7:路地裏の子供たち
イレーナ・ジネは、これまでオーリが見た中で最も美しく、そして心惹かれる少女だった。
彼女の魅力は恐らく、かつてオーリが生きていた、奇跡的なまでの平和と穏やかな澱みという奇妙な矛盾を抱える場所であった前世日本では決して見ることのできないものだろう。
強さと強かさと自尊心、数多の要素に裏打ちされたその美しさは艶やかな花弁となって積み重なり、薄汚れた路地裏を住処とする彼女を大輪の薔薇のように咲き誇らせていた。
一回り近く歳の違うイレーナとオーリが出会ったのは、オーリが屋敷を抜け出すようになってすぐの頃である。いつものように誘拐されかけていた子供を見付けて親元に送り届けようとした時、オーリは初めてその子供がストリートチルドレンであることに気付いた。
シェパの街にある孤児院は一軒しかなく、収容人数は実際の孤児の半分にも届かない。そんな取り零された子供たちは、その多くが保護する者もないまま街の裏側へと追いやられた。
治安の悪い街なら存在しているだろうとは予想していたが、子供は守られるべきものと信じていたオーリにとって、身を寄せ合って路地裏で生きているストリートチルドレンの姿は実際目にするとショックもひとしおだった。助けた子供を仲間の元へ送り届け、その後不健康な生活を余儀なくされている子供たちの体調を診るまでに距離を詰めることができたのは、偏にこの辺りで最も大きいグループであるその一団のリーダー――イレーナが、オーリに興味を持ったことが大きい。
イレーナはその明るい鳶色の瞳の中に、いつも飢餓のそれに似た青い炎を密やかに燃やしている少女だった。
もしもドレスという名の豪奢な戦闘服を纏えば、あたかも誇り高い雌獅子の如き威容とカリスマを遺憾なく発揮して舞台を席巻するであろう彼女は、だからこそ誰もが眉を顰めるほどにはこの薄暗い場所に似つかわしくない。
けれど実際には彼女はいつだって背筋を伸ばしてこのじめついた空間に君臨し、数十人からなる大小の子供たちをその手に囲いながら、仲間のために凝らし続けるその雌獅子の双眸で以て近付く者たちを観察していた。
のちに知ったことだが、実はイレーナは大の貴族嫌いでも有名らしい。
心の底から嫌悪するものに対する勘と嗅覚で即座にオーリが上流階級であることを嗅ぎ取った彼女は、しかし同時にオーリの人格、そしてオーリ個人が特異的に有する実利と合理性を極めて重要視した。
「一月振りくらいかな。新顔は増えた?」
「ええ、一人ね」
オーリがぐるりと周りを見回して問うてくる。イレーナは地面に飛び降りて、オーリの元に歩み寄った。
「十歳にもならない女の子よ。今は出かけてるけど、いずれ顔を合わせると思うわ」
「そっか。馴染めそう?」
「ええ。少しおどおどしてるとこもあるけど、面倒見の良い子が一人付きっきりで世話焼いてるわ。あんたの方は最近――」
「ああ、ちょっと待ってイレーナ。話の前に――あんたらさっきからポコポコポコポコ何ぶつけてくれてんだコラァァァァァ!!」
『きゃあああ、怒ったああああ!!』
悲鳴を上げてバラバラと逃げ出す子供たちを追いかけて、鬼の形相になったオーリが凄まじい勢いですっ飛んでいく。さっきから頭目掛けてポコポコ投げ付けられていた小さな木の実は、気付いていなかったのではなく努めて無視しようとしていただけらしい。
(オーリって、懐かれてるのかナメられてるのか分からないわねぇ)
呆れたように眺めるイレーナの視線の先で、オーリが子供たちをとっ捕まえ、別の子供たちに土産の袋を強奪されている。オーリ以外は楽しそうにきゃあきゃあはしゃいでいるので、オーリのこめかみに青筋が立っていても見えていない振りをしておこうとイレーナは思った。
「人体の急所を気軽に狙ってきやがって……パチンコなんか教えるんじゃなかった……!」
「もう遅ぇよ。別のも教えろ」
「あたし人体の急所、もっと知りたい。この前ミゼルがそれでチカンヤローを撃退したんだってさ」
「オーリってチビなのに変な知識は一杯持ってるよな。チビなのに」
