42:託宣を賜はる
『可愛げがない! 最近の子供は、全く可愛げがない!』
透き通るような肌色の、と言うか、文字通りの意味で透き通った頬を焼いた餅のように膨らませ、プリプリと怒る少女に、カーペットすら敷いていない床に腰を落ち着けたオーリはじっとりと目を据わらせた。
「初対面の子供を悪霊のフリで脅かそうとするあなたも、大概性格が悪いと思いますけど……」
『だからって悪霊返しする奴があるか! 何だったんじゃあの包帯女、ワシに実体があったら、うっかり窓から飛び降りて大惨事になっとるところじゃわい!』
「そんなに怖かったんですか……。 計 画 通 り 」
『キィィィィィ!!』
わざとらしいオーリのドヤ顔にギリギリ歯軋りする少女の容姿は、見たところ十代半ばから後半頃か。
床まで届くほどの長い金髪に青のメッシュ、ぱっちりと目の大きな可愛らしい顔立ちに反して、しかしその口調は元気なおばあちゃんの如く古めかしい。
更に、こちらは魔術的な意味でもあるのだろうか。ゆったりとした衣装の下から覗く腕には、菱形をした青い石のようなものが、綺麗に並んで幾つも埋め込まれていた。
椅子など置いていないこの部屋で、器用に空中に胡座を掻いて、半透明の少女はフンと荒く鼻息を吐いた。
『久方振りの客人が年端も行かぬ子供となれば、浮かれに任せて少々からかおうと思っても仕方がなかろう。悲鳴の一つも上げんとは、ノリの悪い小娘じゃ』
「幽霊のお姉さん、そんなにヒマだったの?」
『お姉さんではない、ルシア様と呼べ! これでも由緒正しい精霊の端くれじゃぞ!』
堂々と言い放たれた言葉に、オーリはサンタクロースの非実在を証明された子供のような顔になった。
ややあって彼女は胡座を掻いた膝に肘を突き、手のひらで支えた顔を胡乱げに顰める。
「…………精霊?」
『その通り!』
「…………本当に?」
『何を疑うか、ワシの存在はこんなにもミステリアスで幻想的じゃというに!』
黙って立ってればな、とオーリは思った。
確かにルシアと名乗った彼女は、幽霊と言われるよりも精霊と言われた方が納得できる容姿をしている。
愛らしいながらも秀麗に整った顔、滑舌良くも透き通った声色。両腕の素肌と一体化している青い石の列も、付けているのが彼女となれば、痛々しさではなく一種のシャーマニズムを連想させて神秘的だ。
ただ、敢えて言うなら、
「その言動の俗っぽさが、全てを台無しにしてるって言うか……」
『お主、さっきから言いたいことズケズケ言いよるの。これだから最近の若いもんは目上を労らぬと言われるんじゃ』
「最低限の礼儀は心得てますよ。ツッコミも忘れないだけで」
『揚げ足を取るでないわ! ああ口惜しい、嘆かわしい! ワシの若い頃なんぞなあ、日常のほんの小さな幸運に恵まれた時でさえ、人間たちは一々神と精霊に感謝を怠らず、』
「出たよ年寄りの『昔は良かった』話」
げんなりした顔で、オーリはぐだぐだになった空気に肩を落とした。
本当におばあちゃんか、この精霊は。いや精霊なんだから、年齢的にはもうおばあちゃんなんて域を超越してるんだろうけど。
「それより、ルシア様は――あ、ちなみに私の名前は、」
『知っとるわ、オーリリアじゃろ。何ぞこそこそと駆けずり回っとる、当代とその嫁の一粒種』
「……よくご存知で」
オーリが素直に敬称を付けたことに、ルシアは幾分機嫌を良くしたようだった。
一方オーリはほんの少しだけ警戒を現して、ルシアの顔色を探ろうとする。ルシアの唇がにいぃ、と上がり、瞳の奥に不可思議な影が揺れた。
『そう案ずるな、オーリリア。元よりワシは、人の営みに首を突っ込む気などありはせんよ』
「それは、あなたから情報が漏れることはないと考えて良いって意味ですか?」
『漏らす気になったところで誰にも聞こえやせんわい。――ここ数十年、ワシの姿を見ることが出来た人間はお主ただ一人じゃ』
けらりと笑って、ルシアはそう言った。
『元々精霊なんてものは、そうそう人の目に見える存在じゃないが、中でもワシは色々と訳ありでの。この部屋への道が繋がることさえ稀となれば、こうして会話ができる相手と出会う確率がどれだけ低いかは分かるじゃろう。だから、まあ、そう怖い顔をするでない。ホレ、お供え物の酒飲むか?』
「……八歳なので遠慮します」
祭壇に供えられていた瓶を軽い調子で振って見せるルシアに、オーリは溜め息をついて緊張を解いた。
白い陶製の細瓶は流麗な金色の蔦模様で彩られ、ルシアさえ態度を繕えば神酒が入っていると言われても信じただろう。『堅苦しいのう』と言いながら酒をラッパ飲みする姿からは、威厳の欠片も感じられなかったが。
『悪いが、ここに酒以外のもんはないぞ。たまにはつまみの一つでも添えれば良いものを、供えられるものと言ったら毎年酒ばかりじゃい』
