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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
82/176

80:ホルマリン漬けの心臓を捧げて

 こぽり、こぽり。


 呼気を含んだ小さなあぶくを生み出しながら、琥珀の瞳を静かに閉ざし、感覚の先を外界に向ける。


 重く透き通った水の内に身を置きながら、小鳥型の術人形に乗せたその意識だけは、巨大な石造りの遺跡の中を泳がせて。

 ひんやりと全身を包み込む感触の中、ゆらゆらと流れに身を任せながら、ラトニは今、淡々と待ちに徹していた。


(――また弾かれた)


 パチンッ、と感じた抵抗感。幾度目かになるその感覚に、ラトニの目が眇められる。


 ラトニの分身である水色の小鳥は、言うなれば指向性を持たせた魔力の塊だ。

 その気になれば物質透過くらい出来るはずのそれは、しかしすり抜けることの出来ない壁に何度も弾かれ、容易く深部へと潜れない。


(やはり、遺跡全体が魔力を帯びているせいでしょうか。早くオーリさんと合流したいというのに……)


 正しいルートを見つけなければ、強行突破は出来ないということか。

 未だ行方知れずの相棒の身を案じ、揺蕩うラトニはまた一つ、こぽりと軽い息を吐き出す。


 凍りつくほどに怜悧な面差しが憂いを浮かべ、薄い唇から透明な泡を吐き出すその姿は、もう少し年が行っていれば水の魔性(セイレーン)とも見紛っただろう。

 その脳裏にはたった一人の少女の顔を描きながら、少年は『もう一つの視界』の中、高速で進みゆく無機質な遺跡の通路を見つめていた。


 かつてオーリに「クチバシ」と名付けられた水色の小鳥は、魔力の節約も兼ねて一匹しか使用していない。

 あまり数を出すとリアルタイムで映像を追うのが困難になるため増やすつもりもなかったが、通行不可の壁にぶつかるたび後戻りしなければならない辺りは少々面倒にも感じられた。

 タイムラグが重なって困るのは、ラトニではなくオーリの方だ。


(遺跡の外の様子は確認できませんが、そろそろ日も傾いでくる頃のはずだ。悠長にしていると日が暮れてしまう……彼女の門限さえ無ければ、もう少し慎重にもなれるのに)


 黒石も大事だが、それより正直、早いところオーリを回収し、屋敷に帰したいのがラトニの本音だった。

 管理の杜撰な孤児院暮らしのラトニと違って、オーリは一度でも不在がバレると非常に厄介なことになる。

 加えて今夜は、珍しく両親が帰宅する予定だそうだ。

 万が一にもオーリの無断外出が明るみに出れば、聞き分けのない侯爵家嫡子は監視付きで軟禁されかねない。そうなれば、一般庶民のラトニが次に彼女と会えるのは、それこそいつになるか分からなかった。


(問題行動が一度でもバレれば監視の目も厳しくなるでしょうしね。何より彼女は『異端』と見られることを酷く厭うから……あ、そこ右)