「前見た時から身長全然伸びてねーな。オレ三センチ伸びたぞ」
「クソ生意気なおガキ様共め……! ナリはこんなんでも精神年齢は私の方がずっと上なんだからね! もっと敬いなよ! 素敵で偉大なお姉様って呼びなよ!」
「チビ姉」
「チビ姉」
「オーリのくせになまいきだ」
「圧縮してやろうかクソガキ共!!」
十歳前後の子供たちが七歳の子供に腕一本で振り回されているというのも、なかなかシュールな光景である。
怒声と同時にブン投げられた子供たちは器用に遠くへ着地して、そのままきゃっきゃとはしゃぎながら土産の方へと駆けていった。とりあえず構ってもらって満足したらしい。「オーリ馬ー鹿!」「もっと顔出さねーと、そのうちチビたちに忘れられちまうぞー!」……捨て台詞は忘れないようだ。
「……くっそ、やんちゃと悪童って紙一重だよホント。次に出す薬湯は目一杯苦くしてやる」
「まあまあ、あの子たちもあんたに絡むのが楽しいのよ」
ぶつぶつ呪詛を吐きながら戻ってきたオーリに、イレーナは拾い集めた木の実を手渡した。
「これ、あんたがジェナに教えた冷え性に効く木の実でしょう? これから寒くなって、オーリがこれ以上来なくなったら困るって、あの子たちが集めたのよ」
「……ありがとうって言っといて」
少し眉尻を下げて、それでも少々複雑そうに木の実を受け取るオーリに、イレーナはけらけらと笑った。その木の実をパチンコでぶつけて渡すという凶行に出なければもっと喜べたのかも知れないが、素直になれない年頃の悪たれ共にそれをしろと言うのは、幾らか無理があるだろう。
――オーリが彼らに与える実利の最たるもの。それが薬草の知識だった。
資産のないストリートチルドレンは、病気や怪我をしても医者にかかるような贅沢はできない。雨風に晒される寝床で幼い子らが健康に育つはずもなく、また栄養不足と不衛生な環境が相俟って、彼らは慢性的に病と不安を抱えていた。
一方オーリは医者ではないが、薬草に関しては人一倍の知識と技術があった。薬草は扱い次第で毒になる危険な植物だが、オーリは当時既に、細々ながら自身の製作物を流通に乗せられる程度のスキルを持っていたのだ。
個人資産を持たないオーリは、物資を手に入れる必要がある時、大体物々交換を利用する。その時先方に提示するのが、自分で採取してきた薬草や、それを用いて作った簡単な薬なのだ。未だ基礎的なものしか扱ったことはないが、これまで先方からの評価にけちが付いた試しは一度もなかった。
また彼女が定期的に訪問する小さな診療所の老薬師は、不定期ながらも確実に役に立つものから知識を伝授してくれている。
昔は薬の行商もしていたという老薬師は、腕が良い割には弟子の一人も取っていない。不定期に訪れるオーリを可愛がってくれるのは、誰かに自分の技術を受け継がせたいがためでもあるのだろう。
加えて、オーリが自身の技量を過剰に大きく見せようとしなかったことも、イレーナの判断に一役買った。
オーリは自分のレベルを弁えており、その分を越えた領域には絶対に手を出さない。分からないことをはっきり分からないと言い切るオーリの態度は、少なくともイレーナには、街に幾らでも溢れている詐欺師紛いの藪医者共よりは遥かに信用に値すると思えたらしかった。
仲間の身体と貴族に対する嫌悪感を天秤に掛けて、イレーナは結果的に前者を取った。そしてリーダーが受け入れると決めたなら、他のメンバーにも否やはない。
そうして彼らは、時折手土産片手に訪れるオーリを、興味と歓迎と、そして微かな警戒を以て迎え入れるようになった。オーリは一年近くかけてじわじわ距離を詰め、現在はようやくイレーナとも気軽に軽口を叩けるような関係になっている。
「で、最近どうなのよ? 全然顔を出しに来ないと思ったら、可愛いヒヨコを拾ったそうじゃない」
「いやいや、そんな可愛いもんじゃないからね。あの子のクチバシ鋼鉄製だから」
珍しい菓子に歓声を上げて取り合っている子供たちを横目に、オーリとイレーナは会話を戻した。
