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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
7歳・シェパの街編
5/176

5:とあるガキ大将の災難

 七番通りの酒屋の一人息子であるゼファカ・サイニーズ(十歳)は、最近とても機嫌が悪かった。

 彼らが住むシェパの街には、孤児院が一つある。そこに住む子供の一人――いつもフードや帽子で顔を隠している少年が、ゼファカの専らの悩みの種だ。

 事の始まりは早数ヶ月前。新たに街に来た新入りを、古参としてちょっと揉んでやろうと考えたゼファカだったが、当の新入りときたら全く可愛げのないガキだった。


 何せからかっても苛めても、その気に食わない面を晒させるどころか毎回こてんぱんにやり返されて終わるのだ。

 微塵も動かない表情と冷静な声で淡々と毒を吐かれ、追いかければ撒かれ、樽に突っ込み、犬をけしかけられ、近所のお姉さんに見つかって叱られる。先日なんかは子分たちを引き連れて絡んでいたところを、背後から誰かにしこたま蹴り飛ばされ、鼻血を噴いて泥溜まりの中にぶっ倒れる憂き目を見た。


 だから、買い物籠を片手に街を歩いていたゼファカの傍で、子分の一人が例の少年らしき姿を見つけた時、復讐心に燃えるゼファカが何をするかなど決まり切ったことだったのだ。


「おい、ゼファカ、あいつ! イグリット孤児院のフード野郎じゃね?」


 子分が指差した方向を、ゼファカはばっと見る。通行人たちの向こう、緑の葉を付ける街路樹の傍に、フードを深く被った小柄な子供の姿があった。


「あの野郎……!」


 鼻血を出したあの日の痛み(と、泥と血で服を汚して母親に叱られた屈辱)が一瞬にして蘇り、ゼファカは鼻息を荒げた。


「おい、そこのフード野郎!」


 勢いよく駆け寄りながら叫んだゼファカの前で、フードの子供が振り返る。そしてもう一人、ひょこりと同じような姿の子供が街路樹の陰から顔を出した。


 ――え、どっち?


 反射的に足が止まって、両者の姿を見比べる。報復するべき怨敵がどちらなのか分からずに、一瞬ゼファカは混乱した。

 二人並んだ子供たちは、二人ともこの街では珍しくない量産品の上着を着て、フードを深く被っている。生地の色は片方がダークブラウン、もう片方はオリーブ色だが、使い古しらしく色褪せているので正直違いが分かりにくい。

 ダークブラウンの方はじっとゼファカたちを観察している様子だが、オリーブ色の方は持っている紙袋に手を突っ込んでは、リスのように頬を膨らませてモリモリと何かを頬張っていた。


「なになに、ラトニの友達?」

「知りませんね。あなたは知らないんですか?」

「んー、会ったことないと思うけど。ナンパかな」

「違うと思いますよ。口一杯に詰め込むのをやめなさい」

「マフィンなんて食べるの久し振りだから、つい」


 ごっくん、とオリーブ色が食べ物を飲み下すと同時に、ゼファカは我に返った。


「お、お前だよ、ラトニとかいう方! ちょっとツラ貸せよ、お前とはいい加減決着をつけなきゃいけないと思ってたんだ!」

「ラトニに用だってさ。いつの間に宿命のライバルなんか作ったの?」

「知りませんってば。ちょっと、僕の分まで食い尽くさないでくださいよ」

「ごめんごめん。ラトニ、キイチゴ好きだったよね。あーん」

「……、」

「美味しい? 次何食べる?」

「……レーズンを寄越しなさい」

「お前ら何シカトしてくれてんの!? 人前でイチャついてんじゃねーぞコラァァ!」

「ゼファカ、あのもう一人の奴の声! こないだ背後からお前を蹴り飛ばした奴だ!」

「何だとォォォォ!!?」


 何ということだ、怨敵がもう一人揃っていたとは。他人事のような顔で何やらパンらしきものを食している少年と少女の姿に、憎悪と嫉妬がゼファカの心を炎上させる。


「……蹴り飛ばした……。そんなことあったっけ?」

「あれじゃないですかね、五日前に子供が集団で僕に絡んできた。あなた、あの光景を見るなり一言も掛けずにジャンピングキック食らわせてたじゃないですか」

「あーあーあー。あれか、あの、しげおくん一味!」

「そんな名前でしたっけ?」

「オレの名前はゼファカだぁぁぁぁぁ!!」

「お、落ち着けよゼファカ」

「服汚したらまたママに怒られちゃうよぉ」


 あの屈辱の日のことを、目の前の二人はさらっと忘れていたらしい。名前すら知られていなかったと分かり、ゼファカは必死で宥めてくる子分たちの声も聞こえないほど激昂した。吊り上がる眉もそのままに、歯軋りした彼は右足をダンと振り下ろし、二人に指を突き付ける。


