巻き上げた外套が盾となり、『左腕』によって散弾と化した瓦礫の飛礫を残らず受け止める。

 奇妙なデザインの外套はたかが布一枚とは思えないほどの防御力を見せつけ、ふわりと元の位置に戻った。


 ばんっ! ばんっ! ばんっ!


 何度も叩き付けられる『右腕』は、どうやら対峙する子供たちと距離を取らせようとしているようだった。

 どうするのか興味があったので、期待に応えて素直に後退してやる。ただの悪足掻きだと思うほど、彼はまだ少年を舐めてはいなかった。


 ラトニと呼ばれていた少年は、師も教書も経験もなく、膨大な魔力量と才能にのみ頼った不完全な魔術師だ。

 それでも、齢二桁にもならない頃から独力でここまでの魔術を操り、自分のような色んな意味で「規格外」の存在に対峙して尚折れないでいる人間など、一体どれだけ存在することか。


 あの場から一切動かないのは、意識のない少女を抱え込んでいるからだろう。

 わざわざ煽る言動を取ってみせたとは言え、間髪入れず叩き返されてきた憎悪と執着振りにはいっそ親近感すら覚えた。

 自分自身もまた一般とは大分歪んだ感性を持つ人間だと、ノヴァはしっかり自覚している。


 着地した足を狙って水の渦(ボルテックス)が撃ち込まれ、ノヴァの魔力盾(シールド)に防がれた。

 螺旋を描く水の一閃は当たれば石床くらい穿つだろうが、当たらなければただの水飛沫でしかない。

 下に意識が向いた隙を狙って、頭上にあった『右腕』が動く。五本の指が急速に伸長し、水の縄となってぐるぐるとノヴァに巻き付いた。


(操作力は高い方だ。新米魔術師程度には負けないだろう)


 二本の『腕』の向こうからじっとこちらを見据えている少年を、胸中で評価する。


(だが、綻びは多い)


 動きを制限されたノヴァを、『左腕』が狙っているのが見える。あちらにも何か小細工を仕掛けているのだろうか。幾分気になったが、拘束を払う方が先だと考え直した。


 ――魔術消去。

 それは丈夫な毛糸で編み上げられたマフラーを、解いて一本の毛糸に戻す作業に似ている。大雑把な作りであるほど綻びが多く、解きやすくなるのだ。


 ノヴァは足元の小石を適当に蹴り上げざま、魔力を込めて『右腕』へと蹴り込んだ。

 小石が『右腕』に突き刺さり、速やかに魔術構成を消去していく。しかし直後、盛大な水音を立ててぶち撒けられた液体に、彼は自身のミスを悟った。


 じゅうっ!と激しい音がして、一面が白い煙で満たされた。

 四方八方から降り注いだのは、莫大な量の熱湯だった。それも極限まで温度を上げられた、浴びれば全身火傷で即死するほどに超高温の。


 どうやらあの『右腕』は、最初に冷たい水で手袋のように外皮を作り、その中に熱湯をしこたま詰め込んだものだったらしい。

 全ての部位が同じ水の塊だと思っていたノヴァが『消去』したのは、一番外側の外皮のみ。押し込める役を担っていたものがなくなって、中身が一気に吹き出てきたというわけか。


 しかし、見えた攻撃をそのまま食らうほどノヴァも鈍くはないようで、彼の周囲に薄い円形の膜が出現した。

 反応の早さにラトニが舌打ちする。魔力盾(シールド)。降り注いだ熱湯が膜に触れると同時、磁石に反発されたように弾けて消えた。


 間を置かず、僅かな隙を見せた男に『左腕』が突進した。魔術消去を食らう前にと、今度は自ら弾け飛ぶ。

 魔力盾(シールド)を張ったノヴァへと真正面から叩き付けたのは、嵐となって吹き荒れる氷の粒だった。

 翠月の光を浴びたダイヤモンドダストがきらきらと輝く。暴雨が叩き付けるような音を立て、無数の細かい氷の刃が、既に一撃を凌いでいた即席の魔力盾を打ち砕いた。


 月光に染まる冷ややかな氷と、色付き硝子のように煌めく魔力盾の破片が、虚空で入り混じって舞い散っていく。場違いなほどに美しい光の乱舞を映して、金色の瞳からばちりと燐光が散った。