マフィンはあまり量がないが、最低限一人一口行き渡るくらいはあるはずだ。イレーナの分は言わなくても誰かが確保しておくのだろう、その辺の人望は揺らぎない。
相変わらず雑然とした路地裏の空間は、日が当たりにくくて少し肌寒かった。見回せば近くの枝に水色の羽の小鳥がいて、羽毛を繕っているところだった。次いで騒がしい羽音に空を見上げれば、雀に似た鳥の一群が上空を飛び去っていく。どちらも小さ過ぎて捕まえても食べる所がなさそうだな、などと思うのは、絶対に上級貴族の娘の思考ではないのだろうけれど。
「知ってるわ、イグリット孤児院の子でしょう? あんたと同じでいつも顔を隠してて、ほとんど他人に近付かない男の子」
あちこちに網を張っているイレーナは、この街でも指折りの情報通だ。ここ最近オーリが顔を出せなかった間のことも、彼女ならある程度把握しているに違いない。
「今まで誰も連れ歩かなかったあんたが、その子だけはあちこち同行させてるそうね。珍しいと思ったのよ。よっぽど気が合ったのかしら?」
「ここに連れて来る気はないよ」
興味深そうに笑っているイレーナを牽制するように、オーリはばっさりとそう言った。
「ふふ、何だ、紹介してくれないの? 残念。あんたに付いて行けるのなら、よっぽど気が回る賢い子かと思ったのに」
「イレーナが興味を持つのは分かるけど、駄目」
「ずるいわ。街や農村の連中には会わせてる癖に」
「イレーナって、うちのメイド並みに色々知ってるよね……。悪いけど、あの子はあんまり大勢に囲まれるのが好きじゃないんだよ。農村に行くのは私が用があるからだし、行ったところで私の前に出ようとはしない。わざわざ紹介なんてしたことは一度もないよ。
……それにここの子たち、基本的に大人の保護を受けてる子供が好きじゃないでしょう? 孤児院の子供に対しても似たような態度だったよね」
イレーナほどの美貌なら、その微笑みを見るために五体投地して愛を乞う男には事欠くまい。けれどオーリはその微笑の裏に、今もじりじりと砥がれ続ける牙と、滴るような毒が隠されていることを知っている。
指摘されたイレーナはふっと笑みを消して、形の良い眉を微かに歪めた。
「……分かってるのよ、孤児院が恵まれた環境じゃないってことは。でも粗末であっても、屋根のある寝床と食事を与えられて享受している。それにこの街で孤児院に入れるなんて、相応のコネがあると言っているようなものだわ。ただでさえ親や権力者を嫌う者の多い私たちが、大人の金で養われている連中に多少の嫉妬や八つ当たりを抱くのは仕方がないと思わない?」
「ラトニの生まれなんか私は知らないよ。興味ないし、聞いたこともない。でも、両親との縁が完全に切れてることは間違いないんじゃないかな」
「あたしは興味があるわ。オーリみたいな歪な人間に平然と付いて行ける、オーリより幼い子供なんてね。ただ興味本位で付き纏ってくるだけの奴なら、あんたはさっさと撒いてるもの」
――歪な人間。
その言葉にオーリは肩を竦めただけで、反論しようとはしなかった。いつも通りの無関心な反応に、イレーナはつまらなさそうに溜息をつく。
厳しい環境で生きているイレーナたちは、利用できるものならば何でも利用する。そういう意味では、オーリは彼らにとって非常に都合の良い人間だった。
だからイレーナはオーリを引き込むことに決めたのだ。彼女が「使える」と判断したから。
「……別に、利用価値を見出して付き合ってるわけじゃないよ」
「ええ、そうね。あんた子供には甘いもの。庇護するならまだしも、そういう形で使うことなんてできない気性だわ」
「敢えて言うなら、ラトニと一緒にいるのが楽しいからだね」
「……子供相手に『構ってあげる』んじゃなくて、『一緒にいるのが楽しい』だなんて言うのは初めて聞いたわね。十三歳のイルコードでさえ、あんたは年下扱いしてるように見えるのに」
「今更だね。イレーナだって、私が見た目通りの子供だなんて思ってるわけじゃないでしょう? ラトニは――だから茶々入れるなって言ってるでしょうがァァァァァ!!」
