36:幕を引いたのは
額から盛大に血を吹き出してぶっ倒れたクロードから、口元の布を剥ぎ取って。
気絶した彼を放り出したオーリは、布に染み込まされていた中和剤を眉を顰めて吸入していた。
(あ、危なかった……。薬師修行で薬に慣れてなかったら、二秒以内に意識を刈り取られてた……)
口に布を当て、深呼吸を繰り返して。げっそりと肩を落として明後日の方向を眺めているが、実のところ、まだ心臓はバクバク激しく脈打っている。
布に仕込まれた中和剤は酷く苦い匂いで嬉しくないが、逆に気付けにはなるので丁度良かった。
だらだら血を流しながら白目を剥いているクロードから、オーリはまず転移の腕輪を奪い取る。
次いでその手を背中に回して拘束し、ようやくその頬をべしべし叩いて覚醒させた。
「ほら、起きてください、クロードさん。戦って終わりじゃないんですよ。聞きたいことがあるって言ったでしょう」
「うう……割れるように頭が痛い……」
そりゃ割れてますからね、とは教えずに、オーリは恨めしそうに見上げてくるクロードにフンと鼻を鳴らしてみせた。
もしも手加減しなければ、今頃クロードは頭の中身がこんにちはしていたに違いない。それは流石にスプラッタなので、情報が必要なくてもやる気はないが。
「じゃあ、負け犬はさくさくネタバレしてください。私もいい加減帰らないとヤバいので」
「リアちゃん、緊張が抜けると一気に言動がぞんざいになったね……」
「あなたが意外と手強かったから、気を張り詰めてるのに疲れたんですよ。何が戦闘力皆無ですか。
――質問に答えてください。まず、あなたが冒険者に渡してたあの薬は、結局どんなものだったんですか?」
問いかけながらわざとらしく、ぺっちぺっちとナイフの平で頬を叩いてやると、クロードは引き攣った顔で、それでも観念したように溜め息をついて口を開いた。
「そう大したものじゃないよ……。薬と言うか、性質としては封珠に近いんだけど――簡単に言えばあの薬はね、外部からの魔術的な干渉を遮断する効能を持っているんだ」
「……詳しくお願いします」
「えぇと……。まず前提として、王都の全域に巨大な魔法陣が敷かれているってことは知っているかい?」
「聞いたことはあります。それの影響で、基本的に王都では転移魔術が封じられているとかも」
「そう。それで、そもそも僕のやってたことって言うのが……」
言いかけて、クロードは少し言葉を切る。一度目を伏せて、黙って待つオーリに続きを告げた。
「……その魔法陣に狂いを生んで、構成や影響を確かめること、だよ」
告げられた言葉に、オーリはこくりと唾を呑み込んだ。
――それは、内容次第では途轍もなく不穏な話になるのではないか?
「雇い主に命じられた通り、魔法陣の魔力の流れを変えたり滞らせたりしていたんだけど、そのせいで魔法陣が所々誤作動を起こしてね。魔力溜まりが発生して魔力酔いを起こす人が出たり、魔力を吸い取られて倒れる人が出たり、逆に変に適合して魔力が増幅したりする人まで出ていたんだよ」
言われてオーリが思い出したのは、クロードが薬を渡した、強盗冒険者の男。
妙に打たれ強かったり魔術の威力が大きかったりしたのが、狂った魔法陣の干渉を受けて魔力を増幅されていたためだとすれば。
「……なら、倒れて眠ったままの人については?」
「恐らく、体内の魔力回路が狂ったせいで魔力漏れが起こり続け、活動可能になるほどの魔力が溜まらないんだと思う」
声を低めたオーリの質問に、クロードは即答した。
「……とは言え、対策はそう難しいことじゃないよ。これは魔法陣の影響下にいる限り治らないけれど、逆に言うなら王都を出さえすれば魔力漏れも時間経過で回復する。魔力回路にも、肉体と同じく自己治癒能力があるからね」
「成程。それで『外部からの魔術的な干渉を遮断する』――ひいては、狂った魔法陣の影響下から脱する対処が有効ってわけですか」
クロードの話を噛み砕いて、オーリは納得したように頷いた。
だとすれば、ある意味話は単純だ。オーリはただ、アーシャをシェパに連れて帰れば良い。クロードの言葉が嘘でないのなら、それだけでアーシャは自然に目が覚める。
「で、その薬はやっぱり雇い主から――」
言いかけたオーリは、不意にげほげほと咳き込んだクロードの姿に口を噤んだ。
眉間に浅く皺を寄せ、俯いて咳をするクロードの顔は赤い。もしや先程水を浴びせたことで熱でも出たかと不安になったが、その心配が言葉になる前にクロードが再び口火を切った。
「――その黒石、」
コートの襟に顔を埋め、はあ、と疲れたような息を吐いた後、クロードはぽつりとそう呟いた。