 見据える視界と空間を、全て切り裂いて一閃が走る。

 超圧縮された水の刃。鉄すら両断するそれが、巨大な死神鎌となってノヴァに襲いかかった。


 ――ふっ、


 繰り出された水刃は、部屋の両端まで届くほどの長さがある。暴威に真っ向晒されて、しかしノヴァは眉も動かさなかった。

 身を翻して呼気一つ。トン、と床を蹴って回転したノヴァの足が触れた瞬間、水刃はパキンと白く凍りつき、雪より細かな氷の欠片となって崩れ去った。


「番犬」


 ふわりと裾を風を孕ませ、ノヴァがしなやかに着地する。

 まるで階段を一段飛ばしただけだと言うような、何の緊張感もない軽い動作で。


 全ての攻撃を払いのけ、裾の端にすら傷を付けられないままラトニの猛攻を凌ぎ切って。

 しかしラトニをくるりと振り向いたノヴァは、今初めて、明確な感情の揺れを表情に乗せていた。


「――何をした?」


 水を熱湯に変える。言葉にすれば簡単だが、それは本来、単一属性で為せるはずがない魔術だった。


 水属性の魔術に火属性を組み合わせて複合魔術とし、水は初めて熱湯になる。

 氷を作ることも同様だ。氷系魔術の使い手なら単一魔術で為せるだろうが、「水を凍らせる」というプロセスを取るならば、やはり水系と氷系の魔術を組み合わせる必要がある。


 勿論、実際にそれを為せる魔術師自体は、決して少なくないだろう。複合魔術は確かに簡単ではないが、今見せられたレベルのものなら初級の範疇、つまりそう難度は高くない。


 ――けれど、おかしいのだ。

 何故ならこの少年は――


「番犬、どういう絡繰りだ? お前、今、『水属性以外の魔術を』『使っていなかっただろう』」


 それは、ノヴァの知る限り有り得ないことだ。

 水の魔術で、熱や氷結の作用は出せない。


 ――あっさりとそれを見抜かれて。

 しかし素直に答えるつもりはないと言いたげに、ラトニは再び手を振り上げた。


 ノヴァの指摘は正しかった。ラトニは此処まで、水属性以外の魔術を一切使っていない――否。正しくは、水属性以外を使えない。

 要するに、未修得なのである。水系魔術に比べて圧倒的に適性が低い炎や氷などの魔術属性は、先達の教え無く修得することが不可能だったという、たったそれだけの話。


 ――故にこそ。

 一般の魔術師が「複合魔術」として組み上げる魔術の一部を、ラトニは完成までのアプローチを変更し、手を加え、単一属性魔術として発動させたのだ。


 ラトニ・キリエリルは、およそ「水」、或いはその一部と認識できる対象に関して、ほぼ無制限の操作能力を誇る。

 それこそ泥水や海水であっても――空気中の水分子であっても。


 まず、『右腕』。

 通常の魔術師が火と水を組み合わせ、威力を調節して作成する熱湯を、ラトニは単純に、一定範囲内の水分子に干渉して強制振動させることで作り上げる。

 分子運動によって大量の熱を発生させることで、水を急速に高温にし、外皮の中に詰め込んだ。


 次に『左腕』。

 こちらは一定範囲の空気を密閉して熱の出入りを断ち、密閉空間の水分子を無理やり膨張させることで、気体の温度を大きく下げる手法を取った。

 所謂、断熱膨張という現象である。空気の低温化によって水蒸気は氷の粒となり、あとは外皮が破裂した勢いに乗せれば勝手に散弾となって散ってくれる。


「魔術構成の把握を少しでも間違えれば、魔術消去は発動しない――そう推測したんですが、正解だったようですね」


「分子」という概念を持たないこの世界の人間には、およそ到達し得ない手法だろう。

 二本の『腕』の外皮と内側で魔術構成を変えて、扱いにくい遺跡の水を操るためと見せかけて大量の魔力を使用し、外皮に隠蔽用魔力を重ねがけ。

 更には『両腕』をじっくり観察されて見破られないよう、激しい動作と飛礫で視界を狭めて。


「消去が間に合わないくらい、複雑にすれば良いんでしょう?」


 最後の一撃、ノヴァは魔術消去を使わなかった。『出来ぬ』と判断したのだ。

 前の二撃に体勢を崩され、また警戒心を植え付けられたノヴァは、前の二撃と同じように、あの水刃にも何らかの詭計が仕込まれている可能性を捨て切れなくて、魔術消去を使う手を避けた。


 思った通りだ。恐らく魔術消去は、ノヴァが言うより遥かに緻密な技術なのだろう。本来多用できる技ではないものを、卓越した技量とラトニの経験不足を利用することで、あたかも万能の盾であるかのように振る舞っている。


 ならばラトニはノヴァを超えるほど、もっと緻密に。もっと精密に。もっともっと複雑に編み上げて、誰にも解きほぐせないように。


(――あなたがくれた知識を武器にして)


 細い両腕に力を込める。抱き締めたオーリの体は、異様なほど体温が低かった。

 ノヴァを倒して、目覚めない彼女を待たねばならない。だって、もうあんな後悔はしたくないのだ。

 山奥の冷たい湖で、彼女を想って死んだ最期。共に死ぬのも悪くはないが、共に生きる未来には代えられまい。

 感情は未だ煮え立っている。いっそ、二度と冷めることなどないのではないかと思えるほどに。


 ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ。オーリの身体を抱き締めて、ラトニは独り言を呟き続けている。