『きゃああああ、オニババー!!』
さっきからコツンコツンとしつこく頭を突ついてきていた焦げ茶の鳥をわっしと抱えて、オーリは物陰からこちらを見ていた、そして恐らく鳥を指示していた子供たち目掛けて再び突っ走っていく。
再度逃走を図った子供たちの一人がたちまち首根っこを引っ掴まれて、オーリの元で人質となった。犯人全員の投降を呼びかけるオーリと、人道を楯に人質の解放を要求する子供たちの間で、熾烈な交渉合戦、またの名を非常に低レベルな悪口の撃ち合いが開始される。
本当に懐かれているのかナメられているのか分からない、と思いながら、イレーナは罪もない店に立て籠もった凶悪犯罪者のような顔をして人質(十一歳、男)の顔面に鼻毛を描き足そうとしているオーリの姿を眺めた。
――オーリは基本的に人が好い。彼女自身がまだ数年しか生きていない人間でありながら、殊にそれは「子供」に対して顕著なものだった。
本人が自分の無力を弁えているから、全ての子供に対して手を差し伸べるような愚行はしないし、もしかしたら故意に目を逸らすことさえあるかも知れない。その代わり線引きを忘れず、理由付けさえ出来たなら、彼女は呆れるほど、「子供」という存在を大事にした。
悪意に敏いイレーナの仲間たちが、警戒だけは忘れずとも自らオーリに近寄っていくのは、彼らの大半が親族からさえ与えられなかった感情を当たり前に与えてくれるからだろう。
オーリはいつだって誠実だった。嘘はつけども、冗句は言えども。
それでも、誰に対しても同じように、己の在り方を変えなかった。助けられる時は助けたし、そうでない時は歯を食いしばって、けれど決して見なかった振りをしようとはしなかった。
この街の人間としては異様なまでに、オーリは弱者に対して肩入れした。子供、老人、農村の民。とりわけ子供を虐げる大人に対するオーリの冷静な激情は、イレーナから見ても苛烈の一言に尽きる。
オーリという名の少女が名前や顔を隠して街で何をしているのか、イレーナは全てではないが知っていた。
街の調査。農村の改革。孤児への保障。本来街を治める領主がやるようなことを、まだ幼い彼女は一人でやろうとしている。
最初は疑った。けれど、彼女の行動を調べ出して半年もする頃には、もう疑い続けるわけにはいかなかった。
何故ならオーリの言動は、調べれば調べるほど本気だったのだ。一片の冗句も混じらぬ、本気の本心で。金も権力も使わずに、その頭と口と腕だけで、人を村を街を、丸ごと動かそうとしているのだ。
知った当初は呆れて顎が外れるかと思ったイレーナだったが、今はもうオーリが何を言われようがその歩みを止めないだろうことを悟っている。
義務感、罪悪感、執着、強迫観念。イレーナにはその理由すら分からない数多の重苦しい感情が複雑に渦を巻いて、いつ叶うかも知れない目標への道へとオーリを押し出していた。
豆のない綺麗な手、よく手入れのされた肌、細いながらも決して痩せ細ってはいない手足、時々覗く濃茶色の髪には健康的な艶。そんな容姿をしているものだから、オーリはたとえ色褪せた古着に身を包んでいようが、近くで見れば一目で貴族か、貴族級の金持ちだと分かった。
そんな子供が、一切の不自由のないぬくぬくとした環境で甘やかされて、一体どうしてこのような人間に育つことができたのか、イレーナには心底理解できない。
聞いたところによれば、オーリの生家自体はやはり普通の『貴族らしい』貴族であるようだった。オーリも自分がまずいことをしている自覚はあるのか、身元の隠蔽は徹底している。
それなりに深い付き合いのあるイレーナでさえ知っているのは「オーリ」という呼び名だけで、それが本名であるかすら分からないし、顔など勿論見たことがなかった。外ではいつからか「天通鳥」の呼び名が付き、「オーリ」という名すら知られてはいない。
色々なものから距離を取って、得体の知れない何かに突き動かされるように、オーリは一人で道を歩いている。きっとこれからもそうなのだろうと、イレーナは漠然と思っていた。
