33:大匙一杯のはかりごと
広大な館の庭園は、所々が封珠の嵌め込まれた背の高い園灯で照らされて、夜でも景色を楽しめるようになっていた。
柔らかな曲線を描くアーチも、途中で見かけた小さな池も、今は訪れる者もなく、ただ深と静まり返っている。
ホールの喧騒や警備兵たちの足音から、遠く離れたこの場所で。
まるで此処が自宅ででもあるかのようにオーリの手を引き、迷うこともなく庭の一角へとやって来た夜色の少年――レンは、そこにあった温室の扉を開いてオーリを中へと導いた。
高価な硝子で覆われた温室は、二人が入ると同時にぽつぽつと灯りが点いていく。一時の興奮状態が過ぎて外気の寒さを感じ始めていたオーリは、ほんのりと暖かい室内にほっと息をついた。
設置された木製のベンチに誘導され、オーリは大人しく腰を下ろす。
この温室は、きっと夜に咲く花が多く植えられているのだろう。歩くに支障がない程度の控えめな灯りに照らされ、艶やかな花弁を露わにしている花々が、其処彼処で微かな芳香を漂わせていた。
随分的確に場所を選んだものだ、と思いつつ、オーリは剥き出しだったせいで冷えた腕を軽くさすった。
(ああ、いや、実際に自宅って可能性もあるのか)
てっきり招待客の一人だと思い込んでいたが、勝手知ったる様子も警備兵たちの態度も、彼がこの家の子供だからだと思えば納得が行く。また「エルゼに近しい」という言葉、あれが程近い血縁だという意味ならば。
(……まあ、いくら推測したって、確認なんてできないんだけどね)
互いに名乗らぬと表明した以上、今更家名を問うのはマナーに反する。適当に思考を切り替えて周囲をきょろきょろ見渡し始めたオーリに、レンが声をかけた。
「オーリ、こっちを向いて」
傍らに立った少年が、柔らかなハンカチでオーリに触れる。そっと顔を拭われて、オーリは初めて自分が汚れていたことに気付いた。
恐らく木の枝が掠めたのだろう、ピリッと走った痛みは擦り傷か。精巧なドレスも所々解れていて、流石のオーリも罪悪感を覚えた。
一般庶民が何年も遊んで暮らせるような値の付くドレスを一晩で駄目にしたとなれば、如何に甘い父とて良い顔はしないだろう。負傷自体は「庭園に出て転んだ」で誤魔化せると思うが、これでまた外出許可が遠のいた気がする。
壊れやすい細工物でも扱うような仕草で丁寧に彼女を拭き終えてから、レンはハンカチを綺麗に畳んでポケットに仕舞った。貴族に時折いる、汚れたハンカチをそのまま捨ててしまうような性格ではないらしい、とオーリは思う。
「ありがとうございました。……あの、レン様は、どうして私を此処に誘ったんですか?」
「うん? 此処なら他のひとが来れば分かるし、邪魔が入らないかなと思ったからだよ」
「いえ、そうじゃなくて」
人形じみた端正な顔と、透明感のある穏和な空気。ゆるりと微笑んで答えるレンに、しかしオーリは首を横に振る。
「貴方の目的のことです。どうして貴方は、『私に情報を教えようと思った』んですか?」
――すう、と。
夜色の少年の笑みが、ほんの少しだけ細くなった。
「……そうだね、敢えて言うなら気紛れかな。あのひとの――エイルゼシア卿のことを話していた時のきみが、随分思い詰めていたように見えたから」
「そこまでですか……」
そんなに分かりやすかっただろうかと思いながら、オーリは決まり悪げに目を逸らす。クスクスと含み笑いながら、レンはオーリの隣に腰を下ろした。
決して穏当な話をしようというわけではないのに、少年の態度には警戒も緊張も見て取れず。
どこまでも自然体で背凭れに身を預ける彼を横目に見ながら、オーリは探るように切り出した。
「――でも、本当に良いんですか? エル……ファルムルカ子爵にバレたら、あなたの立場が悪くなるかも知れませんよ」
