39:良い子良い子をして頂戴
間違っても第三者に見られたくはない実に下らない応酬を、オーリにとっては長い時間、実際には割と短時間の間、悲鳴と絶叫と淡々とした怒りを交えながら交わし続けた、その後で。
額を地面にめり込ませんばかりの勢いでゴメンマジゴメンと呪文のように繰り返し、ようやく冷たい地中から助け出されたオーリは、現在ぐったりと地面に手を突いてへたり込んでいた。
恐怖とツッコミに喉を嗄らし、ぜいぜいと肩で息をしているオーリを見下ろして、底冷えするような目付きをしたラトニはぼそりと一言。
「……収穫したら、やっぱり収穫者のモノになるんでしょうか」
「だから、自生植物扱いするなと!」
ぐわっと口を開いて叫んだオーリに、ラトニは舌打ちして「いっそ植物だったら持って帰って部屋に置けるのに」と呟いた。
何やらふてくされているらしいラトニを横目に、最後に深々と息を吐き出して、オーリはようやく落ち着きを取り戻した。機嫌の悪い相方を、改めてじっくり観察する。
久し振りに見るラトニの服装は、いつもと同じダークブラウンの上着。体温が低い割には寒さに強いらしく、防寒具らしきものはマフラー一枚しか巻いていないようだ。
茶色みがかった黒の髪はやっぱり前髪が長くボサボサで、けれどそこから覗く無表情な顔は、極めて精緻に整っていて。
二月前に別れた時と変わらない相方の姿に、オーリはかくりと肩を落とし、溜め息一つで思考と感情を切り替えた。
(八つ当たりか……)
考えてみれば、ああも他人を苦手にしていたラトニが、この二月、ずっと一人でオーリを待っていたのだ。
待たせたのも、置いて行ったのも事実である。多少の八つ当たりくらいなら仕方がないかと考え直しながら、彼女は手近な空箱に腰を下ろした。
傍の空箱を指差してみせれば、ラトニも数秒の沈黙の後、ぺたりとそこに座り込む。むっすりと引き結ばれていた唇は少し緩められていて、こちらも落ち着いたかと安堵を覚えた。
「……王都は、楽しかったですか」
ぽそりと聞かれた問いかけに、オーリは表情を緩めて頷いた。
「うん。やっぱりあちこちシェパと違って、見てるだけでも面白かったよ」
「街歩きもしたんですよね?」
「そりゃ勿論。建物が多いからごっちゃりしてはいたけど、大枠のデザインがしっかり整えられてたから、綺麗に纏まった印象はあったなあ。時計塔っていう高い塔にも登って見下ろしたんだけど、壮観だったよ」
「へぇ……初めて行った王都で、道に迷わなかったんですか?」
「うん、案内してくれた人がいたからね」
「案内……ええ、そうでしょうね。二人っきりで、さぞあちこち散策したんでしょう」
「厳密には鳥が一羽付いてたんだけどね。その案内人っていうのがまた、美形で有能で地位も人望もあるっていう存在自体が反則技みたいな人でさ! 最後にちょっと脅かされちゃったから、何だか次に会う時が怖いよ」
「……貴族の集まりには、出たりしなかったんですか? 例えば、お茶会とか。パーティとか」
「出たよー、夜会にちょっとだけ。あんまり積極的に参加はしなかったんだけど、人も会場もきらきらしかったなあ」
「……そこで、また新しい誰かに出くわしたというわけですね」
「そうそう、それがまた揃いも揃って凄い美少女と美少年なの! 正しく顔面格差ってやつを体現してるような人たちだったね。いやあ、本当に色んな人に出会った旅行だったよ!」
そこまで喋って。
オーリはふと、ラトニの返答が途切れていることに気付いた。
俯いたラトニは前髪をだらりと垂れさせて、口角を微かに上げている。少しだけ開いた朱唇から、綺麗に並んだ真っ白い歯が覗いていた。
「……へえ。色んな、人に、出会って、ね」
ゆっくり、ゆっくり。
一言一言わざとらしく区切ってみせながら、ラトニはオーリの言葉を繰り返す。
いつも冷静だったその声は、今や地の底から響いてくるかのように、低く、重い。
――そしてようやく、オーリは気付く。
前髪の隙間から覗くラトニの琥珀色の双眸に、一切の光が宿っていないことに。
(…………アレ?)