――そこまでしても、前へ進み続ける人間だと思っていたのだ。
だからこそイレーナには、そんなオーリがただの子供を傍に置くなんてどうしても思えなかったのだろう。
だってただの子供は、オーリの進む速度になんか付いて行けない。
オーリの知識の異常さ、二回り以上年上の大人を相手にして引けを取らない交渉力、縺れた糸を解くようにするりと人の心を読み解く分析力、地の果てよりも遠く思えるような目標をひっそりと隠して追い求める意志の強さ。
そんな奇怪なものを揃えて有する、歪としか言いようのない人間が十歳にもならない子供だということさえ、イレーナは未だに信じられていないというのに。
「オーリがこの街の――この領地の現状を、どうにかしたいと考えてるのは知ってるわ。どこの家の生まれかなんて確かめたことはないけど、相当上級の家の出だってことも」
外道だ非道だと罵声を叫ぶ子供たちに舌打ち一つで返事を返し、顔の下半分を手で覆い隠して咽び泣く人質を放り出して戻ってきたオーリに、イレーナは淡々とした声でそう言った。
路地裏の仲間だけが大事なイレーナには正直共感できないが、その妄執にも似たオーリの信念だけは尊敬に値すると思っていた。背負い過ぎるほど重い物を背負って、足を引きずり、歯を食いしばって進む人間がイレーナは好きだ。
だからこそ彼女は、オーリが線引きを間違えるなどとは思っていなかったのだ。オーリは子供に甘いが、取るべき距離は間違えない。自分の情報を知られるリスクを負い、彼女が「義務」と主張する役目を果たす足を緩めてまで、傍にいることを許すわけがない。
――少なくとも、彼女がまだ進み続けるつもりでいるのなら。
表情を消してイレーナを見るオーリの瞳が、一瞬深さを増した気がした。
「だから、連れを作ったと知った時、興味を持ったのよ。だっておかしいじゃない。よりにもよってそんなあんたが、ただの足手纏いにしかならない子供を優先するなんて」
「……言っておくけど、最初はラトニの方から追いかけてきたんだよ。私は会うつもりはなかった」
「あんたがその気になったら、顔を合わせた瞬間に逃げ出して、二度と言葉も交わさないようにすることくらい簡単でしょう」
鼻を鳴らして言ったイレーナの言葉に、図星を突かれたオーリは押し黙った。
ラトニ・キリエリル。顔も分からない、イグレット孤児院の新入り。
追いかけたのがラトニでも、オーリだって結局絆されたことには違いない。もしもその子供がただの凡人であるのなら、三回目にはオーリはその子に会わなくなっていただろう。そうしないということは、単純に考えてそのラトニという子供には、オーリにそうさせないだけの何かがあるのだ。
小さく舌打ちして、イレーナは顎に指を当てる。こう見えてオーリは頑なだ。言いたくないと思ったら、相手が誰だろうと口を噤んでしまう。イレーナは、オーリの真意を確かめねばならない。
――けれど。
「――――イレーナ」
続けて出方を考えていたイレーナの前で、オーリの声のトーンが変わった。ゆっくりと呼ばれた己の名に、イレーナは伏せていた顔を上げ、長い金色の睫毛を瞬かせる。
「ラトニのことについて、あんまり追及しないで」
いつもは明るい声から感情の色を消し、オーリはそう言った。今日来たのはそれを言うためでもあるんだよ、と付け加えて。
「大丈夫だよ、あの子は頭が良い。私の邪魔になんかならないよ。わざわざ藪をつついて探り出して、あの子に不快な思いをさせる必要はないんだ。だから私はラトニを傍に置いている。置いておくことを、自分に許した」
――二人の周囲が、奇妙に静まり返っているように思えた。目の前にいるオーリだけが、影のように風景から浮き上がって見える。いつも朗らかな少女の体を覆い隠す、静謐な黒。
つ、と双眸を細めて、イレーナはオーリを見返した。オーリの心の奥の奥まで見透かそうとするかのように、彼女の視線が鋭さを増す。
「私は変わらない。歩き続けるよ。これからもずっと」
轟――と風が吹き抜けて、二人の間に沈黙が下りた。
