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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・蛇と魔獣編
53/176

51:近所迷惑な隣人にお立ち退き頂く方法

 冬駕籠の滝を遡り、上流に向かって十数キロを辿った所に、その小高い場所はあった。

 ラトニの能力で水の流れを探り、この地点に付近の水脈が集められていることが分かっている。

 複数箇所から流れ込んできた水がここに集結し、この地下で特大の水脈となって、冬駕籠の滝に運ばれているのだ。


「――始めますよ」


 見守るオーリと、双頭の大蛇の前。

 足元に膨大な地下水の流れを置き、遥か眼下に冬駕籠の滝を見据えたラトニは、淡々とした声で宣言した。


 一度敵意を交わした魔獣は、恐らく随分と気が立っているはずだ。その攻撃とて、ラトニはあしらうのが精一杯で、真っ向勝負などまさか出来ようはずもない。

 倒すのも交渉も現実的でなく、力も言葉も通じないというのなら、残る手段は――


 ――刹那。


 すぅと目を細めたラトニの身体から、奇妙な威圧感が湧き上がったように思えた。


 風もないのに、ダークブラウンの上着の裾がふわりと靡く。


 ――ずず、ず――


 辺りの空気を侵食し、小柄な身体を包み込む不可視の圧力。

 一瞬で雰囲気の変わったラトニに、オーリが小さく息を呑んだ。


 姿形は何一つ変化していないはずなのに、今やラトニの存在感は劇的なまでに塗り替えられている。

 それは、まるで少年が一瞬のうちに鮮やかな衣を纏ったようにも、また体を戒める重苦しい枷が丸ごと取り払われたようにも感じられた。

 ぱちん、と軽い音が響く。

 ぱちん。ぱちん。ぱちん。パチパチパチパチパチパチバチバチンッ。

 泡の弾けるような小さな音が、見る見る頻度を増していく。

 少しだけ傷んだ群青色の髪が、火花のような青い光を纏って浮いた。


「――――……!」


 轟風。


 カッと見開いたラトニの双眸が、満月よりも鮮やかな金色の光を帯びる。

 同時に、ごぅんっ、と激しく大地が揺れた。足元から突き上げるような地響き。地下を流れる巨大な水脈が、ラトニの魔力に応じてその全身を震わせているのだ。

 膨れ上がった魔力と共に、山上の大気が震動する――!


「――凄い、ラトニ。肌がビリビリする……!」

『これほどのものとは……』


 心の奥底で微睡む本能を直接殴り付けて起こすが如き、暴力的なまでの存在感。頬を伝う汗もそのままに、大きく目を見開いて興奮した笑いを洩らすオーリの傍らでは、双頭の大蛇がラトニを見つめて凝然と佇んでいた。


 現在ラトニがやっていることは、冬駕籠の滝に繋がる水脈へと直接魔力を叩き込み、魔獣を強引に成体化させる作業だ。

 近付き過ぎると攻撃を受けるが、折角込めた魔力が水脈の途中で放散されては意味がないので、距離としてはここがギリギリである。


 ――成体化するために水と魔力を必要としているのなら、いっそ食い切れないほど食らわせて、さっさと成体化させてしまえば良い。それが、ラトニの下した結論だった。


 勿論この作戦は、それこそ人外と言えるほど桁外れの魔力がなければ成り立たない力業でもある。

 けれどラトニは出来ると言い、実際こうして化け物じみた魔力量をオーリに見せつけていた。

 魔力操作に疎いオーリにすら分かるレベルの、驚異的な魔力、圧迫感。

 いっそ禍々しいほどに荒れ狂うそれが彼女の目の前で更に重さを増し、ラトニの身体から音を立てて噴き上がった。


 ――まだ膨張するか――!!


 物理現象となって吹き付ける魔力の生み出した暴風に、オーリは片手で顔を庇いながら目を細める。

 あの小さなラトニの体の中に、一体どれほどの力が圧縮されていたというのか。

 青く渦巻く魔力が、凄まじい勢いで水脈へと注ぎ込まれていく。金色の瞳を光らせ、暴れ馬の手綱を取るように奥歯を噛み締めながら、いっそゆったりとした仕草で持ち上げられたラトニの右手が、何かを掴むように軽く握られた。


「さあ――」


 ラトニの口端が吊り上がる。オーリが初めて見る好戦的な感情が、彼の端正な顔に閃いた。

 そうして少年は叩き込む。最後の一押しとなる一撃を。


「ありったけくれてやりますよ。全部丸ごと食い尽くして、まだ足りないと言うなら言ってみせろ……!」



 ――號っ!!!



