81:全ての歯車が動き出す
ひたすら走り回ったにも拘わらず逃げた少女を見つけ出すことは結局出来なかったらしく、土下座せんばかりに詫びるウェーザをストラガは努めて冷静に宥めた。
元より然程期待していなかった、などと素直に告げたなら、実直なウェーザは言葉の通り受け取って、悔恨に唇を噛み締めるのだろう。
それはストラガの本意ではなく、またあの少女を利用すると決めた時から――ひいてはアリアナと組むと決めた時からちくちくと胸を刺す不快な予感について口にするのを避けたかったということもある。
代わりに空気を切り替えようと、「あの女が消えた」と告げれば、案の定ウェーザは目を見開いて顔を跳ね上げ、次いで怒った獣のような表情で奥歯を食いしばった。
「やはり何かやらかすつもりなのか、あの女……何を企んでいる」
「大人しく従うとは端から思っていなかったから、予想通りの展開ではある。それより指令が来たぞ」
ストラガが報告書を送ったのと同じ手段で戻ってきた指示書の紙は、中身を確認してすぐに燃やした。
黙って続きを待つウェーザに、ストラガはうっすらと目を細めて言った。
「【まつろわぬ影の眼】を用い最深部を探れ、とのことだ。帰国の刻限が近い、すぐに向かうぞ」
「分かった。だが、肝心の所有者は」
「ああ、だからあの石をそのまま使うことは出来ないだろう。本国から補助アイテムが送られてきた。試せということだ」
野盗たちを使って、内部はあちこちを調べてある。
進めなかった道、正しく唱えたはずなのに反応のない魔術文字。深部目指してそんなものを辿って行けば、遠からず正解のルートに辿り着けるだろう。
ストラガは、懐から黒い石の首飾りを引き出す。所有者の少女も確保したかったが、どうしても間に合わないなら首飾りだけでも本国に送らねばならない。
――その時は、一つでも多く情報を付け加えて。
踵を返し、早足で歩き始めたストラガを、緊張に表情を固めたウェーザが追った。
二人分の影が重なって、ゆらりと床で気怠げに揺れた。
※※※
事前にばら撒かれた水弾により天井まで濡らしていた水を利用し、サイジェス目掛けて雨と降り注がせた細い細い水の矢は、しかし獲物を捉えることなく、轟音と共に跳ね返された。
頭上からの攻撃を悟って背後へ回されたサイジェスの右手が、上着の下に隠していた何かを掴み出す。
「【風爆】!」
振り上げた腕には、鈍い白銀色に光る大筒のようなものが嵌まっていた。
咆哮したサイジェスの魔力を吸い上げ、大筒が一気に力を帯びる。筒身に刻まれた模様のような複雑な線が、水が水路を流れるが如く光を走らせて輝いた。
――また魔術具!
察したラトニが発動を妨害するよりも、鍵言葉に応えて輝いた筒先から強烈な風弾が撃ち出される方が早かった。
風の塊、などという生易しいものではない。それはまさしく、圧縮された嵐と言うに相応しかった。
先程の魔術具よりも更に威力が大きい。ラトニが仕掛けた水の矢が、その一撃で残らず打ち払われる。宙に浮く小鳥が体勢を崩し、立て直すためにコンマ数秒時間を要した。
――ここで確認しておこう。
本来ラトニ・キリエリルという少年は、相棒である少女に比べ、対人における実戦経験には遥かに乏しい人間だ。
確かに、その手で幾人の命を屠った経験はある。殺しや戦闘に対する忌避観も、とうの昔に吹っ切れていると言って良い。
けれどそれは、彼に魔術という力業があり、尚且つ相手の魔術スキルがラトニに劣るという前提の元での話。
戦闘、特に咄嗟の判断や駆け引きに優れた「戦い慣れした人間」との直接戦闘において、容易に勝てるほど強いという意味ではないのである。
故にこそ。
今この瞬間、もしも此処にいるのがラトニ本体であったならば、恐らくこの時に勝負は決していたに違いない。
必殺となるはずだった水の矢が一撃のもとに払われ、戦闘手段である小鳥の体勢が崩れた時点で、ラトニがサイジェスの足を絡める水への魔術干渉を一時放棄し、全力を持って彼から距離を取っていたならば、少なくともこの局面を凌ぐことは出来ただろう。
或いは此処にいるのがラトニではなくオーリであったなら、思考より先に全力稼働した本能が、彼女を危機から逃すため、可能な限り適切にその体を動かしただろう。
しかしラトニの武器は魔術であり、そこには「思考」というタイムラグが存在する。
そうして、戦闘に際して自動ではなく手動での機動を行っていた術人形は、操り手の指示が途切れたことにより、次撃への対処に一歩遅れた。
直後身を捻ったサイジェスが、至近距離で羽ばたく小鳥に向かって、殴りつけるように筒先を突き出した。
――ヅシュッ!
