46:エンカウントは雪にまみれて
子供二人と蛇一匹(ただし頭は二つ)の、奇妙な見つめ合いは数秒だった。
ショッキングカラーの大蛇は幾分仰け反るような姿勢を取りながら、二又に割れた舌を僅かに覗かせ、うろ、と四つの目を泳がせて、
「――逃げたーっ!?」
シュザッと茂みに首を引っ込めて反転した大蛇に、ツッコミを入れたオーリは条件反射で大地を蹴った。
同時に飛び付いてきた重量は、彼女の動きを素早く察知したラトニだろう。両手足を使ってがっちりしがみつくラトニをおんぶおばけの如く背中に張り付け、オーリは即座に大蛇の追跡にかかる。
するすると地面を這って動く大蛇も尋常でない移動速度だが、一方のオーリとてトップスピードは馬にも勝る。
子供らしからぬ速さで見る見る追い上げてくるオーリを見て、大蛇がぎょっとしたようにスピードを上げた。
「待てこら、明らかに怪しい蛇め! 車を脇に寄せて止まりなさーい!」
「クルマが何だかは知りませんが、止まれと言われて素直に止まるのは無関係の者だけですよ。ところであれ、魔獣だと思いますか?」
「絶対上位クラスの奴だと思うね! あいつさっき、私たちを見て『ヤッベ』みたいな顔してたじゃない! 知能があるに決まってる!」
事態の解決は直接の目的ではなかったが、手掛かりの方から目の前に転がり出てきたとなれば話は別だ。
都合良くも相手が「蛇」に属する者であるのなら、場合によっては詳しい事情を把握している可能性がある。ここは是非とも捕まえて、職務質問に移行しなければならない。
目の前を必死で逃げていく大蛇がバキバキ枝をへし折っていくせいで道が拓かれ、些か小枝は飛んでくるものの、オーリとしては大分走りやすかった。
非常に目立つ色彩をしているので、見失う心配だけは要らないだろう。
盛大に雪を巻き上げながら、彼女は相方を背負って駆け抜ける。ちらちらとこちらを振り返ってくる大蛇が、更に逃げる速度を上げた。
「ええい、予想以上に速いな……! ちょっとほんとに止まってくださいよ! 話を聞きたいだけだから!」
『チッ』
「舌打ちした!?」
「人語が解るのは確かみたいですね」
二又に分かれた舌を器用に鳴らして舌打ちした右の頭が、オーリをキロリと睨んでくる。蛍光グリーンの目が光り、爬虫類特有の瞳孔がきゅうと細まった気がした。
『ニンゲン、カカワリタク、ナイ』
「! 喋った!」
片言ではあるが、発話まで出来るのか。
がさりと嗄れた印象のある低い声に、背中のラトニも息を呑むのが分かる。躊躇うように間を置いて、少年は大蛇に問いかけた。
「……もしや、人間に害された経験でもあるのですか?」
『ベツニ』
「ないんかい!」
「オーリさん、蛇の急所って何処でしたっけ」
「ラトニさんまずは落ち着いて!」
二方向に全力ツッコミを入れつつ走るオーリに、大蛇は逃げながら再び視線を向けてくる。オイ今嫌そうな表情したな、蛇の顔でもそれくらい分かるんだぞ。
『追ッテ、クルナ』
「そういうわけにもいかないんですよ! こっちにも事情があるもんで!」
『我ニハ、ナイ』
「危害は加えませんので、話だけでも聞いて頂けませんか。この山で起きている異常のことなんです」
『ウッゼ』
「今のは片言じゃなかった! はっきり発音してた!」
「いい加減腹が立ってきたんですけど」
真剣なのかおちょくっているのか分からない大蛇の態度に、ちょっとイラリと来たらしい。
肩越しに見るラトニの目付きが少々据わってきていることに気付いて、オーリはひくりと口端を引き攣らせた。
ぐ、と首に回す腕に力を込め、少年はオーリにこう告げた。
「――オーリさん」
「ハイ」
「このままでは埒が明きません。もう少しスピードを上げられますか? 一発入れてでも止まってもらいましょう。そうですね、あそこの――」
ぼそぼそ囁かれた指示を聞き終え、「了解っ」と応えたオーリが、次の瞬間一気に速度を上げた。
地面を蹴って手近な樹木の幹に『着地』し、そのまま小枝が行く手を遮るのも構わず跳躍する。
――ダダダダダダダダンッ!!