それに気付いた瞬間、オーリの背中を、凄まじい勢いで冷たいナニカが駆け上がった。
静かに凍り付くオーリの前で、ラトニはゆらりと幽鬼のように立ち上がり、オーリの方へと歩み寄る。正妻の影に耐えかねて、「あなたを殺して私も死ぬ」と包丁を持ち出した、狂った愛人の眼差しだった。
「……この尻軽。よくも僕の前でのうのうと、浮気の前科を証言したものですね」
「あれ、ラトニさん、目のハイライトがないよ? どうしたの、一体どこに落っことして来たの?」
「僕が一人寂しくあなたを想っている間、あなたは堂々とデートですか。不束者だけど末永く宜しく、なんて、頬を赤らめて言ってきた癖に」
「え、いつ!? 何処で!? 本気で記憶にないんだけど!」
ぎょっとして目を見開くオーリに、ラトニはがっしと左手で彼女の頭を固定した。影の差したラトニの顔に先程の恐怖と痛みを思い出し、オーリの体がぞわりと震える。
後退ることも出来ないまま、怯えた目で見上げたラトニの双眸は、オーリを見下ろして激甚な怒りに満ちていた。
「――挙げ句おかしなマーキングまでされて来るなんて――あなたは一体王都で何をやって来たんですかこの脳みそ珪藻類の木偶の坊がァァァァァァァ!!!」
「ギャアアアアアア皮が剥けんばかりの激痛ウゥゥゥゥゥ!!!」
問答無用でフードを剥ぎ取られ、剥き出しになった額を上着の右袖で力の限り擦られて、オーリは心の底から泣き声を上げた。
ラトニの鬼の形相も怖いが、ゴシゴシ額を痛めつけてくる力の容赦のなさはもっと怖い。この子さっきから、なんでこんなにガチギレしてるの!
「痛い痛いってもうほんと……マジで血が出るからやめろって言ってんでしょうがー!!」
しこたま皮膚を虐待された後、とうとうこちらもブチ切れて、オーリはラトニに力強いローキックを叩き込んだ。うぐっ、と呻いたラトニは一歩下がり、不服そうにこちらを睨んでくる。
「乱暴なことを……」
「鏡見ろ!」
「まあ良いです、大分薄れましたし……。……そんなに強い印ではありませんでしたから、これくらいやれば残りは数日中に消えていくでしょう」
目を逸らしたラトニが、ぶつぶつと何事か小さく呟く。何と言ったのか聞き取れずに、オーリは胡乱な表情でラトニを見やった。
「ねえ、今なんか言った? また不穏な目論見?」
「やっぱりもう一度埋め直しましょうかと言ったんです。回想シーンにくらいは出演させてあげますから、安心して地上から抹消されなさい」
「私セピア色の思い出になっちゃう!?」
戦慄するオーリに鼻を鳴らし、ラトニは再びオーリと距離を詰めた。反射的に身をずらすオーリの隣にストンと座り、今度は大人しく頬杖を突いて彼女を見つめてくる。
「……それで、他に何か変わったことはあったんですか。面白い玩具とか、気に入った店とか」
心なしか落ち着いたトーンになったラトニの声色に、オーリはぱちくりと目を瞬かせ、それから慌てて頷いた。
「あ……えーと、魔術道具を売ってるお店に行ったよ。外観も店主もやたらミステリアスで面白かったな。幾つか買ったものもあるから、後で見せるね」
「ありがとうございます。他には?」
「向こうで仲良くなった喫茶店の人に、フレンチトーストのレシピを教えて来たよ。一時期凄い人気だったって」
「へえ……確か、あなたがメープルシロップに合うと話していたお菓子の一つですね。そっちも売り込んで来たんですか?」
「うん。それがさ、何でも公爵家ゆかりの家に仕える料理長が気に入ってくれたらしくて。多分これから売り上げ伸びるよ。この勢いで王室御用達とか取れたら良いなあ」
「流石にそれは高望みでは? まあ、本当に需要が伸びるなら、そのうち生産も増えて、あなたがやりたがっていたメープルシロップ祭りくらいは出来るようになるでしょうね」