 水色の小鳥に四つ角を曲がらせ、はふ、と息を吐いたラトニは、仰向けに揺蕩っていた身体をぐるりと回転させて立て直す。

 進行方向に背を向け、水中で器用に座り込む体勢になったラトニの傍らを、すいと音もなく白っぽい影がすれ違って去った。


 ――緑白の体毛を持つ、平たい体躯の獣。

 何匹目かも分からないそれを何となく目で追い、ラトニはすぐに目を逸らした。


 何度か水中で遭遇したあの獣は、これまで一度もラトニに興味を持つ素振りを見せたことがない。

 遺跡に住み着いた野生動物だろうかと考えて、詮無いことだと投げ出した。

 君子危うきに近寄らず。どんな特殊能力(スペック)を持った種族かも分からないのに、わざわざラトニの方から寄っていく理由はない。


 同時に、小鳥の双眸が何かを映した。それが扉であることを知って、ラトニは無言で小鳥に指示を出す。


 少しだけ開いた扉の隙間から飛び込めば、そこは複数の扉が規則的に居並ぶ空間だった。

 長方形の武骨な石の板は、おおよそ十かそこらはあるだろうか。どれも同じデザインの頑丈な扉には格子窓が付いていて、中が小さな部屋になっていることが分かる。


 その中身である二メートルミル四方程度の小部屋も、やはり全て同じ造りの殺風景なものだ。

 椅子の一つも置いておらず、ただ灯り代わりの魔術文字で白々と照らされるだけの様子は、そこがどういった用途で使われているかを容易く推測させていた。


 人の気配、話し声、いずれも無し。

 パタパタと翼を動かしながら扉の前を通り過ぎていた小鳥が、しかしうち一つの前で停止した。


(――――……)


 格子の隙間を潜って、閉ざされた扉の向こうへ滑り込む。

 床に着地した小鳥が、そこに落ちていたものを見つめて無機質な瞳を光らせた。


 ――そこには乱暴に切られた縄と、茶色い毛玉のようなものが落ちていた。

 その傍らにぽつりぽつりと散る、赤黒い血痕。


 一瞬毛玉の正体を掴みかね、ラトニはすぐに記憶の中の光景と合致させる。


 父が贈ってくれたものなのだと言っていた。わざわざ彼女の好きなぬいぐるみと合わせて作ってくれた、特注の品なのだと。


 今朝方オーリの首に巻きついていた、彼女が珍しく素直に喜んでいたチョーカーの飾りだと気付いて、少年の眼差しが不穏に揺れた。

 彼女がここにいた。それも、気に入っていた贈り物が壊れても、それを拾う余裕すらない扱いで。


(縄は……刃物で切られているのか。彼女を拉致した野盗共が、わざわざ彼女の身を自由にしてやる理由はない。ならやはり、彼女が自力脱出したと見るべきか)


 願わくば、この血が彼女のものでなければ良い。

 煮え立つ腹の奥、ずぐ、と蠢きかけた重苦しい魔力を、ラトニは眉一つ動かさずに抑え込む。

 こんな所で苛立ちのままに魔力を発散させる気はなかった。貴重な魔力を使うのはもっと後で良い。――オーリに害を為す下衆共に、この憎悪を叩き込む時で良い。


 そうして、ラトニは更に室内を調べていく。

 ほどなく壁際の二箇所で、棒切れのようなものが落ちているのが見つかった。

 大人の指ほどもないだろう細い刃物と、木切れのような物体。以前オーリに見せられたそれは、組み合わせれば簡素な仕込みナイフとなるのだろう。


 ナイフには血が付いていた。野盗が彼女を傷付けるのなら自前の刃物を持ってくるだろうし、わざわざこんな、大人の手には小さすぎるナイフを奪って使うこともないだろう。

 ならばこのナイフはオーリが使い、野盗を刺したものと推測できる。ロープを切る際うっかり自分の手まで切っただけなら、柄と刃がバラけて飛ぶほどのことにはならないだろうから。


「……オーリさんの顔が見たい」


 出来ればナイフも回収したいが、小鳥の大きさでは運べない。代わりに持ち主を失って空しく転がる毛玉だけを拾わせながら、ラトニはぽそりとそう呟いた。


 彼女の身が当面無事であると分かっていて尚、ラトニの感情は未だ収まる様子を見せなかった。


 彼女は元気だろうか。怪我はしていないだろうか。捕まらずに逃げ切れているだろうか。怯えていないだろうか。腹を空かせていないだろうか。

 ――ラトニのことを、信じて待ってくれているだろうか。


 竦んで動けなくなるほど臆病ではないと知っているが、あれで存外繊細なところがあるとも知っているから、一刻も早く傍に行ってやりたいと思う。

 腹の奥がドロドロして、気持ちが悪くてならない。オーリの顔が見たい。馬鹿みたいに能天気な、穏やかな地獄の如きかつての日々にさえラトニのためにあってくれた、幼い真っ白な笑顔が見たい。


(僕の、小さな太陽)


