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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
シェパ・蛇と魔獣編
51/176

49:予定外の発覚

 踏み込んだ細道は、両側を高く切り立った壁に囲まれた、日光の入らない場所だった。


 少し湿った土壁は道幅が狭いせいか圧迫感があり、黒みがかった色の土を薄暗い影に染めている。

 壁と壁との間の距離は、大人が両手を広げれば一杯になる程度か。万一落石でもあれば逃げる間もなく押し潰されてしまうだろうとは、オーリとラトニ両方の頭に浮かんだイヤな想像だった。


 時折からりと落下してくる砂利粒のような石ころが、否応なしに二人の警戒心を煽る。

 繋いだ手へと無意識に力を込め、半ば小走りに前へと進むオーリたちの目に、幾分明るくなった光が飛び込んできたのは、幸いにして数分も経たない頃のことだった。

 重く深く、叩き付けるように響く音が、どんどん大きさを増してくる――



「――……っわぁ……!」



 ――ざっ、と影の外へと踏み出すと同時、一気に水の匂いが強くなって、二人は大きく目を見開いた。


 唇から零れた感嘆は、果たしてどちらの声だったのか。

 そこに広がっていたのは、鬱蒼とした山中から一転し、別世界のように鮮やかな景色だった。


 土壁に囲まれ、丸く切り取られたようなその場所は、風がほとんど入らないためか、ほんのりと暖かく感じられる。

 ほとんど雪の積もっていない大地は原色の草や花で覆われ、それらはよく見ればオーリもよく知った薬草がちらほら混じっていて。


 幻覚を見せる黄色い花は、見渡す限り一つもない。

 ぱらぱらと散る水飛沫を浴び艶めく植物たちが葉を揺らして踊る様は、その作り物のように美しい風景が確かに命を持つものなのだと示していた。


 この空間で最も存在感を主張しているものと言えば、やはり勢い良く流れ落ちる大きな滝だろう。

 濁りなどとは無縁のように澄み切った水は透明な青を映し出し、生物の気配一つない非現実的な空間に、どこか幻想的な色を添えていた。


 一流の画家が丹精込めて描き上げた明媚な風景画とて、これほどにオーリたちを感嘆させはしないだろう。

 人の手の入った空間では決して持ち得ない浮き世離れしたその景色は、キャンバスに収まり切らないほどの鮮烈な色で満ちている。

 うっすらと灰色の雲に覆われた今日の空の下でさえ、この鮮やかさ。明るい日光の中で見たなら一体どれほど美しいのだろうかと、オーリの口が熱の籠もった吐息を零した。


「見てよラトニ、凄いね! シェパの近くにこんな場所があったなんて!」


 するりと離した両手を大きく広げ、見る見る明るくなっていくオーリの青灰色の瞳が、ラトニを映してキラキラ輝く。

 こちらも少しばかり頬を染めて頷き返しながら、ラトニも興味深そうに周囲の景色を見回した。


「確かに凄いですね……。薬草も沢山生えているようですし、こんな場所が知られていたら、人間たちが挙って押し寄せて来そうです」

「ああ、こんな綺麗な場所だもんね……今回みたいなことが無ければ、きっと私たちだって一生知れないままだったよ」

「困っている人たちには申し訳ないですが、このことばかりは異変に感謝ですね。これだけの薬草、採って帰れたらジョルジオさんもさぞ喜ぶでしょうし」

「ねえねえ、採っちゃっても良いと思う? スイソウランが沢山咲いてるんだよ。これだけあれば今年の冬の分には充分過ぎる!」


 そわそわしているオーリに、ラトニは一瞬賛同しかけ、しかしすぐに眉間に皺を寄せた。