打撃にしては距離が足りぬと、怪訝に思う暇もなく。
空気を裂いた不快な異音と共に、小鳥の動きが強制停止させられる。
肉を貫く濡れた音。筒先から飛び出た鋭い刃が小鳥の胸を貫いて、その身を虚空に縫い止めていた。
――ずるり。
水の蔦が力を失い、ただの液体となって床に撒き散らされる。
――かひっ。
小鳥が一度、喘ぐように開いた嘴を震わせる。
ふるりと痙攣する小鳥に間髪入れず、再びの咆哮が響き渡った。
「【風爆】!!」
二度目の嵐は、真っ赤に踊る炎を纏って爆発した。
逃げることなど出来ようものか。爆炎が己の全身を焼き尽くすおぞましい光景を、何より当の小鳥の眼こそがしっかりと映し出している。
串刺しからの火炙りという、並みの人間なら発狂ものの攻撃を受けて、しかしラトニが動揺に動きを止めたのは、僅か半呼吸の間だった。
ラトニの最大の幸運にしてアドバンテージは、その死も痛みも術者に届かせない、術人形という戦闘手段を用いていたこと。流石に平然としていられるほど剛胆ではなく真っ青に血の気の引いた顔は、それでもサイジェスの姿を真っ向捉えてギッと目付きを鋭くする。
受けたダメージは甚大、小鳥の身体は既に大部分が崩壊しかけている。
最早立て直すことは不可能と判じた後の、ラトニの対応は早かった。術人形の崩壊に伴って切れかけた魔力の糸を無理やり繋ぎ止め、オーバーヒートで糸が千切れないギリギリの量の魔力を人形へと送り込む。
人形内に残った魔力をかき集め、下した最後の命令に、小鳥は忠実に従った。
羽を千切られ炎に灼かれ、尚一片の苦痛も浮かばせぬぼろぼろの小鳥が、きろりと両目を輝かせる。
散りゆく翼で羽ばたき一つ。
己の放った強力な攻撃の反動を受け切るべく動きを止めていたサイジェスへと、小鳥は放たれた矢のように飛び込んだ。
僅かに焦げた茶色い毛玉が、ポサリと力無く床に落ちた。
※※※
丁寧に石を連ねた道の先が、そのままちゃぷちゃぷと澄んだ水を湛える水路の中へと続いている。
扉を開き踏み込んだ、大きな部屋があるはずの空間に、ただのっぺりと立ち塞がる堅い壁がある。
丸い円を描くような吹き抜けの回廊の真ん中に、降りる方法も分からない深い大穴が通っている。
そんな奇妙な場所はこの遺跡の内部にいくらでもあり、深入りして戻れなくなることへの警戒から、これまでストラガとウェーザは深部への侵入を避けてきた。
今回のような遺跡やダンジョン、獣の巣、貴族の屋敷から王城まで。工作員としての任務で様々な場所に出向いた経験はあれど、二人は決して魔術のスペシャリストではない。
今回とて【まつろわぬ影の眼】というイレギュラーと、そしてキュートス候からの使いである女が飛び込んで来なければ、遺跡の詳細調査は、次に本国から送り込まれてくる、より専門知識を持ったプロたちに引き継ぐことになっただろう。
左手に装着した六角盤を、ストラガは目の前の壁に向ける。
幅広のベルトで手首に巻かれた盤の中央には、一滴の銀を溶かしたような漆黒の石――【まつろわぬ影の眼】が載せられていた。
更に盤からは、青白い光で構成された針が浮き上がっている。羅針盤にあるそれのような針は、震えもせずに真っ直ぐ壁を指していた。
方向を確認し、ストラガが手を動かす。
六角盤側面の複数箇所に指で触れると、ピン、と黒石を貫くように新たな光の針が立ち上がった。
青白く輝くその針は、更に先端が変形していく。糸がほどけるようにしゅるしゅると生み出された細い光が複雑な形の文字の群れとなり、黒石を囲むように円となってぐるりと踊った。
文字の送信が完了するのを待ったストラガが、注意深く全文を黙読してから口を開く。
「――【道を作れ】【ここに示せ】【この眼の前に隠すこと能わず】【差し伸べよ、風沈む地の導き手】」
男の口から零れ出た言葉は、奇妙な韻と響きを持って紡ぎ上げられた。