「ラトニ! それともう一人の奴! オレと決闘しろ!」

「嫌です」

「だが断る」


 視線も向けずに即答された。ビキッ、とゼファカのこめかみに青筋が浮く。


「……へっ。ビビッてんのか? これだからツラも見せられねぇような暗い性格の奴は」

「少なくとも将来的にキミより美人になる自信はあるよ」

「と言うか、現時点で僕らの方が間違いなく顔が整っていますよね」


 ビキビキッ、と青筋が増えた。

 渾身の挑発も受け流され、己の容貌をさらりと見下され、怒りに震えるゼファカを他所に、オリーブ色のフードがまだ中身の残っている紙袋を頑丈そうな鞄に仕舞い込む。


「美味しかったね。こんなに一杯くれるなんて、菓子屋のおじさんも気前がいいなあ」

「相当喜んでいましたからね。売り上げは上々らしいので、機嫌が良いんでしょう。実際僕も、こんなに美味しいお菓子を食べたのは初めてです」

「お菓子って、微妙な量と手順の差で味が全然違うからね。今度キャラメルナバナの作り方も教えたら、またお礼貰えるかな」

「ナバナは最近値上がりしたそうですよ。ただでさえ南からの輸入品で高級品ですから、マフィンの値段を上げるのでなければ代用品を考えた方がいいかも知れませんね」

「無視すんじゃねぇって言ってんだろうがぁぁぁぁ!!」


 ゼファカは地団太踏んで絶叫した。て言うかこいつらパンじゃなくて菓子食ってやがったのか! 何て贅沢な、そして羨ましい!

 この国では、菓子は一般人には手を伸ばしにくい嗜好品である。子供のおやつは果物やパンが一般的、時折口に入る甘い焼き菓子は特別な日のお祝いか貰い物であることが多い。自分でお小遣いを貯めて菓子屋に走る日なんかは、前日から浮かれてふわふわしてしまうほどなのだ。

 それを! それを! こんなクソ生意気な孤児と、正体すら知れないフード女が、平然として貪っているなど!


「勘違いしないでくださいね」


 指に付いた屑をぺろりと舐めて、ダークブラウンの上着――ラトニと呼ばれた方が釘を刺した。


「これは彼女が菓子屋のご店主の相談に乗り、そのお礼として正当に受け取ったものです。あなたに言及される謂われはありません」

「プレーンのは安めにお値段設定してあるらしいから、一回お小遣いで買ってみなよ。二十番通りの赤い屋根の菓子屋なんだけど」


 けらりと笑うオリーブ色は、ダークブラウン以上にゼファカたちを歯牙にもかけていない。微塵の緊張感もなく菓子屋の宣伝をする彼女は、「私のお勧めはジャム入りだよー」とぱたぱた手を振ってみせる。

 相手にもされてない。それを察して、とうとう忍耐の限界に来たゼファカは腕尽くに出ることを決意した。


 そもそも今までの対応が優し過ぎたのだ。罵っても小突いても効かず、とっ捕まえようにもさっさと逃げてしまうような相手に、手心など加えている余裕はない。真っ向からブン殴り、敗北を認めさせるしか道はなかった。

 何せガキ大将の地位を保つために、威信は必須条件だ。最早彼の面子は潰しに潰され、これ以上されるがままになっていたとなれば不審を抱えた背後の子分たちが反乱を目論む可能性すらある。子供社会は血で血を洗う、なかなかシビアな世界なのだ。いややり過ぎると流石に母ちゃんがキレるし、精々鼻血とかだけど。


「お前ら、オレをナメるのも大概にしろよ! 最終警告だ、オレの下に付け! 拒否するのならこちらは武力を持って制圧する準備がある!」


 ぎりりと目を吊り上げて更に一歩踏み出し、あたかも傲慢なる帝王の如く開戦の火蓋を切らんと吠えるゼファカに、ダークブラウンは心底面倒臭そうに溜息をついた。表情は見えないが、呆れている雰囲気だけは分かる。