「なったら良いなあ。格安料金でパンケーキにメープルシロップかけ放題祭り……本当に出来たら私、パンケーキを漬け込む勢いでメープルシロップ使いまくる」
「糖尿病にならない程度にしてくださいね。ところで、王都に美味しい食べ物はなかったんですか?」
「王都を出る前日にショコラータっていうお菓子を食べたけど、あれが一番美味しかったよ。凄くチョコレートの濃いケーキでさ、持って帰りたかったんだけど、新しいの買えなかったんだ。いつか王都に行く機会があったら、一緒に食べに行こうね」
「……ええ。是非」
そこでようやく、ラトニがふっと唇を綻ばせた。如何にも機嫌の悪そうだった空気が、糸がほどけるようにゆるりと緩む。
そうっと伸ばされてきた腕に、オーリは今度こそ怯えなかった。
ぎゅう、と強く抱き寄せられて、オーリもラトニの背中に手を回す。ぽんぽんと宥めるように叩いてやれば、ラトニの腕に力が籠もった。
「――お願いです、オーリさん。王都であなたが遭遇したこと、出会った人、出来る限り僕に聞かせてください。あなたの話を、あなたが経験してきたことを、僕はあなたの口から聞きたい」
紡ぐ声は、最初とは打って変わって静かなもので。
無表情にオーリを見つめる少年は、ただ湖面のような双眸にだけ、歳に似合わぬ静謐と、微かな希求の色を孕んでオーリを腕に閉じ込める。
「あなたが言いたくないと思うことは、無理に聞きません。でも、もしも聞いて欲しいことがあるなら、どうか迷わず教えてください。
――どんな痛みでも、どんな怒りでも、どんな汚濁でも。僕は一つ残らず、あなたと一緒に抱えてあげます」
体温の低いラトニの頬が、オーリの首に柔く触れる。
望んだささやかな『お願い』は、そっとオーリの心に寄り添って。
――だからもう、そんなつくりものの顔で笑わないで。
ぽつりと付け足された呟きは低く押し殺されていて、けれど確かな重さを持って、オーリの胸にほとりと落ちた。
飼い主の体温を求める子犬のような仕草に、いなくなってしまった水色の小鳥も、よく同じ行動を取っていたことを思い出した。
――嗚呼、きっとこれだから、私は誰よりラトニと居るのが――
ふ、と。
小さく小さく息を吐いて、オーリはさやかに微笑する。シェパに帰ってきてから――否、あの時計塔の夜から初めて見せる、誰かに心を許し、その欠片を明け渡した笑みだった。
――後悔は、していない。
アーシャのためを大義名分に掲げ、仮にも好意を抱いていた相手を刃でもって追い詰めた選択肢を、きっと今この瞬間あの夜に帰ったとしても、オーリは再び選ぶだろう。
けれど、それでも。
「……うん。話をしよう。キミに聞いて欲しい話があるんだ。楽しいのも、悲しいのも、沢山」
例えば、奇妙な水色の小鳥の話。例えば、気の良い喫茶店のお姉さんの話。例えば、怖くて凄い紫銀の青年。例えば紅玉のような令嬢や、深淵色の美少年。――例えば、優しくて身勝手で苦労性で、どこまでも平凡だった青年の話。
きっとラトニになら吐き出せるだろう。オーリの出会ったものも、掴みたかったものも、犯した間違いも、抱いた想いも、全部。
共に抱えろと望むオーリに顔を上げ、ラトニは口の端をゆるりと上向ける。
琥珀色の瞳を柔らかに瞬かせて、オーリの頬に頬を擦り寄せた。
「はい、喜んで。……お帰りなさい、オーリさん」
「ただいま、ラトニ」
告げ合って、互いの身を引き寄せる。
どちらからともなく目を合わせて、ふわりと力の抜けた笑みを交わした。
「……ところでラトニ、いい加減寒いからそろそろあっちの日溜まりに移動しない?」
ガブー。
首に食いつかれた。空気を読めと言いたいらしい。
不束者云々は「かつて~」時代の話です。ラトニだけが覚えている過去の、二人の初対面の時の言葉。




