74:道標はいずこ
かつて積み重ねてきたであろう長い長い歴史の重々しさと、今を生きる人々の歩みから取り残された建築物特有のどこか物悲しい沈黙を両立して佇むその遺跡は、空から舞い降りてきた一人と一匹をただどっしりとした静寂を持って迎え入れた。
深緑色のジドゥリに跨がって現れた少年――ラトニ・キリエリルは、いつでも飛び立てるよう構えたままのジドゥリの首にそっと手を触れ、人けのない敷地内をぐるりと睥睨する。
長い首を巡らせていたジドゥリが一声短く鳴いて、見張りらしき人影がないことを告げた。
(警報の類いが鳴り出す様子はなさそうですね……僕のことは、あまり警戒されていないということでしょうか)
野盗に友人を捕らえられた幼い子供が一人、恐怖を抑えて友人を助けに来るなんて、普通は容易いことではない。
舐められているのか、それとも『警戒する必要すらない』ほど、何も出来ないことを確信しているのか。
「…………」
周囲への警戒を続けながら、ラトニはジドゥリの背中から滑り降りる。
中途で途切れた大きな石橋を背中にしながら遺跡の入り口へと歩み寄り、柱の一つに手を当てて、そっと囁く。
「――【道を開け】」
薄い唇が紡いだ言葉は、確かな力を持って魔術文字へと命じ――けれど形を取ることなく、石畳に落ちて空しく散った。
「……発動しませんね……」
何となく予想がついていたことではあるが、と。
眉を寄せて嘆息するラトニに、ジドゥリが気遣わしげに頭を寄せる。
ラトニは形の良い顎に指を当て、遺跡の方を睨みつけた。
(遺跡の現在地が分からず、シェパへの帰還手段がこの転移装置しか判明していない以上、ここを使えなくしてしまうのが、こちらの動きを封じるのに最も合理的だ。
僕らがシェパに帰れなければ増援を呼ぶことは出来ず、たとえ一定時間過ぎれば増援が来るように計らっていたとしても、シェパからの転移そのものをシャットアウトしてしまえばここに辿り着くことは出来ない)
仮に封じられているのがこの柱の魔術文字だけだとすれば、他に転移を担う魔術文字や術式があるのかも知れない。
しかし残念ながら、魔術理論の知識がほとんどないラトニには、その解読など無理な相談だ。
――さて、ならばどうするべきか。
悩んでいた時、不意に石橋の方で魔力が凝る。
振り返ると同時に音もなく空間が歪み、橋の上に三人連れの男たちが姿を現した。
がっちりした体格の連中だ。
泥に汚れた頑丈そうだが簡素な衣服、背に担いだ麻袋、ナイフや剣などの装備で装った姿は、一見すれば冒険者にも見えるが、状況からして確実に野盗の一味だろう。
実際彼らは『今日の実入り』について談笑しながら、何の緊張感もなく遺跡の方へと踏み込んでくる。
そうして、嘴を噤んで人形のように硬直するジドゥリと、じっと彼らの姿を目で追うラトニの傍を――
――当たり前のように通り過ぎた。
「…………」
三人分の足音が、遺跡の奥へと消えていく。
その背中を見送って、己の魔術がきちんと効果を発揮していることを確認したラトニは、ほっと短く息を吐いた。
――全反射、という言葉がある。
「物が見える」というのは、即ち光の反射によって起こる現象だ。
人の目に物が見えている時、それは太陽や炎の光がその物体に反射して、反射光が目に入ってくることで、そこに物があるということが認識される。