「不安なのかい?」
ここまで付いて来ておいて、と聞こえたような気がした。
咄嗟に言葉に詰まるオーリを見詰め、美しい黒瞳をゆるりと細めて、微塵の動揺もなくレンは告げる。
「エイルゼシア卿には、きみが黙ってさえいれば知られはしないよ。それに高々八歳の子供同士の戯れ言一つ、あのひとの邪魔になんてなると思うの?」
「……それは」
否定も肯定も返せずに、オーリは少し眉を寄せた。
その問いを肯定すればエルゼの能力への批判となり、否定すれば最早オーリに言えることは何もなくなる。
これまでの言動を深読みすれば、やはりレンの持っている「情報」がエルゼから得たものだとは考えにくい。少し沈黙した後、彼女は思考を切り替えて口を開いた。
「レン様は、事件について詳しい話を誰から聞いたんですか?」
「噂話で、とは思わないのかな? 社交界は真贋問わなければ、それこそ数多の情報が入り乱れているよ」
「けれどあなたは少なくとも私よりも多くのことを知っている確信があるし、恐らく子爵がどの程度まで事件に関わっているかも知っている。真偽も分からない噂話や、私みたいに『たまたま立ち聞きした』わけではないでしょう」
「察しが良いね。ただ年相応の子供だとは思っていなかったけれど」
曖昧に濁しながらも、レンの眼差しは楽しそうだった。良い子良い子、と撫でられて、オーリはからかわれているような気分になる。
――まるで、本当に子猫にでもなったような気分だ。
何をしても最後には飼い主の手に収まってしまう、必死の威嚇さえ微笑ましく眺められるばかりの、ちっぽけな。
「そうだね、確かにただの噂話ではないから、その点は安心して良いよ。詳しいルートは言えないけれど、ぼくは好奇心が強くてね。色んなひとが色んなことを教えてくれる」
「……子爵は、事件との関与を秘匿している素振りでした。私が聞いていることに気付いた時も、とても怖い声で」
「そうなんだ? まあ、あのひとは隠し事が多いからね」
「それなのに、あなたは知っているんですね。あの子爵が、それを容易く許すとは思えないにも拘わらず」
「きみは質問ばかりだ」
ゆっくりとした口調でそう囁かれて、オーリは小さく息を呑み込んだ。
けれど、機嫌を損ねたかと思ったレンは変わらず微笑を湛えたままで、真意の読み切れない瞳をオーリに向け続けている。
するりと伸びた白い手が、オーリの顔に優しく触れた。ひやりと温度の低い手が頬を包み込んで、オーリの目が僅かに揺れる。
「――ねえ、オーリ」
吹き込まれる声は柔らかで。
しかしどこか誘うような響きを持って、オーリの耳に滑り込んでくる。
――くゎん、と意識が揺れたような気がした。
「もう一度、落ち着いて考えてご覧。きみにとって、それは本当に大切なこと? きみはどうして、名前も知らないぼくに付いて来たの? エイルゼシア卿の話を聞いてしまった時、思ったことは何だった? 危険を犯してでも、きみが手に入れたいものは何だった?」
訥々と囁かれるたび、オーリの瞳がゆらりゆらりと小さく揺れる。ふるりと一度喉を震わせて、伏せた視線はきつく握り締めた己の手を捉えた。
――それともこのままぼくを警戒し続けて、何も得られずに帰るつもりかい。
清かに問われた声に拳が震え、オーリは強く眉を寄せて口を開いた。
「……私、は」
「うん」
「倒れてしまった、人がいて」
「うん」
思い浮かぶ、人のこと。オーリの我が儘を叶えるために、笑って出掛けた女性の顔。
ぽつりぽつりと呟く言葉を、レンは優しく促した。
「そのひとを助けたいのかい?」
「……はい」
「ぼくは、きみが犯人を捕まえたいのだと思っていたけれど」
