6:幸せの影を追う人
喧嘩を売ってきたガキ大将をメッコメコに凹ませて敗走させた後、オーリとラトニは、並んでてくてく道を歩いていた。
傍付きのアーシャには、一日かけて庭と屋敷の探索をする予定だと言ってきたから、夕食までオーリの姿が見えなくても屋敷の者は心配しないだろう。折角一日一緒にいられる機会に邪魔が入ったからか一時期機嫌の悪化していたラトニも、オーリが必死で宥めた甲斐あってか、今はいつもの調子でオーリの手を握っていた。
「やー、しかし、さっきのマフィンは完成度高かったね。ちょっと焼きが甘いけど」
「オーブンには癖があるので仕方がありません。ご店主も張り切っていましたし、そのうち自分でタイミングを掴むでしょう」
舌に残る甘い味をほくほくと思い出しながら、オーリとラトニは美味しい思い出に浸る。
何せ、改善点があるなら助言をくれれば、また菓子を分けてくれると言われているのだ。美味しいものを作ってもらって、更にお礼が出る。双方満足な実に良い商売だった。
ちなみに商売と言っても、別に代金を取っているわけではない。
オーリの活動の範囲は農村だけではなく、彼らが住んでいるシェパの街自体も含まれる。散策し、店を覗き、時には知人の商売の手伝いを。情報と人脈を求めて地道に顔(ただしフードに隠れているが)を広めた結果、今では人や店から相談事を持ちかけられることも増えた。
そんな相談の一件、売り上げが伸び悩んでいるという小さな菓子屋の店主に、オーリが一つのレシピを教えたのはつい十日前のことである。
最初は計量が簡単な『カトルカー』――砂糖と卵と粉とバターを同量ずつ使用したパウンドケーキのこと――にしようかとも思ったが、客層を考慮してオーリが選んだのはマフィンだった。
一般人をターゲットにするなら、値段はあまり上げられない。マフィンならば小さめに作って値段を抑えても、しっとりずっしりした食感で腹持ちが良いだろう。果物やジャムを使えば砂糖の使用量を抑えられるし、アレンジも多彩になるので飽きられにくい。
実際、先程様子見に寄った菓子屋では、壮年の店主が妻と共に忙しく立ち働いていた。次々と訪れる客の間を縫って、お礼にと渡された紙袋には一杯にマフィンが詰められていたから、どうやら評判は上々らしい。
早速道端で味見したマフィンは、干し果物やジャムが混ぜられていて非常に美味しかった。残った幾つかはオーリの鞄に仕舞い込まれ、今もほんのり甘い匂いを漂わせている。
(この世界、食材の味は素朴だけど濃いものが多くて、野菜も野菜らしいしっかりした味で悪くないんだけど、どうも調理技術が追い付いてないんだよねぇ)
スープ、焼き物、煮物にサラダ。不味くはないが、やや大味で繊細な味付けに欠ける。殊に微妙な量や手順の差で全てが駄目になる菓子作りとなれば、料理以上に難しいだろう。更に肝心の砂糖が手に入りにくいから、発達は尚更困難になる。
そのうち屋敷でも料理に興味を持った振りをして、厨房で一から教えてもらおう。勿論そんなものは貴族子女の教養に含まれてはいないが、「将来旦那様にお料理を作ってあげたいの」とか何とか言えば、多分アーシャは見逃してくれる。
「頼まれてる新作何にしようか……ううん、やっぱりキャラメルバナナ、間違えた、キャラメルナバナが食べたいなあ」
「ナバナを使うなら、今の売り値じゃ原価割れを起こしますよ。ただでさえキャラメルなんて砂糖を大量に使うんですから」
「じゃあ代わりにマシェを蜜漬けにして柔らかくして……あとメープルシロップ使って何とかできないかな。メープルシロップの販売先が増えたら嬉しいし」
「マシェ……あの苦い実ですか? あれってお菓子に使えるんですか?」
「塩水で二日間灰汁抜きした後、天日でじっくり干すんだよ。そうしたら柔らかくなって甘みが出てくるの。キャラメルの仄かな苦みが欲しいから、マシェなら代用に丁度良いや」
「そんなことよく知ってますね……」
少し感心したように呟くラトニ。彼はこう見えて甘い物が好きなので、新作が出来たら喜ぶだろう。今度山に入った時マシェを見つけたら、作って試食させてみようかと思う。
オーリがこんなことを知っているのは、実は常日頃、薬草について調べていたからだったりする。
この国が自然豊かな土地だと知ってから、オーリは積極的に植物の知識を取り入れるようになった。
食べられる草が分かれば、貧乏人の口に入るものがほんの少し増える。毒草が分かれば、中毒で死ぬ家畜や人間がほんの少し減る。薬になる草が分かれば、医師にかかれない病人や怪我人がほんの少し救われる。