首を傾げるオーリを見上げて、彼はうっすらと目を細める。
「本当は、それも雇い主に貰ったものだった。まさか人にあげることになるなんて、僕も想像してなかったけれど」
「……あの、今はそれより事件の方の話を、」
「他の人に、それを使わせたことはあるかい?」
「……、……いいえ」
「そう、なら気を付けてね。それは所有者にしか使えないタイプの魔術具だから」
好きに喋ることにしたらしいクロードの様子に何か奇妙なものを感じて、オーリは取り敢えず話を聞くことにした。
薄く唇を吊り上げて、げほ、とまた一つ咳き込んだ彼は、暗い色の双眸にオーリを映して話し続ける。
「ちなみに所有権の書き換えには、幾つかの手順が必要になる。まず所有権を移したい相手が、その黒石に魔力を帯びた手で触れること。次に所有者がその相手に素顔を見せ、目を合わせて自分の本名を告げること」
「待って、それって確か――」
そこまで言われて気付いたオーリに、クロードはふふ、と笑声を零した。
「そう――あの日、君と僕とが交わした行動だよ。全くの偶然、何一つ意図せずにね」
「魔力を帯びた手で触れる」こと。これはオーリの場合、日常の全てが該当する。
何せ、彼女は彼女自身にさえ止め方の分からない常時発動型魔術の使い手である。日々無意識に身体強化を行使し続けているオーリは、常に微量の魔力を全身に纏っているようなものだ。
次に名前。これはオーリが(実は偽名だが)先に名乗ったせいで、クロードも反射的に名乗り返してしまった。
この場合、本名でなければならないのはその時点での所有者のみなので、オーリが偽名であったことは問題にならない。
更に、クロードの顔。
普段は幻術を使って変装でもしていたのだろう彼は、あの時、その幻術を担う黒石を落としてしまったせいで完全に素顔を晒していた。
もしもクロードが魔術師で、自ら振るった幻術を魔術具で強化していたのならば、魔術具を失っても容姿の幻術は解けないままであり、従って所有権の移動は起きなかっただろう。
つまり、全ては偶然の産物。誰かにとっては幸運な、また別の誰かにとっては不運この上ない偶発的事故だったのだ。
「何てまあ……そんなことってあるんですねぇ……」
「あはは、僕、昔からいまいち運が悪くてさ」
頭が痛そうに額に手を当て、心なしか哀れむような目で見下ろしてくるオーリに、クロードは笑い声を上げた。
「――まあ、運が良いなら、そもそもこんなことはやっていないんだろうけどね」
ぼそり、と。
落とされた一言にオーリの眉が寄る。
気のせいか暗さを増したような気のするクロードの双眸に、少しだけ躊躇ってから口を開いた。
「……あの、クロードさん。あなた、そもそもどうしてこんなことやってるんですか?」
それは、クロードが犯人だと目星を付けてから、オーリがずっと疑問に思っていたことだった。
――だってオーリには、クロードがそんなことを出来るような人間には見えなかったのだ。
オーリが見てきた限り、事件のことさえ別にすれば、クロードは極めて善良な人間だと言って良かった。
ごろつき相手に手も足も出ず、悪意の標的になることを素直に恐れ。
自分をカモにしようとした見知らぬ子供一人、見捨てて逃げることが出来ずに。
オーリに対しても、向けられた心配は本心だったと、今でも彼女は思っている。かつて彼女を見ていたあの目は、無鉄砲な少女に対する純粋な気遣いを宿していた。
――何よりも、彼が譲ってくれた、あの黒石。
数回使えば分かる。あれはとても便利な魔術具だ。それこそ、敵陣のど真ん中とも言える王都で、決して手放すべきではないほどに。
だからクロードだって、考えなかったはずがないのだ。
――あの場でオーリを殺して、所有権を取り戻す、という選択肢を。
「あなたの所作は一般人のそれに近しい。戦闘訓練を受けているわけでもないし、野心があるようにも見えないし、感性だって裏の住人にしてはおかし過ぎる。あなた、元は本当にただの一般人だったんじゃないですか? 何を求めて、こんな危ない橋を渡ってるんですか?」
次第に口調も早くなり、次々に並べ立てられるオーリの問いに、クロードは困ったように笑った。どこか苦い笑みだった。
「――妹がね、いるんだよ」
ぽつん、と。
静かな声で落とされた答えに、オーリは咄嗟に返す言葉を失った。
「真面目で正義感が強くて、心の奥底まで見通すような、真っ直ぐな目で人を見る子だったよ。いつも満面の笑顔で子供たちの先頭を走り回っていて、同じ村に住んでいた子たちから頼りにされていた。