ただし光は水や硝子から空気中へと飛び出す際、微妙に進路を変える――つまり屈折を引き起こす。
例えば水中の魚を覗き込んだ時、ある角度からでは反射光が目に届かず、見えなくなる角度があるのだが、この現象を「全反射」、見えなくなる境界の角度を「臨界角」と言う。
今回ラトニは大気中の水蒸気を集め、己とジドゥリの周囲に、故意に臨界角を作り上げたのだ。
複雑にきらめく水の粒は、よくよく観察すれば不自然な光を帯びているが、日中は日の光で誤魔化せる。
音や気配は消せないため、敏い敵がいれば察知されてしまうだろうが、幸いそれほど高レベルの者はいなかったようで安堵した。
問題は、反射光の繊細な調節には著しい集中を要するため、激しく動き回っている時は魔術を保てないことだが――まあ、隠密行動に徹するのならさしたる問題ではあるまい。
ガチガチに緊張しながら固まっていたジドゥリが大袈裟に力を抜くのを横目に見ながら、ラトニは思考する。
(やはり止められているのはシェパとの行き来だけということですか? でもシェパ以外の場所に転移しようにも、それ用の魔術文字を見つけられないのならやっぱり不可能ですね。……どうやら、本当に突入するしかないらしい)
ゆるりと持ち上げたラトニの手のひらに、音もなく魔力が渦巻き凝る。霧が風に吹き寄せられて収束したようにも見えたそれは、ぱちりと淡い光を上げて弾け、一羽の小鳥が産み落とされた。
それは水色の羽を持つ、意思無き小さな術人形。
一時期は「クチバシ」という愛称と共にオーリの傍をねぐらにしていたそれが、術者の命令を持って再びその姿を現していた。
「――行きなさい。斥候は任せましたよ」
軽く手を振り、ラトニは小鳥を解き放つ。術者の意識を乗せていない小鳥は硝子玉のように無機質な目で、ただ忠実に命令に従って、遺跡の方へと飛び去った。
(さて、僕は別ルートで潜入といきましょうか)
うっすらと目を細めながら、ラトニは身を翻す。これからの行動を黙々と思案しつつ、中天に近付いた太陽を見上げた。
そわそわしながらこちらを見ているジドゥリは流石に連れては行けないが、緊急時のために合図の一つでも決めておくべきだろう。最悪転移システムが復活しなければ、最寄りの人里までジドゥリに運んでもらわなければならないのだから。
(……それにしても……)
――ふと。
歩きながら彼は、胸に一つの疑問が蟠るのを感じていた。
即ち――
――遥か昔の遺跡に刻み込まれた高度な転移の術式に、ただの野盗が手を加えられるものなのか?
※※※
オーリが行き止まりに突き当たったのは、歩みを再開して三十分ほど後のことだった。
不気味さを覚えるような薄暗さで辺りを照らし出す照明の下、道幅全てを塞いで厳然と聳え立つ石壁をぺたぺたと触り、落ち込んだように肩を落とす。
「困ったなぁ……ここまで来て無駄足?」
痛めた足を騙し騙し歩いてきた挙げ句に行き止まりでは、流石に疲労も感じてしまう。水も飲んでいない喉が痛くて、掠れ切った声に何だか情けない心地になった。
引き返しても野盗に出くわす可能性が高く、そうしたらこの一本道では今度こそ逃げられない。
何とかならないものかと、彼女は諦め悪く壁を調べ始めた。
嵌め込まれた石に一つ一つ手を這わせ、引き抜けたり押し込めたりできるものがないか確認する。
それから床に膝をついて、不自然な部分がないかと目を皿のようにして見て回って――
(……ん?)
