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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
88/176

86:翠月夜



 ――――弱い癖に。



 嘲るでもなく、見下すでもなく。

 ただ淡々と投げかけられたノヴァの言葉は、オーリの心の深部にストンと落ちるように突き刺さった。


 勝手に屋敷を出るのが悪いことだと分かっていながら、時間があればシェパを駆け回ってきた。

 決して恵まれてはいない環境で生きる住民たちに対して、自分に出来ることがあるのなら、と思っていた。

 シェパを領地とするブランジュード家の嫡子として、半ば義務のように思ってもいた。


 ――本当にそれで良いのかなんて、敢えて深く考えないようにしていた。


 死ぬ覚悟も殺す覚悟もないまま、ただ勢いと成り行きに任せるばかりで、此処まで突っ走ってきた。

 目の前のことを片付けるのを言い訳に、自分の深層に向き合うことを避けてきた。


 ひゅう、と細い息が零れる。

 胸元を掴む手に力を込めた。

 噛み締めた指の爪に、がり、と罅が入る音がしたが、今のオーリの耳には入らなかった。


(私は、どうしてこんなことをしているんだっけ。どうしてこんなことをやろうと思ったんだっけ)


 逃げても良い、と言われて。

 怖いのだろう、と言われて。


 ――その通りだ、なんて思ってしまう程度の想いで。


(自分の心すら分からない私が、人を救おうと考えること自体が傲慢だったんじゃないの? もっと他に、やるべきことがあったんじゃないの?)


 何故だろう。

 かつて王都で、笑って死んでいった青年の顔が思い浮かんだ。


 気が優しくて平凡で、それでも自分の手を汚すことを厭わなかった人だった。

 守りたかったものを喪って、その代わりのように不器用な優しさをオーリに向け、オーリの心に消えない傷痕を残して死んだ。


 ――あの人の命の上に立って、それでも進み続けるだけの想いを、自分は本当に持っていただろうか。

 自分が死なせた(殺した)あの人ほどの覚悟さえ、未だに持っていると思えないにも拘わらず。


 ごくん、と唾を呑み込む。

 こちらを見据えるノヴァの双眸から一瞬たりとも逸らせなかった瞳が、ゆらりと揺れて波紋を広げた。


「……――わ、私、は、」


 口を開いたのは無意識だった。

 ぐるぐると纏まらない思考に囚われながら、自分が何を言おうとしたのかは分からない。或いは何一つ言葉など見つけていなかったのかも知れない。


 ともあれ、彼女の口から何らかの釈明が出てくることはついぞ無かった。

 意味を伴った文章が零れ落ちる前に、爆発するような轟音と震動が二人の全身を打ち据えたのである。



 ――ドォンッ!!!!



 轟音は一度だけで終わったが、余波までそれでは終わらなかった。常人なら立っているのも怪しいほどの揺れが遺跡を襲って、オーリはぎょっと我に返る。

 今の轟音は、前回の地響きとは比べ物にならないほど重かった。ぐらぐらと揺れる広間に、大樹が生える水面が激しく波打つ。ビシビシとあちこちで罅の入る音。更に数十秒震動が続くと、とうとう耐え切れなくなった壁がガラガラ音を立てて崩壊していった。


「の、ノヴァさん! 何が起きてるんですかっ!?」


 頭を抱えてへたり込みながら、オーリは声を張り上げた。

 これまでで最大の揺れに崩壊。まさか遺跡そのものが崩れ落ちる前兆かと思って、背筋がぞわぞわと寒くなる。


 どうやらさっきので、壁の一面が丸々なくなってしまったらしい。水のカーテンは変わらず神秘的に広間を覆っているが、隣の部屋に繋がってしまったのか、向こう側からは微かな光が差し込んでいた。


