43:とあるガキ大将の災難
ゼファカ・サイニーズは激怒した。必ず、かの邪智暴虐の新入りを除かなければならぬと決意した。
ゼファカには女心が分からぬ。ゼファカは、街のガキ大将である。拳を振るい、時々母に叱られて暮らして来た。けれども恋に対しては、人一倍に敏感であった。今日未明ゼファカは家を出発し、道を越え路地越え、かつて彼女に出会ったこのストリートにやって来た。
「帰れ」
「ぐはあぁぁぁぁっ!」
そして威嚇の声一つ上げる暇なく、悪魔のような新入りに蹴り飛ばされた。
ズボンの尻が盛大に破けた。
※※※
忘れもしないあの日のこと、ゼファカは香ばしいパンの香りに包まれて、運命の恋に落ちた。
その更に前、花屋のエリザちゃん(年上)に恋をした時も同じようなことを思った気がしたが、それはさておき。
母のお使いを果たせず、困り果てていた自分にパンとお菓子を差し出して笑ってくれた名前も素顔も知らない彼女と、ゼファカはその日から何とか距離を詰めようと奮闘し――しかしその間にはあまりにも分厚い壁が立ち塞がっていた。
「おぉのれえぇぇぇぇぇぇ! クッソ生意気な新入りが調子に乗りやがってェェェェェェ!!」
厳密に言うなら、あの少年がシェパの街に来てから既に半年以上が経過している。従って、最早新入りと呼ぶには些か語弊があるのだが――まあそんなことは、恋する少年の前では些細な問題だった。
むらのある黒茶の髪に、顔立ちも確認できない容貌、やたらと冷たい淡々とした言動。
その分厚過ぎる壁の名を、イグレット孤児院のラトニという。彼の少年こそが、目下ゼファカの恋を阻む、最も巨大な障害であった。
如何せん、どんな世界でも、美しい愛と壮絶たる怒りが必ず人知を越えた力と奇跡を与えてくれるとは限らない。
基本的に人は、大前提として自分の有する範囲の力しか振るうことが出来ないのだ。たとえ愛や怒りで少々嵩増ししたところで、それを更に上回る攻撃を平然とぶちかましてくる人間など、残念なことに珍しくはない。
――例えば、どんな脅しもイヤガラセもサラッと超えて反撃してくる、理不尽なチート野郎とかな!
「――しかし、あなたも大概懲りませんね……」
呆れたようにそう言って、新入りは雪混じりの地面に伏してひくひく痙攣するゼファカを見下ろした。大きな紺色の帽子から覗く視線が蔑むような色を含んでいるのは、きっとゼファカの被害妄想ではない。
(コイツ本当にスペックの底が知れねェェェェェェ!)
真っ向勝負を挑んだ挙げ句に手もなく捻り倒されたゼファカは、引き攣った顔で口の端を震わせた。
運命の人に出会ったあの日から、ゼファカは名前も知らない彼女のことを聞こうと、唯一の手掛かりであるこの新入りの元に幾度となく訪れ、そして片っ端から粉砕されている。
せめて名前だけでも聞き出そうと、ゼファカが「あの子」と口に出すたび新入りの攻撃が苛烈になっているのは、絶対に気のせいではないだろう。
己の運命を掴むため、それでもよろよろと身を起こすゼファカに、新入りはチッと舌打ちをした。
「誰があなたの運命ですか。気安く彼女をあなたの人生に連れ込まないでください」
「へぶし!」
げしっと容赦なく足を払われて、ゼファカは再び地面に突っ込む。しばしプルプルと涙を堪えた後、キッと顔を持ち上げて、彼は勢い良く新入りに詰め寄った。
「そ、そう言われて引っ込めるかー! お前が何と言おうと、オレはあの子に運命を感じたんだ!」
「名前も覚えてもらってない分際で、何を図々しいことを……ちょっと、帽子に触らないでください。大切なものなんですから」
