77:二色の狼は飢えている
綺麗に空になった小鍋を片付けてしまえば、そこそこ小さい空間に立ち込めていた匂いはすぐに掻き消えた。
ぱらぱらと辺りに散在する石柱や高い天井は圧迫感こそ与えてこないが、ふとした拍子に薄い闇の向こうから何がやってくるか分からない感覚に襲われる。
――この人は、いつからここにいるのだろうか。
ぼんやりとそんな疑問を抱きながら、オーリは目の前で悠然と座っているノヴァをちらりと見上げた。
棚代わりの小さな木箱と、畳まれた毛布と、火を焚く場所。申し訳程度の生活感しかないこの場所だが、それでも彼の拠点として機能していることは間違いないらしい。
「そう言えば確認してませんでしたけど、ノヴァさんは野盗の仲間じゃないんですよね?」
「小鍋一つ完食しておいて、凄まじく今更な質問だな」
使用した食器を片付けながらきょとんと首を傾げてみせるオーリに、鍋を洗っていたノヴァが苦笑した。
野外での食器の洗い方は簡単だ。まず器を濡らした布で拭き、石鹸代わりのプソの実液で更に拭いた後、水で濯いで、最後に乾いた布で拭く。
機械的に一連の流れを繰り返していくオーリに、彼は「オレは一人旅の途中だ」と告げた。
「一人旅……じゃあ、この遺跡にいるのは趣味ですか? 古代期のものとか好きなんですか?」
「そうだな、色々と興味深いと思ってる。そう言うお前は考古学趣味には見えないが、何をして野盗共に目を付けられた?」
「あははー、いやぁ、ちょっと粘着質な奴に絡まれちゃってて。でも、来たのは今日が初めてだから、ここまで潜り込めたのは神懸かり的な偶然の賜物ですよ」
最後の食器を片付けながら、オーリはへらりと苦笑する。
粘着質な奴、つまり彼女をとことん恨んでいる、目付きの悪い(尤も優しい眼差しの野盗とか、いたらいたで気持ち悪いが)野盗その一。余程に運が良くなければ、自分は最初の長い通路で、さっさとあの男に捕まっていただろう。
ふ、と息を洩らして、ノヴァが口角を吊り上げた。
「自力でここまで辿り着いたと言うなら、自己申告通り相当に運が良いのか、はたまた見た目によらず知識があるのか……。野盗共にだって、この深層のことを教えられる者などいないだろうに」
「だから、たまたま運が良かっただけですってば。ノヴァさんと違って、私は鍵言葉を自力解読できるほどの知識はないんですから」
ぱたぱた手を振りながら言い募るオーリに、ノヴァの目が一瞬少女を見据える。それからすぐに目を逸らし、「オレはしがない研究者だよ」と答えた。
ふぅん、と相槌を打ち、オーリがぐるりと辺りを見回す。
「研究者……じゃあ、今はフィールドワークの最中ってことですか? アウグニス神国とか行ったことあります?」
「アウグニス……ああ、あの大図書館のことか」
「そうそう! やっぱり行ったことあるんだ!」
アウグニス神国。その言葉に、彼はすぐにその存在を連想したようだった。
アウグニス神国の大図書館。国と神殿が共同運営しているというその図書館は、そこら辺の豪邸など遥かに越える壮麗な外見だけでなく、ことに学者や研究者からの高い尊崇や憧憬を誇っている。
一般庶民にも書架が開かれている数少ない図書館だということもあるが、特に許可を得た者だけが入れる奥の間には、更に貴重な書物や、解読すらままならない古代期の資料が数多と保管されているそうだ。
流石に国宝級の貴重な資料すら揃っていることもあって、深層まで入る許可は滅多なことでは得られない。
オーリにはそこまでの学究意欲はないが、やはり最高峰の呼び声高い大図書館ならば興味も惹かれようというものだ。好奇心を露わに身を乗り出したオーリに、ノヴァは困ったように苦笑した。
「聞いた話じゃ、どこぞの王家出身の天才学徒すら、審査で刎ねられて泣いたとか……。確かに図書館には行ったが、残念ながらそこまで奥を訪れたことはないな。それでも、確かに一見以上の価値がある場所ではあった」