 あれほど消費したと思ったのに、まだまだ魔力は満ち溢れているようだった。

 道筋は分かった。ならばまだ戦える。

 ラトニの髪が、帽子を飛ばしてふわりと舞い上がった。翠の月光に照らされて鮮やかな深海色に染まった少年の髪に、ノヴァが唇を釣り上げた。


「――――『蒼柩』」


 恍惚すら孕んだその声に、返る言葉は、ない。




※※※




 口に含んだ瞬間、どろりと重い灼熱が一気に粘度を低下させた。ほとんど水と変わらなくなった感触が、留める間もなく喉を滑り落ちる。

 ぎょっとして開いた口から零れたのは、情けなく掠れた声だけだった。

 焼け付くような熱が食道から胸へと伝わった時、しかしそれは唐突に弾けた。


 あたかも爆心地から同心円状に広がる衝撃波の如く、炎の塊のようだった灼熱が、肉と皮膚を乗り越えて一気に体外へと押し出される。

 感触の、感覚の、意識の全てが、丸ごと塗り替えられる心地がして――――




 ――――そうして、次に『彼女』が立っていたのは、何処かの街の中だった。


 先程までいた山の中とは全く違う、裏道に程近い薄汚れた場所だ。

 時間帯の問題か、単に使う者がいないだけか、人間の姿は『彼女』からは見えない。遠くから喧騒が聞こえてくるが、そちらに行ってみるべきなのかも分からない。


 自分の身に一体何が起きたのか分からずに、しばし『彼女』は沈黙した。

 無意識に喉を撫でた後、そこから嘘のように熱が引いていることに気付く。


 ――背後から軽い足音が聞こえてきたのは、丁度その時だった。


 はっとして振り向きかけた『彼女』の横を通り抜け、その『誰か』が勢い良く駆けていく。まるで『彼女』が見えていないように――否、『彼女』が幽霊ででもあるかのように、僅かに触れ合ったはずの肩を突き抜けて。


 駆けていったその人物は、まだ幼い少女の姿をしていた。

 見知らぬ顔の子供だ。『彼女』の基準で言えば、年の頃はまだ小学校に入学したばかりというところか。

 簡素なダークブラウンの上着にフードを被っていたが、その下からは磨き抜かれたように綺麗な濃茶色の髪が靡いている。きらきらと好奇心に輝く大きな青灰色の瞳が、楽しそうにあちこちを見回していた。


 外を駆け回れるようになって日が浅いのか、今にも笑い声が聞こえてきそうな子供の表情は、ひたすらに期待と希望だけを詰め込んだかのように明るいものだ。

 貧困層特有の薄暗い影はない。短い手足は細いながらも肌艶が良く、食事に困ることのない生活をしているのだろうことが窺えた。


 ただの健康な子供だ。悪事になど手を染めることのない、健全に生きていくことを許された子供だ。

 けれど『彼女』は子供を一目見て、無意識のうちに大きく両目を見開いていた。


 どくん、と心臓が不穏に鳴る。

 見知らぬはずの子供の顔を、何故だろう、自分はとてもよく知っているような気がした。


 ふらつくように身を翻して、『彼女』の体が動き出す。理屈も理性も置き去りにして、駆け去っていった子供の背中を、足が勝手に追っていた。


 きょろきょろ周りを見回しながら走る子供の姿には、間もなく追いつくことが出来た。

 どうにも周囲にある色々なものが珍しいようで、子供はあちこちに目移りしながら楽しそうに進んでいる。


 その姿を見ていて、『彼女』はすぐにも子供を引き戻したい思いに駆られた。放っておいたら、何か自分にとって途轍もなく恐ろしいことが起こるような気がしてならなかった。


 子供は路地を駆けていく。塀に囲まれた道の周囲には住宅や店も幾つか並んでいたが、どれも人の気配がせず、しっかりドアが閉ざされていた。


 不意に子供が足を止める。綻ばせていた唇をふっと引き結び、耳を澄ませる仕草をしながら、きょときょとと視線を彷徨わせ始めた。

 不穏な何かを聞きつけたのだと察すると同時、すぐに方向を定めて子供は地を蹴った。

 今度はさっきよりもずっと早く、獣のような速度で足音を殺して走り出す。その身に触れられないと知っていて尚、『彼女』は子供の背中に手を伸ばさずにはいられなかった。



 ――やめろ。


 ――そっちに行っちゃいけない。


 ――だって君は、其処で誰かを――




 ――――グチャグチャに踏みにじってしまう。




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