47:ミミズだってオケラだってアメンボだって、みんなみんな生きているからこそ生存競争とか利害の衝突とか容赦なく発生するわけでね
一般的に蛇が冬眠することは常識と言って良いが、蛇種の魔獣においてもそれは例外ではない。
時折冬眠を必要としない種族や、そもそも年中気温が下がらない地域に生息する種族もいるが、少なくともシェパ近辺に住まうものたちは毎年規則正しく冬眠し、春に目覚めるというスタンスを取っているようだ。
そんな中、今年においてはそうならなかった――厳密には、蛇種の魔獣という種族に限って冬眠に入れなかった理由には、同じくこの山に居を定める別種の魔獣が絡んでいた。
聞けばその魔獣は数十年前からこの山に住まい、普段は此処より更に山奥の、人の来ない大池を住処としているらしい。
付近に偏在する魔力溜まりの一つを通った水を引かれ、この山で最も濃い魔力を含んだ清水で常に満ちた大池が、しかしどうしたことか、冬になって涸れてしまったことがそもそもの原因で。
魔力と水を求めて彷徨い出たその魔獣が、似たような条件の揃っていた滝――つまりは、例年蛇魔獣たちが共通の越冬場所として使っていた区域を乗っ取ってしまったのだ。
「――成程、そういうことでしたか。そう言えば去年、この山で大規模な地滑りが起きたという話を聞きましたね」
「え、それっていつの話? 私知らないよ」
「オーリさんが王都に行ってすぐの頃でしたから」
菓子屋の店主が「常緑樹のケーキ」と名付けた緑の菓子は、賄賂の他に味見の依頼も兼ねている。一つだけ確保したケーキを半分に割ってラトニに渡しながら、オーリは「あー」と曖昧に唸った。
地滑りが起きる原因の一つには、地下水の変動が挙げられる。水脈が乱れたせいで大池が涸れたとすれば、放置しても勝手にいなくなってくれるとは思えない。
更に、魔力濃度の落ちた水を補うため、複数箇所で水脈を弄って水を引き込んでいるせいで、山中の池や湧き水が涸れたとするならば。
「私たちが探してるスイソウランってさ、育つのに大量の水が必要なんだよね。水脈が変わって充分な水が得られなくなったせいで成長できなくなったって考えれば、まあ辻褄は合うよ」
もふ、とケーキに齧りついて、オーリは渋い顔でそう告げた。
うむ、ナッツの風味が香ばしいが、ちょっと油っぽい。多分ナッツに脂肪が多いせいだろうから、次はバターを控えたレシピを試してみるように言っておこう。
洞窟の中では、蛇魔獣たちが大量の菓子へと一心不乱に食い付いている。使用されている果実やナッツは彼らの口に合ったようで、数種類の菓子は見る見るうちに消失していった。
オーリたちの傍らで緑色のケーキを一口で飲み込んだ双頭の大蛇が、目を細めて頷いた。
『奴は水属性の魔獣だ、多少水脈を弄るくらいなら容易くやってのけるだろう』
「ふうん。それでも大池の方は蘇らせられなかったとなると、よっぽど水脈が崩れたのかなあ」
「それとも、肝心の魔力溜まりの方が壊れたのか、ですね。自然発生する魔力溜まりは、ある日突然消えることも珍しくないですし」
唇に付いた緑のクリームをぺろりと舐めて、ラトニもそうコメントする。
目に見えない魔力が濃霧のように立ち込める魔力溜まりは、魔力耐性のない者が近付くと急性魔力中毒を起こすことさえある場所だ。
発生の原因や期間は様々だが、魔力を活動エネルギーとする魔獣、それも上位のものとなれば、魔力溜まりは失い得ないご馳走だろう。たとえ他者の縄張りを奪ってでも、欠けた魔力を補いたいと思うのは不思議ではない。
『冬眠、デキナクナッタ、アレノセイ』
「縄張りを取り返そうという気はないのですか?」
『食ワレル、困ル』
「じゃあ、他に冬眠できそうな場所とかは?」
『我らが冬眠するには、幾分魔力を含んだ地が必要なのだ。致し方なくうろついているが、やはり動きは相当に鈍る。周辺の魔力を取り込めば活動は出来るが、食料も些少とは言え必要だ』
「あちゃー、魔獣も色々あるんですねぇ……」
下手に近付けば食われるというのなら、相手の魔獣はこの大蛇よりずっと上位なのだろう。
にょろにょろと動く蛇たちの姿を眺めているうちに、オーリは何だか空腹を感じてきた。そう言えば散々駆け回ったのに、小さなケーキ半分しか食べてないからなぁ。