「いつからそんな縄張り争いみたいな話になったのか知りませんが、答えはNO一択です。僕に付き合う義理はありません」

「ならやっぱり白黒付けるしかねぇな……! お前は最初から気に食わなかったんだ、泣いて謝るまで許さねぇ!」

「迷惑な話ですね。彼女との時間を邪魔して欲しくないんですけど」

「そいつの方ともお前の次にケリ付けてやるよ!」

「えー、当たり前みたいに巻き込まないでよ」


 オリーブ色も嫌そうに肩を落とす。おいそこ、うざい熱血野郎のテンションには付いて行けないんだけど、みたいな空気を醸し出すな!


「ふざけんな! お前だってオレのこと蹴っ飛ばしただろうが! あの後服から血が取れなくて、母ちゃんにスゲェ怒られたんだぞ!」

「徹頭徹尾キミが悪いんじゃん。キミが絡まなければ、ラトニは自分から寄っていくような性格じゃないし」

「うるせえ、オレにだって面子があるんだ! 上に立つには外しちゃならねぇものがある!」

「要するに普通のガキ大将じゃない。道理を弁えない我儘な子供は嫌いなんだよね……」


 独りごちて、少女はすすすとゼファカににじり寄った。不意を突かれて仰け反ったゼファカの肩を彼女は素早く抱え込み、耳元に口を寄せてボソリと一言。


「……いい加減にしないと、先月キミが花屋のエリザちゃん(十二歳)に、『陰湿な男は好きじゃないの』と言って振られたことを言いふらすよ?」


 ――ビシィッ!!


 吹き込まれたその言葉に、ゼファカは一瞬で凍りついた。


 それはまさしく悪魔の囁きだった。頭に昇り切っていた血が、滝よりも高速で落ちていく。氷結魔法でも食らったような勢いで停止したゼファカを、傍らの悪魔が尻尾をゆらゆら揺らしながら眺めていた。


「……お……おま……どこで、そのことを……」


 しばしの沈黙の後、小刻みにガタガタ震え出すゼファカ。真っ青になった彼を抱え込んだまま、少女は口元をによによ笑わせた。


「んふー、綺麗な子だよねぇ、エリザちゃん……。しげおくんは年上好みかぁ。でも、ご近所のアイドルに恋した挙げ句抜け駆けしようとしたなんてバレたら、しげおくん、どうなるかなぁ」


 じわじわ顔を寄せて囁きかけてくるオリーブ色は、唇が弦月のようにきゅうっと弧を描いている。清々しいまでに明確に、彼女はゼファカを脅しにかかっていた。

 片恋破れたということだけでもお年頃の少年には大ダメージなのに、その上抜け駆けの事実とお断りの文句の内容まで知られたとなれば、最早ご町内を顔を上げて歩けなくなってしまう。

 ダラダラと脂汗を流し始めるゼファカを面白くなさそうに見ていたダークブラウンが、べしりとオリーブ色の手をゼファカの肩から払い落とした。


「毎度毎度、あなたはそういう話をどこで聞いてくるんですか」

「家政婦は見た!」

「あなたのとこのメイド何でも知ってますね」

「実はエリザちゃんのママのお姉さん、うちの厨房にいるんだよ。パン焼くのが上手い人なんだけど」

「潜り込んで聞き耳を立ててくるわけですね、この家ネズミ」

「どうしたのさラトニ、なんか機嫌悪くなってない?」


 二人のじゃれ合いの中身さえ、今のゼファカの耳には聞こえない。迫り来る破滅の未来を想像するのに忙しい彼は、脳内で悪魔の囁きをリピートしては一人恐怖に震えるばかりで。