魔術言語。
正確に発音された鍵言葉に応え、一瞬だけ黒石が輝いた。きぃん、と澄んだ音がして、黒石を貫いていた光の針が溶け消える。
――ぴし、と。
壁に切れ目が入ったのが見えた。
真っ直ぐな切れ目は見る見る広がり、人一人が楽に通れるほどの穴となる。
細かい埃を落としながら開き切った入り口が動きを止めるのを待って、ストラガたちはその奥へと踏み込んでいった。
※※※
爆炎の余韻が完全に収まったのを悟って、サイジェスはようやく顔を上げた。
間近で炎に晒されていた顔面が、ひりつくような刺激を訴える。
ビリビリと痛む頬を無意識に手のひらで押さえかけて、その手もまたうっすらと爛れていることに気付いて舌打ちを零した。
「サイジェス! 無事か!」
戦闘が終わったと判じた野盗仲間の声がして、続いてバタバタと足音が聞こえる。
壁や天井の魔術文字が所々削り取られたせいで、心なしか照明が薄くなっているようだった。
駆け寄ってきた仲間は、膝をついているサイジェスの傍に屈み込んで、表情を歪めた。
「火傷がひでぇな……おい、何処行くんだよ」
「ストラガとウェーザは何処だ」
ふらりと立ち上がったサイジェスを、仲間が咎めるように見やった。
俯いて顔に手を当てるストラガは、目だけが幽鬼のようにギラギラ光っている。その様子がまるで別の人間のように思えて、仲間はぞわりと背筋を震わせた。
「知らねェよ、そんなこと……。それより治療が先だろ。ノヴァから手に入れた薬があるから、早くそれを取りに、」
言い立てる言葉に返事もせずに歩き出したサイジェスを、仲間は慌てて追いかけた。
懐から小さな革袋を掴み出したサイジェスが、緑色の丸薬を取り出して乱暴に口に放り込む。
固い薬をガリガリと噛み砕く姿に、仲間は眉を顰めた。
「まずは治療に戻れって言っただろ! 何でそんなもん食ってんだよ!」
「必要ねぇ。こっちの丸薬で充分だ」
「そりゃ適正な治療薬がない時の緊急用って言われただろ! それにその銀の大筒、ストラガに持ち出し禁止されてた武器じゃなかったか!?」
「ストラガストラガって、あいつの顔色ばっか窺ってんじゃねぇよ!!」
ついさっき小鳥との戦闘で使ったばかりのそれ――筒のような形状の魔術道具を乱暴に回収するサイジェスに、仲間がぎょっとした様子を見せる。
苛立ちも抑えずに切り捨てて、サイジェスは血走った目で遺跡の奥を睨み付けた。
「オレらが手に入れた獲物なんだから、オレらが使って悪い理由が何処にある! 正式にオレらの頭張ってるわけでもねぇ奴に、何でそんなこと指図されなきゃならねぇんだ……!」
小鳥一羽を殺したことは、サイジェスの気を微塵も晴らさせはしなかった。
否、殺した小鳥に重なって、小生意気そうな少女と痩せた少年の顔がちらついて、余計に彼の心を波立たせる。
嗚呼、頭がぐらぐらする。きっと負傷のせいだ。
ペットでは足りない。使い手である少年と、その更に後ろにいる少女の方を探さないと。探して、早くこの手で縊らないと、己の頭からあの少女の姿を消すことは出来ない。
「サイジェス、サイジェス……! なあ、何処に向かってるんだよ! お前、本当におかしいぞ! そりゃ前から短気な奴ではあったけどよ、そこまで考え無しじゃなかっただろ!」
仲間が青ざめた顔で、それでも必死になってサイジェスの後を追ってくる。
仲間のことも、怪我のことも、ストラガからの指示も、自分の足が向かっていく方向にさえ。
何もかもに蓋をして、ただ腹の奥で煮えたぎる憎悪だけを見つめながら、サイジェスは遺跡の奥へと踏み込んでいった。
――見えない何かに導かれるように。
※※※
小鳥の映し出してくる視界が完全に切れて、ラトニは強張っていた唇からようやく重い息を吐き出した。
殺し損ねた男の顔を思い出し、後れをとった悔しさに拳を握り締める。