 ――だからこそ。


 それを妨げる存在に、慈悲などくれてやる気は微塵もない。


 僕とオーリさんを傷付ける存在は、悉く死ね。


 先程からずっと聞こえ続けていた二人分の足音が、扉の外で止んだ。

 小鳥の羽では開けられなかった重い扉が、外側から無造作に開かれた。




※※※




 ――ひゅんっ。


 風切り音はささやかだった。


 逆立った短髪の男と、その仲間であろうもう一人が部屋に踏み込んできた瞬間、天井隅の死角に潜んでいた小鳥は、毛玉を掴んで滑空した。

 そのままするりと小部屋を抜け出した小鳥を、短髪の男――サイジェスが振り返る。

 弾かれたように左へと首を捻ったサイジェスに、もう一人の野盗が首を傾げた。


「おい、サイジェス? この部屋じゃ――」

「何かいた!」


 怪訝そうな仲間の言葉をぶった切って、サイジェスが吠える。身を翻して小鳥を追い始めた彼に、野盗が慌てて続いた。


「おい、待てよ! お前単独行動禁止されてるだろ! 深追いすんじゃねェ!」

「あのガキ本人を追ってるわけじゃねぇから良いだろうが! 良いからあれ捕まえろ、ガキの手掛かり持ってるかも知れねぇぞ!」


 叫び返して走り続けるサイジェスの左目に映っていたのは、手のひらほどもない小さな、恐らくは鳥と思われる生き物。そして、それの脚が掴んでいた茶色い玉のようなもの。


「あいつ、あのクソガキの持ち物を持ってやがった……!」


 チョーカーについた飾りの一つ程度、他の野盗仲間なら気付かなかったに違いない。

 けれど少女に対して底知れぬ憎悪を抱え、間近で首まで絞めたサイジェスは、認識したその毛玉を即座に少女と結び付けた。

 小部屋に落ちていたものを拾ったか。元より仲間にせっついて、少女の身元に繋がるものでも落ちていないかとわざわざ小部屋まで戻って来たのだ。小鳥の姿に覚えはないが、万一「天通鳥(あまつどり)」の二つ名を持つ少女のペットだとでも言うのなら、サイジェスに見逃す理由はなかった。


「サイジェス、落ち着けってば! 勝手なことすんじゃねェよ、またストラガ切れさせてェのか!?」

「うるせぇ、こっちはナイフまで食らってんだ! あのクソガキ、死んでも逃がさねぇ!」


 憤怒と苛立ちをこれでもかと込めて叫んだサイジェスの前方で、高速で逃げていた小鳥がぴくりと反応したような気がした。

 直後、小鳥が反転する。咄嗟に反応し切れなかったサイジェス目掛けて、小鳥の小さな嘴がガッと開かれた。


 ――ごぉんっ!!


 巨大なハンマーでも振り抜いたかのような音がした。半瞬遅れてサイジェスは、顔を掠めた衝撃に気付く。


「がっ!」


 背後から仲間の苦鳴がして振り返ると、仲間が勢い良く吹き飛ばされているところだった。

 自分と仲間の間には誰もいないというのに、まるで腹に強烈な一撃を食らったかのような体勢で壁に叩き付けられた仲間は、訳が分からないといった様子で呻きながら膝をついている。


 少し遅れて、濡れた感触がサイジェスの頬を伝った。

 皮膚が切れて血が出たらしい。ただしその色は、透明に近い薄い赤だ。


「――水か!?」


 サイジェスが超速の攻撃の正体を悟るのと、今や完全に向き直った小鳥が硝子玉のような双眸をきゅいいと釣り上げるのは同時だった。


「――成程。あの小部屋でオーリさんを傷付けたのはあなたでしたか」


 そしてこちらは、彼らがいる場所から遠く離れた水路の中。

 小鳥の耳を通して全てを聞いていたラトニの手が、渦を巻くようにぐるりと動く。

 少年の周囲に放出され始めた魔力が、號と吼えるように唸りを上げた。


 身構えながら小鳥を睨み付ける男の姿が、小鳥の目を通してラトニの視界にも映されている。

 逆立った短髪と顎の傷。サイジェスと呼ばれた男の容姿を脳裏で検索すれば、即座に記憶と一致した。

 確かこの男は、遺跡に辿り着く前にも遭遇していたはずだ。オーリに対して、殊更敵意を剥き出しにしていた人間。


「彼女に対して見当違いの逆恨みを抱き、彼女に殺意を向け、彼女を痛めつけた、」


 濁った色に満ちた世界の中、鮮やかに浮き上がるような彼女の笑顔。その幼い顔に、小部屋の床に落ちていた赤が重なる。黒みがかった暗い赤色。ラトニのささやかな幸せを踏み潰す、嘆きと暴力と終焉の象徴。