「これはまた、制御機能の掌握が早いな……。媒介を二つも操るとは、何とも入念なことをする」


 目まぐるしく入れ替わるディスプレイは、オーリの位置からはよく見えない。

 変わらず操作台に立ってパネルを叩きながら、ノヴァはオーリを見もせずにぶつぶつと呟いている。


「ノヴァさん、答えてくださいよ! この遺跡、崩れるんですか!? 今のでラトニとアリアナさんが押し潰されてたら……!」

「今のは軽い起動音みたいなもんだ、放っといたって遺跡が完全に壊れることはない。それより隣室、『外』に繋がったんじゃないか?」

「は……!?」


 さらりと事も無げに告げられて、オーリは大きく目を見開く。一拍の間を置いて息を呑み、やや震動の収まった広間を飛び跳ねるように駆け出した。


 水のカーテンを潜り抜け、崩れた壁の瓦礫を乗り越える。

 飛び出したそこは、大量の瓦礫と灰色の石に覆われた、殺風景な広い場所で。


「……空、だ……!」


 上層の屋根が完全に落ちてしまったのだろう、幾つもの階層をぶち抜いた遥か上に、黒い雲が泳ぐ夜空が見えていた。

 幻覚ではないだろう。強く吹き抜ける風と、夜の匂いを感じる。

 そしてもう一つ、その空に踊る一面の――


(――凄い。オーロラだ)


 初めて生で見る光景に、オーリはぽかんと口を開けて見惚れた。


 高い高い夜空の一面に、鮮やかなオーロラが揺れていた。

 空にかかったベールのように美しいそれは、一瞬たりとも途切れずその彩色を変えながら、暗い夜空を光の色に染め上げている。


 ――今宵は翠月夜。そう教えられていたことを、彼女は今更ながらに思い返す。


 翠月夜。数年に一度、翠の月が昇る夜。

 望んでも滅多に見られない希少な翠月夜のうち、更にほんの時たま、月がオーロラを伴うことがある。

 他のどんな場所でどんな時に見るオーロラよりも見事なそれは、天高く座する翠の月のみが纏うことを許される、至上の衣なのだそうだ。


(聞いた時はどれほどのものかと思ったけど、確かに納得できる。前々世でオーロラの写真を見たことはあったけど、これはもう比較にならない)


 ほんの一時、オーリは自分の現状すら忘れて立ち尽くした。

 そうして茫然と見上げる彼女の前で、今再び、強い風が吹き抜ける。

 ひやりと冷たい夜風はオーリの髪を荒らし、同時に黒い雲を振り払った。


 ――月光。


 奇跡と讃えられる翠の月が、雲の覆いを取り払われ、煌々と輝くその姿を露わにしていた。


「――――……!!!」


 最早感嘆の声もなく。

 オーリはただ、魅入られたように、その冷たい輝きに目を奪われた。


 ――翠月夜の話は、使用人や家庭教師から幾度となく聞いてきた。けれど、その美しさを讃える言葉は、決して多くは聞けなかった。


 それも道理だとようやく分かる。

 だって、表現など出来るわけがないのだ。本物の翠月を見たことのある人間が、己の口から紡ぎ出すどんな言葉なら、この壮大過ぎる大自然の芸術に足りると思うものか。


 空の掲げた宝石は、吸い込まれそうなほど鮮やかな翡翠色。如何なる大国の主でさえ手にすることは出来ないだろうと思わせる、至高の神珠の如きそれは、ただ厳然としてそこに在る。


 瞬きをすることも忘れたまま、只々食い入るように空を見ていたオーリの上に、翠の月光が降り注ぎ――



 ――――どぐんっ、と脈打った心臓に。


 届いた信号が痛みだと、一呼吸置いてようやく悟った。



「――――げふっ!」


 悟った瞬間込み上げたのは、鋭い刃物に胸を突き刺され抉られたかの如き、猛烈な激痛。たまらず胃液を吐くような咳をして、彼女はがくんと膝をついた。


 ――何だ。何が起こったんだ。


 急激に呼吸が苦しくなり、かは、と開いた口の端から唾液が滴り落ちる。きつくきつく胸を抑え、オーリは散らばっていく意識を必死で掻き集めた。

 翠月夜が人に害を及ぼすなどと、オーリは一度たりとも聞いたことがない。傍付き侍女のアーシャも、ストリートチルドレンの友人たちも、至って楽しそうに翠月が昇るのを待ちわびていた。