「唐揚げ……スープ……いや、調味料がないから塩であっさり白焼きに……」
『!?』
「オーリさん、目が食材を見る色になってますよ」
さらりと突っ込まれ、オーリははっとして脳内に浮かんでいた蛇肉料理を掻き消した。涎は垂れていないのでセーフ。
ごしごし口元を擦るオーリを眺めながら、ラトニが呆れた顔をする。
「普通の貴族令嬢は、そもそも蛇を食べたいなんて思い付かないものなんですけどね……。それともあなた、蛇を食べた経験でもあるんですか?」
「経験はないけど、興味はあるなあ。そう言うラトニはどうなの? 確かこの国、蛇を食べる文化はなかったよね」
「……何度かありますよ。随分昔のことですけど」
「へー! シェパに来る前? どんな風に調理した?」
「シェパに来る前の、もっと前ですよ。あなたみたいに食にうるさい人が、焚き火と香草で焼いてくれました」
『あの、当人を前にして蛇食文化を語り合うのはやめてくれぬか』
『ニンゲンッテ……』
心なしか引いた目でぼそぼそ訴えてくる大蛇に、二人は大人しく口を噤んだ。
ちなみに、オーリの前々世世界での蛇は鶏のササミに似た味だそうで、殊に中国で愛好されている食材だ。煮物、焼き物など様々に調理され、蛇肉のスープなどは非常に滋養に富んだ料理として好まれているとか。
閑話休題。
「とすると、ギルドに何て説明するかが問題だね。魔獣に聞いたなんて言っても、信じてくれるかな」
「下手に喋ると、大蛇さんたちまで討伐対象に入りそうですしね」
手に入った情報は相当に有力なものと言って良いし、信じてもらえさえすれば報酬は確実だろう。
相談を始めたオーリとラトニに、しかし大蛇が複雑そうに声をかけた。
『人族の幼体たちよ、お前たちはもう山には来ぬのか?』
「?」
その問いが意味することが分からず、二人は首を傾げた。
まあ、来ないかと言われれば答えは応だ。水脈を弄られるのは非常に困るが、だからと言って上位の魔獣と事を構えるのはリスクが高過ぎるし、これ以上深入りする気はない。
しかし大蛇は困ったように目尻を下げ、しゅう、と吐息を洩らしながら続けてくる。
『この山の異変が人族の街で問題となっていることは理解した。しかし我らとて、冒険者共にうろつかれ、眷族たちを狩られては困るのだ。
複数の水場が涸れ、植物にまで影響が出ている今、ギルドに情報を持って行けば否応なく人族が山にやって来るだろう』
「確かに、それはそうですが……」
けれどただ沈黙するだけでは、正直時間稼ぎにしかならないだろう。いつ腕の良い冒険者が依頼を受けて来るかも分からず、解決の目処も付いていなければ、時間経過は結局ジリ貧しか招かない。
春になれば魔獣が水脈を戻してくれるなんて、そんな保証はどこにもないのだから。
『我らとて打開策を探していないわけではない。かの魔獣が強引に水と魔力を求めているのは、恐らく成体化が近いためだ。長引くだけ山の異変は続くが、逆にこの山に代わる場所か餌となる魔力があれば、奴はこの山を出て行こう。
その気があるなら、一度奴の居場所まで案内しよう。その目で見て、座視か協力かを判断するが良い』
「……どうするんですか、オーリさん?」
「うーん、でも、スイソウランの代わりに売れそうな薬草を探す作業もしたいしなー……」
下唇を尖らせ、今一つ反応の悪い態度を返すオーリに、双頭の大蛇はこう言った。
『我らの冬眠場所は、貴重な薬草が山ほど生えているのだが……』
「今日はもう時間がないから明日にしましょう! 朝から一日空いてるんですよ!」
「分っかりやす」
ギラッと目を輝かせて即答したオーリに、ラトニがそうツッコんだ。
※※※
実のところシーグ・ロワイルという男は、一般的な基準で言うなら、殊更悪党に分類されるほどの人間ではなかった。
ただ幾分うだつが上がらなくて、けれどそれなりに上昇志向はあって、気が向けば小さな善行くらいはするけれど、最近は機嫌の悪さに任せて飲み屋で管を巻くことの方が多くて、シェパの路地裏に相応しい程度には人生の汚濁を知っている。
それだけと言えばそれだけの、まあ要するに、シェパの街をうろつけばいくらでもごろごろしているような、その程度の人間だったのだ。