「空きっ腹にお酒は悪酔いしそうですねぇ……。甘い物で良かったらどうぞ」
健康に悪い、なんて精霊に言うことでもあるまいが、何だか見ているだけでも酔いそうだったので、オーリはリクエスト通りつまみを提供してやった。
おやつにと持たされていた揚げ菓子の袋を差し出せば、砂糖と油の香りにルシアが目を輝かせる。
『祈年祭の祝い菓子か。久方振りじゃわい』
半透明の指が、粉砂糖のかかった揚げ菓子を器用に摘まむ。一口大のそれを見つめて目を細め、彼女は懐かしげに笑った。
『昔は、何処の家でもこれを窓辺に山と積み上げた。幸運を運んでくる鳥の人形を玄関に置いて、精霊の止まり木を菓子の傍に用意したもんじゃ。
人の食べる分の他に、供えるための菓子を皆別に分けておいた。祈年祭の間中、常に一つは窓を開け放しにして、いつの間にか菓子が減っていることに喜んだ』
「へぇ……野良犬とかが食べてたんですかね?」
『さあて、犬かも知れんし猫かも知れん。最高の吉兆は鳥と精霊で、窓辺の菓子が早く無くなれば無くなるほど、その年は幸運に恵まれると言われたよ』
ルシアの唇が、小さな揚げ菓子を食んだ。目を閉じて咀嚼し、ゆっくりと飲み込む。
舌に纏わり付く砂糖の味、ドライフルーツの歯応え。甘い菓子の味にかつての日々を思い出そうとするかのように、彼女はほう、と息を吐いた。
『――干し葡萄とポウのワイン漬けか。×××はこの味が好きじゃった』
呟いた名前らしきものは聞き取れなかった。
伏せられたルシアの睫に、思い入れのあった相手なのだろう、とオーリは思う。――きっと、今はもう会えない誰か。
長く生きる存在にとって、他者との別れは避けられない経験だ。
この世界は、ルシアと同じだけの時間を生きられないものが多過ぎる。
(精霊って、皆こんなに人間臭いのかな)
気を取り直したように顔を上げ、かつて年ごとに巡った各地の祈年祭の光景を喋り始めるルシアを眺めながら、オーリはふと、そう思った。
楽しそうに記憶を遡って言葉を紡ぐルシアは、その時出会った人々や面白い経験を語りながら、とても生き生きとして見える。
けれど、もしもオーリの思考が正しいのなら、それは酷く切ないことではないだろうか。
オーリは、ついさっき出会ったばかりのルシアのことをほとんど知らない。
美人で精霊で口調は年寄り臭くて、でも存外剽軽で親しみやすい。
――けれど、だからこそ。
人と同じような感情を持ち、人と同じように誰かと親しみ、そして好いた誰かに置いて逝かれ続けるのは、さぞかし苦しいことだろうと思えてしまうのだ。
置いて逝く側と、逝かれる側と。
どちらが辛いかなんて一概には言い切れないが――ずっと辛さが続くのは、きっと生き続けねばならない方なのだから。
やがてルシアの言葉が途切れるのを待って、大人しく相槌を打ち続けていたオーリは徐に口を開いた。
「――ルシア様、私、また来ますよ」
『……何じゃ、藪から棒に』
揚げ菓子の欠片を飲み下して首を傾げるルシアに、オーリは肩を竦めた。
「どうせ堂々と屋敷を出られなくて暇なんだし、猫もフードも被らずに話せる相手は貴重なんですよ。だから、私はまた会いに来ます。あなたと話しに、またここに来ます」
告げるオーリに、ルシアは小さく目を見張って。
それから、微かに唇を綻ばせて何かを言った。さっきと同じ誰かの名前のように思えたが、やっぱりオーリには聞き取れなかった。
清かな微笑を浮かべたルシアの表情は酷く透徹したもので、これで実体があれば美しい人形のように見えるだろう、とオーリは思った。
『……何じゃい』
「いえ、別に」
無意識に動いた手が、菓子を食べ終えたルシアの頭に伸びていた。
丸い頭部を撫でようとした手は空を掻き、触れることが出来ないまま引っ込んでいく。自分から離れていく手を、ルシアは視線だけで見送った。
「……やっぱり、触れるのはお供え物だけみたいですね」
やや残念そうに眉を寄せて、オーリが呟く。
ルシアは少し沈黙した後、唇に付いた粉砂糖を舐め、それからゆっくりと頬を緩めていった。端正な面差しにけらりと愉快げな笑顔を浮かべて、彼女は胸を張ってオーリを見下ろす。
『当たり前じゃい。お主程度の神格で、今のワシに触れられるものか。ワシは安くないぞ、お触りしたいなら死ぬ気で修行を積んでこい』
「だからそういう俗っぽさが残念だってんです。あと、その言い方じゃ、まるで私が神格持ってるみたいに聞こえますよ」
『持っとるぞ。でなきゃこのワシに幻術なんぞかけられるものか』
「そうですか。口に粉砂糖べったり付けた精霊に――すいません今何て言いました?」
『気付いとらんかったのか? お主神格持っとるぞ』
事も無げに繰り返されて、オーリはじわりと目を見開いた。
…………えっ?