 ならば何故。自分に起きている現象は。


 床に突いていた手が滑り、オーリの身体が倒れ込んでいく。震える指を持ち上げて、チョーカーの上から力なく喉笛を引っ掻いた。

 喉が熱い。まるで心臓の痛みへと繋がっているように、じりじりと灼けるような熱がある。


 ――かつん、と足音が聞こえた。

 頭上に影が差す。視界に入ったブーツと、左右非対称な長さの裾を、オーリはぼんやり霞む目で追いかけた。


「魔力回路に狂いが生じているな」


 ひゅう、ひゅう、と細い息を繰り返すオーリの傍に膝を突き。

 ペットの兎の食事風景でも観察するかのような、至って冷静な目でノヴァが告げた。


「魔力回路は知っているな? 血液ではなく魔力の流れる血管みたいなもので、心臓から全身に伸びている。

 今のお前は一時的に大量の魔力を取り込んで、オーバーヒートを起こしている状態だ。処理能力が追いついていないから、放っておけば魔力回路が焼き切れるばかりか、溜め込んだ魔力が身体を内側から破壊するぞ」


 淡々と落とされる言葉にオーリは答えられない。ただ身の内で暴れ狂う炎を受け流すことに必死になっている。

 ふむ、と顎に右手を当てたノヴァが、小首を傾げて呟いた。


「そうだな。丁度良いから、」


 うつ伏せに体を折っていたオーリを無造作にひっくり返し、トン、と額に右手の人差し指を当てる。


「ちょっと繋ぎ直してこい」


 その言葉の意味を呑み込む暇もなく、オーリの意識は底深い何処かへと投げ出された。

 床に放り出した細い手足が大きく一度痙攣し、そして緩やかに力を失った。




※※※




 分かる者の目には体表面に陽炎が見えるほど大量の魔力を叩き込まれ、凝縮された熱と魔力に訳も分からず振り回されて苦しんでいた少女が力尽きたように意識を失ったのを確認して。

 ちゃんと戻ってこられたら僥倖だなあ、程度の感慨しか抱いていないノヴァは、そこでようやく手の中で暴れていた小鳥の存在を思い出し、握り込んでいたそれを放してやった。


 クチバシと、確か少女は呼んでいたか。

 先程からずっとノヴァの左手の中に掴まれていた意思無き魔力の塊は、解放されるや否や硝子玉のような目でノヴァを見つめてけたたましく鳴き叫び、ひゅんひゅんと少女の周りを飛び回り始める。