けれどそんな、一般人と悪人の間をうろうろするような人間は、程々の危険と安穏にしか接してこなかった分、手を出してはいけないラインなんて見極める目が、生まれついての極悪人より遥かに養われていないことが多くて。
長年冒険者ランクを上げることが出来ず、燻り続けたストレスが鬱憤となって溜まり切っている状態でそんな微妙な境界線に踏み込んでしまったシーグを、察して止めてくれるような仲間がいなかったことは、彼にとっての不運の一つと言って良いのだろう。
「――くそっ、あのガキ共どこに消えやがった!」
「荒れるなってば、シーグ!」
突き出した枯れ枝を叩き折って吐き捨てたシーグに、ゼクタが困惑した顔で窘めた。
フランカとアルフーリェが別行動を取る中、ゼクタが傍にいるのが自分の行動を懸念してだということは分かっている。
ゼクタとアルフーリェとフランカ。シェパの外から来たこの三人は、シーグのパーティメンバーというわけではなく、今件限りの協力者だった。
普段はソロで依頼をこなしているシーグだが、山中の探索は単独では効率が悪く、また現地の協力者を必要としていた三人組との利害が一致して、一時手を組むことになったのだ。
よく手入れされた革鎧に長剣、癖のあるダークブラウンの頭髪を持つゼクタは、シーグが苛立ちを露わにするたび、落ち着けと煩く意見してくる。
ゼクタたちはまだ第五階位の冒険者らしいが、シーグと違って早急なランクアップを求めていない。
三日もこうして山をうろついていながら、碌な手掛かりを得られていない現状を全く焦っていないように見えるゼクタの姿に、余裕がないのが自分だけだと再認識させられて悔しくなった。
「大体、あの子たちを見つけてどうするつもりなんだ。お前が見たっていう蛇のことだって、あの子たちが何か知っているとは限らないじゃないか」
「あの大蛇と俺の上に大雪を叩き落としやがったのは、あの小娘だ! 蛇と一緒に姿を消したなら、何か手掛かりを掴んだからに決まってる!」
「蛇に襲われて何とか返り討ちにした後、怖くなって逃げたのかも知れないだろう!」
そんなわけあるかと叫びたいのを、シーグは何とか耐えて目を逸らした。
あの雪の下から引きずり出された後、薄れる意識の下でシーグが最後に見たものは、巨大な蛇を軽々と担ぎ上げ、もう一人の子供を伴って駆けていく少女の背中だった。
あんな馬鹿らしい光景を正直に話しても、また幻覚を疑われるだけに決まっている。自分の存在を一顧だにせず、さっさと立ち去っていった少女の姿を思い出して、馬鹿にしやがってと舌打ちを洩らした。
(あの大蛇は絶対に魔獣だ、山の異変に関わってる可能性は高い。捕獲するなり討伐するなりすれば、ギルドからの評価も得られる)
恐らく子供たちも、そのつもりで大蛇を連れて行ったのだろう。
あんな小さな子供の攻撃に巻き込まれて意識を失っただけでも業腹なのに、その子供がいともあっさりアタリを引き当ててしまったことにも腹が立つ。
逆恨みだとは分かっていたが、諦めるにはあまりにも気が収まらず、シーグは顔を不機嫌に歪めた。
苛立ちに紛れて、手近な木を乱暴に蹴る。
「――おぅえっ!?」
なんか落ちてきた。
『………………えっ?』
奇しくも、ゼクタとシーグの声がハモる。
一瞬何が起こったのか理解できないままに、彼らは雪にまみれて身を起こす少女に注目した。
ずれかけたフードの下から覗く少女の顔が、ごまかすようにへらりと歪む。
「……え……えへ?」
曖昧に笑ったその直後、少女の姿が掻き消えた。
『!?』
一瞬ぎょっとしかけて、シーグたちは少女が超速の踏み切りで逃走したことを悟った。
あっという間に小さくなった少女の背中を遠くに発見し、シーグの頭に血が昇る。
「――……あっ……のクソガキ馬鹿にしやがってぇぇぇぇぇ!!!」
絶叫したシーグの靴底で、魔術による小さな爆発が発生した。
初動を強引に加速して少女を追い始めたシーグに、速度強化の魔術具を持たないゼクタは出遅れたようだ。微かに制止の声が聞こえたが、怒りに燃えるシーグの耳には届かなかった。
――あのガキ、ずっと木の上から俺たちを見てやがったのか……!!