その『ほんの少し』が欲しくて、外に出られなかった頃のオーリは、ひたすら本を読み漁った。
幸い屋敷の図書室には、植物図鑑や研究書の置いてある一角があった。正式な師はいなくとも、オーリは分厚い本を持ち出しては次々知識を呑み込んだ。街に出るようになってからは、時折気の良い老爺がやっている診療所に潜り込み、その教えを受けている。
意外なことに、前世では何の縁もなかったはずの知識は、予想以上にすんなりとオーリの中に馴染んでいった。不思議に思わないこともないが、オーリにとって幸運な誤算であることには変わりない。
「オーリさん、マフィンのことは後にしましょう。差し迫っては、今向かっている件の方を考えなくてはなりませんね」
思い出したように、ぽつりとラトニがそう言った。
「うーん、そうだねぇ。私たちで何とか解決できると良いんだけど」
「出来なければ、頑固なご老人が一人、娘夫婦と一緒に暮らすようになる。ただそれだけの話ですよ」
今の二人の目的は、ラトニにとっては残念なことにただの街の散策ではない。現在彼らは、菓子屋の店主の頼みを受けて、街外れにある小さなパン屋に向かっているところだった。
聞くところによるとそのパン屋は、菓子屋の店主の嫁の母親(つまり店主にとっての義母に当たる)が一人でやっているという。何でも最近客足が減ってきて、利益が上がらなくなっているとか。
(それを何とかしてくれないか、なんて無茶なこと、オーリさんみたいな子供に頼むのもどうかとは思いますけど……)
そういうのは経営に詳しい商人にでも相談するべきところだろう、と、ラトニはひっそりと溜息をついた。
子供が大人に頼られる。おかしなことだとは思うけれど、それも仕方がないのかも知れなかった。何せオーリ本人が、自分が周りにそう扱われるように仕向けている。
オーリと出会ってからというもの、ラトニは彼女が純粋に自分の我儘だけを突き通している所を未だに見たことがなかった。自分をまだ七歳だと主張し、気軽にふらふらしているように見える彼女だが、農村への干渉と言い、街での相談役のような真似と言い、その行動の陰にはいつだって彼女以外の誰かの利益がある。
オーリ自身が明言したことはないが、多分彼女は、「求める相手に何もしてやれない」ことを何よりも恐れていた。
恐らくは自身の出生が引け目になっているのだろう。彼女は神経質なまでに、「領民の生活の保護」や「領主家の義務」に拘っている。
――それが本当に、オーリが全てを背負わねばならないものなのか、ラトニには分からなかった。
オーリの性格が本来「上に立つ者」のそれではないことに、ラトニはとうに気付いていた。
彼女の視野は「上から見下ろす」ものではなく、「周りを見回す」ものだ。時代にそぐわない奇妙な価値観を除けば、その性質は貴族よりむしろ一般人のそれに近い。面倒事を嫌い、貴族の矜持と権力よりも、安楽な日々と平穏な生活を求めるオーリの本質は、本来、然程責任感の強い人間でもなければ、好んで苦労を背負い込むたちでもなかった。
誰もやってくれないから、仕方がないから自分がやる。それが彼女の行動原理だ。
(そうして背負い込んでいったものに殺されるなんて、許すつもりはありませんが)
農村への干渉一つにしたって、最低限話を聞いてもらえるようになるまで彼女がどれだけ苦労したのか、ラトニには想像することしかできない。きっと彼女は、ラトニにその苦労を語ることはないだろうから。
だからラトニは、オーリの傍から離れない。些細な愚痴以上のことを何も口にしない彼女が、儘ならない未来に、押し殺した感情に、向けられる言葉に、押し潰されてしまわないように。
(――そのためには、彼女の傍に居続けられるだけの能力を持たなければならないのですけれどね)
そこでぐるりと思考が一周して、戻ってきた最初の懸案に、ラトニは小さく眉を顰めた。
依頼を受けたパン屋の件だが、正直、延命以上のことはできないのではないかとラトニは思っている。何せ条件が悪過ぎるのだ。菓子屋の店主には新しいレシピを教えることで解決したが、それが老人が営む小さなパン屋となれば話は別だろう。
そもそもパン作りとなれば、それだけでも重労働である。
パン屋の女主人は遅くに娘を産んだらしく、現在は六十を越えている。