掴みかかるゼファカの手を冷たく払い、被っていた帽子をわざとらしく下げ直す新入りに、ゼファカは一瞬怪訝そうに眉を寄せ、それからはっと目を見開いた。
恋する男の第六感とでも言えば良いのか、彼はふるふると震える手を持ち上げ、真新しい帽子を指差す。
「おい……お前、確か去年まで帽子なんか被ってなかったよな……? 大切なものって、まさかそれ……」
全裸で寒風に晒された人間の如くガタガタガクガクと震え出すゼファカの声に、新入りは言葉を返さず、ただ口元だけでニヤリと笑ってみせた。
――それが全ての答えだった。
「――――っやっぱりあの子からのプレゼントかあァァァァァァ!! 畜生、見せびらかしやがってええええええ!!!」
涙すら混じった絶叫に、新入りは「うるさいです」と更に一撃蹴りをくれる。
そうして倒れたゼファカに唾を吐かんばかりの眼差しをくれた後、彼はさっさと身を翻した。
最早ゼファカには一片の興味もないとでもいうつもりか。打ちのめされて地に伏すゼファカを一顧だにしない新入りは、泥や水溜まりの多い道を難なく駆け去り、向こうから歩いてきたオリーブ色の上着目掛けて真っ直ぐ飛び付いていく。
「おわぁ」という間抜けな声がゼファカにも聞こえ、彼はその人物の正体を悟った。
(あ、あの子は、まさかっ……!)
あのいけ好かない新入りが、唯一懐いている相手。
それは同時に、己の恋い焦がれる少女の存在をも意味していた。
想い人が現れたと知るや、たちまちゼファカの頬が上気する。
数ヶ月振りに再会した彼女に、一体何と声をかけるべきか。
起き上がろうとした体勢のまま、歓喜と迷いと衝撃にビシリと体を固まらせた彼が見つめるその先で、危なげなく抱き止めた新入りから身を離した少女は、きょとんと首を傾げてみせた。
「あれ、キミ、さっきあっちにいる子と話してなかった? なんか倒れてるんだけど放っといて良いの?」
「良いんです」
「え、でも友達じゃないの? めっちゃこっち見てるんだけど」
「違います」
「そう? 見覚えある気がするんだけどな。アレ、友達じゃなかったら何だっけ。宿命のライバルだっけ」
「知りません違います」
「えー、でも確かに会ったことあるよ。名前は何だっけ、たけふみくんだっけ?」
「違いま……そうかも知れませんねええたけふみくんですたけふみくん。まあ僕らには何の縁も関係もない人ですが」
「そっかー、思い出してすっきりしたよ。あれ、キミ、それ私が王都土産にあげたチョコだよね? まだ食べてないの? 甘いものは嫌いじゃなかったはずだよね?」
「いざ食べようと思うと、どうにも勿体なくて。何せ、あなたがくれたものですから。あなたがわざわざ、僕のために、僕に食べさせるために、僕を想って、僕だけを想って、乏しい資金の中から買ってきてくれたものですから。
あまりに貴重過ぎて手を出せなくて、いっそあなたと一緒に食べようと思って持って来たんです」
「なんか妙に強調するね。でも、ちっちゃいの一粒しか買えなかったんだから、キミが全部食べなよ。私はあっちで幾つか食べたし」
「あなたと半分こがしたかったんです。……嫌ですか?」
「よっしゃ半分こしよう、美味しい物は分け合うべきだよね!」
(――あああああああああああああああっ!!)
感動した様子でひっしと新入りをハグした少女に、ゼファカは内心で絶叫を上げた。
わざとらしく声を張り上げて彼女と会話をしていた新入りが、彼女の腕の中からちらりとこちらを眺めてくる。
少女の背中に腕を回し返した新入りの口元が吊り上がり、ハン、と鼻を鳴らしたのが確かに見えた。
そして、その唇が小さく動く。
――か、ん、せ、つ、キ、ス。
――新入りイィィィィィ!!!