苛立ち、仲間に八つ当たる自分の姿を探していた当人に見られていたと分かれば、憤怒に羞恥で拍車がかかる。
相手もまた何らかの魔術具を使っているのか、なかなか近付かない少女の背中を睨み付けながらシーグの顔が凶悪に歪む。
やはりあの子供は大蛇に怯えて逃げるようなタマではない、何かを掴んだからこそ、自分たちを探すシーグと接触しないように警戒していたのだ。
「待てクソガキぃっ! てめぇには聞きたいことがあるんだよ!」
「ぎゃああああ、嫌ですよー! お兄さんめっちゃ目付き怖いもん!」
「とっとと止まりゃあ痛い目は見ねぇよ! あの二首の蛇はどうした!?」
「黙秘権を行使しまーす!」
ズガン、と少女が木を蹴り折り、倒れ込むそれを回避したシーグは再び距離を稼がれる。
ギリギリと奥歯を噛み鳴らして、シーグはダガーナイフを投擲。樹上に逃げようとした少女の目の前に銀色のナイフが突き刺さり、逃亡を妨げられた少女の顔色が青くなった。
冒険者ランクのことがなくても、元よりシーグは相当短気な部類に入る。こうもとことん馬鹿にされた以上、最早見逃す選択肢などシーグには存在しなかった。
ガチン、と小瓶を歯でこじ開けながら、シーグは再び靴底で小爆発を起こし、少女との距離を一気に詰めた。
アルフーリェの試作品だという、足止め用の睡眠薬。まともに食らわせれば大人でも昏倒するだろうそれの使用を控えるほど、今の彼は冷静さを保っていない。
「このっ……止まれっつって――!!」
その直後。
ずぶん、と覚えのある感触を足が踏み抜いて、勢いのついていたシーグは思い切り前方につんのめった。
――泥だ。それも、腿まで埋まるほどの。
「こっちです! 早く!」
幼い少年の叫び声がして、目の前の少女が顔を跳ね上げたのが分かる。
少女とシーグの、丁度中間。木の陰に隠れて少女に手を振っているのは、大きな帽子を被った、やはり見覚えのある子供だった。
運悪く突っ込んだ泥溜まりは深く、すぐには抜け出せそうにない。
その場から動けないと悟ると同時に、反射で動いたシーグの手が、最後に目にした人間――即ち帽子の少年目掛けて、手の中の物を投擲していた。
「――――っ!!?」
引き攣ったような声を上げたのは、果たしてどちらの子供だったのか。
刹那のうちに帽子の子供との距離を詰め、その体を押し倒した少女の頭に、小瓶がぶつかって粉を舞わせた。
風に舞った睡眠薬をまともに浴びて、少女の体がぐらりと揺れる。
「――――……!!」
何事か叫んだ少年が、少女の体を即座に支えて。
同時に最後の力を振り絞って閃いた少女の手が、小さな何かをシーグの額にぶち当てた。
「ぐぁっ……!」
呻いた彼の意識が、ほんの数秒、強烈な衝撃に揺らされる。
大きく仰け反ったシーグが慌てて体勢を戻した時、子供たちの姿はそこにはなかった。
凄まじい勢いで小さくなっていく、ガサガサという異音を聞き取りながら。
杏ほどの大きさの固い木の実がシーグの肩を伝って、ころり、と地面に転がり落ちた。
※※※
――シーグの気配が充分離れた、道無き道のその上で。
ショッキングカラーの大きな影と、その背に揺られる二つの小さな影があった。
「助かりました、大蛇さん。僕一人では、彼女を運んで逃げられなかったでしょうから」
背に乗せた子供たちが落ちないよう、努めてゆっくりと移動する双頭の大蛇に揺られつつ。
落ち着いた声で礼を言うラトニに、大蛇は『構わん』と鷹揚に返した。
