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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・野盗と遺跡編
74/176

72:生き延びるための選択肢

 湿った匂いのするその部屋に、二人の人間が存在していた。


 魔術の灯りに照らされた、やや薄暗い空間だ。

 窓がないのか奥まった場所なのか、日の光は入ってこない。代わりに壁や天井に刻まれた紋様の一部が白く光り、辺りを照らし出している。


 何処からか、水の音がしていた。

 この遺跡は、川だか水路だかに周りを囲まれた立地をしている。内部にも水が引かれているのかも知れなかった。


 人の気配が存在するのは、そんな建物の一角――おおよそ一辺が二メートルミル程度の、中途半端な広さを持つ部屋だった。

 空間の三方を取り囲む石壁は、所々を苔に侵食されている。残りの一方には、やはり石造りの大きな扉があった。


 非力な人間なら動かすだけでも一苦労だろうその扉は、今は開け放たれている。

 扉の向こうの廊下を背にして、部屋の中に男が一人立っていた。

 二十代から三十代の、背の高い男だ。

 目付きは鋭い。あちこちがほつれ破れた、活動的だが粗末な衣服に、土埃に汚れた赤銅色の頭髪を有していた。


 ズボンのポケットに片手を突っ込み、男はじっと壁際の床に視線を送っていた。

 そこに転がる小さな影は、この部屋にいるもう一人の人間。縄で後ろ手に拘束された、まだ幼い少女だった。

 濃茶色の頭髪と、愛らしく整った容貌を持つ、十にもならないだろう少女である。固く閉ざされた瞼の下にある瞳の色は、今は見て取れない。


 観察するような目を向けられながら、少女はぴくりとも動かないままだ。

 ただ僅かに開いた口から規則正しい呼気を洩らす以外は、静かに目を閉じているだけで。


「――ウェーザ」


 低く温度のない声をかけられて、赤銅色の男が振り向いた。

 足音も気配もなく増えていた背後の人物に、ウェーザと呼ばれた男は意識を向ける。


「ストラガ。――あの女はどうした?」

「別室だ。子供の様子は?」

「意識はないが、体調に異常はない。脈も呼吸も正常だ」


 端的に言葉を交わしつつ、ストラガと呼ばれた男がするりと部屋に踏み入ってきた。

 こちらもウェーザと同じ年頃、似たような服装の男だ。首に巻いたカーキ色の布を靡かせて、ウェーザの隣にやってくる。


「逃げた方の子供は?」

「探し出せと騒いでいる奴もいるが、不可能だろうな。空を飛んで逃げたものにどう追いつけというのか」


 鬱陶しそうに吐き捨てて、ストラガは少女を見下ろした。

 動かぬ少女の足を軽く蹴り、反応がないことを確かめて眉を寄せる。


「……思っていた以上に幼いな。警戒心も耐魔力も低い、まともな戦闘経験すらないだろう。本当にこれが【まつろわぬ影の眼(ハクサ・ディオード)】の所有者なのか? こんな小娘が、どうやってあんな代物を手に入れた?」