 ラトニの全身に魔力が満ちる。少年の敵意に応じるように、周囲に存在する膨大な水が竜巻のように渦巻き、見る見る勢いを増していく。


「僕から彼女を奪う、忌々しい害獣」


 こと水に関する限り、ラトニは突き抜けて高位の支配者だ。これだけの量の水があるならば、多少距離が離れていようが、充分に術人形を通して魔術を届けることが出来る。


 街道での言動から察するに、大方あれはオーリの「善行」に不利益を食らった口だろう。

 自制心など顔も覗かせはしなかった。この非常時に、オーリ個人に対して恨みと悪意を持つ人間など、百害あって一利無し。

 ならばラトニの選択肢は――――


「――――今、死ね」


 幼い声が低く落とされ、瞋恚と共に吐き捨てたと同時、再びの轟音と、衝撃波すら発生させかねない水弾がサイジェスへと襲いかかった。

 反射的に身を伏せたサイジェス目掛け、続けて翼の一閃と共に繰り出される、一回り小さな複数の水弾。

 翼を広げて威嚇する小鳥の周囲に、ぼぼぼぼぼぼ、と音を立てて、拳ほどのサイズの水の塊が次々に生み出された。


 術人形を通した魔術では繊細な操作は出来ないが、有り余る魔力に物を言わせたごり押しならば充分可能だ。

 術人形がオーバーヒートしない程度に魔力の流出を抑えながら、ラトニは小鳥の翼と連動させるように、細い右腕を振り上げる。


「――【射出(シュート)】」


 ドドドドドドドドドドドドドドドッ!!


「っうおおおおおおおおおおお!!?」


 サイジェスの絶叫と、もう一人の野盗の悲鳴が木霊する。

 仲間の襟首を引っ掴み、危うく横道に飛び込んで猛追を逃れたサイジェスは、動揺に口角をひくつかせながら腰のナイフを引き抜いた。


「何なんだよあれは、遺跡に住んでる魔獣か!? お前一体何したんだ!」

「知るか、オレだってあんな鳥、今まで見たことねぇよ!」

「だったら何であんなに好戦的なんだよ! 馬鹿野郎サイジェス、だから深追いするなって言っただろうが!」

「うるせぇっ! テメェこそ喚いてる間に対抗手段でも……っ、」


 水弾が止んだ隙に壁から覗かせたサイジェスが、ぢりっ、と左目に鈍い痛みを感じて、息を詰めるように言葉を切った。

 少女を取り逃がした時、塵でも入ったように痛んだ左目は、今もむずつくような違和感を保ち続けている。その目で小鳥を映したと同時に、脈絡なくサイジェスの脳裏に連想されたのは、小柄な子供の姿だった。


 大きな帽子で顔を隠した、異常に印象の薄い少年だ。

 忌々しい小娘の影に隠れるように、年に似合わぬ冷静な態度で、じっとこちらを見て立っている。


「あの、もう一人のガキか……!?」


 目の前の小鳥とは繋がらないはずのその姿に、サイジェスは思わず驚愕の声を上げていた。


 根拠など何処にも無いはずだった。なのに魔術師だとも使い魔を持っているとも知らなかったはずのその少年は、一度思い浮かべてしまえば、何故だか異様なほどにはっきりとサイジェスの意識に刻み込まれてくる。