「……いえ、今はやめておきましょう。例の魔獣がいつ仕掛けて来るか分からないから、危険です」

「やっぱりそうだよねー……。ああくそ、間近で見るとますます惜しいなあ!」


 悔しそうに唇を尖らせるオーリの目は、貴重な薬草や見知らぬ花々に釘付けだ。

 魔力に満ちた土地は良い薬草(と、強力な毒草)が育つらしいから、ここにある植物にだって、きっと充分以上の薬効が期待できる。


 使うにしろ売るにしろ、知識の足りないオーリとラトニでは持て余すようなものでも、師であるジョルジオならばうまく扱ってくれるだろう。

 貴重で上質な薬草は市場でも手に入らないことがあるため、持って帰れるものなら是非そうしたかったのだが――


 小柄な肩を無造作に竦め、ラトニがうっすらと苦笑してオーリを宥めた。


「諦めなさい、安全第一と言ったでしょう? 目に付く異常や魔獣の情報がないかだけ調べて、さっさと引き返しましょう」

「そだね、残念。あ、まさかこの薬草見せてやる気にさせることが、大蛇さんの狙いだったんじゃ……」

「ああ、それはあるかも知れませんね。あなたは猪ですから」

「もうちょっとオブラートに包まない?」


 さらりと毒舌を混ぜてくるのは、いい加減どうにかならないものか。

 控えめにツッコみながら、オーリは滝に背を向ける。ラトニが目を細めて、僅かに吹き込む風にそよぐ木々を冷静に見やった。


「とりあえず、手早く魔獣の情報を探りましょう。足跡や爪痕が見つかれば、大体の大きさが分かるんですが」

「特定の植物だけ食い荒らされたりしてないかも調べたいな。餌を求めて外に出て来たりす」


 ――どん、と衝撃が走ったことを、咄嗟にオーリは認識できなかった。


 肺中の空気が固まるような感覚は数秒。

 ほんの一時白く染まった彼女の視界が、次に思考力を取り戻すと同時、薄く雲のかかった高い青空を映し出す。


 ――一体何が起きたのか、自分の身がどうなっているのか、一つとして理解が追いつかないまま。

 直後感じた再度の衝撃は、全身を包むほんのりと温い感触、そして激しい水音と共に、オーリの意識を混乱に突き落とした。


 がぼ、と大量の泡が口から溢れ、少女の視界を埋め尽くした。




※※※




 何一つ反応する間もなく彼女の身に起きた出来事を、数歩離れた位置にいたラトニだけが理解していた。


 ――唐突に滝壺から伸びた水の塊が鞭のようにオーリを打ち据え、そのまま滝壺に叩き込んだ。

 言葉にすればそれだけだが、起きた事態は受け入れ難く。


「――オーリさ……――」


 半開きになった唇から、無意識に彼女の名が零れかけ。


 直後、ひゅっ、と息を飲み込んで、ラトニは表情の少ない顔を強張らせた。

 弾かれたように大地を蹴って、オーリの後を追いかける。

 そうして一瞬の躊躇もなく、白い飛沫を上げる滝壺へと飛び込んでいった。


 ざぶん、と勢い良く水に潜ると、青い世界がラトニの視界を染め上げた。

 魔獣の影響かはたまた地熱か、滝壺の水は僅かに温い。

 これなら叩き込まれた瞬間に心臓が止まることはないだろうと思いながら、ラトニは纏わりつく水の抵抗を相殺して、底へと身を沈めていった。


(――いた!)


 下の方で水に掴まれたままもがくオーリと、その更に下に存在する大きな影は、すぐにラトニの目に入った。

 あれが例の魔獣なのだろう。体長二十メートルミルを軽く越える、楕円に近い頭部と硬質な鱗を持つずんぐりした巨体である。

 よく見れば四つの短い手足が生えており、丸い目は血のように赤くギラギラと輝いている。背中からちょこんと突き出しているのは、どう見ても役目を果たせそうにないほど小さな、蝙蝠のそれに似た二枚の羽だ。