「良いなぁ、あそこの伝説って一杯聞くから、想像ばっかり膨らんじゃうんですよねー。赤芥子の間の『映らない鏡』って見ました? 本当に映らないんですか? 騙し絵とかじゃなくて?」
「鏡……ああ、確かにあったな。全身映る大きな鏡だったが、確かに人間の姿だけ映さなかった。あれも調べてみたかったなあ」
「ノヴァさん、知識欲ありそうですもんね。どうでも良いことはナチュラルスルーだけど、好きなことには全力投球しそう」
「妙に正確な例えだが似たような知り合いでもいるのか? ……まあ確かに、知識欲や好奇心が旺盛な自覚はある。叶うならもっと長居したかったな」
「これでも知り合いは多いんで。でも、やっぱりあそこって魅力的なんですね。私もいつか行ってみたいなぁ……あ、それ何ですか?」
喋りながら木箱を漁っていたノヴァが、手のひらほどの銀色の小袋を取り出す。
オーリがこの世界では見たことのないそれは、前世世界で普及していた栄養剤のパックに似ていた。
パキ、と音を立てて蓋を開け、ノヴァが口を近付けたのを確認したオーリが、興味深そうににじにじと擦り寄る。
軽く小袋を掲げてみせ、ノヴァがくつりと目を細めた。
「個人的な嗜好品だよ。……飲むか?」
どうやら、薬やアルコールの類ではないらしい。まだ口を付けていない小袋の吸い口からは、何やらほんのりと甘い香りが漂っていた。
おやつを期待する子犬のようにキラキラした目でノヴァを見上げていたオーリは、待っていましたとばかりに「是非!」と叫んで小袋を受け取った。
わくわくと嬉しそうな空気を発しながら小袋に吸い付くオーリを、ノヴァも膝に頬杖を突き、機嫌良さそうにニコニコしながら見守った。
「シェパに来て一番良かったのは、それに出会えたことだと思ってる。なかなか美味いし、長持ちするし、健康にも悪くない。入れ物を自作して、常にストックしてあるんだ」
「へー。ノヴァさんがそこまで褒めるなら、味には期待できそうですね! 頂きまーすぶぐふうぅぅぅぅぅっ!!?」
軽く一口吸い込んだ次の瞬間、オーリの目が一気に白くなった。
――ど……ド甘アァァァァァァァッ!!?
一瞬にして舌の上を蹂躙したのは、暴力的なまでに強烈な甘さだった。
僅か一口含んだそれが、唾液に溶けて口中の歯という歯に染み渡るような感覚を覚える。あまりの衝撃に腕一杯小袋を引き離し、オーリは盛大に顔を引きつらせた。
「こ、これはまさか……メープルシロップ……っ!?」
思わず吸い込んだものを吹き出しかけた口をしっかり押さえ、オーリはもごもごと驚愕の声を上げた。
――そう、美しい深い琥珀色をしたそれは、まさしくシェパ名物……オーリ自慢のメープルシロップだった。
創作者権限をフル活用して散々メープルシロップを試食してきたオーリでなければ、恐らく一口でその正体に気付くことなど出来なかっただろう。
爽やかな甘さが売りのメープルシロップはどろりと重く粘度を増し、蜂蜜をも越える甘さを手に入れていた。
歯茎が軋む。その圧倒的な暴威に屈服せんと。甘さに焼けた喉が咳を誘い、完全に油断していたオーリを戦慄と共に叱咤した。いやなんかもうこれ、食べ物に使うような表現じゃないけど!
(これは販売時点そのままの味じゃない。この糖尿病になれと言わんばかりの甘さ、確実に個人向けのカスタムを施したものだ。一体どんな手段を用いたのか、更に味濃く濃縮してある……!)
濃縮果汁なら聞いたことがあるが、メープルシロップの濃縮液とか聞いたことがない。いやあるのかも知れないけど、パンケーキにかけるでもなくそのまま啜り込むためのものでは絶対にないと言い切れる。
信じられない。まさか、まさかこんなものを、平然と常食にしている人間が存在するというのか――!