「ゼ、ゼファカ……? どうしたんだ……?」


 いつまで経っても動き出さないボスの様子がおかしいと判断し、恐る恐る子分の一人が声をかける。

 その声にはっと再起動したゼファカは、咄嗟に全速力で後ずさった。腰の引けた様子で震えながら、二匹の悪魔に人差し指を突き付ける。


「――きょっ、今日のところはこれくらいで勘弁してやるっ!!!」


 最後の虚勢で、チンピラのような捨て台詞をブン投げて。

 ダッシュで道を駆け去っていくゼファカを、子分たちが慌てて名を呼びながら追いかけていった。


「……うーん、あの年頃は分かりやすいけど分かりにくいなあ」

「おかしな邪魔が入りましたね。折角一日オーリさんと過ごせる機会だったのに……」


 嫌そうに舌打ちして身を翻すラトニの手のひらを、オーリは手を伸ばして掴み取る。ぴくりと震えたラトニの手が一拍置いてゆっくり握り返してくるのを感じ、オーリは笑った。


「じゃあ行こうか、ラトニ。この後パン屋に行くことになってたでしょ? 早く行かないと午後になっちゃうよ」

「……菓子屋のご店主に頼まれていたんでしたね。なら、さっさと片付けて行きましょう。今、猛烈にあなたとオセロをしたい気分です」

「盤上連続白一色に塗り替え記録を更新するために!?」

「全力でフルボッコにしてやりますよ」

「そういう怖い単語習得しなくて良いんだよ! ラトニはただでさえ変な覇気あるんだから!」


 オーリの悲鳴を聞く者など、この場に存在するわけもなく。

 妙に黒いオーラを発しながら大股で歩いていくラトニにぐいぐい手を引っ張られながら、オーリはどうにか機嫌を直してもらう方法がないものかと、しばらくひたすら考え続けることになった。




※※※




 オーリがその姿を見つけたのは、夕暮れも近くなった頃のことだった。

 孤児院前でラトニと別れ、本日の戦利品の売れ残りパンを袋一杯に抱えた彼女は、一軒のパン屋に背を向け、大きな編み籠を抱えて元気なく立ち尽くす子供の姿に首を傾げる。少し迷って、まだ時間の余裕もあることだしと、オーリはパン屋の方へと足を向けた。


「何やってるの、こんな所で棒立ちになって」

「お、お前……! か、関係ないだろ、お前には……!」


 声をかけてきたオーリの姿を見てぎょっとしたらしいその少年――今朝方絡んできた何とかいうガキ大将は、どもりながらも言い返してきた。


「確かに私には関係ないけど、ドアの前にいたら営業妨害だよ。買い物に来たんじゃないの?」

「…………」


 言われて目を逸らし、少年は数歩横にずれる。意外と素直に言うことを聞いた彼にぱちりと目を瞬きながら、オーリはそれきり口を噤んでしまった少年をじっと観察することにした。


 そう言えば、午前中に会った時も、この少年は編み籠を持っていた。これは一般に言う買い物籠で、つまりこの少年は母親から買い物を言い付けられていたのだろう。

 しかし彼はその途中で子分たちと出くわしてうっかり用事を後回しにしてしまい、更にその時、丁度街を歩いていたオーリとラトニに遭遇。

 その後は、オーリたちの精神攻撃を食らってがっつりダメージを受けていた様子から見れば、続けて子分たちと遊び回った可能性は低い。しかしそのまま真っ直ぐ買い物に行ったのなら、何時間も経った今、こんな所で立ち尽くしているのはおかしい。


 この時間差から推測するに、恐らく彼は子分たちと別れた後一人改めて買い物に向かい、けれどそこで、預かった代金をどこかで落とすかスられるかしてしまったことに気付いたのではないだろうか。

 慌てて代金を探して街を走り回るも、結局見つからないまま家に戻り、母親にしこたま説教された後、再び代金を持たされて買い物に送り出された。しかし店に着いたその時、既に言い付けられた品は売り切れており、失態を重ねてしまった少年はどうすれば良いのか分からず茫然と佇んでいたのではないかと考えられる。


 現在少年がいる場所から考えて、用事があったのはパン屋で間違いないだろう。

 一般家庭が必要とするパンと言えば、まず日常的に食卓に並べる固パンだ。イラナ麦を原料とするこのパンは、オーリの前世世界でなら『田舎パン』の名で知られていたものに似ている、ラグビーボールほどもある大きさの固いパンである。

 そして先程ちらりと窓から覗いたところ、どこの店でも売っているはずのあの大きなパンは、このパン屋の棚には並べられていなかった。


 この場所から別のパン屋までは少々遠く、またその店のパンがまだ売り切れていない保証がない今、つまるところこの少年は間近に迫った夕食の時間を天秤にかけ、再び母親に叱られるリスクを負って再び家に戻り、母親の指示を仰ぐか否かで悩んでいるのではないだろうか――