※※※
誰が失意に暮れようが、時間は平等に過ぎていく。
再びゼファカがその二人の姿を見つけたのは、もう午後も遅くなってからのことだった。
冬の日は短い。日も暮れかけたその頃合い、真新しい紺色の帽子を被った新入りは、背中に見覚えのある少女を背負い、てくてく路地を歩いていた。
規則正しく呼吸しているところを見れば、どうやら少女は眠っているらしい。
自分より少し背が高い少女を背負い上げ、速度はやや遅いとは言え危なげなく歩き続けている新入りは、存外力があるらしい。二人の姿を見つけるや否や、ゼファカは反射的にそちらへ足を向けていた。
「おいコラ新入り! 待てよ、どこ行くんだ!」
叫んで駆け寄ったゼファカに、新入りは酷く鬱陶しそうに唇を歪めてこちらを見てきた。そのまま歩調を変えずに横道へ進んでしまう新入りを、ゼファカは慌てて追いかける。
「付いて来ないでください。僕は忙しいんです」
「う、うるせぇ、オレもこっちに用事があるだけだ! それより、その、その子はどうかしたのかよ? 何か、具合でも悪いなら、」
「ちょっと疲れて寝てるだけですよ。あなたに関係ありません」
すたすたと歩いていく新入りは振り向く気配すら見せないが、ゼファカは諦め切れずに追い続ける。
何せ、その背の少女に会えるのは、今日でようやく二度目なのだ。この機を逃せば、次はまた何ヶ月後になるか分かったものではない。
辺りには二人分の足音と遠い喧騒が聞こえるくらいで、周囲に人気はない。
汚れた雪溜まりを飛び越え、束ねた廃材の横を通り過ぎた後、ようやく新入りが足を止めた。
「……いい加減しつこいですよ、いつまで粘る気ですか。僕らはこの後『寄る所がある』ので、このまま付いて来られると困るんですが」
「……何処に行くんだよ」
「『お仕事の報告』ですよ。あなたに関係ないことです」
唇を噛み締めて俯いたゼファカに、新入りは溜め息をつき、そのまま再び身を翻す。
もう少し歩けばまた表通りで、そちらはゼファカがあまり近付いてはならないと母に言われている地区だ。
どこまでも頑なな新入りと目覚めない少女を、言い付けを無視してまで追い続ける踏ん切りも付かず、ゼファカはぼんやりと二人分の背中を見送って――
――ざく、と。
半ば泥と同化した雪を踏み締める音に、無意識のうちに振り向いた。
足を止めた新入りが、ゆっくりと後ろを振り向いたのが分かる。
ゼファカの向けた視線の先、一人の男が立っていた。
「よう、クソガキ。このままギルドに向かうつもりか? あの大蛇はどうなった?」
低い声で口を開いたその男の服装は、黒みがかった革鎧に大振りのバスタードソード、赤みの強い髪を抑える深緑色のバンダナ。
一見して冒険者と分かる姿と彼の台詞に、ゼファカはこの先に冒険者ギルドが存在することを思い出した。
『冒険者には柄の悪い人もいるから、あの辺りには近付いちゃいけないわよ。特に夕方以降は、仕事帰りで気が立ってることが多いからね』
母の言葉が脳裏を過ぎり、ゼファカは一歩後退る。
しかし冒険者はゼファカになど目もくれず、落ち着いて見上げる新入りと、その背に負ぶさる少女を、苛立った様子で睨めつけた。
「怪力のガキはお休み中か。都合が良い」
「ええ、ですからあまり大声を出さないで頂けると有り難いです。……ご用件をお伺いしても?」
「決まってるだろうが。証拠品を寄越せ」
舌打ちせんばかりに吐き捨てられた言葉に、新入りはゆっくりと首を傾げてみせた。
「心当たりがありませんね。証拠品、とは?」
「とぼけんじゃねぇ! ギルドで出してる山の調査依頼だよ! 情報提供にしろ達成報告にしろ、ギルドに行くんなら、何か証拠の品があるはずだ!」
「騒がないで欲しいと言ったのに……」