 振り下ろされたその手に従い、青い魔力が鮮やかに輝いた。

 猛獣の咆哮のように唸りを上げ、一点へと叩き付けられた魔力の嵐は、下流にいる魔獣めがけて突風のような勢いで駆け下りていく。


「――――!!!」


 一際高く強く、置き土産とばかりに吹き荒れる轟風に、オーリも飛ばされないよう、足を踏ん張って耐える。

 彼女の見据える視線の先、ラトニはその風の真ん中で、凛と背筋を伸ばして佇んで――


「――……まあ――」


 ぽつり、と声が聞こえた瞬間、ふつり、と風が掻き消えた。


 時間にして、僅か数秒。

 全てが幻であったかのように、山が在るべき姿を取り戻す。

 あれほど猛威を振るっていた魔力が、風が。

 余韻だけを残して綺麗に消失すると同時に、ラトニの姿がぐらりと揺れた。


「不満を言うよりも、腹が張り裂ける方が先でしょうけどね――」


 薄く色付いた唇を、疲労の滲む笑みの形に歪ませて。

 魔力のほとんどを絞り尽くしたラトニは、ゆっくりと体を地面に倒れ込ませる。


 ――そうして一回り小さくなったように思えるその身を、オーリの腕が抱き止めた。


「おっと。……お疲れ様、ラトニ」


 へらり、と。

 紅潮した頬に興奮を残し、けれどいつもと同じ呑気な笑顔で己を見下ろすオーリの姿に、ラトニもほんのりと頬を緩ませた。


「ええ。……疲れました」

「しばらくこうしてて良いよ。ちゃんと抱えておくから」

「そうさせてもらいます」


 素直に頷いて、ラトニはオーリに体重を預けた。

 今はもう、腕一本にも力が入らない。

 数ヶ月前、他の魔術師に魔力を強制徴収された時と違って動ける程度の余力は残しているが、今日は最早コップ一杯の水を操ることさえ出来ないだろう。


 こちらでの作業を完了させて、ラトニは眼下の光景へと視線を移動させた。

 同じくそちらを見やるオーリと大蛇が息を詰めて沈黙する中、今度は下流の方から小さな地響きが起こり出す。

 大量の水飛沫を上げ、木々を掻き分けて浮き上がってくるその巨体に、誰ともなく息を呑み込んだ。


「おお……。さぞかし名のある山の主と見受けたが、何故そのように荒ぶるのか……」

「何言ってるんですか?」


 ぐったりしたラトニを抱きかかえながら、妙に演技がかった語調でオーリが呟く。某もののけの姫など知るわけもないラトニは至極冷静にツッコんで、姿を現したその存在を観察し始めた。