いつかお城に上がって女性騎士になるのが夢だと言っていた。不可能じゃないかも知れないって、父さんも母さんも言っていたよ。あの子は瞳に薄い青色を持つ、村でも珍しい、魔力を持った子供だったから」
――あの子が病気になるまではの話だけどね、と彼は呟いた。
「魔獣に襲われて。体内の魔力が減り続けて、回復しなくなるんだと言われたよ。――魔力供給と弱った体を診る医者、出来れば魔術師の診察が必要だった。でも、僕らにそんなお金はなかったし、たとえあったとしても、魔術師にコネなんかあるわけない」
だから、手に入れることにしたのだ。
ただの平凡な村人にも出来る、最も手っ取り早い方法で。
じっとこちらを見詰めているオーリを見上げて、クロードは少し笑った。
「そんな金、あの子は喜ばない――とは言わないんだね」
試すように聞いてくるクロードから、オーリは無言で目を逸らした。
言えるわけがない。
だって、オーリは残される側の気持ちも想像できるのだ。自分がクロードと同じ立場になった時、辿り着く先が破滅だと分かっていても、その手を取らない自信はなかった。
消えゆく命を大切に思っていればいるほどに、置いて逝かれるのは怖いだろう。ましてや自分の命も価値観も汚れていない手も平穏な人生も、残らず捨ててしまえるほどに、愛した相手であるならば。
――自分の持つ全てを投げ捨ててしまう選択を、選べることなどそうは無い。
ならば、誰のためなら出来るのか。
クロードの場合、その「誰か」がたまたま妹であったというだけ。――たったそれだけの話。
「ねえ、リアちゃん」
囁くように問いかけられた、その声のトーンが僅かに変わっていることに、オーリは気付かなかった。
茶色みがかった黒の双眸をゆるりと細め、クロードはまた一つ、咳をする。
「使えなくなった魔術具は、欲しがる人にあげれば良い。――じゃあ、使えなくなった人間は、どう処分すれば良いと思う?」
「!?」
はっと我に返った時には、既にクロードは動いていた。
彼を縛っていたはずの縄が、力なく床に落ちている。クロードの手足が床を打ち、バネ仕掛けのように飛び起きた。
反射的にクロードを抑え込もうと、伸ばしたオーリの手にバチンと痺れ。一瞬怯んだ隙に、円を描くような蹴りの一閃で足首を刈られ、軽い体が宙に浮いた。
「来るなっ!」
オーリが発した制止の声に、クロードは微塵の反応も見せずに。
次にオーリを襲ったのは、背中を床に叩き付けられる鈍痛。胸倉を掴まれ押し倒されたのは、今度はオーリの方だった。
「く……っ!」
詰まりかけた息を、食いしばった歯の間から吐き出す。
瞳に怒りを灯して睨み上げるオーリの視界に、彼女に馬乗りになったクロードの姿が映った。
その手に握り締めているのは、少女の手から奪ったナイフ。
少女の首を左手で抑え、クロードは鈍く輝く刃を全力で振り下ろした。
――鈍い音が響いた。
※※※
ビリビリと痺れる手足は、感覚すらも麻痺している。
――――ぽたり、と。
全ての音が消え去ったかのような空間に、一滴の雫が滴り落ちて。
そうして呼吸することすら忘れ、ただ大きく目を見開いてクロードの顔を見詰め続けていたオーリは、ようやく平常の思考を取り戻した。
「――あはは――」
クロードの口から、笑声が零れる。
乾いた声はひび割れていて、けれどどこか泣きそうな声だと思った。
――クロードに振り下ろされたナイフは、オーリの首の真横に突き立ち、時計塔の床に浅い傷を刻んでいた。
「こんなたちの悪い事件の犯人と対峙するのに、わざわざ刃を潰したナイフを持って来るなんて――やっぱり君、こういう危険なこと向いてないよ」
――そうだ、気付く機会は初めからあった。
何せ、最初からずっとナイフを露わにしていながら、オーリはそれを一度たりとも、「切る」用途に使ったことはなかったのだ。クロードに向けて振るう時、彼女は必ず刃以外を向けていた。
更には、薬の眠気に対抗するために、刃を握り締めるという行為。もしも普通のナイフだったなら、あれで確実に指が落ちていただろう。
この時計塔で一戦交えることを覚悟していたオーリは、服の下に革製の防具を仕込んでいる。無防備な顔面以外なら、切れないナイフの一撃くらいは耐えられるはずだと分かっていた。
食らった後で、服に隠した封珠を発動させ、自分諸共眠りの魔術に巻き込んでやるつもりだったのだ。
けれど。
「――クロードさん……?」
茫然と、オーリはその名を呟いた。
――こちらを見下ろすクロードの顔からは、ぼたぼたと汗が流れていた。
顔も、首も、手も。見えている彼の肌は、どこもかしこも真っ赤だった。