「……え? どういうこと? 神格って、あの神格? どの神格? 神格って、どっち行ったら見つかるの?」
『目がザッパザッパ泳いどるぞ。いい感じに混乱しとるのー』
「アレ、なんか、色々と分からなくなってきた。そもそも神格って何だっけ。独立した個人としての人間性?」
『そりゃ人格じゃろ、阿呆』
「じゃあアレか、より高次の学び舎に進む」
『それは進学』
「宗教に置いてその教理を体系化し、信仰の正当性や真理性、及び実践について研究する――」
『それは神学。お主、ええ加減にせいよ』
じっとりした目で睨み付けて、ルシアは空の菓子袋を投げつけた。
ボサッと袋が額に当たり、ぐるぐる泳いでいたオーリの目が一拍置いてルシアに焦点を合わせる。ルシアはフンと鼻を鳴らし、オーリを虚空から見下ろした。
『今の今まで何も知らんかったのなら混乱するのは分かるが、さっさと現実を直視しろ、馬鹿もん。これまで疑問に思うことは一度もなかったのか?』
「えええええ、持つわけないじゃないですか、自分が神格持ってるかもなんてぶっ飛んだ疑い! なに、私とうとう神の領域に踏み込んじゃったの? このまま遥か高みに昇華されちゃう感じ? いつから? 何が原因だろう。心の広さとかかな」
『調子に乗るな。神格っつったって切れっ端も切れっ端じゃ、バァーカ』
未だ混乱する思考の中で、己が神と化した後で掲げる教義を今から考えておくべきかと真剣に悩み始めるオーリに、ルシアはケーッケッケッケと憎たらしく笑った。
『高位どころか中位の精霊にさえ、力じゃ明確に劣っとるわ。まあ切れっ端とは言え神力の欠片、そこそこの恩恵はあるが、放っときゃそこまで大事にはならん』
「あ、そうなんですか? なんだ、ウーパールーパーを聖獣に認定して、年に一回ウーパールーパー型の固パンを金槌で叩き割って敬意を込めて食べる儀式を義務付けるとこまで予定立ててたのに」
『それ逆に不敬じゃないのか? どんなアグレッシブな宗教ブッ立てる気じゃ、お主は』
「あ、ウーパールーパーってこの国にもいるんですね。やっぱり小さくて手足のある、見た目ヘンな魚の一種?」
『いや、淡水の淵に住む魔獣じゃな。サラマンダーの一種で、つぶらな瞳で愛らしいが、怒ると超強力な雷を吐いてくるから取り扱いには注意じゃ』
「雷吐くの!? 水辺で雷撃とかタチ悪いな!」
『美味かった』
「しかも食肉!? 所変われば品変わるってこのことだよ!」
流れるようなボケとツッコミを叩き付け合ってから、ルシアはつう、と微かに目を細めた。うっすらと笑みを浮かべて、彼女はオーリを睥睨する。
『……何じゃ、もしや真剣に修行して不老不死や生き神にでもなりたかったか? どっかの神殿にでも潜り込めば、向こうから見出してくれるじゃろうよ』
「いえ結構です、修行とかめんどいし」
『最近の若者はすぐメンドイからとやる気をなくす……時代かのぅ……』
試すような調子で問うた言葉に即答で返され、ルシアは複雑そうな溜め息をついた。
同時にスカートの裾が翻り、彼女はふわりと音もなくオーリとの距離を詰めてくる。
長い睫に縁取られたルシアの露草色の双眸が、オーリの顔に触れそうなほど近付いた。
人間よりも少し縦に長いルシアの瞳孔が、オーリの視界にはっきりと判別できる。清水のような萌芽のような、しっとりと柔らかな香りが強くなった。
『――本当に、変わったもんに引っ付かれとる』
ぽつりと呟かれたその言葉に、オーリは目をぱちくりさせた。
きょとんと瞬く青灰色の瞳を覗き込み、ルシアはにんまりと笑った。唇を三日月型に吊り上げた、チェシャ猫のような笑みだった。
『ムキツの影響が最も強いこの日に、お主がワシの元に来たのもまた縁かのう……。好みの菓子の礼じゃ、最後に一つ、少しだけ教えてやろう、ブランジュードの末の子よ。――お主の魂に絡み付いとるモノについてな』