「捕まえ、る。……いえ。いいえ。確かに会いたい、けど。でも、捕まえるのは、私の役割じゃないとも思ってました」
「……そう。弁えるのは大切だね。領分を越えたことをしようとすれば、必ずどこかで綻びが生まれる」
良い子、ともう一度頭を撫でられて、オーリは唇を噛んだ。
――弁えなかったから、アーシャはあんなことになったのだろうか。
(……それでも、私はもう行儀良く屋敷に閉じこもろうとは思えない)
今更行動をやめるには、既にオーリは外部にしがらみが増え過ぎた。だからこそ、自分の行動で陥った結果を、自分で清算できるならしたかったのだ。
助けたいのはアーシャだけ。極端な話、犯人や他の被害者はどうでも良い。だってそれは、本来エルゼたちの役割なのだから。
「それに、彼女が倒れることになったのは、私のせいかも知れない。いや、少し正確じゃない……『あの時』私が介入しなければ、彼女が巻き込まれる前に解決の切欠くらいは得られていたのかも知れない」
「そうなんだ。どんな経緯で?」
「それは……言えないけど」
「そっか。それで、そのひとを助けるために、きみはどうしたいの?」
「……犯人に会いたい。回復手段を知るために、それから、出来れば話を聞くために」
全てをエルゼに任せていては、シェパへの帰還が迫っているオーリにとって確実性に欠ける。捕まった犯人が全てを正直に話してくれる保証もない以上、叶うなら一度は直接対峙してみたかった。
ことり、と、レンが首を傾げた。前髪に隠れていない漆黒の右目が、うっすらと弧を描いていた。
「危ないよ。殺されるかも」
「そうならないように頑張ります」
「きみは、そんな風に好き勝手できる立場なの?」
「いいえ。だから、これからも好き勝手するために、自分のやったことの後始末くらい自分でしてみせなきゃいけない」
「ふぅん」
ぱちり、と目を瞬いて、レンはオーリに右手を伸ばした。たおやかなまでに細い繊手は、その仕草を視線で追うオーリの顔の横を通り過ぎて、
――ジッ、
背後で聞こえた微かな音に、オーリは背筋を震わせた。
咄嗟に振り向いたそこには、溶けるように消滅しゆく、黒い霞のような小さな何か。
無意識に手を伸ばしたそれは、オーリの指が触れる前に最後の欠片を大気に散らせた。
「ああ、ごめんね。虫がいたものだから」
穏やかに笑って、先程までと変わらない調子でレンが言う。
「……今の、レン様の魔術ですか?」
「ふふ。気になるかい?」
「はい。この歳から魔術が使えるのは尊敬します」
正体の分からない魔術の内容については敢えて避け、正直にそう答えると、レンは少し黙ってから、吹き出すように笑声を上げた。
「ふ、あはは。ふうん、そっか、そう思えるんだ。きみにもっと魔術の知識があれば――いや、同じことかな」
言いながら、レンはオーリに右手を差し伸べる。その手のひらにゆるりと凝るのは、先程のものと同じ、黒い霞。
見たことのない魔術に本能的な警戒を感じはしたが、それよりもふらりと引き寄せられるような好奇心が勝った。
眼前に差し出されたそれに、オーリは誘われるがままそっと指を伸ばす。
――ぱちん、と。
綿のような感触がした直後、霞は小さな火花を上げ、溶けるように霧散した。
「……おお」
青い火花は一瞬だったが、まるで線香花火のようで、オーリは感嘆の声を上げた。
熱を持たずに輝いた火花は、ただ弾けるように光を散らして美しい。正面にあるレンの顔を見上げ、綺麗でしたね、と言おうとして、
「……っ!?」
間近に迫った幽遠な美貌にぎょっとした。
「レ――」
焦りと驚愕に瞠目するオーリの前髪を、爪の先すら美しい少年が無造作に掻き上げる。さらりと流れ落ちる濃茶の頭髪。青灰色と漆黒の視線が至近距離で絡み合い、レンがぐっと身を乗り出した。