明らかに眉を顰めているのだろう不快そうな声色で、新入りが呟く。
気圧された様子など欠片もなく、すうすうと眠りこける少女を心配そうに見やるだけの少年に、冒険者から怒気が立ち上った。ビキリと額に青筋を浮かべ、一歩踏み出した冒険者に、無視されているはずのゼファカがびくりと震える。
「……クソガキが、大人を舐めてんじゃねぇぞ」
「舐めているつもりはありませんが……まあ、この距離ならあなたに捕まる前に、表通りに逃げられるとは思っていますね」
「ほお、なら――」
冒険者がニヤリと口の端を吊り上げたと同時、その手が素早く閃いた。
直後、ゼファカのすぐ傍で何かが断ち切れる鋭い音がする。ぎょっと見上げるゼファカの前に、けたたましい音を立てて大量の廃材が倒れ込んできた。
「いっ……!?」
ナイフか何かを投げられて、束ねていた縄が切れたのだろう。さして広くもない道は、崩れ落ちてきた廃材に塞がれ、ゼファカと新入りとの間を塞ぐ。
同時に、反射で飛び退こうとしたゼファカの首根っこが、即座に距離を詰めてきた冒険者の手に掴み上げられた。
ギラリと光るダガーナイフを押し当てられ、ゼファカは完全に硬直する。
「逃げるんじゃねぇぞ。無関係なガキを殺されたくなければな」
嘲笑を含んだ冒険者の声に、ゼファカはぞわりと背筋を震わせた。
自分の背後にいるのは現役の冒険者で、恐らく自分を殺すことなど何とも思っていない人間だ。
沈黙している新入りは焦った様子こそないが、痩せた体に自分を助けるだけの力があるとは思えない。都合良く警備隊がやって来てくれるとも思えず、生まれて初めて感じる明確な命の危機に、ゼファカの顔から見る見る血の気が引いていった。
――確かに、何も知らない者から見れば、この状況は絶望的だろう。
けれど、ゼファカと冒険者にとって計算外だったのは、目の前の小さな少年が有する技量。
少女を背負って無言で佇む少年が冒険者の言葉に感じたのは、仮にも知り合いを人質に取られた焦燥ではなく、「そこまでやるのか」という驚愕ですらなく――「何故それが、自分への抑止力になると思ったのか」という、純粋な疑問と呆れであった。
どうやら自分は、随分と「良い人」に見えているらしい。内心そう考えながら、少年は深々と嘆息した。
「馬鹿ですねぇ。僕らを尾けようとなんてしなければ――或いは、誘いに乗って出て来た挙げ句、人質なんて取らなければ……命くらいは助かったかも知れないのに」
「あァ!?」
顔を歪めて恫喝する冒険者に、新入りはゆるりと雰囲気を変える。じわりと染み出すような何かが、静かに顔を上げた彼の全身から立ち上ったように思えた。
「他者を踏みにじることを厭わない下衆なら、むしろ好都合。あなたは僕に大義名分を与えてしまった。
お人好しなのも、甘いのも――彼女だけなんですよ」
――その、一瞬。
前髪の隙間から覗いた少年の瞳が金色に光った気がして、冒険者はぞくりと背筋を震わせた。
不可解な恐れを振り払うように、彼はダガーを持つ手に力を込めようとして――その手が全く動かないことに、数秒置いて気が付いた。
「あなたが魔力耐性の低い人で良かったです。ご存知でしたか? 人体の六十パーセントは水なんです」
囁くような少年の声は、事ここに至ってさえ、ただただ淡々として聞こえて。
――体内の水を操られ、体の内側から動きを制限されているだなどと、単なる冒険者である男に気付けるはずもなく。
あまりにも平静を保つその少年の態度こそが、より一層の恐怖を誘う。
冒険者の手から力が抜けて、ゼファカは無造作に地面へ落とされた。
今の今まで自分を人質にしていた冒険者の傍に留まる気にはなれず、だからと異様な空気を纏っている新入りの元に行くことも出来ず。
ひ、と絞り出すような声を洩らし、半ば這うように道の端へと避難した彼に、無表情な新入りは一瞥もくれなかった。