 恐らくこの小鳥は、術者によって目の前の少女を守るように設定(プログラミング)されていたのだろう。

 ただしその技術にはまだまだ粗が多いようで、少女が危険な状態にあることを理解していながら、現状への対処をし切れていない。

 これを生きた鳥だと信じ込んでいた少女の顔を観察しながら、ノヴァはただ、こちらに駆けてくる足音に耳を傾けていた。



「――――オーリさんっ!!!」



 悲鳴のような呼び声は魂切るような絶望の色を孕んでいたが、それに対して罪悪感を覚えるような己でないことを、誰よりもノヴァ自身がよく知っていた。




※※※




 さあさあと降り注ぐ水のカーテンに覆われ、一枚の葉も持たない奇妙な大樹を抱いた広間にラトニが辿り着いたのは、オーリとノヴァがそこを離れた直後のことだった。


 魔術陣から床へと流れる、とても人が潜れるほどの深さも量もない水の中から、水そのものが伸び上がるかのようにラトニの姿が出現する。


 移動中に感じた激しい音と揺れを気にしながら、ラトニは移動の目印であるクチバシ、そしてオーリの姿を求めて視線を彷徨わせた。

 しかし、もう一度クチバシと感覚を繋げるべきかと考えた瞬間、けたたましい鳴き声が耳をつんざいて、ラトニは弾かれたように広間を飛び出していく。


 崩れた壁を越えると、幾層分となく落ちた天井の向こうに夜空が見えた。

 オーロラを伴った、奇跡の翠月夜。けれど警報のように鳴き喚くクチバシと、仰向けに倒れる少女の姿を目にした瞬間、ラトニの頭の中から一切が吹き飛んだ。



「――――オーリさんっ!!!」



 繊細な美貌を動揺と激情に歪め。


 自らが絶叫したことにさえ、彼は気付かなかった。




※※※




 淡々と観察するノヴァの目の前で、新たに現れた子供――ラトニが、意識のない少女に駆け寄った。


 頬と首に手を当てて、異常に低い体温と呼吸速度にぞくりとする。翠の月光がオーリの顔を照らし出し、顔色の悪さにまるで死人のようだと考えてしまった。


 光彩陸離。

 魂まで吸い込まれるような巨大な満月は、もしも隣に元気なオーリがいたならば、さぞかし美しく鮮やかにラトニの記憶に刻まれたに違いない。

 けれど今この瞬間、初めて観賞する翠月夜に興奮して目を輝かせる少女の姿は隣にない。ようやく合流できたと思った彼女はいつ覚めるとも知れない眠りについており、最早今のラトニにとっては至高の宝石と謳われる翡翠の月さえ不吉なものにしか思えないのだ。


 鳴くのをやめたクチバシが、ラトニの肩に止まって空気に溶けるように消失する。術人形の経験と記憶を読み取って、それでも何が起きたのか分からずに、ラトニは眉間に深く皺を寄せた。


「オーリさんに何をしたんですか……!」


 いつもは落ち着いた声を威嚇するように低く押し殺し、ラトニはノヴァを睨み付けた。


 目の前の男が魔術師だということは分かっていた。

 感情の見えない紺瑠璃の目に、黒紫と薄鈍色の二色の頭髪。髪や服装の色合いばかりか、袖や裾の長さまで一定しないという徹底したアシンメトリーを貫く男は、その人間性までひどくちぐはぐであるように見えて、ラトニはオーリを庇うようにしっかりと抱き締めた。


 所々を適当に纏めた、とても手入れが行き届いているとは思えないピコピコ跳ねた長髪も。

 何の警戒心もない、だらりと手を垂らした立ち姿も。

 敵意に毛を逆立てる自分を前にしたノヴァの雰囲気はまるで無頓着に見えて、しかしその全身には一切の付け入る隙を見出せない。


 何ら怯むこともなく一人飄々と佇むノヴァの表情が、何だか人間が人間に向けるものに思えなくて。

 まるで冷静な研究者の如き眼差しに、ギリッと歯を食いしばる。


「――成程」


 うっそりと。


 不意に浮かべた笑みに男が含んだ意味を、ラトニは咄嗟に判断できなかった。


 睨む子供を蔑むでなく、嘲笑するでなく。

 ただ興味深いものを見るように、ノヴァはラトニとオーリを視界に収める。


「予想はしていたんだ。甘っちょろいことばかり考えていそうな子供を、仄暗い現実から守っている誰かがいるんじゃないかと。何処までも突っ走る子供が悪意に喰われないために、そいつの代わりに何でもやってやる人間がいるんじゃないかと。

 ――やはりお前だったんだな。その蜂蜜菓子のような仔猫を守って、牙を血まみれにしていた番犬は」

「そんなことはどうでも良い」


 薄暗い淵へと誘い込むように紡がれるノヴァの言葉を、ラトニは吐き出すように切り捨てた。

 琥珀色の双眸がぎらぎらと輝く。腹の底から込み上げてくる真っ黒な殺意を吐息に混ぜて、ありったけの怒りを込めた声をノヴァへと投げた。


「あなたの戯れ言に付き合っているほどの余裕はないんです。僕の質問に答えてください。

 ――彼女は無事に目覚めるんですか?」

「さあ?」


 おどけたような返答に、静寂は一瞬。


 悦楽に唇を歪めるノヴァへと、膨大な水が渦を巻いて襲いかかった。



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