零れんばかりに見開いたオーリの瞳に、レンの白い喉が大きく映り――
――その唇が触れたのは、露わになったオーリの額だった。
「――な――」
一瞬覚えた感触は柔らかで、けれどその体温に相応しく、真冬の花のようにするりと冷たい。
軽く触れるだけですぐに離れていったレンの体に、オーリは数秒経ってようやく、自分が呼吸を忘れていたことを思い出した。
何か言おうとして言葉にならない喉を何とか再び動かしながら、オーリは滑らかに身を引いたレンの動作を視線だけで追い掛ける。
――眼に、食い付かれるかと思った。
そんなことを思った事実を、無意識に思考の奥へと押しやりながら。
「――それで、肝心の犯人と会う算段はついているのかな」
元通りベンチに腰を下ろし、何事もなかったかのように話の続きを持ち出されて、半秒オーリの顔が引き攣った。
おいこら説明はナシか。そんなツッコミが口元まで上がってきたが、にこにこと悪びれずに微笑むレンの顔を見ていれば、怒らせた肩も落ちてしまう。
落ち着け落ち着けと自分に言い聞かせ、オーリは深呼吸して口を開いた。
「えーと、正直考えついていませんね。何やら相手は反則的な移動手段を持っているそうで、ファルムルカ子爵も手を焼いているようですし」
「そう。でも、移動手段とルートが分かれば先回りできるんじゃない?」
「そんな簡単に言われても……」
基本的に、王都で転移は使えない。条件次第では視認できる場所に転移するくらいは出来るようだが、そもそも建物の多い王都では直線距離を稼げる場所などほとんどないだろう。ましてや今回の犯人のようにあちこち自在に移動するなんて、あり得るとも思えない。
下唇を尖らせて、オーリは親指の爪を無意識に噛んでいた。
同時にビリッと走る痛み。慌てて手を見下ろした彼女は、エルゼの話を盗み聞きした時に噛み砕いてしまっていたことを思い出して、嘆息と共に眉を顰めた。
「少し、ヒントをあげようか」
やっちゃったなあ、などと呑気に考えていたオーリの手を優しく取り上げて、彼女の思考を読んだかのようにレンが囁く。
一枚だけぎざぎざになった爪を、彼の指が音もなく撫でた。一瞬、赤の滲む傷口にレンの爪が引っ掛かり、オーリは体を強張らせたが、その痛みが抗議の言葉となる前に、レンはぱっと手を離した。
「王都イオレで転移魔術は使えない。これはこの街では常識だ。だけど、正確な事実でもないんだよ」
「それは、どういう……」
「ほとんど知られていないことだけど、実は理論上、王都でも転移は可能なんだ。あらかじめ作られた道の上を、道に沿って走るだけなら」
「……道?」
鸚鵡返しに繰り返して、オーリはぎゅっと眉を寄せた。ヒントを与えられた思考が、答えを求めて回り始める。
(道、は、文字通りの意味じゃないはず。王都で転移が可能だというなら、犯人の移動手段についても前提が変わってくる。あたかも転移魔術を使っているような別の手段で反則的な移動を可能にしていると言うよりは、素直に転移魔術を使っていると考えた方が分かりやすい。
じゃあ、その「道」っていうのは? いや待て、何処かで聞いた覚えがある。転移の如く距離を飛んで、街中を駆け巡るものの存在を――私は毎日聞いている)
オーリの双眸に理解の色が浮かび始めたのを、レンはきゅっと唇を吊り上げ、楽しそうな顔で眺めていた。
鈴が歌うような澄んだ声が、暗い温室の中へ響いていく。徐々に険しくなる表情を押し隠しながら、オーリは口元を手で押さえた。
「王都イオレは転移魔術を封じられている。でも、一つだけあるだろう? 王都の何処にいても届くものが。一秒の狂いもなく街に敷かれた魔法陣の全域を渡り、街の隅から隅まで駆け巡るものが」
――時告げの鐘、だ。




