8:波乱
がぶり、と首筋に走った激痛に、村で一番大きな木の下で資料の束を捲っていたオーリは思わず盛大な悲鳴を上げた。
「――ぎゃあああああ! 痛い! 真面目に痛い! ちょ、何ですかラトニさん、どうしていきなり私を食肉にしようと思い立ったの!?」
文面を追いながら噛んでいた親指の爪を思わず放り出し、オーリは唐突に自分の膝に乗り上げて首筋に食い付くという凶行に走ったラトニを宥めようと必死で声を張り上げる。
降って湧いた大騒ぎに何だ何だと一瞬警戒した村人たちだったが、視線の先で、フードで顔を隠したヘンな子供たち、別名天通鳥とその連れがじゃれ合っているだけだと分かると、呆れたようにさっさと目を逸らして各々仕事へと戻っていく。世の中の冷風を感じながら、オーリはべしべしとラトニの頭を叩いて痛みと理不尽を訴えた。
本気で噛み千切るつもりではないかと思うほどの勢いでオーリの肉に歯を立てていたラトニは、十秒ほど肉をぎりぎり言わせてから、ゆっくりと口を離す。
「……いえ、何だか、前回会った日のことを思い出してむしゃくしゃしたので、つい」
「つい!? そんなキレやすい未成年の突発的犯行みたいな理由で肉千切られかけたの私!?」
「オーリさんが悪いんです。僕を置いていったりするから」
「え、前回ってパン屋のおばあちゃんとこ行った日のことだよね? いやいや、置いて行くも何も、あの孤児院一応キミの家じゃなかったっけ」
「そういう問題じゃありません……」
「ぎゃあああああ、的確に噛み痕目掛けて食い付き直して来やがった!! さっきに輪をかけて痛い!!」
どっすんばったんと陸揚げされた魚の如く暴れるオーリの抵抗を、ラトニはざっくり無視して行動を続ける。もがく彼女を抱え込んで更にがじがじと気が済むまで歯を立ててから、ようやく再び口を離した頃には、オーリはぐだりと涙目で力尽きていた。ラトニの唇から細く延びた唾液の糸に赤いものが混じっていたのは、オーリの精神安定上言わない方がいいだろう。
「うおお、これ絶対歯型付いた……。何てことするのさラトニ! アーシャにバレたらどうしてくれるの!」
「お得意のぶりっこで『一人で着替えたがる背伸びしたお嬢様』でも演じれば良いでしょう。服で隠れない位置は噛んでいませんから」
「ぶりっこ言うな! 好きでやってるわけじゃないんだよ! くっそ計算高い六歳児め……どこでこんな破廉恥なこと覚えてきたの!」
「子供ぶりっこで使用人を手玉に取る腹黒あざとい七歳児に言われたくありません。あと、これは破廉恥じゃなくて八つ当たりです」
「痛い痛い痛い! 禿げになるぅ!」
オーリの髪をぐいぐい引っ張りながらつんとそっぽを向くラトニが情緒不安定過ぎて泣けてくる。何なの思春期なの? 触れるもの皆傷付けるガラスの年齢なの?
堪りかねてべしっと手を払うと、ラトニは不満そうな様子でオーリを見てきた。文句を言いたいのはこっちの方だ。
一方的に痛め付けられた頭皮を摩りながら、オーリは深々と溜息をついた。
「ヒマならその辺散歩してきなよ。私はしばらくここから動かないし」
「興味ありません」
素っ気なく言い切って、ラトニは再び隣に腰を下ろす。幹に凭れて腕組みし、腰を据える体勢に戻った。
「あなたがここに座っているなら、僕もここにいます。離れてうろつくくらいなら、最初から街に残っていますよ」
「一回くらい他の子に混じって遊べばいいのに。孤児院でもほとんど一人でいるんでしょ? ほら、面白い遊びでもやってるかも知れないじゃない」
「あなたに言われたくありませんよ。大体、駆けっこやままごとなんかに混じったところで――」
言いかけて口を噤んだラトニが、別の方向に視線を送る。心なしか下がったように感じる体感温度。フードの下で半眼になっていることが容易に想像できる冷たい声で、ラトニはそちらを指して見せた。
「……一応、冤罪だったら申し訳ないので、確認しておきます。――アレも、あなたの仕業ですか?」
言われて、オーリはゆっくりと、ぎこちない仕草で顔を向ける。一群れの子供たちが、輪になって激しく叫び合っていた。
「――せんだ!」
「みつお!」
「ナハナハ!」
「――せんだ!」
「みつお!」
「ナハナハ!」
錆付いたロボットのような動作でぎぎぎと顔をラトニに戻し、ややあってオーリは重々しく頷いた。
「……せんだみつおゲームは流石にカオス過ぎたかなと思ってる」
「得体の知れない儀式を仕込むんじゃありません!」
「めしあっ!」
ラトニの手刀が的確に側頭骨を抉り、オーリは奇声を上げて地に伏した。何だか最近、ツッコミという名の攻撃がどんどん容赦をなくしているような気がする。
「少なくともあんなものに混じるのは、僕はごめんですよ。それともオーリさんは、僕があそこでナハナハ叫んでいる姿を見たいんですか」
「ああ、うん……。なんか切ない気分になりそうだね……」
ナハナハと絶叫する子供たちの異様な迫力に怯えながら通り過ぎて行く村人たちを横目で見つつ、オーリは大人しく己の非を認めた。本人たちは楽しそうなんだけどなあ。
時々大人たちに不評なものもあるが、目新しいものの少ない農村の子供たちの間では、オーリの教える遊びは受けが良いようだった。