オーリの首を掴む手は、布越しにも分かるほどに熱い。
吐く息にさえ肺を焼きそうな熱が籠もり、ふらりふらりと虚ろに揺れる瞳が、苦痛の強さを示していて。
尋常でない量の汗を垂れ流し、それでもクロードは笑っていた。小刻みに震える手を振り払うことも出来ずに、オーリは唇をはくりと動かす。
ナイフを手放した右手で口を覆い、クロードが激しく咳をした。血でも吐きそうな咳だった。
――これは、何なんだ。
「何が、起こって」
麻痺の取れない体では、手を伸ばすことも出来なくて。
呻くようなオーリの声は、疑問と不安に掠れていた。
オーリの首から手を離し、クロードがゆっくりと左手を開く。からん、と床に落ちたのは、ごつい造りの指輪だった。
「それ、は……」
落ちた指輪を視線で追って、オーリは言葉を失った。
その指輪には見覚えがある。それは以前魔術道具屋で見かけた、雷撃の魔術具だった。
今オーリを麻痺させているのも、恐らくはこれの効果だろう。けれど、その威力は同時に――
「――その気になれば、この部屋程度の面積なら、雷の網で埋め尽くせるくらいに上げられるって聞きました」
茫然と呟いたオーリに、クロードは唇を吊り上げた。情けなさそうに眉の下がった、奇妙に歪んだ笑みだった。
――何が、「君には向いてない」だ。そんなもの、クロードだって同じなんじゃないか。
「最初にこれを使えば一撃で片が付いたのに、あなたは躊躇ったんですね……」
オーリが大技を使わないのは、塔を気遣ってのことだった。けれど、既に後のないクロードが、そんな悠長なことを考えていられるわけもない。
クロードが気遣ったのは、塔ではなくオーリの身だった。
――それはきっと、自らの身を守るための攻撃すらも躊躇ってしまうほどに。
まるで捕まっても良いとすら思っているような行動に、オーリは奥歯を噛み締めた。
「……妹がいるって言った癖に」
たかが三度しか会っていない小娘のために、妹のことを疎かにするのか。
そんな意味を含んで睨み付けると、クロードはほろ苦く笑って言った。
「――とっくに死んだよ」
短い言葉には、ありったけの悲哀が籠もっていた。
ぱちりと瞬きするオーリの歪んだ眉を見下ろして、クロードは深く息を吐いた。
「もう、半年前のことになる。村にはあの子の墓もあるよ。僕は、村にも家にも、ずっと帰っていないけどね」
止め時が分からなかったのだと、絞り出すような声で彼は言った。ぼたり、とまた一滴、熱い汗が滴り落ちた。
クロードがオーリの頬を優しく撫でて、そこで初めてオーリは、自分が素顔を露わにしていることに気付いた。
脱げ落ちたフードの感触が、幻影を被っていない顔に触れる。澄んだ青灰色の双眸を、クロードは痛みを孕んだ、けれど同時に、酷く懐かしいものでも見るような目で見下ろしていた。
「ねえ、リアちゃん――。本当はね、僕の目は、こんな色じゃなかったんだよ」
唐突に告白されて、オーリはまた目を瞬いた。
クロードの顔に埋め込まれた暗色の瞳。前世の故郷のそれに似た暗い色の目へ、クロードはどこか忌々しそうに指を這わせる。
「妹と違って、僕はほとんど魔力が無かったんだ。でも、雇い主の要望に従って危険な仕事をするためには、魔術具を扱える程度の魔力はどうしても必要だった。
――だから魔力を手に入れたんだ。薬や魔術実験で無理やり魔力を増幅して、ついでとばかりに中途半端な魔術無効化能力を与えられて……。その時の副作用で、僕は元の目の色を失った」
クロードにとって、この瞳の色は忌々しいものだったのかも知れない、とオーリは思った。
元はただの村人でしかなかったクロードが、魔術実験で良い扱いをしてもらえるなどとは到底思えない。
家族に貰った色を失い、苦痛の日々の象徴である瞳を抱えて、彼が毎日どんな思いで鏡を見ていたのかなど、オーリには推し量ることしかできないけれど。
――それでもオーリは、クロードのその色に惹かれたのだ。
ふらりと体を揺らして、クロードが立ち上がった。動けないオーリを見下ろして、緩やかに口の端を吊り上げる。
「僕の魔術無効化能力は、使うたびに自分の身を削る。既に妹がいない今、あの子という枷がなくなり、体までも壊れかけている僕について、雇い主は処分を検討している頃だろうね」
その言葉に、オーリはふと、思い出す。二度目に会った日、強盗冒険者の魔術を消した後、クロードはオーリに触れようとして、果たさずその手を引っ込めた。
もしもあの時点で、無効化行使の代償がクロードの身を蝕んでいたとしたら? 素手で触れれば気付かれてしまうかも知れないほどに、彼の体温が上がっていたとしたら?