「お、い。何だこれ。お前、まさか、魔術師、」
「あなたのような存在が彼女の前に現れるのは、あまり歓迎したくないんです。彼女は冒険者という職業に、何やら夢を抱いているらしいので」
「待て、ちょっと待てよ。分かった、諦める。こんなことが出来ると知ってたら、ちょっかいなんて出さなかった」
「それなのに、人を殺してまで他人の功績を奪い取ろうとする冒険者なんて、強盗殺人犯と何ら変わりはないでしょう? 彼女、きっとがっかりすると思うんです」
「もう二度と、お前らの前には、」
「だから――」
もつれる舌を何とか動かし、少年を制止しようとする冒険者の喉が、強制的に停止させられた。
ぐるりと首に巻き付いたそれは、量にすれば桶に一杯程度しかない――透き通った水。
「――消えてください、シーグさん。二度と彼女に会わない場所へ」
ゴキンッ、と鈍い音がして。
断末魔の声すらなく崩折れていく冒険者の身体を、ゼファカはただ、茫然と見つめ続けていた。
――思考力を失っていた時間は、実際には数十秒にも満たなかったのだろう。
ざ、と踵を返す音がして、ゼファカはのろのろと顔を上げた。
日の沈んだ横道では、たった今事も無げに一人の人間の首をへし折った子供が、最早何の興味もないというように、ゆっくりと背中を向けたところだった。
「あ……」
「僕は、あなたのような存在も気に食わない」
ぽつりと落とされた低い声に、ゼファカの肩が小さく跳ねた。
「何も知らない癖に寄って来て。僕と彼女の間に割り込もうなどと、分不相応なことを考えて。僕にとっての唯一に、のうのうと手を出そうとするふざけた輩が」
肩越しに振り返った新入りの目が、初めてまともにゼファカを捉えた。
温もりの欠片もない冷えた視線に、ゼファカの顔が強張る。
「今あなたが無事でいるのは、たまたまその男が与し易い人間だったからです。彼女以外がどうなろうと、たとえ人質とされて無為に死のうと、僕自身は一片の痛痒も覚えない。
これに懲りたら、二度と彼女の前に現れないでくださいね。――次はあなたが、そこに転がる男のようになるかも知れませんよ」
言い捨てて。
新入りの少年は今度こそ、ゼファカの前から立ち去っていった。
道に残されたゼファカの傍で、放置された廃材が、カラン、と小さな音を立てた。
※※※
「あの子、きちんと懲りてくれますかねぇ……」
ぐうぐうと呑気に眠り続ける少女を背にゆっくりと道を歩きながら、少年――ラトニは小さくそう呟いた。
不快と苛立ちが募るまま、殺意を露わに脅し付けはしたものの、実のところそれを実行に移す気など、ラトニには微塵もなかった。
ゼファカ・サイニーズは善良な一般市民であり、それ以上でも以下でもない。自分たちに危害が加えられたわけでもなく、私欲のまま正当性のない殺人に手を染めた時点で、ラトニはオーリの傍にいる資格を永久に失ってしまう。
排除という行動を取るのもその程度も、やるなら時と場合と相手を選んで。
限度を弁えない防衛行為は、単なる理不尽な暴力に過ぎないのだ。踏み越えてはならない一線を、ラトニはラトニなりに守っているつもりだった。
――大丈夫だ。たとえ何があったとしても、オーリはあの子供を選ばない。
「ねえ、オーリさん。僕は極端な話、あなたが殺人鬼になろうと国家反逆犯になろうと構わないんです。ただ、僕に対してだけ、あなたがあなたであってくれさえすれば」
少しずつ近付いてくる表の喧騒を耳に入れながら、ラトニは少女に向かって、彼女には聞こえない言葉を紡ぐ。
「あなたが前世を思い出してくれなくても、僕は待っていられます。たとえ待つ時間が一生だとしても、僕はあなたを待ってみせます。
――ねえ、オーリさん。