幹から幹へ、地面を経由して更に枝へ。木の弾性を利用し、足を取られる雪を避けた追撃ルートは、瞬間とは言え爆発的な速度をオーリに与える。
ビシビシと体を引っ掻く障害物を片っ端から体当たりでへし折りながら、一気に間近に迫った大蛇の唖然とした顔に口角を上げた。
仮にも追跡と説得を目的としていた先程までは、大蛇を刺激するのを避けて接近と攻撃を控えていたが、司令官様から指示があったとなれば話は別だ。
オーリの体力や背負うラトニの負担を考慮するなら長時間は出せない速度だが、この距離ならば多少の無理は押し通る。瞬きのうちに追いつかれた大蛇の目から見れば、少女の動きは残像すら見えただろう。
「タイミング注意ね、ラトニ!」
「分かってます!」
短く言葉を交わしたと同時に、二人の体が大蛇を追い越す。風圧と共に流れた二対の視線が驚愕に見開かれた蛍光グリーンの瞳と絡み合い、すぐに前方へと離れ去った。
足を止めずに追い越した二人の狙いが理解できず、大蛇の動きが僅かに鈍る。
直後、ずぶん、と音がして、大蛇の体が僅かに沈み込んだ。
『!?』
瞠目した大蛇が己の身に起こったことを悟り、突っ込んでしまった泥溜まりから抜け出そうと慌てて大きく身を捻る。
けれど二人の狙いには、その僅かなタイムロスで事足りた。
「今です、オーリさん!」
「オッケー!」
大蛇が泥から逃れるより早く、ラトニが叫んで転がるようにオーリの背中から飛び降りる。
ほぼ同時に、応えたオーリの小さな身体が反対方向へと跳躍した。
捻り上げたゴム風船が、人の手から解放されると同時に元の姿を取り戻すように。
ぐりん、と捻られたオーリの下半身が、一呼吸の溜めを挟んで体幹を戻す。
先程アカマガリの木を蹴り飛ばした時に似て、けれど明らかなほど威力を上乗せした速度で。
叩き込まれた蹴撃の向かう先は――周辺で最も巨大な大木の幹!
「――せぇいっ!!」
腹で練り上げた熱の塊が、喉を突いて空間を裂く。
鳥を想わせる幼い声は、しかし裂帛の気合いを呼気に孕んで。
――ゴゥンッ――!!!
空間そのものを刈り取るかのような一撃は、大木の全身を盛大に揺らし、猛烈な轟音を響かせた。
そして――
「――なっ、こいつ、魔獣か!? なら、この蛇が山の異変の原因――うおぉっ、何だ、泥――あべしっ!?」
「あっ」
傍の茂みから飛び出してくるや、オーリの傍でもがく双頭の大蛇を見つけてバスタードソードを引き抜き、大蛇と同じ泥溜まりに足を取られて動きを止めた、見覚えのある赤毛の冒険者の全身を。
樹上から雪崩の如く降り注いできた大量の雪が、大蛇諸共ぷちっと盛大に押し潰した。
※※※
「と、いうことで、キリキリ喋ってもらいましょうか」
雪に埋もれた大蛇と冒険者(確かシーグとか呼ばれてた男だ)を掘り起こし、大蛇を引きずってさっさと逃げてきた山の一角で。
堂々と腕を組んで仁王立ちするオーリと、その隣に控えるラトニに、オーリ持参の携帯懐炉を抱え込んでガタガタ震えていた双頭の大蛇は、心底ドン引いたような目を向けた。
『……今時ノ、ニンゲンッテ……』
「彼女が特殊例なんですよ。あんな速度で走れる子供も、あんな大木を蹴り一発で揺らせる子供も、僕は彼女以外に見たことがありません」
「し、指示したのはラトニじゃない! 蛇を雪で埋めろなんてえげつない作戦、即断で立てる子供はキミくらいだって!」
慌てて反論するオーリを、どっちもどっちだと言いたげな目で大蛇が見ている。こほん、と咳払いして、オーリは話を変えた。
「あー、にしても、進行方向に都合良くでっかい泥溜まりがあって良かったね。もしも落とした雪を回避されてたら、大蛇殿にはもっと警戒されてただろうし」
「……ええ、偶然ですが、運が良かったですね。そんなことより、あの冒険者の件が不安です。すぐに引っ張り出したから凍傷や低体温症の危険はないでしょうが、目覚めて僕らを追ってくるかも知れません」
「じゃあその前になるだけ話を進めよう。――大蛇殿、今更ですが、あなたは魔獣ってことで良いんですよね?」