そんな中、床と壁との丁度境目に傷のようなものがあるのを見つけて、オーリはぱちくりと瞬きをした。
にじにじと寄っていって、それに指で触れてみる。
何度も引っ掻いたようなそれは一見ただの傷の集合体に見えたが、材質が石であることを思えばかなり不自然だった。
(何だろうこれ……もしかして、これも魔術文字だったりして)
外の柱に転移の魔術文字が刻まれていたくらいなのだから、これもそうである可能性はある。
ただし形状はオーリの記憶に全くないものなので、起動の鍵言葉が全く分からないことが問題だが。
(……私、魔術文字なんて読めないし……)
転移のそれを読めたのは、以前その言葉と文字列を教えてくれた人がいたからだ。目の前にある短い単語は、意味どころか読み方すら見当がつかない。
とりあえず、オーリは知っている言葉から試してみることにした。
とは言え肝心のボキャブラリーが少ないので、すぐに行き詰まってしまうわけだが。
「……【氷結起動】……【道を開け】……【幻影固定】……反応するはずないか。ええと他なんかあったっけ……動け! 発動! 起動! 現せ! 開けゴマ! オープン! アブラカダブラ! ビビデバビデブー!」
最早ヤケクソであれこれと叫ぶも、喉が痛くなるだけで何の反応も起きない。
至極当然のことではあるが、何だかだんだん『貴様の指図など受けん』とゴツい番人に仁王立ちで威嚇されているような気分になってきて、オーリは悔しそうに唸り声を上げた。
「げほ、あああ、もう! げほげほ! こんな風に意味ありげな傷作っておいて、聞こえないフリとか通じると思うなよ! いつまでも通せんぼしてないで、さっさとそこどけー!」
咳き込みながら固い壁を睨み付け、八つ当たりのように叫んだその時、小さく傷が発光した。
「!?」
ビクッと体を震わせたオーリの前で、ごぅん、と重い音がする。
動かないと思っていた石壁の、床に接した石の幾つかが引っ込んで、小さな黒い穴が顔を出していた。
「え……?」
その大きさは大人が一人、這ってギリギリ通れるくらいか。
子供のオーリならば余裕で入り込めるその穴を唖然と見やるオーリの前で、傷――否、魔術文字の纏う光が徐々に弱くなっていく。
恐らくこの光が消えた時が、再びこの穴が塞がる時だ。
――何に反応してこの穴が開いたのか分からない以上、今を逃せば二度とこの隠し扉は開かないかも知れない。
そう思ってオーリは、素早く穴に滑り込んだ。
一瞬、このまま閉じ込められたらどうしよう、と思ったが、元より留まることも後戻りすることも出来ない身だ。尚且つ、魔術文字まで必要とするような仕掛けが単なる罠ということはないだろうと自分に言い聞かせる。
狭苦しい穴に照明はなく、ボコボコした道がしばらく続いているようだった。
四つん這いで進んでいくオーリの目に、だんだんと薄い明かりが近付いてくる。
入り口の閉まる音が、背後で遠く響いた。
※※※
暗闇の中をもたもたと前進したのは、距離にして百メートルもないだろう。
程なくオーリが再び突き当たった壁からは、しかし向こう側から四角く光が洩れていた。
手を触れた感触は、石のそれではない。
押したり引いたりしているうちに、がたん、と音を立てて、壁の一部がスライドした。
「……おお……」
どうやら狭い空間に閉じ込められたまま干からびる、などという事態にはならずに済んだようだ。
隠し通路から広い空間に抜け出すと、ようやく肺一杯に呼吸が出来たような気がした。
振り向いて確認すれば、どうやら石造りの壁の中、オーリが出てきた出入り口の部分だけ、見た目を石のように偽装しているらしい。つるつるした材質だったが、何が使われているのかまでは分からなかった。
(へえ、ここは何か様子が違うな……)
ぐるりと周囲を見回せば、そこはエントランスホールを想わせるような広い場所だった。
オーリの出てきた壁を底辺とした、半円状の大きな部屋だ。
左手方向は円弧状の壁と直線状の壁がしっかり接続されているが、右手方向には壁と壁との間に幅一メートルほどの隙間があり、その向こうの暗がりへと道が続いている。
天井や壁にはやっぱり模様が刻まれて、それが煌々と輝いていた。
至る所に緑の腕を伸ばしているのは、鬱蒼と生い茂る蔓植物。
広間の中には崩れた瓦礫や柱などが無作為に並び、更に向こうには、石像か何かの残骸らしきものが設置されていた。
石像のほとんどはやはり蔓に覆われて、細かい造作が見て取れない。