辿り着いてしまった思考に、オーリの顔からじわりと血の気が引いていく。
――この人今日、何回無効化使った?
「……今回の仕事を終えた後、逃げられるなら逃げるつもりだったんだ。でも、君が僕を見つけてしまった。
君の言う『エルゼさん』とやらに引き渡されるつもりはないけれど、雇い主に捕まるのも――それに、君を此処に寄越した誰かに見つかるのも、僕は嫌だな」
話しながら、クロードはどうにか起き上がろうともがいているオーリの顔を、僅かに眦を下げて見やる。
少女と目を合わせたその視線が、何故か少し上――前髪に隠された額へと動いたような気がした後、彼はあっさりと視線を彼女の上着のポケットへと移動した。
そこに収められているのは、オーリがクロードから没収した腕輪。クロードが雇い主から受け取った、転移の魔術具である。
「……北区に『イエローラビット』っていう酒屋がある。そこに行ってその腕輪を見せて、『ピナの花が咲いたので山羊を連れて行って来ます』と言えば、薬を渡してもらえるよ。後は君の好きにすれば良い」
「は、え――」
くるりと踵を返したクロードに、オーリはよろりと身を起こす。まだ痺れの残っている体を何とか立ち上がらせ、何かを言いかけたオーリに、クロードは小さく笑って天窓を指差してみせた。
「もう駄目だよ、リアちゃん。時間切れだ。そろそろ麻痺も取れるから、君の相棒が呼んだ警備隊が到着する前に、バレないようにお帰り。
君の存在を知られない方が良い。この街で騒ぎを起こしたら、誰がどんな風にどれほどの時間を置いて動くのか、その思考、人脈、情報網、行動力――全てを計ろうとしている連中がいる」
これ以上は言わない方が良いね、と言って、クロードは大きな窓を開けた。
外はもう真っ暗で、遥か下方の家々が明るい光を灯している。
何処へ行くつもりか、と声を上げかけたオーリは、振り向いたクロードの顔に息を呑んだ。
――それはきっと、彼が何をしようとしているのか、一瞬で悟ってしまったが故に。
「さようなら、リアちゃん。妹と同じ強さを持つ、妹と同じ色の目をした女の子。初めて会ったあの日から、君のことだけは傷付けたくなかったよ」
場違いなほど穏やかに笑って――クロードの姿が、窓の向こうへと消え去った。
「――――っ!!!」
声にならない悲鳴を上げて、オーリは窓へと駆け寄る。天窓から飛び降りてきたクチバシがオーリの髪を引っ張って、見るなと言うようにけたたましく鳴いた。
――縋るように身を乗り出した窓の下、オーリの遥か足下から、何かが潰れる小さな音が聞こえた。
クチバシは最初からずっと、天窓の上に待機していました。役割は、「本格的にヤバくなったら何とかして警備隊を呼ぶこと」「オーリが眠りの封珠でクロード諸共眠ってしまったら、何とかして叩き起こすこと」。やり方については一任するよこれは丸投げじゃない信頼だ!
オーリがクロードに押し倒された時には辛抱たまらず飛び出そうとしたけど、「(眠りの魔術に巻き込むといけないから)来るな」と言われたので、歯軋りしながら自制しました。代わりに閃光一発ぶっ放して、急いで警備隊を呼んだそうです。