 ろくな抵抗も出来ないまま捕まって、今も眠り続けている幼い少女は、どうしてこんな所にやって来たのかすら疑ってしまうほど無害に見える。

 だからこそ、いつも冷静なストラガの声には、隠し切れない懐疑が宿っていた。

 少女を見据えて目を眇める仲間の姿に、ウェーザも眉間に皺を寄せる。


「しかし、取引の情報が偽りだとも思えんぞ。その辺りは小娘が起きたら確認すれば良い。所有者変更の方法は……」

「聞き出せていない。奴も知らんのか、或いは新たな取引材料に使うつもりで出し惜しんでいるのか、だ」

「知らんというのはあり得るな。取引相手の代理人とは言っても、所詮はこんな所まで自ら足を運んでくる程度の立ち位置だ」


 ふん、とストラガの鼻が鳴った。話題に上っている誰かを小馬鹿にするというより、単純に思考が深まった故のものらしかった。


「――結局はこの小娘が最大の手掛かりか。ウェーザ、この部屋の鍵は誰にも渡すなよ」

「ああ、そうだったな。確か、中にはこいつを恨んでいる奴も――」


 ぼそぼそと会話を交わしていた二人が、そこで不意に言葉を切った。

 間もなく誰かの走る音が聞こえてきて、二人が少女に背を向ける。

 ばたばた、がたん。ストラガがやって来た時とは比べ物にならない乱暴な足音は、真っ直ぐ小部屋に向かってきて、そのまま入り口で立ち止まった。


「ウェーザ――ああ、ストラガもここにいたのか」


 小部屋に勢い良く顔を覗かせ、すぐに二人の姿を認めて言葉をかけたのは、無精髭を生やした壮年の男だった。

 この男も野盗の一員なのだろう。彼は部屋の奥に転がる少女を一瞥して、すぐに興味を失ったようにストラガたちへと向き直る。


「おい、悪ィがちょっと手伝ってくれや。ロッズの奴が隠し部屋に閉じ込められちまってよ」

「何だ、また罠かよ。出られねェのか? 排水口とか落とし穴とか」

「排水口はあったらしいが、貯水槽にでも繋がってたら流石にヤベェだろ。のんびり待ってるから、脱出経路はこっちに頼むってよ」


 男の言葉に応じたストラガが大仰に顔をしかめ、ボリボリ頭を掻いてみせる。ウェーザも同じように表情を歪め、会話に口を挟んだ。


「なんだそれ、面倒臭ェなァ……たまにゃあ自分(テメェ)で脱出しろって言っとけや」

「まあそう言ってやるなよ。あいつが色々引っ掛かってくれるお陰で、罠の在処も分かるんだ」

「チッ――おい、そうだ、『あの男』はいねェのか?」

「あの男――、ああ、奴ぁ一昨日からまた雲隠れだよ。薬の在庫も減ってるってのに、見つかりゃしねぇ」

「どいつもこいつも好き勝手にふらつきやがって」


 苛立ったように吐き捨てて、ストラガが怠そうに首を押さえながら身を翻した。

 振り向きもせずに小部屋を出て行く彼のすぐ後にウェーザが続き、小部屋の扉を蹴り閉める。ごぅん、と重い音の後、鍵の掛かる金属音が鳴った。


『ロッズの野郎、これで何回目だ。酒でも奢らせねェと割に合わん』

『引っ張り出したら言っとけよ。ゴネでもしたら落とし穴に蹴落としてやる』

『いっそ揃って街に繰り出すか? 狩り場を変える前によ、いっぺんくらいイイ思いしても――……』


 石壁に反響する声が少しずつ遠ざかっていって、やがて再び何処かの扉が閉まる音がすると同時に、完全に声は聞こえなくなった。

 今度の開閉音は大分小さかった。恐らく、「閉じ込める」ためにある小部屋の扉よりも幾らか薄い造りをしているのだろう。


 ――三人の人間が欠けると、辺りは一気に静かになった。

 しん、と静まり返った空間に、薄い明かりが落ちる。


 僅かな湿り気を帯びた空気は、周囲から音がなくなると、途端に纏わりつくような存在感を持って感じられる。

 虫一匹飛んでいない小部屋は、幼い寝息の音だけを密やかに籠もらせて――



 ――むくっ、と。



 小さな影が、その身体を持ち上げた。


 動いたのは言わずもがな、その場に唯一取り残された少女である。

 起き上がりこぼしの如く滑らかな動作で上半身を起こした少女――オーリは、今の今まで気絶していたとは思えないほどしっかりぱっちり目を見開き、閉ざされた扉をくるりと見やった。


 その顔には、眠気も恐怖も混乱もない。

 背中で縛られた手もそのままに、彼女はしばらく耳をそばだてて、程なくニヤリと口端を吊り上げた。


「――ふっ。物心ついた頃より無邪気に寝たフリで使用人たちの目を騙していた、私の演技に死角はない……」


 戻ってくる者も見張りもいないことを確認し、ニヒルな微笑で勝利の呟きを一言落とす。なにげに高レベルの狸寝入りを修得していたようだった。


 さて、意識を取り戻しても周囲を警戒して気絶したフリを続け、微妙にきつい体勢で耐え続けて小一時間。ようやく巡ってきた好機、動くのならば今のうちである。

 もぞもぞと壁に凭れかかり、オーリは装備を確認にかかった。


 足、自由。腕、縄で縛られている。鎖、枷、発信機のようなもの、どれも無し。


(ラトニは無事かなぁ。もう顔バレしたくないとか言ってる場合じゃないし、シェパに戻って助けを呼んでもらえると有り難いんだけど)