人型や、よく分からない動物らしきものを象っていたと思われる像たちが、隣のそれから一定間隔を空け、部屋の真ん中を向いて大きな半円を描くように立っている。
その背中にはそれぞれ一つずつ小さな扉があって、静かにその口を閉ざしていた。
(うわ、茨かと思ったら、これベリーが繁殖してるんだ。野苺に……あ、ニズルプラントとかもある)
壁や石像を調べながら、オーリはぱちぱちと目を瞬かせた。
植物があるということは、何処かに水が通っているということだろうか。
しばらく見て回っても残念ながら水は見つからず、代わりに野苺を摘んでみる。
赤い野苺を口に入れると酸っぱい味が舌を刺して、中に含まれる微かな甘みが遅れて味覚に触れた。
喉の渇きを癒すには足りないが、水分補給にはなるだろう。
ついでに空腹も誤魔化そうと、摘み取った野苺をぱくぱく口に入れていく。ポケットにも詰め込めるだけ詰め込んだので、潰れないように注意しなければならない。
(しかし、問題はこの扉だな。どうしよう。全部の扉を一つ一つ探索するのは、かなり手間がかかりそうだけど……)
それでも、どれが何処に繋がっているのか分からない以上、全て調べるしかないだろうか。
――でも、その前に。
オーリは自分が出てきたスライド式の隠し扉の方へと戻り、濃茶色の頭髪を数本引き抜く。
適当な小石を幾つか選んで髪を結び付け、一纏めにして隠し扉の近くに置いた。
それから、立ち並ぶ扉の探索に戻ろうと立ち上がりかけ――
「……これ」
先程隠し扉に入った時と同じ、傷のような短い魔術文字を床に発見した。
「げほっ、えぇと、あの時は何て言ったっけ。確か……聞こえないフリが通じると思うなよ! 通せんぼするな! それから、あー……さっさとそこをどけー!」
叫ぶと同時にやはり文字が発光する。
がごんっ、と大きな音がして、床の一部が口を開けた。
真ん中から分かれて下方にぶら下がった蓋が、きいきいと軋む音を立てていた。
穴の壁には梯子が取り付けられており、真っ直ぐ下に向かって続いていた。
底は見えない。穴の中に照明はないようだった。
(うわ、すっごい偶然……どうしよう)
じんわり発光している魔術文字と深い穴を見比べながら、オーリはしばし頭を悩ませた。
出口を見つけるという第一目的からすれば、これ以上地下に潜るのはあまり望ましくない。
幾つもある扉の方を先に探索するべきかと思いながら少しずつ持ち上がりつつある蓋を観察していた時、ふと何かが聞こえたような気がしてそちらを振り向いた。
――耳をそばだてる。
気のせいかと思ったが、どうやらそうではないようだった。
右側奥、壁沿いに真っ直ぐ伸びている道の方だ。そこから、何かの足音が近付いてきていた。
――ぺたぺた。ぺたぺた。ぺたぺた。
靴の音ではない。もっと軽くて、そして湿った印象の何かだった。
この遺跡で人間以外の動物を見たことのないオーリは、反射的に背筋をぞわっと寒気が走るのを感じた。
――ぺたぺた。ぺたぺた。ぺたぺた。
少しずつ、少しずつ、足音はこちらへと近付いてくる。
オーリは慌てて周囲を見回し、ほとんど蓋を閉じかけていた抜け穴の中へと滑り込んだ。
(ぎゃああああ! 早く閉まれ早く閉まれ早く閉まれ!)
何だかよく分からないが、顔を合わせない方が良いような気がする。
梯子にしがみついて激しく焦っているうちに、間もなく抜け穴の蓋は完全に閉ざされた。
更に数分息を潜めていると、今度は閉じた蓋の上を何か軽いものが通っていく。
ぺたぺた。ぺたぺた。ぺたぺた。
しっかりと閉じて床と一体化している蓋の上を、湿った音を立てる何かがぐるぐると丸く歩き回る。
真っ青な顔で口を引き結ぶオーリの頭上を何周かした後で、やがてその何かは、のろのろと蓋の上を離れていった。
妙に耳奥に張り付くような足音がそのまま遠ざかっていくのを確認し、オーリは深々と安堵の息を吐いた。
……何だったんだ、今の。
(こりゃ、迂闊に上には戻れないな……)
オーリには、さっきのアレが人を襲う生き物なのかどうかすら分からないが、得体の知れない何かに出くわす可能性がある以上、しばらく時間を空けないと危険過ぎる。ただでさえ今のオーリは、怪我のせいで大分機動力が落ちているのだから。
(ああくそ、また真っ暗闇か。下には明かりがあると良いんだけど……)
段を踏み外さないように注意しつつ、オーリは恐る恐る梯子を降り始めた。
果ての見えない暗闇が、まるで奈落の底に続いているようだと、何となく思った。