道具を使わない代わりにルールを変えて、彼らは好き好きにアレンジしたゲームで遊んでいる。ケイドロにいつの間にか「泥棒側のスパイ」役が増えていたように、せんだみつおゲームもじきに手を加えられるのだろうか、などと考えながら、オーリは次に来た時教えるゲームをぼんやり思考した。
基本的にオーリは子供たちには、「取っ付きやすくて面白い姉ちゃん」だと思われるように行動している。
それは子供を尊重する性質のせいでもあるが、同時に子供の囲い込みが親の籠絡に繋がるからでもあった。オーリが大人たちに倦厭されていた最初の頃、打算なく懐いてくれた子供たちの姿は、大人たちの目を変えることに随分と役立ってくれたものだ。
(今度ボールになるようなものを手に入れたら、持って来てサッカーでも仕込んでみようか。ボール一つあれば遊べるんだから、サッカーが世界中で流行ってた理由も分かるなあ)
いつしか思考に沈んでいた彼女は、手の中から資料が奪われたことに気付いて顔を上げた。見ればラトニが資料を見下ろし、淡々と目を通している。
「シェパの誘拐事件の捜査資料――まさか出向くつもりではありませんよね?」
「それこそまさかだよ。偶然出くわすならまだしも、警備隊の領分にわざわざ首を突っ込みに行くつもりはない」
肩を竦めて、オーリはあっさり否定した。
――シェパの街や村で、子供の誘拐事件が起きているらしいという情報が入ったのはつい最近のことだった。
勿論これまでもそういった事件はよく起きていたが、資料を見てみると以前より頻度が明らかに増えている。規模から見て、単独犯でないのは確かだ。組織的な誘拐グループが発生したか、はたまた他所から移動してきたか。
「それなら良いのですが。で、こんな詳細な資料を一体どこから? 流石にメイドが把握している分野ではないと思いますけど」
「警備隊から父上様――もとい、領主に提出されたものの一部。過去の犯罪記録は別の資料から写して、個人的な伝手から貰った情報もあるよ」
「そうですか。事が始まったのは――大雑把ですが、二月前からが怪しいですね。その頃街に入った人間の記録は?」
「五枚目に書いてある。被害数を見る限り、まだ犯人集団は周辺から移動してないと思うけど……」
「事件に乗じた模倣犯がいなければ、の話でしょう。……ところで領主殿は、提出させた資料にきちんと目を通しているんですか? あまり仕事をしていないと言っていませんでしたっけ」
「仕事してないから、私が勝手に持ち出してもバレないんだよ」
「成程」
頷いて、ラトニは資料を返してきた。紙の束がぱさりと揺れる。
「いずれにせよ、犯人がまだここらに留まっているなら、攫われた被害者もまだ近くにいる可能性が高いですね。警備隊が捕縛の準備をしているとも聞きましたし、じきに捕まるでしょう。――だから、そんな顔をしないでください」
恐らく無意識にだろう、ギリギリと親指の爪に歯を立てていたオーリの手を、ラトニはぱしりと掴み取った。
「……もしも犯人たちがまだ街に潜伏しているとしても、いつまでも留まるとは思えないよ。時期的にはそろそろ危なくなり始めてる。別の街に移動されたら追いにくくなるし、もしも子供たちを売り飛ばされてしまえばそれこそ手遅れだ」
「ええ、そうですね。だから近く警備隊が解決に動くのでしょう? あなたが思い詰めることではありません」
形良く整えられた薄桃色の爪は、右手の親指だけ歪になっている。つくづく子供に甘い少女だと溜息をつきながら、ラトニはその手を握る手に力を込めた。
本心を隠すことに慣れたオーリのストレスやプレッシャーが、爪を噛むという行為になって表に出てくることを彼は知っている。できれば指が傷付く前に改めて欲しいものだと思いながら、ぎざぎざになった爪先を指の腹で撫でた。
「首を突っ込むつもりはないし、その必要もないのでしょう? この件は相応の役目を持つ人が何とかしますよ。オーリさんは余計なことを考えずに、大人しく解決を待っていれば良いんです」
「……分かってるよ」
疲れたように息を吐き出して、オーリは素直に頷いた。
「ごめん、ちょっと頭に血が昇っただけ。警備隊に情報流すくらいならともかく、自分で乗り込んだりしないから安心してよ」
「そうしてください」
ラトニは頷いた。オーリは線引きを怠らない。警備隊が動いている限りは、そちらに解決を委ねるだろう。今にも駆けて行ってしまうのではないかとでも思っているようにオーリの手を握り締めるラトニを、オーリは物言いたげに見上げた。
「……あのさ、ラトニも気を付けてね。いくら口達者でも、キミ喧嘩は強くないんだから」
「ええ、あなたも。あんまり暗い所には行かないでくださいね……例えば路地裏とか」
「私は大丈夫だよ、基本的に屋根の上を移動するから」
「ああ、人間が猿を捕まえるのは大変ですからね」
「せめて猫とか言ってくんない!?」
――そうして、そんな会話を交わして、普通に過ごしたその日の後。
状況が変わったのは、それから五日後のことだった。
いつものように街に出てきたオーリの前に顔を出したラトニは、心なしかピリピリした空気を纏っていた。オーリの姿を見た彼は、何やら少し躊躇う素振りを見せた末、諦めたようにこう告げる。
「――誘拐犯たちの捕縛、失敗したそうです」
何も言葉が見つからないまま、オーリは息を呑み込んだ。そんな彼女の顔を、感情の読めない少年の視線だけがじっと見詰めていた。