夫はとうに先立っているし、細々と続けてきたパン屋は既に資金も少なく、パンの種類を増やすにも、労働負担や材料の仕入れ値、薪の消費が馬鹿にならない。かと言って今あるパンを減らせば、それを目当てで買いに来る数少ない常連客が遠のいてしまうだろう。
人を雇う余裕もなければ増えた負担を一人で背負うほどの体力もない。嫁いだ娘が通うにも、菓子屋とパン屋の距離は遠く、そもそも菓子屋の方が忙し過ぎた。娘夫婦に子供は二人いるらしいが、年はどちらも一桁前半で、仕事の役には立たない。
立地は街外れで、近くに民家は多いものの、その全ての家が毎日パンを買ってくれるわけでもなければ顧客の増加も見込めない。老店主の作る素朴なパンは毎日食べても飽きない良い味だと言っていたが、遠くの客を呼び寄せるほどの売りにはならない程度だろう。借金なんて論外だ。
(……なんか、考えるだにマイナス要素しかないんですけど)
むしろよく今まで保ってきたなと思わざるを得ない。ラトニは自分の思考がやる気をなくしていくのを感じた。
(……パン屋の方は義母が思い出の家を離れたがらないだけで、菓子屋だけでも生活には困らないのだと言っていましたね。もしも無理なら、赤字になる前に店を引き払って菓子屋の方で一緒に暮らしてくれるよう説得して欲しいとか)
つまり依頼人である店主の方も、あまり期待していないのだろう。
老い先短い義母の意思は尊重してやりたいが、実際にはその余裕はない。ならば幼い子供の言うことなら、義母も少しは聞く耳を持ってくれるかも知れない。その程度の気持ちでオーリに持ちかけ、オーリも察していながら頷いた。
(それなら、必要なのは経営の立て直しではなく説得の手段でしょうかね)
さっさと思考を切り替え始めたラトニの隣で、オーリは何を考えているのか分からない顔で呑気にステップを踏んでいた。
「オーリさん、そんなに呑気な顔をしていて大丈夫なんですか? 子供のお遣いの延長みたいな依頼事でも、引き受けたのはあなたでしょう」
「うーん。まあ何とかなるかなあ、とは思ってるよ。パン屋のおばあちゃんだって、自分が店を離れたくないのならやる気はあるんだろうし」
「やる気があってもご老人では限界がありますよ」
ラトニは深々と溜息をついた。やる気一つでどうにかなるなら、夢が叶わず挫折する人間はもっと少なくなっているはずだ。
「気力で歳はどうにもなりません。本職のパンですら、開店前に焼く分だけで精一杯だと言うじゃないですか。それとも、あなたはあると思うんですか? 人もお金も労力も使わないような、ご老人にもできるパン屋の利益の増加」
そう問いかけたラトニは、けれど隣の少女があっさりさらりと返した答えに、目を大きく見開いた。
「あるよ」
※※※
まずそのまま食卓に置ける、浅めの鍋を一つ用意する。豚でも鶏でもコトンでも、肉の切れ端を白葡萄酒で漬け込んで、前夜から鍋に仕込んでおく。好きな人は魚でも良し。
次は野菜を何でもざくざく切って、肉の上に乗せていく。ニンジン、トマト、タマネギ、ロデリにガレ。ジャガイモを入れると、もっちりして美味しくなるそうだ。
それから鍋に蓋をして、余りのパン生地で目張りをすれば下拵えは終了。パンを焼き終わった後の熱い窯に放りこんで、じっくり待つこと三時間以上。
「で、その完成したものがこちらになりまーす」
お料理番組の司会のようにそう言って、オーリはきっちり真面目に四時間かけた鍋をパン窯の中から取り出した。
ふわりと立ち昇る白葡萄酒の香りに、覗き込んでいたラトニとご老人たちが瞠目する。
鍋から発され続ける熱が、じんわりと彼らの剥き出しの頬を炙った。遠赤外線で適度に煮込まれた鍋は煮崩れも起こさず、形を残した肉や野菜が食欲を誘う。
「あらまあ、確かに美味しいわね、これ」
店に居合わせた老婦人――老店主の友人が味見をして、頬を綻ばせてそう言った。老店主もニコニコしながら「作り方も簡単だし、夕食に便利でいいわねぇ」と相槌を打つ。
「『パン屋さんの竃』っていう意味で、ベックオフと呼ばれる料理です。朝に各家庭で仕込んでこのパン屋に持ってくれば、店主のおばあちゃんがパン生地で目張りして、纏めて焼いてくれますよ。後は火も追加せずに放置して、出来上がった頃に取りに来れば夕食一品出来上がりです。
この辺り、民家が多いでしょう? 店が受け取るのは竃の使用料とパン生地の代金と多少の手間賃くらいで、単価は安くても数が揃えばそれなりの収入になると思いますけど」
こちらもニコニコと言葉を紡ぐオーリを、ラトニは口を挟まずにじっと観察していた。