(……殺せなかった。オーリさんに出くわす前に始末しなければならない相手なのに)
己の経験不足は知っていたが、魔術道具一つでああも押されたことはやはり情けない。小鳥が消える間際に出来るだけのことはやったつもりだが、あの様子では警戒して引くより、むしろオーリに対して恨みに油を注いでいそうだ。
(猶予がないですね。一刻も早くオーリさんを見つけないと)
思考しながら、ラトニは再び手のひらに魔力を集めていく。
生み出された新たな小鳥が、勢いよく水中から飛び出し、遺跡の奥へと消えていった。
※※※
転移の魔術陣が淡く輝いて、二人の人間を出現させた。
降り立った人間の片方――ウェーザが周囲の気配を探り、ストラガが掲げた六角盤に視線を落とす。
ストラガの魔力に応えて黒石が輝く。円状の文章がミルククラウンのように虚空へ浮き上がり、その文字が消える前にと読み上げた。
「――【道を示せ】【我を導け】【幕切れは未だ眼に映されず】【響き揺らせ、笛吹きの歌】」
ごとん。
床に大きな穴が空いて、下へと続く幅の広い階段が見えた。
六角盤に灯る青白い光の針は真っ直ぐ階段の先を指していて、ストラガとウェーザは薄暗い道へと躊躇なく踏み込んでいく。
「どれだけ深部に潜れば良いんだ。何度も転移魔術陣を経由しているから、これ以上は戻れなくなるかも知れんぞ」
怯えを誤魔化すようにぼそりと呟いたウェーザに、ストラガは沈黙をもって返した。
黒石を用いて道を開くのは、これで一体幾度目か。
正式に登録された使い手がおらず、本国から送られてきた補助の魔術具によって強引に力を引き出されている黒石は、便利ではあるがその分扱いが難しい。
【まつろわぬ影の眼】。鍵であり、水先案内人。
閉ざされた通り道を探し出し、所有者を導くが、その際この黒石は、一回一回異なる鍵言葉を提示してくる。
僅か数秒という制限時間内に鍵言葉を正しく読み上げないと、割り出されたはずの鍵言葉は消失し、また新たな鍵言葉が提示されるのだ。
階段は存外早く終わり、その先は一本道だった。
進んでいくと、次は打って変わって広い場所に辿り着く。
通路と空間でP字型を作った広間の、直線部分の一番下から上へと進んできた、と言えば分かりやすいだろうか。
正面方向は円弧状の壁と直線状の壁がしっかり接続されており、ストラガたちが来た方向には、幅一メートルほどの隙間から後方へ道が続いている。
天井や壁には煌々と輝く照明の魔術文字。
鬱蒼と生い茂る蔓植物が、崩れた瓦礫や柱、石像の残骸らしきものに巻き付いていた。
人や動物らしきものを象っている像たちは隣と一定間隔を空け、部屋の真ん中を向いて大きな半円を描くように立っている。
その更に後方に一つずつある小さな扉へとストラガが歩み寄り、そして動きを止めた。
「ストラガ? 次はどの扉へ――」
怪訝そうに問いかけたウェーザは、ストラガの手元を覗き込んで息を呑んだ。
黒石を貫いて輝く青白い針が、狂ったようにぐるぐると回転していた。
これでは進む先が分からない、と、眉間に浅く皺を刻む。
ストラガが慎重に、一つの扉に手を触れる。
ノッカーを掴めば、扉はあっさりと口を開けた。
続いているのは、さっきまでと同じ石造りの素っ気ない通路。一度扉を閉めて、他の扉に視線を送った。
「……全ての扉を調べて回るのは、リスクが高いか?」
「どれくらい時間がかかるかによるな」
やはり正式な所有者でないと、力を出し切れないのだろうか。そう考えかけた二人の上に、ふっと影が落ちた。
「――あれ、もう助言が必要かな?」
『っ!!?』
からかうようなその声に、二人はばっと振り返った。
その目が捉えたのは途中から折れた柱の天辺、しなやかな足をふらふら揺らしながら座り込み、面白そうな笑顔でこちらを見下ろしている長髪の女。
「――アリアナ……!」