「……絡み付いてる、モノ?」
鸚鵡返しに繰り返しながら、オーリの眉間に浅い皺が寄った。
そんな少女の耳に口を寄せ、ルシアはそっと囁く。
『――――前世より繋がる、因縁の糸じゃよ』
「――――――――ッッッ!!!」
がっと目を見開き、弾かれたようにルシアを見やるオーリに、ルシアはけたけたと笑ってみせた。
反射的に伸ばしかけたオーリの手をすり抜けて、ルシアのスカートがくるりと踊る。愉快そうに双眸を歪め、精霊はわざとらしく自らの顎に指を当てた。
オーリの眉間の皺が深くなり、ルシアを掴めなかった手が無意識に拳を握った。
『詳しいことはワシにも見えんが、オーリリア、お主は随分と変わったもんに執着されとる。前の生で繋がれて、今の生で捕まった。そうもがっちり魂まで鷲掴まれとったら、も一度生まれ変わった後も逃げられはせんじゃろうよ』
「……私の人生が二度目だってこと、ルシア様には分かるんですね」
『分かるさな。ブランジュードの血は、ワシとは些か縁が深い。それと勘違いしとるようじゃが、二度目じゃないぞ』
ルシアの口の端が、一層きつく吊り上がる。オーリを見据える露草色の双眸が不気味な光を閃かせ、きゅう、と瞳孔を尖らせた気がした。
『「三度目」じゃ。――お主自身は、何やら「二度目」の記憶を失っているようじゃがな』
「…………!?」
一瞬、喉に呼吸が詰まったような気がして、オーリは顔を強張らせた。
――三度目、だと?
「どういうことです? 私は日本で生きていた頃と現在との間に、もう一度人生を挟んでいたんですか?」
『ニホンというのがお主の「最初」ならそうなんじゃろ。どうあれお主は二度目の、つまりは前回の生で誰かに出会い、そいつに導かれるがまま、今回また同じ世界に生まれてきた。
既にそいつと再会したのかどうかまでは分からんが、まだ会っていないにしろ遠からず会うじゃろう。一体何をしたら、そうも執念深く縁の糸を絡められるんだか。糸なのに、まるで鎖のようではないか』
「……私、その相手を探すべきですか? 忘れてる前世を、はっきり思い出した方が良いんですか?」
『そんなこたワシの知ったことか。ワシは顔相見師でもなければ、お主の相手の面構えすら知らんのじゃからな。
結果としてお主が思い出そうが思い出すまいが、ワシの言葉ごと忘れようが構わんよ。しかしオーリリア、過去は否応なく人を引き摺るぞ。未来が欲しくば、精々現在を積み重ねてみろ』
途中で話に飽きたように落ちたトーンでそう告げて、ルシアはふいとオーリに背を向けた。
長い金髪が舞うように靡き、立ち竦むオーリの視界を横に断ち切った。
『忠告するなら、その縁の相手を拒絶だけはするなよ。どう転んでも幸福な結末にはならんからな。――そろそろ帰れ、オーリリア。日が随分と高く昇っているぞ』
※※※
白い部屋を出た時、予定されていた昼食の時間は、既に幾分過ぎてしまっていた。
来た時も通った長い階段を降りて、オーリは母屋に駆け戻る。
待っていてくれた両親と共に昼食を終え、その後は父が招んだ高位神官による祝福と説教に午後一杯を費やした。
出来ればその日中にもう一度ルシアに会いに行きたかったのだが、夕食後にあまり出歩くわけにもいかず、再訪問は翌日に持ち越すことにした。
――けれどその予定は、結局果たされることはなく。
前日と同じ道をどんなに探しても、オーリはあの階段を再び見つけることはできなかった。
白い花の香りに包まれた廊下で、揚げ菓子の袋を握り締めた少女は、しばし茫然と佇んで。
そうして、ルシアへ繋がる道が閉ざされたことを理解して、少しだけ肩を落とした。
ルシアの言っていた「ブランジュードの末の子」は、単純に「本家の中で一番最後に生まれた人間」という意味です。オーリに兄姉がいるという意味ではない。