僕を、置いて行かないでください。
傍に置いてください。名前を呼んでください。笑いかけてください。手を繋いでください。子守歌を歌ってください。時々抱き締めてください。怒ってください。泣いてください。褒めてください。叱ってください。許してください。優しくしてください。好きだと言ってください。甘やかしてください。受け入れてください。肯定してください。否定しないでください。相談してください。下らない話をしてください。色々な知識を教えてください。裏切らないでください。
もしもそうしてくれるのなら、僕は――あなたのために、何でもしてあげますから」
安いものだ。手を汚すくらい。
本当に――呆れるくらい、安いものなのだ。
ただの子供であるゼファカすら、ラトニが目の前で人を殺したことに、怯えはしても責める色など浮かべなかった。
先に攻撃してきたのが冒険者の方であり、自らもまた命の危機に立たされていたという理由もあるだろうが、良くも悪くもこの街の住人は、人が死ぬことに慣れている。
(だって、ここはそういう街なんです。人の命の値段など、オーリさんが思うより遥かに安い。
それは彼女以外の人間にとって、あまりにも当たり前のことで――でも、オーリさんはそれをしっかり理解し切れていない)
そればかりは上流階級に生まれた弊害だろうな、とラトニは思う。
もしもラトニやゼファカと同じく市井の子として生まれたならば、自我が芽生えてそう経たない頃には、彼女もまた、その冷酷な摂理を思い知らされていたに違いない。
自分が見逃した者たちをラトニが手に掛けていると知れば、オーリはきっと嘆くだろう。中途半端な自分の甘さがラトニの手を汚させてしまったと、自責と後悔に泣くのだろう。
だって彼女なら、ラトニの行動の理由を正しく理解する。ラトニの選んだ全てが残らず彼女のためなのだと理解出来てしまうからこそ、彼女は一層自分を責める。
(けれど、それで良い)
傷付くのなら、ラトニのためが良い。
ラトニを想って、ラトニだけを想って。
そうして罪悪感で雁字搦めになって、何処にも行けなくなれば良い。
――でも、苦しんで欲しくないのも本心だから。
「僕からは、何も教えません。あなたが真実を知る、その日までは」
きっと全てを知った後も、彼女はラトニと共にいるだろう。
ラトニが尽くせば尽くすほど、彼女はラトニを切り捨てられなくなる。情と罪悪感が積み重なって、突き放すなんて絶対に出来なくなっていく。
――離れることを許すつもりだって、勿論ラトニにはないけれど。
「それまでは、その真っ白な笑顔を――僕が大切に守ってあげますよ」
自我と過去を取り戻してから、オーリと再会するまで、どれだけ長く感じたことか。
三百年前に死んだ無力な子供の憎悪の燠火は、今もラトニの胸の奥でじりじりと燻っていた。
世界でただ一人自分に優しくしてくれた、自分と同じ傷痕を持つ少女。彼女に依存して、執着して、ラトニ・キリエリルはようやくこの世界で呼吸をしている。
選ばれる自信も、自分が他の誰よりオーリを理解している自信もあるけれど、保険は多い方が良い。
少しずつ少しずつ、滴り落ちる水のように彼女の心に染み込んで。二度と分離が出来ないように、分かたれることがないように。
オレンジ色の灯りに照らされた表通りに踏み出すと同時に、ラトニは静かに気配を消して足を早めた。
目的地である薬師の診療所まで、徒歩で数分。冒険者ギルドに向かう人々とは逆方向に向かいながら、ずり落ちかけた背中の少女を揺すり上げた。
予定通り、昼間に山で摘んだ薬草を診療所の主に渡したら、オーリを起こしてやろう。
きっと真っ暗な空に焦るだろうから、夕食にはまだ時間があると教えてやらなければならない。
――あなたがいれば、世界は鮮やかだ。