反射的に顔を歪めたウェーザが、歯軋りするような声を上げた。
「いつからそこにいた! 俺たちの後を尾けていたのか!?」
「さあ、どうかな。私はいつだって、私の居たい所に居るだけよ」
にぃ、と口の端を釣り上げざま、トンと軽やかに床を蹴ったアリアナを見て、ウェーザがぎょっと息を呑んだ。
アリアナが立っていた場所は、彼女を良く思っていないストラガたちでさえひやりとするほどの高さがある。
そんな場所から平然と身を踊らせた彼女は、空中でふわりと衣服に空気を含ませ、驚くほど静かに着地してみせた。
何事もなかったかのように扉へと歩み寄る彼女を、ストラガたちは止められない。
二人の傍を通り抜け、一番近い――先程ストラガが開けた扉に手を当てた彼女は、彼らを振り返ってにんまりと笑った。
「どの扉を選ぶかなんて、重要な問題じゃないのよ。問題は、どういう風に扉を開くか。開き方さえ知っていれば、どれを選ぼうと正しい場所へ導かれる」
喋りながら、彼女はノッカーを鳴らす。
まず二回、間を空けて五回、更に間を空けて三回。それからノッカーを掴み、まるでドアノブにするように回転させた。右に一回、左に四回、右に三回。
カチ、と音がして、ノッカーの中央部から何かが出てきた。
扁平な体型をした、奇妙な生き物の人形。それが遺跡内で幾度か見かけた魔獣の姿であることにストラガが思い至るより早く、人形の頭に指を当てたアリアナが魔術言語を紡いでいた。
「【扉を開け、我が声を聞け】【目覚めの時は来たれり】【我は再生を望む者】【水鏡の名のもとに】」
キィン。
人形が一瞬光を帯びた。
アリアナはノッカーを掴み、無造作に扉を開ける。
その向こうには先程と一変して、壁や天井にびっしりと蔦の這う、両側を細い水路に挟まれた道が存在していた。
漂ってくる水の匂い。道へと踏み入るアリアナを、ストラガとウェーザは唖然と見ていた。
「来ないの?」
肩越しに振り向いて、アリアナが問う。
ぐっと喉を鳴らして躊躇ってから、ストラガたちは渋々彼女の後に続いた。どうしてこんなことを知っている、などと問うても、彼女が答えないことは分かっていた。
道を進むと、程なく再び開けた場所に出た。
直径十五メートルミルはありそうな、円形の空間だ。吹き抜けになっているのか天井がやたらと高く、最上部は真っ暗でよく見えない。
何の飾り気もない広間の真ん中には、ぽつんと四角い台座がある。
数行の文章が刻まれたそれを、アリアナが顎で指した。
「そっちで操作すると良いわ。私は手を出さないから」
言われて胡散臭そうにしながらも、ストラガたちが歩み寄る。
そっと文章をなぞると、なぞった部分が小さく輝いた。
「……【目覚めよ、水鏡の門】【その大いなる意志を持ちて、我らを導き給え】」
ストラガが文章を読み上げる。
「……少し古いタイプの魔術言語だな。表音と表意が入り交じって分かりにくい」
「へえ、そうなの? 私にも見せてよ」
ぶつぶつと独り言ちていたウェーザの身体に、絡み付くように細い腕が回る。ぎょっとしたウェーザに構わず身を乗り出したアリアナが、全く悪びれない顔で「本当だ、難しいね」と嘯いた。
しれっとした様子のアリアナを、放置してやるほど好意的な関係ではない。
けれど背後から抱き付かれる形になったウェーザが怒声を張り上げるより、新たな人物の叫び声が響く方が早かった。
「――テメェら、そこで何してやがるっ!!?」
ありったけの憤怒と憎悪を込めた、轟くような叫びだった。
咄嗟にアリアナを突き飛ばしたウェーザが、動揺のままに目を見開いて声の出所を探し始める。即座に方向を割り出して、ストラガは吹き抜けになっている上部を仰ぎ見た。
「サイジェス……!」
唸った声はどちらのものか。苦々しげに響いたその名は、ただ男の怒りに油を注ぐ。