 あの時は水に隔てられて分かりにくかったが、あれは確かに滝壺で見た魔獣である。

 体長二十メートルミルを越えるずんぐりした体格、蝙蝠の羽に似た小さな羽。

 日の光の下で見ると、その魔獣は随分と不格好な容姿をしていた。

 例えるなら、蜥蜴と大山椒魚を足して膨らませたような姿だろうか。球を作るように体を丸め、魔力をふんだんに帯びた青い水が、その身を殻のようにぐるりと覆っている。


「うわ、まさかと思ってたけど、やっぱり飛べたのか……」

「大蛇さんより大きいのにどうやってあの細道を通ったのか疑問だったんですけど、やっぱり空から来たんですね……」


 ぼそぼそ言葉を交わしながら見守る先で、魔獣に更なる変化が現れる。

 纏った水の殻がパキパキと音を立てて硬質化し、青い卵となって魔獣の全身を覆い隠していった。

 けれどまだ静かになったというわけではないようで、どくん、と胎動するように震えた卵が、徐々に吹き出した風を纏ってコトコト小さく揺れ始める。


 まるで、卵を抱え込んだ親鳥が、優しく孵化を促すように。

 卵を押し包む冷たい風は、水気と魔力を緩やかに含み、魔獣の卵をノックする。


 ――パキン。


 魔獣が卵に籠もってから、一体何分が経った頃だろう。

 小さな小さな罅の入る音がここまで聞こえた気がしたのは、果たして幻聴だったのか。


 パキ、パキ、パキン。


 青い卵に入った罅は少しずつ大きくなっていく。零れ落ちていく卵の欠片は、青い靄となって風に溶けた。


 そうして最後に一際大きな罅が入り、とうとう卵が完全に割れる。

 ばさり、とはためく雄大な翼。蝙蝠のそれに似た皮膜を持つそれは成体化前の形から然程変わらず、しかしその大きさは、魔獣の全身を丸ごと覆えるほどに巨大化していた。


「……おいおいちょっと……」


 その光景に不吉な予感を感じ、口角をひくつかせたのは、子供二人のどちらが先か。


 あの体長に、あの翼。鱗に、魔力に、存在値。何だか、あれではまるで――


 愕然と見つめる二人の前で、最後の欠片が靄へと溶けて。

 成体化前とは比べ物にならないほど勇壮な翼を広げ、悠然と姿を現した、その魔獣の姿はまさしく――



『――竜だとおォォォォォォォォォォ!!!!?』



 心の底から絶叫をハモらせるオーリとラトニに、双頭の大蛇は首を傾げた。


『言っていなかったか?』

「聞いてませんー! あんたたちの近縁種で上位互換だとしか聞いてませんー!」

「と言うか、どうしてこんな所に竜がいるんですか……まさか何十年もあんなものが、誰にも気付かれず人里近くに住んでいたなんて……」

『竜、チガウ。翼竜』

「今そんな細かいことどうでも良いんですよ!」


 珍しく声を荒げるラトニに、今回ばかりはオーリも同感だ。

 何せ竜といったら、ギルドも認める特級クラスの実力と希少性を誇る魔獣である。こいつら、予告も無しでなんてものの前に放り出しやがったんだ……!


 バッサァ、と翼を羽ばたかせ、翼竜が天を仰ぎ見た。

 丸みを失ってシャープになった体躯に、赤い瞳と鱗だけがかつての面影を残している。最後に一度だけ冬駕籠の滝を見下ろしたその視線が、ほんの刹那、オーリたちのそれと絡み合った気がした。


 ――そうして。



 ――――轟っ!