鳥の声すら聞こえない空間に、枯れかけた木の葉だけが一枚、ぱさりと落ちて横たわる。
一瞬の静寂。雌獅子の瞳と影の瞳が、互いを食らい合うように睨み合った。
――やがて肩を落としたのはイレーナの方だった。
「――いいわ」
吐息と共にそう吐き出して、イレーナはぐしゃぐしゃと乱暴に頭を掻き回した。
「気になることは色々あるけど、納得したことにしておくわ。ごめんなさい、余計な口出しをした。ちょっと不安になったのよ。あんたの『特別』なんて、今まで一度もなかったものだから」
「私は私のやるべきことを投げ出すつもりはないよ」
早口で謝罪したイレーナの言葉を遮るように、オーリはきっぱりとそう告げた。少し困惑した顔で、イレーナが黙って口を噤む。
「街のことも、イレーナたちのことも。やめる気はないし、手を緩める気もない。少なくとも、今はまだ」
――イレーナが神経質になる理由は、オーリにも分からないわけではない。
要は警戒しているのだ。掲げていると思っていた目標にそぐわない行動を取るオーリに。オーリと並ぶほどに「異常」かも知れない、新たな子供の存在に。
けれど、これ以上のことをイレーナに明かすつもりは、もうオーリにはなかった。自分のことにせよラトニのことにせよ、踏み込まれ過ぎるのは不都合がある。
オーリはイレーナに対して心の深い部分を明かしたことはないし、これからもその予定はなかった。二人はこれからも互いを曝け出し合わず、付かず離れず共存していく。
――だってイレーナとオーリは、根本的なところで掛け違っている人間なのだから。
イレーナが守るものはあくまで自分の仲間たちと秩序であり、街にも国にも興味はない。
もしもオーリの行動が害有りと見做したならば、それがたとえ国のための行動であるとしても、彼女はいともあっさりとオーリを切り捨てるだろう。
オーリだって同じだ。自分の執念を、信念を、彼らのために捨てることはできない。
だからオーリにとってのイレーナは、共犯者にはなれても同胞にはなれない。またイレーナにとってのオーリはあくまで薬師であり、仲間ではあり得ない。
或いは、オーリが家を飛び出し、その血のもたらす義務や恩恵と完全に縁を切ることを選んだのなら、イレーナは喜んでオーリを仲間に迎えるかも知れない。
けれどオーリ自身にその気がなく、またイレーナにも仲間や己より上位のものを作るつもりがない以上、この先二人の道が真実交わる確率は限りなく低いと言って良かった。
意味は違えど大人に頼れない境遇で生きてきた彼女たちは、幼いながらに己の守るべきものをしっかりと心に定めていた。それは滅多な事態でブレることはなく、侵されたなら牙を剥くことをも厭わない。
その真っ直ぐな一本芯こそが二人の間に決定的な断絶を作っているのだと分かっていながら、二人はそれを良しとし、ただ互いを協力者として現状の維持を望んだ。
――もしもこの子が本当の意味で自分の傍らに居たならば、などと一度ならず思っていることは、きっとどちらも告げるつもりなどないのだろう。
「さて、用も終わったし、私はそろそろ帰るよ。イレーナ、予告してた単語テストだけど、今日はもう遅いから、計算テストと一緒に次にやるって皆に伝えておいて。子供たちの中に病人は出てないね?」
「ええ、うちでも少し薬草を使うようになってきたもの。覚えの早い子もいるし、少々のことなら何とかなるわ。……テストのことは、あの子たちが嘆きそうだわね」
「九九を五の段まで覚えられなかった子は、次に持ってくる予定のメープルシロップで作る蜜湯をあげないって言っておいて」
「死に物狂いで覚えるでしょうよ」
「ついでに、さっき私に鳥をけしかけた奴らは、次に来た時眉毛と眉毛を繋げてやるって言っておいて」
「あんたのそういう大人げなくて執念深いとこ、あたし好きよ」
けらけらと笑うイレーナに手を振って、オーリは夕暮れの空目掛けて跳躍した。一跳びで屋根の向こうへ消えた少女の背中を、相変わらず獣並みだと、イレーナは呆れと感心を等分にして見送る。
「イレーナ姉ちゃん、お話終わった?」