「さ、サイジェス! 身を乗り出すな、危険だろ! そこにストラガたちがいるのか!?」
「テメェら、やっぱりその女とグルだったのか! 何なんだよこの場所は、オレたちの誰もここまで来たことはなかったはずだよなぁ!?」
「どうやってお前がここまで……いや、今となっては構っている暇はないか」
「裏切り者共が……! まさか、あの小娘のこともテメェらが仕組んでたのか!? あいつを逃がしてやるために、わざとオレを妨害したんだな!」
高さにして丁度三階分程度の位置だろうか、壁にぽっかりと長方形の穴が空き、サイジェスともう一人の野盗仲間がそこから身を乗り出している。
頭頂から爪先まで露わになるサイズの穴で、尚且つ手すりもないせいで非常に危なっかしい光景だが、気にしているのは必死にサイジェスを押し留める野盗一人だけのようだった。
ぎりぎりと壁を鷲掴むサイジェスは、ストラガたちを睨み殺せるものならやっていただろう。
彼の頭にはもう、ストラガとウェーザとオーリとラトニと、要するに自分の邪魔をする全てのものに対する憎悪しかない。水面下で繋がっていた「捕虜」と「リーダー格」の関係を確信して、最早彼は暴走寸前にまでブチ切れていた。
おやおや、とアリアナがくつくつ笑う。
一言の弁明もすることなく楽しそうに自分たちを眺めるばかりのアリアナの姿に、ストラガはチッと舌打ちした。
ここまで見られてしまった以上、もうサイジェスを丸め込める気はしなかった。
どうせ撤退の時は近いのだし、サイジェスとてあの高さなら容易く降りては来られるまい。ならばアリアナに気紛れで横槍を入れられないうちに、サイジェスを無視して先に進んでしまった方が良い。
「いやだなぁウェーザ、どうして私にまでそんなに敵意を向けてくるの。他はともかく、あなたたちの目的に関してはきちんと手助けしてるでしょう?」
「黙れ! 貴様はよくも戯れ言ばかり……!」
冷静に思考するストラガの視界の端で、わざとらしく一歩踏み出したアリアナから遠ざかるようにウェーザが後退る。ウェーザの背中が台座に当たり、彼は犬歯と殺意を剥き出しにしてアリアナを睨み付けた。
ビリビリと毛を逆立てるようにしてアリアナとサイジェス双方を威嚇するウェーザを、ストラガは片手で制する。これ以上挑発に乗るなという意味を込めて、記された魔術言語の残りを早口に読み上げた。
「――【迎えよ、覚醒の時】【その姿現し、力を示せ】【我らは其の水に連なるもの、其の身に力を注ぐもの】【其の身に組み込まれし眷属の一端】!」
読み終えた瞬間、台座が強烈な光を放った。
刹那、彼らの全身を襲った衝撃と、足元が揺れる感覚。轟音が耳を貫いて、背筋が冷える感覚と、激しい浮遊感を覚えた。
「な、に――……っ!!?」
愕然と喉から絞り出した悲鳴に、恐怖に溺れた誰かの絶叫が重なる。
完全に崩壊した床と共に、彼らは遥か下へと落ちていった。
※※※
遠くで地響きのような音がして、パラパラと細かな砂利が天井から落ちた。
ズ、ズ、ズ、と小さく、けれど確かに揺らいだ遺跡に、オーリは思わずびくついて足を止める。
「い、今揺れましたよね。何何、地震? もしかしてここ倒壊したりしません? 生き埋めとかとんでもなく嫌なんですけど……!」
中古物件どころではない築年数の遺跡に、耐震工事なんて施されているとは思えない。
ガタガタとセルフバイブレーションを起こす少女に、半歩前を歩いていたノヴァは平常通りの顔で笑ってこう告げた。
「さあて、気にするほどのことじゃないさ。――上の方でも色々と、小賢しく動き回ってる輩がいるらしいってだけの話だ」
ストラガたちが到達した「P字型の広い部屋」は、数時間前にオーリがベリーを収穫していたのと同じ広間だったりします。オーリをビビらせたぺたぺたいう足音がやって来たのと同じ方向から、今度はストラガたちが歩いて来てる。