彼女は「パンが駄目なら窯を使えばいいじゃなーい」だなどと軽い調子で言っていたが、それでやらかすのがこういうことだとは思わなかった。
確かにこれなら、パン屋の店主に原価はほとんど必要ない。パン生地はパンを作った余りで良いし、薪も要らない。鍋を管理する手間など、パン作りに比べれば瑣末なものだろう。
一方鍋を預ける客にとっては、こちらも余り材料だけで良いので家計に優しく、竃に張り付いて火加減を見ている必要もない。ついでにここで夕食用のパンを買っていこうと考える客も出てくるだろう。
「凄いわねぇ、こんなもの考えついちゃうなんて、お嬢ちゃんすごく頭が良いのね」
「本当にねぇ。ありがとう、義息子のお願いで来たってちっちゃい子たちが来た時は驚いたけど、やってもらってみて良かったわぁ」
早速明日から頼みに来るわ、と笑っている老婦人の隣で、老店主が嬉しそうにオーリの頭を撫でる。
恐らくこの後は、放っておいても老婦人が勝手に宣伝してくれるだろう。老人・女性間でのご近所ネットワークは、時に蜘蛛の糸より繊細で強固である。
(……やっぱり凄い人なんですね、オーリさんは)
ラトニはそっと目を伏せて、心の中でそう呟いた。
本当にどうにかしてしまった。菓子屋の店主は期待していなかっただろうが、収入が増える分には文句はないだろうし、いよいよ老店主の体が動かなくなる頃には多少の小金も貯まっているだろう。
必要な所に必要なものを。オーリのやり方は、いつかオーリが言っていた「ジグソーパズル」を完成させるのに似ていた。凡人には見つけられないピースを、彼女はどこからか見つけ出し、或いは作り出してくる。
そうして、ラトニはこうも思う。
(――凄いから、出来てしまうから、だから彼女は止まれないんでしょうか)
出来てしまうから、断れない。出来てしまうから、次も出来ると思われてしまう。
彼女が真実人より秀でているものなど、その並外れた身体能力くらいのものだった。多少引き出しが多いというだけで、思考能力自体は一般人のそれを越えない。
天才なんかじゃないその能力を、必死で鍛えて、底上げして。走り続けてそれでも尚、理想に届かぬと足掻きながら。
いっそ、彼女が何も出来ない人間だったなら良かったのだろうか。描いた理想に手を伸ばす力すら持たない、ただの凡人だったのなら。天才の振りすらできない、ただの無力な「オーリリア」だったのなら。
(いや、それはそれで苦しんだのでしょうね。あの家の人間である限り、彼女は義務と罪悪感からは逃れられない)
――いつか、彼女を攫う日が来るのだろうか。そうラトニは夢想した。
それはきっと、彼女の理想が彼女を殺す時だ。――ラトニが彼女の理想を奪う、大義名分を得る時だ。
もしもそうなったとしても、ラトニは自分がオーリに嫌われるとは思わなかった。
オーリは子供に甘い。そして、それ以上にラトニに甘い。
ラトニはまだ、オーリの「絶対的な存在」にはなれていないだろう。けれど彼は、少なくとも彼女の「掛け替えのない存在」になる自信があった。
それも、決して遠くない未来か、或いはもう既に。
いつかラトニが彼女の理想を奪った時、それがどんな状況であれ、彼女はきっとラトニを憎みはしないだろう。
それよりも、ラトニに殺されることさえ許容してしまいかねない彼女が、同じように他の誰かに殺されることを受け入れてしまうかも知れない未来こそ、ラトニが最も恐れるものだった。
――今日のお礼にと売れ残りのパンを大量に貰って、二人は小さなパン屋を後にした。ほくほくしているオーリの隣で、ラトニは努めていつも通りの無表情を張り付けている。
「なんか一杯貰っちゃったね。わー、冷めてるけど良い匂い」
「そうですね。この後、いつもの空き地に行く時間は……」
「ん、流石に無さそう。仕方がないね、少し早いけど解散しようか。孤児院まで送って行くよ」
「分かりました」
幾分早いような気もしたが、オーリはラトニよりも自由になる時間が少ない。そう思って素直に頷き、ラトニはオーリの隣を歩き出した。
抱えている袋が邪魔で繋げない彼女の手が、今は無性に恋しかった。
※※※
(ラトニ、今日は機嫌が良くなさそうだったなぁ)
孤児院の前で別れた後、足早に街を歩きながら、オーリはぼんやりとそう考えた。
朝方会った時は、いつも通りの無表情だった。けれどその後、悪ガキグループに遭遇してからは少し機嫌が悪くなって、パン屋を出た後は無口になった。
(一度目は絡まれて不機嫌になったのかも知れないけど、パン屋では何かあったっけ……?)
