67:引き際は敢えて無視する
数秒後感じた浮遊感に、オーリは咄嗟に体勢を整えようとした。
しかし乗り物酔いでもしたかのようにぐるりと回る視界の中、どちらが地面かも曖昧なれば、容易くバランスを直すことなど叶うわけもなく。
「ぐぇっ!」
「んぐっ、」
どちゃっ!と間抜けな音を立てて落っこちたオーリの傍に、似たような音と共にラトニが落下する。
とは言え、幸い彼らが出現した位置は大分低いものだったようで、然程の痛みを感じることもなく。
ほぼ同時に虚空に飛び出したアリアナが器用に前方へ一回転して足を畳んだ体勢で着地するのを横目に見ながら、オーリはくらくらする頭を何とか持ち上げた。
「転移魔術……あの柱、やっぱり魔術具だったのね」
すぐに立ち上がって周囲を見回したアリアナが、警戒するように眉を顰める。
身を起こしたオーリも青灰色の瞳をきょろきょろ忙しなく彷徨わせながら、隣でこめかみを押さえて唇を食いしばっているラトニの背中を撫でた。
「いてて、なんか視界がぐるぐるした……。ラト、大丈夫? 具合悪い?」
「……少し、頭痛と目眩がきついです。魔力酔いだと思いますけど」
「一瞬だったけど、すっごい魔力感じたもんねぇ……。収まるまで動かないようにね。何かあったら担ぐから」
「いえ、少しマシになってきましたから……すぐに収まるでしょう」
帽子の下から覗く幼い美貌は、心なしかいつもより白さが増しているような気がする。
長い睫を伏せて深く息を吐き出すラトニの姿は憂いに沈む深窓の姫君より儚かったが、その実頭部を襲う鈍痛に彼の機嫌が割と悪くなっているであろうことは、付き合いの長いオーリだけが察していた。
下手に喋らせない方が良いだろうと考えて、オーリは代わりに状況の把握に戻ることにした。
足元に広がる石の床を叩き、彼女はことんと小首を傾げる。
「と言うか……ここ何処?」
――その台詞は、その場にいる三人全員に浮かんだ疑問だったに違いない。
オーリとラトニ、そしてアリアナ。現在この三人の足元にあるのは、砂利や雑草の目立つ地肌ではなく、灰色の石畳だった。
と言っても、街中に移動したわけではない。
辺りに人けはなく、数十秒前まで周囲にそびえていた緑色の山々は今は何処にも見えず、代わりにあるのは巨大な壁にも似た灰色の岩壁だ。
そうして、それより遥かに近い位置。
オーリたちの視界を大きく占めるのは、吹き付ける風の中そびえ立つ、巨大な建造物だった。
大きさで言えば、恐らくオーリの屋敷と比べても数倍の差があるに違いない。
シェパ近辺で見つけた柱の一部と同じ色の石で形作られたそれは、随所に荘厳な意匠を施された、古い石造りの建物だった。
(道、って言うか……これ、橋だよね?)
ぺたぺたと石畳を叩きながら、オーリはふむ、と下唇を突き出す。
どうやらオーリたちは、長く伸びる大きな橋の真ん中辺りに立っているようだった。
手すりの類は無し。橋の横幅は大分広い。三、四人の大人が縦に並べる程度だろう。
橋の一方の端は、真っ直ぐ伸びて神殿の入り口へ。もう片方はしばらく伸びた後、途中でふつりと途切れているようだ。
幾分体調が回復したらしいラトニが、ふらりとゆっくりした足取りで橋の左側に歩み寄る。床に手をついて身を屈め、彼は橋の下を覗き込んだ。
「……下は大きな水路みたいですね。水が流れていますが、深さまでは分かりません」
「魚とか、水棲生物はー?」
「さあ……少なくとも僕の視力の範囲内では、何も見えないようですが」
ラトニの報告に、オーリは「うーん」と曖昧に唸る。アリアナが顎に手を当て、考え深げに眉を寄せた。
「向こうに見えるのは、古い神殿、よね? 水路に囲まれた神殿の遺跡なんてシェパにあったかしら」
「私は聞いたことないですよ。そもそも周りの風景が全然違うし、シェパ近辺でさえないんじゃないかな」
「じゃあ、やっぱり神殿を調べるのが先かしらね。十中八九、あそこは野盗のねぐらになってるわ。侵入前に罠の確認もしておかないと」
「うわぁ、アリアナさんの目がプロの色になってる。ねえねえラト、ワープゾーンとか謎の神殿とか、なんか英雄冒険譚みたいでわくわくしない?」
「いえ、それよりリアさん、あなた帰り道のこと考えてますか?」
さっくりと。
至極冷静にツッコまれて、オーリはぴたりと動きを止めた。
一瞬で冷凍されたかのように固まっていた表情が、やがて急速に事態を把握して解凍されていく。
だらだらと冷や汗を流しはじめたオーリの姿を眺めながら、ラトニは「やっぱり忘れてたな」と呆れた気持ちで考えた。