 そうだ、確かに見かけたことがある。小娘が遺跡まで追ってきた時、その傍に控えていた少年だ。


 それだけではない。サイジェスの中で次々に記憶の扉が開かれていく。

 この一団に至るずっと前、自分が属していた組織。売り飛ばすために誘拐した、十ではきかない人数の子供たち。牢屋に響く泣き声と、諦め切った幼い顔――その中にたった一つだけ混じった、奇妙に冷静な、痩せた無表情の子供。




 ――――『例の少女、どうやら誘拐された友人を追いかけて、警備隊員が止めるのも聞かずに単独で突入したらしい。ちらりと垣間見ただけだが、随分と綺麗な顔をした少年だったそうだ』――――




 ――びりっ、と全身に雷撃が走ったような気がした。


 小鳥の攻勢に怯みかけていたサイジェスの双眸が、一瞬にして再び憎悪の色に染め上げられる。

 所属していた最初の組織を失い、野盗崩れにまで身を持ち崩すに至った元凶の一人。何よりも、憎たらしい小娘の大切な『友人』。


「なんだ。あのクソガキの金魚の糞かよ」


 ぼそりと呟いたその声は打って変わって低められ、けれど底冷えするような激情を孕んでいた。

 がぢん、と左手で腰の留め金を外した彼に、仲間が「サイジェス?」と怪訝な目を向けてきた。


 激しく壁を削った一撃を最後に攻撃の途切れた壁の向こうを、サイジェスはもう一度覗き見る。

 宙に浮いてぱたぱたと羽ばたく、水色の小さな鳥。硝子玉のような瞳に感情の色はなく、けれどその奥に轟々と燃える敵意の炎を、彼は確かに見たような気がした。


 小鳥が真っ直ぐにこちらを見やる。その目と視線がかち合った刹那、通路の向こうにいた小鳥が一気に間合いを詰めてきた。


「――――っ!!」


 消失したかと思えるほどの速度に、反応できたのは半ば本能故だった。

 意図せず小鳥の方へと踏み出した足が、びしゃ、と水を蹴立てる音がする。屈めた身体がばら撒かれた水弾を掠め、紙一重の回避で更に一歩を踏み込んだ。

 ギンと目を見開いたサイジェスの左手が、ベルトに装備していた武器を抜き放った。二十センチミルほどの長さを持つ、黒っぽい筒のような形のものだ。それを一閃すると同時、先端から打ち出された何かが小鳥の傍で爆発した。


「……魔術具か!」


 小鳥を操るラトニが唸り、咄嗟に小鳥が動きを止める。


 衝撃はほとんど感じなかった。

 それも道理だろう、あの至近距離で大爆発など起こせば、サイジェスとて甚大な被害を受ける。

 それより少年を動揺させたのは、直後に発生した煙幕だった。小鳥を中心に生まれた大量の煙が、周囲の景色を灰色に染め上げる。


 ――風が巻く。


 一呼吸、果たしてする間があったかどうか。煙を纏って横合いから飛び出してきた人影が、逆手に持ったナイフを振り下ろす。視覚に頼っていたせいで反応の遅れた小鳥が、羽毛の端を僅かに散らした。


 それでも、意思無き小鳥は悲鳴など上げない。ほとんどダメージを与えられなかったと見るや否や眼光に殺意の尾を引いて次撃を繰り出してきたサイジェスを瞬時に捉え、ラトニの双眸が輝いた。

 小鳥の脳天にナイフを振り下ろそうとしていたサイジェスの動きが急停止。度重なる攻撃で水浸しになっていた通路に、その足が貼り付けられたように固定されていた。いつの間にか蔦のように蠢いていた水が、男の足首を絡め取っていたのだ。


 ――この上水に干渉するか!


 射殺さんばかりの目で小鳥を睨み付けたサイジェスの脳裏に、一瞬遅れて閃いた予感。目を見開く間もなくナイフを投げ捨てた右手が、脊髄反射で背後へと伸びた。


 ぽつん、と落ちた雫は一つ。


 刹那、床や壁と同じくびしょ濡れになっていた天井から、俄雨を思い起こさせるザアという音が降り注いだ。

 足を取られて動けないサイジェス目掛けて、氷柱のような細い水の刃が一斉に襲いかかった。



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