「ああ、そうだ。これは、オレの最近一番のお気に入り」
口中にねっとりと纏わりつく甘味の残滓を恐る恐る舌先でねぶるオーリに、ノヴァがしっかりと頷いた。真剣な表情を浮かべた顔は、常に不透明な色を乗せていた双眸すら、心なしかハイライトが入っているようだった。
「個人的完成度最高値の栄養ドリンク、メープルシロップ・改だ!」
「メープルシロップって飲み物じゃないからあああああああ!!」
シンプルな分えげつない魔改造を施された愛する名産品に、オーリは心の底から絶叫を上げた。
※※※
「――ところで、お前はどうやってここまで降りてきたんだ?」
どんなスイーツ好きの女子も後ずさるような激甘シロップだと判明して尚手放さないのは、チャレンジ精神かはたまた勿体ない根性か。
初めて抹茶を口にした幼児のように渋い顔をしながらも、メープルシロップ・改をちびちび飲み進めるオーリに、ノヴァが質問を投げかけてきた。
半分ほど空けた小袋から口を離し、オーリは首を傾げてみせる。
「んー、その辺は私にもよく分からないんですよね。それっぽい魔術文字は見つけたんですけど、どうしてそれが発動したのかは分からなくて」
「何か唱えなかったか? ――おい、飲み切れないならこちらに寄越せ」
「知ってる鍵言葉片っ端から唱えてみたけど、そっちは全部ハズレでした。――すみません、私から強請ったのに……」
「他には何か試したか? ――別に良いさ、甘いものが苦手な子供もいるだろうからな」
「イヤこれ甘いってレベルじゃないですから爆発物並みの破壊力ありますから」
半目で淡々とツッコむオーリの手から、ノヴァが中身の残った小袋を受け取る。そのまま口を付けて一息に吸い上げ、萎んだ小袋をぞんざいに置いて、新しい小袋を取り出した。
「こういった場所に設置されている魔術文字は、基本的に言葉での働きかけをしないと発動しないようになっているはずだ……どうした、馬に踏み潰された古パンのような顔をして」
「……いや……味覚の差異って凄いなと思って……」
何だか非常に失礼なことを言われながら、オーリはズゴゴゴゴとメープルシロップ・改を吸い込み続けるノヴァをじっとり見守った。
カレーは飲み物だと豪語する人ってこんな感じなのかなぁ、などと頭半分で考えつつ、つい数十分前の行動を思い返してみる。
「……そうですね、魔術用語ではないけど、なんか適当にあれこれ叫びましたよ。邪魔だーとか、そこどけーとか。そしたら魔術文字が光って入り口が開いたんで、やっぱりあの中のどれかに反応したんだと思います」
「ふむ。……その文字は、こんなものだったか?」
ノヴァが一つ唸って、オーリの手のひらに人差し指を当てる。描かれた曲線に、オーリはぱちりと目を瞬いた。
「あ、これです。確かにこんな字でした」
肯定したオーリに、ノヴァは成程と呟いた。
「――【導け】」
「え?」
「この魔術文字の読み方だ。導く、道を開く、目覚める、などの意味がある」
パキン、と軽い音を立てて、ノヴァが三つ目のメープルシロップ・改を開ける。くるり、と小袋を回転させて、大人しく耳を傾けているオーリを見やった。
「お前の発したという言葉の中で該当したのは、恐らく『どけ』という単語だろう。最初に会った時、声が掠れていたな。どこかで喉を痛め、結果たまたま発音が『ドゥケレ』に酷似した。
この遺跡にはあちこちにその魔術文字が設置されている。大方の場所にはその一言で入れるから、最初にキーワードを言い当てられたのは運が良かったな」
「そうだったんだ……」
締め上げられた喉を無意識にさすりながら、オーリは視線を泳がせた。こういうものも怪我の功名と言えるのか、あまり素直には喜べないなと苦笑する。
「ノヴァさんって、魔術文字とか古代言語、何処まで使えるんですか? この遺跡で、さっきのものの他に魔術文字見つけたりしました?」
「人並み以上には修得している自信がある。仕掛けの魔術文字も幾つか見つけたが……こっちは当面関係ないんじゃないか? お前は遺跡探検に来たわけじゃないだろう」
「趣味ですよ、趣味。魔術の話は好きなんです。
それでノヴァさん、ノヴァさんが見つけた魔術文字の中に、あなたにも発動できないものってありました? この遺跡、随分古いみたいだけど、仕掛けの類って全部生きてるんですか?」
「いや、オレが見た中では、発動させられないと思うものはなかったな。長年放置されていたにも関わらずこの保存状態、ますます興味深い」
「古代の技術力って凄いですよね。それを動かせるって言い切れるノヴァさんも大概凄いけど。でもまあ、一人で遺跡探索出来て、アウグニスの大図書館堪能できるなら、そりゃ知識は相当あるか」