いつものラトニならしばらく手を繋いでいれば大体機嫌が直ったけれど、今回はパンの袋を抱えているせいでそれが出来なくて少し困ったものだ。
この年頃の男の子の思考など、オーリに読めるはずもない。先程見かけた、本日二度目の遭遇をしたガキ大将(名前何だっけ。忘れた)に尋ねてみれば良かったかも知れないと後悔しつつ、オーリはするりと路地裏に滑り込んだ。
路地裏に一歩踏み込めば、表の喧騒はあっという間に遠ざかる。
倒れている塵箱や進路を塞ぐように積み上がっている廃品を、オーリはひょいひょいと身軽に乗り越えていった。微かに湿った空気の中、木々を渡るように跳び進んでいくその姿に、緊張や警戒は微塵も感じられない。
縄張りの中を歩く猫のように。大海を泳ぐ魚のように。
それが当たり前であるかのように、オーリは道の向こうへと身を晒した。
――開けた場所に飛び降りた瞬間、オーリは複数の視線が自分に突き刺さるのを感じた。
ギラギラと飢えたような視線、値踏みするような眼差しが、一瞬でオーリの上に集中する。
臆病な人間ならいっそ殺気と間違えるのではないかと思うほどの強い意識を向けられて、オーリはパンの袋を軽く掲げ、へらっと気の抜けた笑顔を浮かべてみせた。
「お邪魔してまーす! 彼女いるー?」
――平然と、泰然と。
呼ばわる彼女はどこまでも自然体で、だからこそこの空気にはそぐわない。
ザッ、と足音がして、廃品の山の頂上に細い影が現れた。オーリの視線がそちらに移り、青灰の瞳が微かに細まる。
そこにいたのは一人の人間。長い金髪をサイドで纏めた十代半ばくらいの少女が、陰りゆく空を背景にぴんと背筋を伸ばして佇んでいた。
切れ長の目を猫のように細め、美しい顔で少女は笑う。唇を吊り上げてオーリを見下ろし、凛とよく通る声をかけた。
「いらっしゃいオーリ、あたしたちの薬師。うちの連中が今にも食い付きそうにしているそれは、あたしたちへの手土産かしら?」
「そうだよイレーナ、私の共犯者。パンとマフィンが手に入ったから、お裾分けにね」
そう言い放った次の瞬間。
掲げてみせた大小二つの袋に、一斉に歓声が湧き上がった。
数秒前までの重苦しい緊張感を完全に払拭したその空気に、オーリは「恒例行事とは言えご挨拶だなあ」と苦笑う。
涼しげな声でけらけらと笑ったイレーナが、「あんたが正式にうちの仲間になれば、警戒心なんて完全になくなるわよ」と言った。
「それは無理だね、私にはまだやらなきゃいけないことが沢山ある」
「あたしは貴族が大っ嫌いだけど、背負い過ぎるほど責任感の強い奴は嫌いじゃないわよ」
駆け寄ってきた子供たちの頭をわしわし豪快に撫でながら、オーリは道化のようににんまりと、口の端を吊り上げてみせる。
共犯者と呼ばれたストリートチルドレンのリーダーは、大輪の花のように魅力的に笑った。
マフィンの取り分はオーリが半分、ラトニが半分。オーリばかり食べてたように見えるけど、ラトニも甘い物は好きなので、結構ばくばく食べてたらしい。
オーリはラトニにイレーナたちを紹介したことはないので、手土産分は全部自分の取り分から出しています。その辺をなあなあにするのが嫌いな、細かい外見七歳児。