『お陰であの冒険者共も、我らの巣からは大分離れた。物のついでだ、このまま街の近くまで送るとしよう』
「そうですか……では、お言葉に甘えさせて頂きます」
『クスリ、タブン、スイミンヤク』
『薬の効果はごく軽いものだろう。一時間やそこらもすれば、小娘も勝手に目覚めるはずだ』
「ありがとうございます。街の近くまで送って頂ければ、後は僕が背負って行きますので」
シーグの目が逸れたあの一瞬で、横合いからラトニたちを掻っ攫った大蛇は、人の通りそうな道を避けながらするすると山中を進んでいく。
オーリが睡眠薬に耐えられたのは数秒だったようで、今はすいよすいよと眠りこけている彼女を抱き締めながら、ラトニは静かに目を伏せた。
『しかしあの男のことは、ただ放置するだけで構わんのか? 同じ街に住んでいるなら、再び会うこともあろうものを』
「ああ……まあそれは、『次に会った時』に決めますよ」
問うてきた大蛇に、ラトニは答える。
オーリの体に回す腕に、ぎゅっ、と強く力を込めて。
――何でもないような声色に、どこまでも冷たい感情を隠して。
「でも、出来れば早く片付けたいですね……多分、結果は決まっているでしょうから」
※※※
二人の子供を見失った後、何とか泥溜まりから抜け出したシーグは、仕方なく三人組と合流することにした。
置き去りにしてしまったゼクタには、あの少女に乱暴をしなかったかと随分しつこく問い質されたが、逃げられたと告げると安堵したように嘆息していた。
今日はこれで切り上げると言う三人と行動をそのまま共にする気にはなれず、一人で街への道を辿りながら、シーグは重苦しい溜め息をついた。
よれたズボンは水気と泥に汚れ、熱の封珠で乾かせなかったら凍えてしまっていたかも知れない。
その原因は、怪力を持っていたり顔を隠していたりする、例の奇妙な子供たちだ。あの二人に出くわしてからが、今日のけちのつき始めだと言って良い。
興味がなかったから曖昧だが、二人の名前は何と呼ばれていたか。
確かフランカが、リアとラトとか呼んでいたような気がするが――
「――ん……?」
そこまで考えて、しかしシーグはふと思い出した。
あの時はあまり気にしていなかったが、初めて自分があの双頭の大蛇を見つけた時、大きな獣が走るような物音を追って向かったそこには、確かにあの子供たちの姿もあった。
茂みを掻き分けていた自分の耳に、微かに聞こえてきた子供の声は、一体何と言っていたのだったか――
『――今です、オーリさん!』
「……リア、じゃない……?」
ぐ、と眉間に皺を寄せて、シーグは朧な記憶を漁った。
まさか、偽名を名乗ったということか。だとしたら何のために、と考えて、シーグは自分が子供たちの顔を思い出せないことに気が付いた。
フードと帽子で顔を半ば隠しているような子供たちだったが、その唇が整っていたのかそうでないのか、顎や頬が痩せていたのか太っていたのかさえ分からない。
ついさっきまで確かに間近で見ていたというのに、思い出そうとするほど薄れていくようなその印象に、彼は異常なものを感じて背筋を冷やした。
「おいおい、まさかあいつら、魔獣の仲間だったりしねぇだろうな……? いや待て、聞いたことがあるぞ。確か街に、鳥の二つ名で呼ばれてるガキがいたような……」
冒険者になってから十年以上をシェパで暮らしてきたシーグは、裏の連中ともそこそこ付き合いがある。
そのうちの数人が、酔いに任せて愚痴っていた。フードで顔を隠した、やたらと強い奇妙な子供がいるのだと。