「シェパで見た時、既に太陽は大分傾いてましたよ。今から帰還手段を見つけてあの場所に戻った後、更に街まで帰り着くには、まあ適当に見積もって――」
――日暮れに間に合うか否か、じゃないですかねぇ。
彼のそんな台詞に、オーリの顔から血の気が引いていく。
この三人の中で外出に明確な時間制限があるのは、(本人も時々忘れるが)貴族令嬢であるオーリだけだ。
ラトニが身を寄せる孤児院は一日二日子供がいなくなっても多少の小言くらいで済むが、外出のことさえ知られてはならないオーリの方はそうもいかない。
現在地に関して分かっているのは、先程と変わらず野外であることくらいのものだ。
果たしてどれだけ離れた所に移動させられたのか、高く広がる空は、錯覚だろうか、心なしかついさっきまでシェパで見上げていたそれより青が濃いような気がする。
シェパで見つけた柱の一部のような、分かりやすい目印は近くにはない。
ただでさえ転移魔術は座標設定の失敗や暴発が多く、扱いにくい魔術でもあるのだ。最悪国外に放り出されているとして、現在地を割り出すだけでもどれだけの時間がかかることか――。
「……アリアナさん、ラト、とりあえずあの神殿の柱を調べてみましょう! シェパにあった柱の欠片があの神殿の一部なら、帰り道の手掛かりも絶対あそこにあるはずだし!」
「あからさまに『ヤッベェェェ!』って顔になりましたよ、リアさん」
「リアちゃんちってそんなに門限厳しいの?」
「親御さんに隠れて家を出て、ノリとテンションだけでしばしば暴走してはブイブイ言わせてる不良娘なんです。早く帰れるよう、アリアナさんも協力してやってください」
「あー、それで相棒のラト君がしっかりしてるのか。苦労するわねぇ……」
「目を離す方が怖いですから」
「と言うか、子供なのに危険なことしてると思ってたら、やっぱり親御さんの了承は得てなかったのね……ちょっと叱ってもらった方がリアちゃんのためなような気がしてきたんだけど」
「それは困ります。僕が彼女に会えなくなりますから」
「……うわぁ……、ラト君、ほんと彼女のこと好きねぇ……」
「彼女は僕の全てですから。それに、あんな猪の面倒を最後まで見られる人間なんて僕くらいのものでしょうし」
「この歳から人生懸けること決意してるのか! しかもいちいちノロケ挟んでくるよこの子!」
「――はいそこいつまでもヒソヒソしないでくれないかな! 猪とか言ってるの聞こえてるんだけど!?」
会話の全ては聞き取れなくても、とりあえず自分に関してあれこれ言われているのは分かったらしい。くわっと口を開けて八つ当たりぎみにツッコんだオーリに、気付いたアリアナがへらりと苦笑いをした。
「あー、ごめんごめんリアちゃん、分かったわよ。まあ、確かに撤退の手段がないのは困るし……まずは帰還手段を探せば良いのね?」
「門限のある身は大変ですね」
オーリの元へと向かうアリアナの背中に続きながら、ラトニもわざとらしく肩を竦めてみせる。
内緒話は終わりですよとアピールされたオーリは、じろりと二人を睨みつけた後、すぐに神殿へと駆けていった。
焦りの窺えるオーリから目を逸らし、ラトニは琥珀色の双眸を一瞬だけ伏せた。
僅かな疼痛の残るこめかみに指を押し当て、少年はふと背後を振り返る。
ついさっき覗き込んだ橋の下、風にも魚にも動かされぬまま湛えられた水が、ぴちゃりと小さな音を立てた気がした。
※※※
不幸中の幸いと言って良いのか、帰り道の手掛かりはすぐに見つけられたようだった。
神殿の玄関にある柱の一つに、シェパで見たものと似た紋様が刻まれていたのをアリアナが発見し、オーリは強張っていた表情をようやく緩めた。
「うわあああ良かったああああ! 帰れるんですよね!? 帰る手段が見つかったんですよね!?」
「うんうん、良かったわねー」
あまりの安堵に泣くような声で訴えるオーリの頭をなでこなでこと撫でながら、アリアナは苦笑いして宥めにかかる。そんな己の手を帽子に隠された双眸でじいっと見てくるラトニのことは、正直ツッコミに困ったので敢えて無視した。
「こっちの柱に書いてあるのも文字ですか? ちゃんとシェパに繋がってる?」
「うんうん、大丈夫大丈夫。こっちの柱に触れて鍵言葉を唱えれば、さっきと同じように転移が発動するからね。恙無く文字が見つかって良かったわよ」
「ありがとうアリアナさん、ありがとう! あの文字柱の上の方にあるし、私とラトだけなら見つからなかったかも知れない……!」