 幸いなことに、やはりラトニは捕まっていないらしい。ジドゥリという移動手段もあることだし、彼さえ無事ならシェパとの連絡手段は絶たれていないはずだ。


 ――とは言え、一番の不安要素が当のラトニの精神状態、というのはちょっと問題かも知れない。

 最後に見たラトニの顔は、まるで彼の方が死ぬのではないかと思うほど絶望的な表情をしていた。

 ラトニならば感情任せに無謀な突撃などするまいが、下手に戦う手段を持っている分、この事態が彼の選択にどれほどの影響を与えるか分からない。

 少なくとも、オーリが殺されたと確信しないうちは、自棄になることだけはあるまいが――


(しかし参ったなぁ……このままじゃ、私は後で確実にラトニのお仕置きを食らう羽目になるよ。自分で教えておいて何だけど、サソリ固めスコーピオンデスロックは痛い。走馬灯が見えた)


 口を噤み表情を消して光を失った瞳でじっとこちらを見つめてくるラトニの姿を想像し、オーリの目が何となく遠くなる。

 やってしまった判断ミスはもう覆せない。ならば早いところ脱出してラトニに合流し、彼の精神を安定させるのが最善策だろう。

 ラトニのためにも。あと、自分のためにも。


 むぐむぐと身を捩り、オーリはブーツの中から小指ほどもない小さな刃物を取り出す。

 更にもう片方のブーツからは、木製の棒のような物品を。

 刃物と同サイズの棒の真ん中には、細い穴が開いている。そこに刃物を差し込み柄とすれば、簡易だが小型ナイフの完成だ。


(空腹具合からして、今は昼頃か。実際に意識がなかったのは二時間そこらってところかな)


 刃に留め金もついていないナイフは戦闘になど使えないが、縄を切るだけなら充分事足りる。

 刃がすっぽ抜けないよう注意しながら、オーリは後ろ手にせっせと縄を削り始めた。


 ブーツの仕込みがバレなかったのは良かった。あまりにもあっさり捕まったせいで、どうやらオーリは大分ナメられているようだ。


 感触からして、首に巻いたチョーカーは無事。代わりに上着は取り上げられて、シンプルな上下とブーツ、加えて素顔が剥き出しになっている。

 幸いだったのは、今日はアリアナに挨拶次第引き返すつもりだったせいで、荷物をほとんど持っていなかったことだろうか。もしも非常用の武器や封珠を大量に所持していたら、野盗たちにももっと警戒されていただろうし、ブーツの仕込みだって見つかっていたに違いない。


(んー、上着がないと肌寒いなぁ……。石造りだし、水に囲まれた建物だし。早いところ抜け出さないと、いつまでもここに籠もってたら、体温が下がって動きが鈍りそうだ)


 なかなか切れない縄と格闘しながら、オーリは下唇を尖らせる。

 冷気に晒され続ければ、それだけで体力は消耗されるのだ。これでブーツまで奪われていたら、冷たい床で剥き出しの足に凍傷でも作っていたかも知れない。


 ――どうしたもんかなぁ。


 薄く目を細めて、閉ざされた扉に視線を向ける。

 力ずくでこじ開けられるほど柔な造りではなさそうだが、彼女は鍵開けの技術など持っていなかった。

 縄が切れたら、まずはこの部屋の中を調べよう。隠し通路でもあれば都合が良いが、駄目なら次に誰かが覗きに来た時を狙う他あるまい。

 何処かに身を隠す隙間さえあるなら、逃げたと思わせた隙を突いて逃げることもできる。


 更にオーリは、野盗たちの会話を思い返していく。

 特に気になるのは、『ハクサ・ディオード』という単語、そしてそれに関する情報を提供しているらしい「誰か」の存在。

 アリアナは何か知っているだろうか。どうやらアリアナの方も別に捕まっているようだから、うまく合流できれば脱出の成功率も上がるだろう。


(……しかしあの二人、三人目の仲間が来た途端に随分態度が変わったな)


 最初に小部屋に来た二人。落ち着いた低い声で会話をしていたのに、三人目が来たと察するや否や、纏う雰囲気をがらりと変えた。

 それまでの会話をおくびにも出さない粗野な口調は、「野盗」のイメージには相応しいが、直前の遣り取りを聞いていれば違和感しか覚えない。


 ――どうやらこの一団も、一枚岩ではなさそうだ。


 青灰色の双眸を僅かに細めて、ナイフを動かす手にほんの少しだけ力を込める。


 その時。


 ――がちゃん、と。


 錆びた音が空気を震わせた。


「っ!?」


 縄を切る作業と思考に気を取られていたオーリは、反射的に顔を跳ね上げる。


 重い扉が開け放たれて、外から光が差し込んだ。

 照明のない小部屋の中、扉の真正面の壁に凭れるように座っていたオーリの姿が、長方形に切り取られた光の中に浮き上がる。


 逆光に照らされてこちらを見下ろすその人間――何となく見覚えのある大柄な男の姿に、オーリはひくりと顔が引きつるのを感じた。


 助けてくれるかも、なんて、まさか思えるはずもない。

 無精髭の生えた男の顔は見事な無表情で、しかし食い入るようにオーリへと固定した視線には、煮え立つような薄暗い何かが、確かにぐらぐらと揺れていた。


(――あれ。今、近付いてくる足音がしなかったような……)