 ラトニは泳ぎながら水で膜を作って、頭の周りを空気で覆う。この空気が切れる前に水上に上がらないと溺れることになるが、水中に長居するつもりは微塵もなかった。

 水分子を分解して強引に酸素を取り出すことも考えたが、酸素濃度の微調整を的確にできる自信がなかったので諦めた。如何せん、酸素は量を間違えると即座に毒に成り変わる。


(うまく制御できれば時間制限なしで水中呼吸ができるんですが、残念ながら僕には酸素の適量が分かりませんからね。

 人間の体に、過剰な酸素は猛毒。また酸素が一定量に満たない空気を一呼吸でもすれば、脳はあっさり停止する、とか)


 一つ前の生で教わった知識を脳内再生しながら、ラトニは人差し指を一閃させる。琥珀色の両目が鋭く光り、同時にオーリの頭部を、ラトニと同じ空気を含んだ水の膜が覆った。

 苦しそうに顔を歪め、がぼるぼと泡を吐いていたオーリの息が咳き込むものに変わる。突然呼吸ができるようになったことに気付いて目をぱちくりさせたオーリに、あれなら少なくとも溺死の危険は低くなるだろうと一息ついた。


「ラトニ……!」


 実体のない水が相手となれば、オーリの怪力も意味がない。

 追いかけてきたラトニの存在に気付いたオーリが、驚いたような咎めるような声を上げる。

 構わず水を蹴って加速したラトニは、もたもた手足をばたつかせる彼女へと一気に接近した。魔獣の双眸が、ぎらりと赤い光を放った気がした。


 直後、大蛇の体よりも大きな黒い影がラトニの右腕を掠めて通り過ぎ、魔獣が槍のように尻尾を突き出してきたのだと悟る。

 険しく眇めたラトニの瞳の、更に奥の方が燃えるように熱くなる。双眸が鮮やかな金色に輝き、纏う雰囲気が敵意を増した。


「――いつまで掴んでいるんですか。さっさとその人を放してください」


 淡々とした、けれど重苦しいほど冷ややかな声は、刃のように鋭くて。

 刹那、ばぢんっ!と弾かれたような異音を上げて、オーリを巻き上げていた何かが四散した。


「えうっ!?」


 驚いたように悲鳴を上げるオーリを余所に、魔獣の目が再び光り、號と音を立てて水が渦を巻き始める。

 それらを纏めて薙ぎ払うように、唸りを上げた大きな水流が横合いから魔獣を打ち付けた。再び指向性を持たない無機物へと戻された水が、即座にまた魔獣のもとへと集まりかけ、そして三度掻き消される。


 今やラトニと魔獣の間では、猛烈な水への干渉争いが行われていた。

 現時点では拮抗しているが、時間をかければこちらが不利なことは明らかだ。ラトニとしては早く撤退したいのだが、しかし背を向けて逃げるだけの時間を、目の前の魔獣が与えてくれない。


 ギリギリと奥歯を噛み締め、金色の瞳で水底を睨み続けるラトニの前で、魔獣の口ががぱりと開いた。

 小さな牙がびっしりと立ち並ぶ赤い喉が露わになり、ぬらりとぬるつく口内に凄まじい勢いで水が吸い込まれていく。その水が圧縮された竜巻のように渦を巻きつつあることに気付いて、ラトニは盛大に顔を引き攣らせた。


「オーリさん、こっちに!」


 水を操れるラトニと違って、潜水技術すら持たないオーリは、水中ではただおろおろするしかない。微かに聞こえた魔獣の唸り声の反対側、耳に聞こえたラトニの叫び声は、随分と切羽詰まっていて。

 しっかりと掴まれた手の感触をオーリが握り返すと同時、魔獣の目が一際赤く輝いたと思ったその時、二人の体を強力な水圧が叩き付けた。


「――いっ――!?」


 ラトニが水のクッションを作り、魔獣が吐き出した水弾の圧力に乗る形で水上へと押し上げられたのだと、魔術師ならぬオーリに分かるわけもなく。


 心の準備をする間もなくトップスピードに乗せられて、舌を噛むまいと反射的に噛み締めたオーリの奥歯の間から、押し殺したような悲鳴が洩れた。


 ――ざぱぁんっ!!