「お互い様だよ。この神殿を見つけられたのは、リアちゃんのお手柄だからね」
「どういたしましてー! うえええ、良かったねラト、ちゃんと帰れるよ! これで親父殿たちにプチ出奔がバレなくて済む! あと、現在地も分からないような場所でサバイバルしたり肉食獣と戦ったり縄張りを作ったり野生化したりしなくても済むよ!」
「野生化してでもがっつり生き延びるつもりでいる強かさとか、僕好きですよ」
歓喜の叫びを上げたオーリがラトニにひしぃと抱きついて、少年の纏う空気が一瞬で緩んだのがアリアナの目にも分かる。
他人に無関心な人間は多々いるが、この歳からこうも分かりやすく「唯一」を決めている者というのも珍しいだろう。
こういうタイプは執着相手だけ与えて放っておけば基本的に無害だと分かっている彼女は、でもこの二人恋仲でも許婚でもないのよねぇ、などと考えながら、パンパンと手を叩いて空気を切り替えた。
「――じゃあリアちゃんとラト君、二人は今日は帰りなさい。私はこれから神殿の調査に入るから」
その宣言に、オーリとラトニは真面目な顔になった。
半ば抱き合うような体勢のままこちらを見上げてくる子供たちに、アリアナはふっと笑う。
「二人には門限もあるだろうし、最初の偵察はプロに任せなさい。リアちゃんが取り戻したいのは黒い石の付いた首飾りだったわね。もしも見つけたら、ちゃんと確保しておくから」
「や、そうじゃなくて……なんか予想外に厄介な展開になってきたし、応援とか頼まなくても良いんですか? 遺跡にトラップは付き物だし、中には野盗だっているんですよ。いくらプロでも、一人で行くのは危険でしょう。冒険者ギルドか商業ギルドに通報すれば、きっと人員出してくれますよ」
「命じられた任務をおおっぴらにはできないわ。それに、別に交戦しに行くわけじゃないんだから大丈夫よ。
野盗には会わないように恙無く調査するし、隠密行動は得意なの。今日のうちに少しでも調査を進めて、安全を確保しておきたいわ。――リアちゃんたちは明日も来るんでしょう?」
「うっ……」
まだ首を突っ込むつもりなのを咎められているような気分になって、オーリは反射的に目を逸らした。
――正直、ここが引き時だとは分かっているのだ。
遺跡内にどんな仕掛けがあるかも分からず、野盗たちにも存在がバレてしまったオーリたちとしては、これ以降をアリアナの邪魔になってしまう可能性は大いにある。
ならばプロである彼女に任せ、もしも彼女が首飾りを見つけられなければ潔く諦める、くらいの行動が賢い選択だと言えるだろう。
けれどやっぱりオーリにとって、たとえ最終的には諦めるにせよ、あの首飾りは自分の手を尽くさねば納得できない代物であり。
また、謎の神殿、などというファンタジーな遺跡を見つけてしまった後で、一度も自らそこに足を踏み入れることがない、なんてことはちょっと釈然としない終わり方であって。
思い出して欲しい。
かつて僅か七歳のオーリリア・フォン・ブランジュードが安全な屋敷という名の鳥籠から抜け出すことを決めた原因は、義務感と信念と義侠心――及び、腹の底から彼女を突き動かす、果てしない遊び心と好奇心であったことを。
「……分かりました。今日のところは先に帰ります」
不承不承、それでもアリアナの身を案じながら、オーリはようやく頷いた。
「ええ、途中で野盗に出くわさないように気をつけてね。明日はシェパにあった柱の所で待ち合わせ、ってことで良いかしら?」
「はい。明日は朝から出てくる予定なんですけど、アリアナさんの都合は大丈夫ですか? 細かい時間とか……」
「大丈夫よ、神殿の調査をしながら時々シェパに様子見に戻るから」
ニコニコ笑って了承するアリアナに問題はなさそうだと考えて、オーリはようやく頷いた。
「じゃあ、そういうことで。アリアナさんも、呉々も気をつけてくださいね」
「ええ、分かってるわよ。ラト君も、また明日ね」
「はい、また明日」
軽く別れの挨拶を交わしてから、オーリとラトニは魔術文字の刻まれた柱に手を触れる。
それからしっかり手をつないで、オーリは先程と同じ言葉を口にした。
「――【道を開け《ヴィーア・ノーヴァ・アヴェリーズ》】」
空間が静かに歪み、子供たちの姿が吸い込まれていく。
それを快活な笑顔で見送った後、その笑顔を張り付けたまま、アリアナは神殿の入り口へと向き直った。
「――さあて……まずは探さないとなぁ」
独りごちた彼女の双眸が、遺跡の奥の闇を映して微かに瞳孔を細めたように見えた。