 現実逃避ぎみに男から思考を逸らしつつ、オーリは心なしかナイフを動かす手を早めた。


 どうやら自分は、再びピンチに襲われているようだ。




※※※




 下ろせ戻れともがく少年の怒声が止んだのは、遺跡の庭に倒れたオーリの姿が完全に見えなくなってからのことだった。


 手負いの獣を想わせる暴れっぷりが嘘のように静かになったラトニを、マッスル四郎と名付けられたジドゥリは不安そうな目で見ながら運んでいく。

 ダークブラウンの上着をしっかりと嘴に咥えられ、宙吊りの体勢で空を飛んでいるラトニは、やがてジドゥリが山中の一角に着地するまで、じっと俯いて口を噤み続けていた。


「……コロ」


 木々の間にラトニを下ろしたジドゥリが、彼を見下ろして恐る恐る鳴き声を洩らす。それに応えを返すことなく、ラトニはふらりとよろめいた。


「――オーリ、さん」


 倒れかかるように凭れた木へと、後頭部がぶつかって鈍い痛みを生む。帽子と長い前髪が、俯いた顔に薄暗い影を落とした。

 微かに開いた唇から、喘ぐような吐息が洩れる。無意識に胸へと伸びた右手が、上着を掴んでぐしゃりと皺を作った。


「オーリさん。オーリさん。オーリさん。オーリさんオーリさんオーリさんオーリさんオーリさんオーリさん……」


 ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ、ぶつぶつ。感情のない声で壊れたように呟き続けるラトニに、ジドゥリがそっと首を下ろす。

 ショックを受けている少年を気遣うように、三本脚の巨鳥は目尻を垂らしてその顔を覗き込み――

 直後、悲鳴のような鳴き声を上げて飛び退いた。


「――――オーリ、さん……」


 目を見開いてガタガタ震えるジドゥリの姿など気にも留めず、怖気が走るほど美しい少年は胸を掴む手に力を込める。

 思考の全てを占めるのは、最後に目にした少女の顔。


(――青ざめていました)


 動かない体を地に投げ出して、血の気が引いた顔は強張っていた。

 敵地の真ん中で自由を奪われ、事態の危険さを理解した目は怯えていた。


 怯えながら、恐れながら――それでも彼女は、迷わずラトニを逃がしたのだ。



 ――ぞわり、と。



 ぞっとするほど重苦しい何かが、ラトニの身体から染み出すように溢れ始めた。


 腹の奥から湧き上がるのは、何処までもどす黒くドロドロした衝動。記憶の底に閉じ込めた遙かな日の記憶と共に、燠火となってラトニの中に留まり続ける憎悪と絶望。

 己の琥珀色の双眸が薄暗く輝いていることに、ラトニは気付かなかった。いつもは満月を想わせる鮮やかな金色に変わる瞳が、今は狂気を孕んだ輝きに満ちている。


 怯えたジドゥリが訴えるようにコロコロと鳴くが、ラトニの耳には届かなかった。

 ぐつりぐつりと沸き立ち始める感情が、止められることもなくラトニの脳を煮立たせる。重くて暗くて汚い何かが、急速に胸を腹を喉を蝕み侵していく。

 体が動かない。血液の代わりに氷水が注ぎ込まれ、それが指先まで浸透したかのように、何処も彼処もが冷え切っていた。


 ――ぱち、ぱち、ぱちん。

 視界の端で燐光が散る。青い蛍を想わせるそれは、溢れ洩れ出る魔力の光だ。

 うっそりとした眼差しで、彼は後にしてきたばかりの遺跡の方をゆるりと見やる。

 嗚呼、やっぱりすぐにでも戻ろうか。殺してしまいたい。殺してしまおうか。幸い、あそこには水が沢山ある。やろうと思えば出来るだろう。これまでそうしてきたように。こっそり隠れて、オーリを害そうとする邪魔者たちを排除してきた時のように。


(だって放っておいたらまた奪われてしまう。折角取り戻した幸せな日々を、唯一無二の恋しい人が、僕に笑いかけてくれる奇跡のような日常を)