 ――というようなことをつらつら言い立ててみると、少年――ゼファカは「なんでそんなに容赦なく言い当ててくるんだよチクショー!!」とほとんど泣きながら絶叫した。

 既にヒットポイントが黄色ゲージな少年に向かって大人げなく追い打ちをかけたオーリは、呆れたように肩を竦めてみせる。


「え、マジでそうなの? 馬っ鹿だなー、空の買い物籠なんか持ってるんだから、お金も持ってるってすぐバレるじゃない。狙ってスられたんなら絶対に戻ってこないし、落としたにせよ見つけるなんて無理無理無理無理」

「ううう、分かってるよ……! 母ちゃんにも滅茶苦茶怒られたし……!」


 ぐすぐすとべそを掻きながら、ゼファカは空っぽの買い物籠を抱き締めた。

 母には叱られるし、嫌いな奴らには会うし、子分たちには格好悪い所を見せるし、片思いがブロークンした時のことは何故かバレていたし、今日は本気で碌でもないことばかりだ。何より、その嫌いな奴の一人の前で、こうしてみっともなく涙ぐんでいる自分が一番情けなく思えてならなかった。


「もうほんと、オレどうしたらいいんだよ……」


 そう呟く彼もまた、やっぱり地震雷火事親父よりも一人の母の怒りが怖い、ただの子供であるのだろう。

 やれやれと溜息をついて、オーリは持っている紙袋の中をがさごそと漁った。


「欲しかったのはイラナ麦の固パンでしょ? 一つあげるよ」

「……え?」


 目の前に大きな茶色いパンを差し出され、少年はぱちくりと目を瞬かせた。


「い……、いいのか?」

「うん。今日は私たち、パン屋のおばあちゃんとこに行っててさ。売れ残りだけど、そこで沢山お裾分けしてもらったんだ。しげおくん、困ってるんでしょ? 私は困らないから、持って行きなよ」


 己の名前を訂正するのも忘れて、ゼファカはそっとパンを受け取る。手にしたパンは冷たかったが、ほんのりと香ばしい香りを漂わせていた。


「ちゃんと今日のこと反省したら、お母さんに謝ればいいよ。売り切れてたって正直に言って、次のお遣いでは気を付けるって言えば、きっとそんなに怒らないからさ」


 基本的に、オーリは子供には優しい――と言うか、甘い。道理も弁えない悪たれに鉄拳制裁することには一片の躊躇も覚えないが、目の前で困り果ててべそべそ泣く子供を放置できない程度には、彼女はお人好しだった。


 彼女や彼女の友人相手に散々絡まれたことなど気にも掛けぬというように、けろりとした笑顔で自分にパンを差し出してくる少女の姿は、己の進むべき道を見失いかけていた少年の目には、慈悲の手を差し伸べる聖女のようにも見えただろう。いっそ何も考えていないような寛大さは、迷える子羊の前では時に光り輝いて映るものである。


 更に加えて言うならば、オーリは本来、その突き抜けた言動さえ出さずに黙っていれば、十年後の将来を期待させる、非常に愛らしい容貌の少女だった。今は目元が隠れているとは言え、通った鼻筋や澄んだ声までは隠しようがない。


 そして実はこの少年、ガキ大将などと言われていながら、大人の余裕と包容力に弱かった。


 茫然としているゼファカの口に、むぐりっ、と何かが突っ込まれる。反射的に彼が歯を立てると、口の中でほろほろと零れる、パンとは比べ物にならない柔らかな感触。舌に触れる優しい甘さと芳しいバターの香りに、ゼファカは一瞬花咲き乱れる天国の扉が見えた気がした。


「本当はこれも知り合いのお土産にしようと思ってたんだけどね、特別に一個だけ分けてあげるよ。気に入ったら、今度はお店で買ってね!」


 ゼファカの口に『キイチゴジャムのマフィン』を突っ込んだオーリは、そう言って楽しそうに笑った。


「甘いもの食べると、ちょっと幸せな気持ちになれるよねぇ。悪いことばっかじゃないさ、若人。明日も元気に生きようぜ!」


 朗らかに笑ってゼファカの頭をぽふぽふ叩いてくる少女に。


 その日少年は、人生二度目の恋に落ちた。


 身バレしてはいけないので、ラトニは人がいる時にオーリの名前を呼びません。その辺は二人とも非常に気を遣う。

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