「お前だって、嫌でもそのうち習うだろうさ。フヴィシュナは魔術教育には熱心な国だからな」
当たり前のように言われて、オーリの笑顔が微かに強張ったように見えた。
少女の言葉が途切れた隙に、ノヴァは素知らぬ顔でポケットを探り、紐で口を縛った袋を取り出す。中から爪ほどの大きさの何かを取り出し、そのまま口に放り込んだ彼の動作を、オーリは胡乱げな眼差しで見つめた。
「……ええと、今度は何ですか?」
「うん? ただの美味しい美味しいお菓子だぞ」
薄い唇を吊り上げて。
チェシャ猫を想わせる表情で、ノヴァが意味ありげにニヤリと笑ってみせる。
筋張った細い指が再び伸びて、袋の中身を摘まみ出した。
紫色のマーブル模様をした、親指の爪程度の小さな塊。
無造作に差し出されたそれに、オーリはほんの一瞬眉を寄せ、それから黙って口を開けた。
食い付いた唇に伝わったのは、冷たい塊と、ぬるい人の手の温度だった。
どこか作り物じみた男の指に人並みの体温があることに、心なしか違和感を覚えながら。
そっと含んだ塊をオーリは口の中で、かつん、と鳴らした。
沈黙すること十秒。そのまましばらく口を閉ざしていたオーリは、ややあって拍子抜けしたように呟いた。
「……飴ですね。くっそ甘いけど」
一体何が原料なのか、こちらもまたひたすら甘ったるい味の飴玉だった。
かろかろと、舌の上を飴が転がる音が鳴る。拍子抜けしたような様子のオーリに、ノヴァはけろりと首肯してみせた。
「ああ、ただの飴だ。尤も、見た目が怪しい魔術薬品のようだとはよく言われるが」
「あ、私もそれ思いました」
愛用の飴(の外見)が不評なことにノヴァは不本意そうだったが、オーリは深々と頷いた。
何せ、ノヴァ本人の如何にも含みがありそうな雰囲気と相俟って、あの色合いはなかなか妙な威圧感を感じるのだ。口に入れた塊の正体を悟るまでの数秒、実はオーリも割と緊張していた。
「ノヴァさんって、物凄く甘いもの好きなんですね……こんな所にいて、どうやってこんなもの仕入れてくるんですか?」
「親切な人は何処にでもいるものだ。誠意と信頼と友情さえあれば、大樽一杯の最高級蜂蜜だって手に入る」
「どうしてこの人太らないんだろう。ダイエッターが歯軋りしそう」
「オレは頭脳労働派だからな。凡人と違って、摂取した糖分は全て速やかに消費されるんだよ」
「あれ、さらっと見下された?」
「何のことかな?」
にっこり爽やかな笑顔を向けられて、オーリはそっとそっぽを向いた。黒幕じみた表情の男が一瞬で快活な好青年になるって、逆に寒気がするんだね。
「――とまあ、迂遠な話はこの辺にして」
と。
不意にトーンを変えて投げかけられた言葉に、オーリはふっと口元を引き締めた。
するり――と。
ノヴァの空気が塗り変わる。
応じるようにオーリの目が、無言で幼げな色を消した。
人懐っこい子犬のようにくるくる輝いていた青灰色の双眸に、捕食者を見つけて警戒する野生動物の光が灯る。
指先一本で明かりのスイッチを入れ換えるが如く、速やかに意識と感情を切り替えた少女の姿に、ノヴァの両目が満足そうに細くなった。
――沼のような目だ、とオーリは思った。
「知りたいことが知れたなら、そろそろ腹を割って話そうじゃないか。判断材料はそこそこ提供しただろう?」
「……まだ足りない、って言ったらどうします?」
「この期に及んでとぼけるなんて、馬鹿な抵抗のしかたをしない子供で良かったよ」
さらりと揺れた白と濃紺の頭髪が、淡い灯りを映して薄暗く光った。
赤い舌をちろりと覗かせて、ノヴァはうっそりと笑った。
確かにはっきりと笑っているのに、その紺瑠璃の瞳だけは、どうしても笑っているようには見えなかった。
「だが、拙い遊びに付き合ってやるのもそろそろ飽きた。さっきも言ったが、オレは知識欲も好奇心も旺盛でね。――自分から転がり込んできた興味深いネタを、もっと踏み込んで観察してみたいんだ」
――く、とノヴァの喉が鳴る。
ごろごろと喉を鳴らす、餌を前にした猫のように。
ぐるぐると威嚇する、獲物を前にした狼のように。
「このオレに遭遇してからというもの、一瞬たりとも警戒を解かず、単身敵地に取り残されて針鼠のように気を尖らせ続けている可哀想な仔猫は、助けてくれる大猫の手もなく、一人ぼっちで一体これからどうするのかな?」
――沼のような目だ、と、もう一度オーリは思った。
――沼のような目だ。
――息をするように人を引きずり込むことに慣れ、自らもまた沼の底にその身を沈めることを受け入れた、淀んだ深淵のような目だ。