 虚ろに虚空を見つめる目が、どんどん濁っていくのを感じる。自分を内側から圧迫し、ともすれば薄い皮膚を突き破ろうとしてくるありとあらゆる感情が、枷を外せと荒れる本能を助長する。


 思い出す。今まさに置き去りにしてきた、最愛の少女の表情を。

 そうだ、『あの日』の彼女も、あれと似たような目をしていた。記憶に焼き付く灰色の瞳、少し傷んだ濃茶色の髪と、痩せこけた手足。自分自身が決めた末路を恐れながら、それでもラトニを守るために彼を傷付け突き放すことを選んだ彼女の、最後の意志と餞を込めた双眸。


 燻る憎悪の燠火に燃料を注がれ、ラトニの中でかつて抱いた激情の炎が音を立てて燃え上がり始める。

 三百年前のあの日、己が肺を侵す水の中へと魂切るように吐き出したのは、唯一の人を奪われた憎しみだけではなかった。

 それは何より、失ってしまった人への懺悔と悔恨。まさに今この瞬間と同じ、心臓を食い破りそうな嘆きと絶望で――



(――――違う)



 ――けれど。


 頭を強く振って、ラトニは過去へ引きずられかけていた意識を引き戻した。


 違う、彼女の目は澄んだ灰色ではなく、日差しを映してきらきら輝く青灰色だ。あんなに不健康に痩せこけてもいなければ、張りぼての敵意を宿して自分を睨みつけてもいなかった。

 今の彼女は、『彼女』ではない。かつて彼がその心を察知できず、苦痛の中に独り死なせてしまった少女ではない。


(落ち着かないと。彼女はまだ、『彼女』のようになってはいない。アリアナさんもいることだし、すぐに殺されることはないはずだ)


 冷静にならないといけない。一番自由に動ける自分が暴走したら、それこそオーリの生存確率は一気に低下してしまう。

 ――選択肢を間違えてはいけない。絶望に任せて狂うのは、まだまだ後で良いのだから。


「シロー」


 顔を上げて呼びかければ、ジドゥリはビクッと羽を震わせた。

 何やらひどく怯えた様子でラトニを見守っていた巨鳥は、ラトニが暴走寸前だった魔力を収めたのを確認してからそろそろと近付いてくる。

 大きな体を縮めるように寄ってきたジドゥリを、ラトニは労るようにそっと撫でた。


「すみません、冷静さを失っていました。もう大丈夫です」


 言葉少なに謝罪するラトニに、ジドゥリは小さな声で、コロ、と鳴いた。


 ――ラトニにだって、落ち着けば分かる。あの場では、ああすることが最善だった。

 彼女を地に伏せさせた罠は毒か魔術か、いずれにせよその正体が分からない限りは、逃げても体調は回復するどころか悪化する可能性すらある。

 オーリたちの存在がバレた以上、転移の発動起点は警戒されるだろう。シェパに戻ることも出来ず、逃亡しながら体調の悪化に怯えるよりは、捕まって最低限の治療を受けた方が時間的には猶予が出来る。


 オーリがラトニだけを逃がしたのは、ラトニが倒れていなかったからだ。いつも通りに動ける彼の姿に罠を食らっていないと判断して、纏めて捕らわれる事態をひとまず防いだ。


 ――逃げたラトニが、準備を整えてオーリたちを助けに来ることを確信して。


(大丈夫だ。彼女は、死ぬためにあそこに残ったわけじゃない)


 彼女はきちんと、自分たちが助かる方法を考えていた。

 ならばラトニは、その信頼に応えねばならない。


(野盗たちが尋問するなら、アリアナさんの方が先でしょう。オーリさんは子供だし、何処かに売り飛ばされる可能性が高いから、余計な傷は作りたくないはず。

 まずは転移システムでシェパに戻れないか試してみましょうか。もしも出来ないようなら――その時は、僕自ら侵入するしかなさそうですね)


 ――せめてそれまで、オーリが無事でいてくれたなら。


 きつくきつく、目を瞑る。

 そうして再び目を開いた時には、ラトニの瞳は元の琥珀色に戻っていた。


「手伝ってください、シロー。オーリさんと……あとついでにアリアナさんを助け出します」


 真っ直ぐ目を見て告げられた言葉に、ジドゥリはこくりと頷いた。

 幼い容貌を険しく歪めて、ラトニは奥歯を噛み締めた。


 空に太陽は、まだ高い。



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