 体が頭から押し潰されそうな圧力に晒されたのは、僅かに数秒間。

 二人揃って勢い良く飛び出した大気の中、何となく既視感を感じさせる角度で、青く広がる空がオーリの視界一杯に映った。


 白目を剥きそうな思いの中で、きらきら輝く水面を足元に見ながら咄嗟に彼女の脳裏に浮かんだ思考は。


(あー、噴き上がる間欠泉の天辺に置かれたアヒルの人形って、こんな気持ちなのかなー……)


 そんな、至極場違いな感想であったことは――ラトニにバレたら、絶対ひっぱたかれるに違いないのだけれど。




※※※




 魔獣と人間の価値観が違うということは分かっているつもりだったし、自ら危地に送り込んだとは言え、否、自ら危地に送り込んだからこそ、その実種族すら違うこの二つの身命に対し、他に代え難いほどの高い価値などあの双頭の大蛇が決して感じていないのだと、察することは大いに容易い。

 けれど、びしょ濡れになった幼い子供が二人、土壁に挟まれた細道を駆け抜け、ぜいぜい喘ぎながら逃げ帰ってきたのを見た時の第一声が、何が起きたのかという質問でも、ましてや彼らに対する労いでもなく『やはり無理であったか』という落胆したような言葉だったというのは一体どういう了見だ。


「オーリさん、怪我はありませんか?」


 大蛇への追及は、とりあえず後に回すとして。

 激しく荒げていた呼吸をようやく静めたラトニが、顔を上げてそう問うた。


 隣でげふげふ咳き込みながら、オーリがこくこく頷いてみせる。

 水に近いぬるま湯から上がった後、体を拭きもせず寒風に晒されたせいで冷え切っているのだろう。平常は体温の高い彼女も、先程から小さく震え続けていた。


(僕が魔術を使うところは、さっき見られてしまいましたからね……。懐炉や焚き火では間に合わないでしょうし、服と体だけでも乾かしてあげましょうか)


 まだしばらくは言う必要がないと思っていた事実を知られたことを思い出し、ラトニは小さく溜息をついた。


 含んだ水分を飛ばしてしまえば、これ以上冷えることは避けられる。

 その後は、自分が魔力持ちであった件について聞かれるだろうから、説明を用意しておかなければならないだろう。


 ぐっしょり濡れた帽子と髪からぽたぽたと雫が滴り落ちて、ラトニは鬱陶しげに帽子を脱いだ。今は琥珀色に戻ったラトニの双眸が露わになって、同時にオーリが顔を上げ――


 ――その目が大きく見開かれて、少年は一拍怪訝に思い、すぐに理由に思い当たって慄然とした。



 ――己の顔に垂れ落ちる髪が、深海のような群青色に染まっていた。



「ラトニ、その色……」


 こちらを指差すオーリの仕草に、ラトニの背中がぞわりと震える。

 魔獣と対峙した時に強い魔術を使ったためだろう、染め粉が落ちて地の色が露わになっていた。


 魔力持ちなのは良い。魔術師なのも良い。

 けれど、「青い髪」がその例外であることをラトニは知っていた。

 いつかこの色を見たごろつきの浮かべた、恐怖と忌避の感情が、目の前のオーリに重なって言葉を失う。



 ――人の頭髪に、純粋な青は現れない。

 もし現れるとすれば、それは――



「――ら、ラトニって、凄い戦闘力を引き出すと髪の色が変わるの!? まさか、片腕に封じられし黒竜が原因だったり、額に第三の目が開いたりとかもしたりして!」

「あなたが至極価値観のずれた能天気娘だってことを一瞬でも忘れていた自分が腹立たしいですよ、このアッパラパーが」


 異様にわくわくした様子で顔を輝かせているオーリに、ラトニはコーンポタージュ缶の底に残ったコーンを見るような冷め切った目で吐き捨てた。


 ――それでも、舌打ちせんばかりに低められた彼の声が少しだけ安堵を含んでいたことを、きっと本人だけが知っている。



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