「オーリ帰っちゃったの?」
「あいつに教わった『竹トンボ』、完成したから後で見せてやろうと思ってたのに」
「次にしなさいよ。どうせ単語と計算のテストやりにまた来るわ」
『げー!』
「あとヴィーロたち、次に来た時は眉毛繋げられちゃうらしいわよ」
『ぎぇー!』
揃って嫌そうな顔で舌を出しながら、それでも来なければ良いのにという言葉は誰からも出ない辺り、オーリも随分ここに馴染んだということだろう。
さて、次に彼女が持ってくるだろう『ご褒美』を、如何に効果的に餌にするか。そんなことを考えるイレーナの傍で水色の羽の鳥が静かに飛び立って、赤い空に消えて行った。
※※※
罅の入った窓から音もなく飛び込んできた水色の小鳥に、粗末なベッドに座っていたラトニはそっと右手を差し出した。
孤児院の壁は薄く、気を付けないとベッドが軋む音さえ聞こえてしまう。静かに指に留まった小鳥は、ピィ、と小さく鳴いてから、空気に溶けるように掻き消えた。
子供の手のひらに収まるほどの小さな鳥が羽の一枚も残さず消失したのを感じながら、ラトニは金色の瞳をゆっくりと閉じた。持ち帰られた記憶を読み取って数十秒後、再び開いたラトニの双眸には微かに不快そうな色が湛えられている。
「……時間がないから帰ると言った癖に」
押し殺した声で、ぽつり、と呟く。
確かに嘘はついていない、彼女は真っ直ぐ屋敷に帰るとは言わなかった。他の誰かに会いに行くと言わなかったのは、言えばラトニが付いて来たがるかも知れないと思ったからだろう。
――けれど。
(街や農村の人間たちとは違う関係を築いている人間の存在……いざ知ると、存外不愉快なものですね)
許容できるか懸念してはいたが、思ったより自分は狭量なようだった。そう、彼女にとって「ある程度気を許せる年上の友人」でしかない存在を、こんな嫉妬の対象に据えるくらいには。
やっぱりかつての頃が懐かしいな、とラトニは考える。
少なくともあの頃は、自分と彼女には真実互いしかいなかった。周り全てが敵だったから、必然的に他の味方がいなかっただけだけれど。
小鳥の形を取らせることが多い手製の小さな術人形には、いつも彼女が屋敷に帰り着くのを確認させている。やはり自分で送るべきだったかと少しだけ後悔したが、きっと彼女は固辞しただろう。オーリはラトニを連れて行く場所を選んでいる。
(まあ、良いです。どうやらあのイレーナとかいう女は、オーリさんにとって「絶対」には成り得ない存在のようですし)
オーリは子供に甘いから少し不安に思っていたのだが、ラトニの知らない子供たち相手に駆け回っている姿を見ると、やはり心穏やかではいられない。
それでも、どうやらきっちり線引きはしているらしいので、その点だけが救いではあった。わざわざ出向いて、ラトニのことを探るなと釘を刺してくれたのだ。何だか大事にされている感じがして、少し嬉しいと思う。
――どうでも良い連中に自分たちの関係を勝手に勘繰られて警戒されたのは不快だったが、オーリにとってのイレーナが替えの利く友人程度の関係なら、見逃しても良いとラトニは結論を下した。
オーリはあの連中の前で素顔を見せなかった。つまり連中とつるみはしても、己を曝け出すほどの信頼は向けていないということだ。
ならば、一番オーリに近いのがラトニであることに変わりはない。尤もイレーナやその仲間たちが、もしもラトニの立ち位置を脅かすほどオーリの心を占めていたならば、また違った結論が出たのかも知れないが。
(……いつか、オーリさんが僕をあの路地裏に連れて行ってくれる日は来るのでしょうか)
気に食わない雌獅子と顔を合わせることを思えば、その時が来て欲しいような、来て欲しくないような複雑な気分になる。
今ここにはいない青灰色の瞳を持つ少女の姿を脳裏に思い描いて、ラトニはざわつく感情を腹の奥に押し込めるように、深い深い息を吐き出した。
無意識に握り締めた固い枕が、手の中で歪に形を変える。この枕が彼女の柔らかな手のひらだったら良いのに、とふと思った。
ラトニ様がみてる。