 号音のような音を立てて大気を打った巨大な翼は、一秒に満たない間を置いて、オーリたちの元へと猛烈な風を送り届ける。

 バサバサと髪が吹き散らされる中で、オーリたちは雄大な翼竜の姿が、空の上へと真っ直ぐ飛び去っていく姿を見た。


「いずこよりいまし荒ぶる神とは存ぜぬも、かしこみかしこみ申す。この地に塚を築きあなたの御霊をお祭りします。恨みを忘れ鎮まりたまえ……」

「だから何言ってるんですか?」


 茫然とほうけた顔でそれでもボケるオーリに、帽子が飛ばされないよう押さえていたラトニが冷静な声で再度ツッコむ。


 雲の向こうへ消えた翼竜が、最早気配すら追えなくなって。

 ――その空に、じわりと吸い寄せられるように、分厚い雲が集まり始めた。


 元より薄くかかっていた灰色の雲が数と重さを増し、見る見るうちにその領域を広げていく。

 二人がはっと気付いた時には、既に手遅れだった。


 ――ぽつん。


 雨粒が一滴、空から落ちて地面を打った。


「げ」


 それを皮切りに降り始めた雫は、すぐに大雨となってオーリたちの体を打ち付ける。

 寒さに背筋を震わせつつ、慌てて雨宿りのできる場所を探し始めた二人の上に、茸に似た形状の大きな植物が差し掛けられた。

 茎の部分を口に咥え、分厚い葉を傘のように掲げているのは、同じく全身をびしょ濡れにした双頭の大蛇だった。


『使エ』

『人族の間では、「蛇の雨傘」とも呼ばれている植物だ。雨には強い』

「ありがとうございます。あ、なんかコロボックルみたい」

「……どうも」


 まだ動きの鈍いラトニを背負い上げ、オーリが少し嬉しそうに植物を受け取る。

 植物自体が発熱しているのか、傘の下はほんのりと暖かい。頭上に掲げられた葉身が軽々と雨を弾いているのを見やって、ラトニも渋々といった風にぼそりと礼を口にした。

 オーリは少し苦笑して、唇を尖らせるラトニを肩越しに見る。


「機嫌悪そうだね、ラトニ。大分根に持ってる?」

「……そういうわけじゃありませんけど」

「嘘だ。目付き悪いよ」

「だってこれ、絶対風邪引きますよ。……事前にこうなると分かっていたら、雨を弾くくらいの魔力は残しておいたのに」

『人族が病になりやすいことを忘れていたのだ。済まなかった』


 素直に申し訳なさそうな顔をして、大蛇は二人に謝罪した。


『成体化を果たしたアレは、最早冬駕籠の滝には戻るまい。これでようやく我らも冬眠に入れる。眷族たちも死なずに済もう。騙したことと合わせて改めて詫びると共に、お前たちの助力に心から感謝する』

『感謝。アリガトウ』


 ぺこりと地に付くほど二つの頭を深く下げて、大蛇は礼の言葉を述べる。

 オーリは呑気に笑い、ラトニはぐ、と言葉を呑み込んで目を逸らした。


「……もう良いですよ。人と魔獣では認識も価値観も違うってことを、忘れてた僕も悪かったんです」


 不承不承そう言って、彼はオーリの肩に顔を埋める。

 傘代わりの葉を彼に持たせて、オーリは大蛇に笑いかけた。


「だ、そうです。こっちも報酬は貰ってるんだし、ギブアンドテイクですよ。近いうちに薬草を採りに行かせてもらうから、その時は宜しくお願いしますね」

『我らは冬眠中であろうから、お前たちで好きに採って行けば良い。環境が壊れるほどの乱獲をしなければ問題ない』


 頷いて、大蛇がするりと身を寄せてくる。しゅう、と喉が鳴り、二又に分かれた尾が、ほんの一瞬二人を抱き込むように弧を描いた。

 何となく名残惜しげなその仕草は、蛇と言うより別れを惜しむ野良猫のようで。


 ――今日を最後に、少なくとも春まで、大蛇がオーリたちと会話を交わすことはなくなる。


『――背に乗るが良い、我らで街まで連れて行こう。今度こそ無事に送り届けることを約束する』


 短く告げる大蛇の声は、思いの外に穏やかだった。




※※※




 本日二度目になる大蛇の背中にゆらゆら揺られながら。

 片腕にラトニを、片腕に大きな植物を抱えたオーリは、のんびりと過ぎゆく景色を眺めていた。


 携帯懐炉は今も二人の体に挟まれて発熱しているが、濡れた服が乾くわけでもないし、今もざあざあ降りしきる雨に気温は下げられ続けているから、明日はきっと揃って風邪を引き込むだろう。

 病気は勿論避けたいが、最早手遅れなので仕方がない。焦っても無意味と思ったならば、逆に落ち着こうというものだ。


 山道をずるずる進んでいけば、所々に点々と、来た時にはなかったはずの植物が生えていた。

 恐らくその下には、地下水脈が流れているのだろう。ラトニの膨大な魔力を込めた地下水が、一部の植物の成長を著しく促進したらしかった。


「オーリさん? どうかしましたか?」


 何処か上の空なオーリの様子に気付いたのだろう、腕の中で大人しく身を縮めていたラトニが首を傾げてくる。

 何でもないよ、と返しながら、オーリは圧倒的な魔力を振るうラトニの姿を思い出していた。


 初めて知らされた時にはああ言ったけれど、本来ラトニが、自分が魔術師であることをまだ言う気がなかった理由を、オーリはきちんと察していた。

 暴走に近い魔力開放の仕方を見る限り、ラトニは未だ自身の力を制御し切れていない。その存在の希少性も相俟って、彼は極力オーリを巻き込まない方針で行きたかったのだろう。


 仮にも相方と呼ぶオーリにすら語ることを躊躇うほど、ラトニの抱えるものは大きい。

 そしてその一角を明かされたからには、オーリも最早知らない顔などしてはいられないわけで。


 ――『蒼柩』のこと、私も少し調べてみようか――


 もしも知られれば国家権力に目を付けられると分かった以上、一つでも情報は必要だ。ひっそりとそう決めたオーリの腕が、ラトニを抱く手に無意識に力を込める。


 ぱちりと目を瞬かせたラトニは、けれど何かを感じたのだろう、無言でオーリの服をそっと掴むにとどめた。

 ほんのりと青臭い傘の向こうで、雨の音が僅かに強さを増した。



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