表情を真面目なものに変えて切り出した子供たちに、大蛇もゆっくりと身を起こした。
ショッキングカラーの身体から、じわ、と威圧感が立ち上ったように感じられる。右の頭が黙って目を伏せ、代わりにずっと沈黙を保っていた左の頭が初めて口を開いた。
『――良かろう。牙を交えたわけではないが、我がお前たちに敗北したこともまた事実。人間と言えど些かの言葉を交わすもまた一興』
「あ、左の頭は流暢に喋るんだ」
「右の頭が後ろを向いている間も真っ直ぐ走り続けられていましたから、意識は左右で独立しているんだろうとは思っていましたけど……」
『我は見ての通り、蛇種の魔獣だ。幾十年この山に住まい、数多の眷族たちを纏めている』
ぼそぼそ言い合うオーリとラトニをさらりと流して、大蛇はぬらりと鱗を光らせる。
数多の蛇を纏めているという言葉は嘘ではないのだろう。頭を擡げ、傲然と胸を逸らしたその巨体には、確かに不可思議な風格と威容があった。
そうして、大蛇は高らかに名乗り上げる。
全身から滲み出る魔力も明らかに、白い牙を二つの口から覗かせて。
『そう、我こそは――この山に住まう蛇たちの頂点、フタマタノオロチ!』
「なんでかな、パチモンっぽい匂いがする」
「どっちかと言うと浮気性みたいな名前じゃないですか?」
でも、子供たちのツッコミは冷静だった。
頭が八つあったら伝説の怪物なんだけどなあ、とオーリは思った。
「それで、フタマタノオロチさんは、山の異変について何か知っているのですか?」
ことりと首を傾げて、ラトニが話を促した。
大蛇はうむ、と頷いた後、しばし言葉を探すように沈黙する。大人しく答えを待つオーリたちを順に見て、心なしか雰囲気を変えたような気がした。
『――確認するが、お前たちは山の異変の情報が欲しいのだな?』
「そうですよ。既に色々と支障が出てて、冒険者ギルドにも依頼が入ってるんです」
『ならばその情報の代価として、我らに手を貸せと言ったならば』
「僕らに出来る範囲のことなら、謹んでやらせて頂きますが」
二人の返答に大蛇は再び黙り込み、ややあってくるりと身を翻す。
ぱちくりと瞬きをするオーリたちを、彼は二つの頭で振り返り、佇む二人をきろりと見据えた。
『良かろう。こうして我が名を名乗ったのも一つの縁か。――人族の幼体たちよ、我らの巣に案内しよう。事の次第が知りたくば付いて来るが良い』
※※※
ずるずると道無き道を進んでいく大蛇の後を追い、ざくざく木々を掻き分けながら目的地に到着した時には、幾分日が傾いていた。
連れられるままに進んできたせいで、今や二人は大分山奥まで来てしまっている。
目印は残してあるけど、早く片付けないとまずいなあ、と思っているオーリの前で、双頭の大蛇がずるりと茂みを這い出して、ぽっかりと口を開けた洞窟へと潜り込んでいく。
少し迷って顔を見合わせ、二人は大蛇の後を追いかけた。
ごつごつと岩が突き出ている洞窟は、横幅も狭く、背の低い大人がようやく立って歩けるかという程度の高さしかない。
通るのが蛇と子供でなければ苦労しただろうと思わせられたが、外敵の侵入を防ぐという意味では都合が良いのだろう。
フタマタノオロチだって随分と大柄な蛇ではあるが、例えば同じサイズの熊などが来たとしても、この岩道をすんなり通れるとは思えない。
「――何か聞こえてくるね。空気が洩れるみたいな音が」
「風が通っているんでしょうか……。いや、そうというより……」
囁き合う二人の視界から、直後に大蛇の姿が消えた。数秒後、自分たちが広い場所に踏み出したことに気付いて、二人は目を見開いて周りを見回す。
――そこは、岩と土の壁に囲まれた、ホールのような空間だった。
広さだけなら、小学校の体育館ほどはあるだろうか。風がないせいか幾分寒さの薄れたそこは、所々に付着したヒカリゴケの発光で、薄明るく照らし出されている。
けれどそんなことよりも意識を奪われたのは、そこに集っていた数多の気配。