「オーリってのは……まさか、その『奇妙なガキ』の名前なのか?」
わざわざ偽名を名乗ってまで隠そうとするところを見れば、その名は本名か、或いは極めて本名に近い渾名だと推測できる。
ごく、と唾を呑み込んで、シーグは思考を巡らせた。
『フードの子供』は街では正体不明で通っているらしく、詳細情報があるというなら売る先には困らない。
どうやらその子供は警備隊にコネがあるようで、迂闊に調べることができない者も多い中、シーグは自分の掴んだ情報の利用価値を探った。
(……少し揺さぶってみるか)
街に先回りしてあの子供たちを尾行すれば、住居や顔が分かるかも知れない。
出来ればその前に、山の異変や大蛇についても聞き出せるだろうか。
もしもあの子供たちが大蛇を倒してしまってでもいれば、シーグの受けた依頼は完全な骨折り損ということになる。いつまでも燻っている今の階位から冒険者ランクを引き上げるためには、一つでも多くの功績が必要だ。
「急ぐか……。ガキ共が街に着く前に、入り口で待機してなきゃなんねぇしな」
――呟いて駆け出したシーグの頭上、高い高い枝の上から、ピィ、と鳴いて鳥が飛び立つ。
その水色の小鳥の向こう側。
大蛇の背に揺られながら、うっすらと目を細めた少年の存在など、シーグに見えるはずもなくて。
――敢えて言うなら、シーグはこの時点で、明確な悪意を持って少女を陥れてやろうと思っていたわけではなかった。
『天通鳥』の話に然程興味もなかった彼は、『天通鳥』が何をしているのかなど詳しいことは知らないし、街の裏の住人たちが彼女をどの程度疎んでいるのかも分からない。
だからこそ彼は、掴んだ少女の情報を、軽い気持ちでしか扱わない。ちょっとした腹いせと小遣い稼ぎ、柄の悪い知人たちへの取引材料になるだろうとしか考えない。
たとえその前に少女たちを脅して情報を喋らせようとは考えていても、命まで奪うつもりはなかったし、その程度のことは彼にとって、あくまで日常の一部しかなかったのだ。
――彼は、己の選択が呼び寄せるものについて、深く考えようとしなかった。
これまでさしたる危険もなく重ねてきた「程々の悪事」は、彼の心を確実に麻痺させる。
単なる「小悪党」にしか過ぎないシーグは、いつもの日常を歩く速度で、境界線を踏み越えた。
ただのおまけだと思っていた少年こそが本物の爆弾だったのだと、シーグが知るまであと一時間。
――シーグの心臓が路地裏で静かに鼓動を止めるまで、あと一時間。
ラトニは人間相手だと静かになるけど、魔獣が相手なら結構喋る方だそうです。あと、地面に水分を含ませて泥化したのはラトニの仕業。
シェパに来る前のもっと前=前世。ここでオーリが少しでも切り込んでいれば、即座にフラグが立っていた可能性がある。「それって前世の話だったりして~? なーんちゃって、冗談冗談……」「どうして前世という言葉を連想したんですか生まれ故郷とでも考える方が自然なのにわざわざ前世を口にしてすぐに取り消したことには何か理由があるんですか冗談と言う割には目が泳いでいたのは何故ですか声のトーンが少しだけ上がっていたのは何故ですか典型的な冗談に見せかけた鎌掛けみたいに聞こえたんですけどこれは僕の気のせいなんですかねえどうなんですオーリさん早く答えてくださいよどうして黙っているんですかオーリさんねえ答えてくださいよ早く早く早く早く早く早く早く早く」「ナニコレコワイ」