百を軽く越えるだろう大小の蛇たちがしゅうしゅうと吐息のような鳴き声を洩らし、打ち揃ってオーリたちを見据えていた。
「これ、は、また……」
こちらもやはり動揺したのか、大きな帽子の下で目を見開いたラトニが、こく、と唾を呑みながらそう呟く。
山中の蛇が集合した――にしては数が少ないような気がするが、それでも数えれば数百かそこらはいるだろう。
青大将程度のサイズから、双頭の大蛇の半分ほども長さがあるものまで。
それらがぬらりと輝く目で自分たちに注目しているとなれば、流石にオーリたちとしても、咄嗟に怯むのは避けられない。
――かろろろろろ、と音が聞こえて振り返れば、二人の背後に双頭の大蛇がゆっくりと身を滑らせたところだった。
入り口を塞ぐように位置取った大蛇は、集う蛇たちを睥睨し、何事か告げているようだ。
かろろ、と石の鈴が転がるような音に応えて、しゅう、と何処からか鳴き声が返る。
しゅう、しゅう、かろろ。
――瞬間、全ての蛇の目が、ぐるんとオーリたちに向けられた。
「っ……!」
オーリがびくりと気圧されるも、背後に座する大蛇の存在を思い出せば後退することは出来ない。
ラトニが僅かに空気を変えると同時、双頭の大蛇の右の頭が、再び人の言葉を紡いだ。
『――代価、約シタ』
片言の声はがさりと低く、蛍光グリーンの双眸が輝く。
――獲物を見る目だ、とオーリは微かに考えた。
薄暗がりの中、浮き上がるような瞳の中に映った自分たちの姿まで見える気がして、彼女の背筋に寒気が走る。
無意識にその手を握り締めたラトニの横顔を見ながら、山道で話した疑問の一つをふと思い出した。
――冬眠していない蛇たちは、餌をどうしているんだろう。
「情報をくれるって話はどうなったんですか?」
『与エル。タダシ、アトデ』
『我らの言葉に偽りはない。知る限りのことを語ろう。ただし全ては、代価を徴収してからだ』
「先に情報を教えてもらうわけには?」
『時間、ナイ』
『久方振りの食料を前にして、最早眷族たちも待てぬのだ』
右の頭と左の頭が、交互に言葉を発してくる。
チッ、と舌打ちをして、オーリは逃走経路を確認した。
(やっぱりのこのこ付いて来るべきじゃなかったか……。出口は入ってきた場所一つだけ、大蛇一匹なら正面突破で何とかなるけど、あの大量の蛇に一斉に飛びかかられたらまずいな)
視線を彷徨わせているオーリの隣で、ラトニの表情もまた温度を失っていく。ぐ、と繋ぐ手に力を込めて、ラトニがオーリを庇うように半歩踏み出した。
その動きに触発されたように、蛇たちが、じり、と距離を詰めてくる。飢えた視線を向けられて、オーリはラトニを担ぎ上げるタイミングを計った。
風の入らないはずの洞窟で、ラトニの髪がふわりと小さくそよいだ気がした。
オーリからは見えない帽子の下、うっそりと細められたその瞳が、刹那、金色の光を帯びて――
(……ん?)
――ふと。
蛇たちの視線に違和感を覚えて、オーリは内心首を傾げた。
「…………」
オーリは蛇たちを見て、大蛇を見て、ラトニを見て、また蛇たちを見る。
蛇たちの視線は熱く、ひたすら真っ直ぐにオーリとラトニ――の、胴体の辺りを見詰めていた。
「…………」
オーリはそっと視線を落とす。すっかり存在を忘れていたが、そこにはパンパンに中身が詰まった簡素な革鞄が巻き付けられていた。
革鞄と蛇たち、ラトニの背負う布鞄、背後の大蛇を代わる代わる見る。
蛇たちの視線は、まだ熱い。
「…………」
オーリが鞄の留め金を外す。
視線が一層熱くなった。背後の大蛇が身を乗り出したのが分かった。
「…………」
みっしりとケーキを詰められた菓子屋の袋を取り出し、オーリは無言で蛇たちにそれを掲げてみせる。
こくこくこくこく!と蛇たちが一斉に頷いた。
……………………。
「……そういうことは、目的をはっきりと言葉にしてくれませんかね」
じっとりした目で大蛇を見上げ、ラトニは低い声で呻いた。
脱力したオーリが、言葉もなく静かに崩れ落ちた。




