32:その深淵に怪物はいるか
唐突に姿を現した少年は、身長からしてオーリとほとんど変わらない年齢に見えた。
さらさらと癖のない前髪に覆われて、少年の左目は隠れている。
月光と淡い灯りの中、視界に入った髪と右目が混じり気のない黒であることを悟って、オーリは無意識に息を呑んでいた。
黒石をくれた行商人――クロードも黒に近い暗色の瞳をしていたが、少年のそれとは比べ物にならない。
少年がその身に纏う色は、かつてオーリの周囲に数多と溢れていた、そして今生では未だ一度もまみえたことのない、どこまでも純粋な漆黒だった。
「きみは……」
ほんの一瞬。
黒に閉ざされた少年の瞳に、不可思議な光が閃いたような気がした。
オーリを抱き止めていた少年が右手でオーリの顔に触れ、柔らかな頬をひやりとした感触で包み込む。額が付きそうな距離まで近付いた右目が、茫然と見開くオーリの青灰色の瞳を映して水鏡のようにゆらりと揺れた。
呼吸の音すら消え去るような、刹那の静寂。黒に彩られた美貌を見上げて言葉を忘れていたオーリは、けれど背後から駆け寄ってくる複数の足音で正常な意識を取り戻した。
ガチャガチャと靴が鳴る音、鞘に収められた剣が立てる金属音。乱暴に茂みを掻き分ける音を聞きながら、びくりと震えたオーリの体を少年がより一層抱き寄せた。
少年の身体から香る、しっとりと露を含んだ夜の香り。その胸元に顔を押し付けられると同時、至近距離から警備兵の声が響いた。
「おい、そこに誰かいるのか!? 侵入者が出たと――……っ!?」
「どうした、誰が――……!」
茂みを突っ切ってやって来たらしい警備兵たちが、一様に息を飲む音がする。
彼らに背中を向けたオーリを抱き込んだまま、少年が彼らを見返してうっすらと目を細めた気配がした。
「――おやまあ、随分と騒がしいね。ぼくらに何か用かな?」
幼さを残した高い声は飴細工のように甘い色を滲ませて、けれど何処か幽遠で掴みどころがない。
ふわりと夜闇に溶けるようなその声に、オーリには背後の警備兵たちが一瞬で体を強張らせたのが分かった。
――今、威圧されたのだろうか。
幼い少年の無垢げな声に、武器を携えた警備兵たちが?
「も、申し訳ありません! 暗がりでお顔が確認出来ず、無礼を致しました」
揃って声色を変えた警備兵たちが、即座に直立不動の体勢を取ったのが物音で分かる。
何事かと身動ぐオーリをそっと両腕で抑え付けて、少年は首を傾げた。
「そう。侵入者がどうとか聞こえたような気がしたんだけど……」
「はい、お耳汚しを……。お気を煩わせるつもりは」
「ぼくは知りたいと言ったんだよ」
「はっ、失礼しました! 何でもファルムルカ子爵が侵入者に遭遇したらしく、速やかに捕らえよとのご命令でして。現在捜索中でございます」
慌てて答えた警備兵に、少年は「そうなんだ」と返した。
自分で聞いた割にはあまり興味のなさそうな声色だったが、警備兵たちにそれを気にする余裕はなさそうだ。それよりも、少年の不興を買わないことの方が重要らしい。
「それは、ご苦労様。早く見つかると良いね」
「恐れ入ります。……その、失礼ですが、そちらのご令嬢は……?」
「友人だよ。折角ホールを抜け出して来たんだけど、きみたちの声と剣の音に怯えてしまった」
「は、それは……まことに」
どう見ても幼いオーリの背中を見下ろして、警備兵が決まり悪そうな声になる。少年は僅かに目を細め、向けられた視線に縮こまるオーリの頭を宥めるように優しく撫でた。
「彼女とは、ぼくも都合が合わずになかなか会えないでいるんだ。折角の逢瀬に無粋な真似をしようとは、思っていないよね?」
「勿論でございます! お邪魔をして申し訳ありませんでした!」
それ以上の追及を封じられ、彼らは打ち揃った敬礼を最後にばたばたと道を戻っていった。
しばらく待って完全に足音が消えたのを確認し、ようやく少年がオーリを解放する。
――希薄だ、と。
ようやく落ち着いて少年の顔を見たオーリは、真っ先にそう感じた。
年齢の幼さも相俟って、彼は服装さえ変えれば可憐な少女にも見えるに違いない。花も恥じらうような愛らしさは、しかしその独特の空気に染め上げられ、女々しさや弱々しさを連想させない。
冷たい夜が凝ったようなその少年は、気圧されるように数歩後退ったオーリを引き止めることなく、ただいとけない顔に静かな微笑を浮かべて彼女を見据えていた。
エルゼやリーゼロッテが向けてきたこちらを見極めるような、逆に言うならある程度積極的な意志を感じさせる視線とは違う。一瞬でも目を離せば夜闇に溶けて消えてしまうのではないかと思わせる、それは酷く透徹した眼差しだった。
――呑み込まれ、そう。
底知れぬ深淵を湛えた右目に見据えられ、オーリはぼんやりとそう思う。
存在そのものが浮き世離れしていると言えば良いのだろうか。月明かりに照らされて佇む少年は、まるで精巧なビスクドールのようだった。フリルの目立つ繊細な衣装に包まれて、陶器のように白い肌が闇に浮き上がって見える。
「きみは」
唐突に小さな唇が開き、そこから紡がれた言葉に、オーリははっと我に返った。
不思議そうにことりと首を傾げ、少年は何でもなさそうに言葉を続ける。
「どうして、彼らから逃げていたの? そのドレス、侵入者が着るようなものには見えないけれど」
オーリが現在着ているドレスは、今夜のために誂えられた高級注文服の一点物だ。
オートクチュールは高級既製服よりも優に一回りは値段が上回る。更に最高級の衣装屋でオルドゥル直々に注文し、サイズからデザインまで全てがオーリに合わせられている上、身に着けたあらゆる装飾品も纏めてオーダーメイドという、所詮分別もつかない子供に着せるにはなかなか気の狂った代物だ。
要するに、一般的な職業間者が着るには、余りに金がかかり過ぎているのである。
侵入先で怪しまれないよう着飾る必要は勿論あれど、基本的に「溶け込む」ことを第一とする間者には資金と服装の限度がある。オーリのそれは目の肥えた者なら一目で分かる特別製であり、かかった代金は間者どころか平均的な貴族の使える衣装代を大幅に越えていた。
含まれた意図を理解して、オーリは急いで思考を巡らせた。
一見して疑われにくいドレスと容姿だったこと、そして少年がそれを判別できる目を持っていたことは、大事にされては困るオーリにとって不幸中の幸いだっただろう。少年自身もこちらに強い疑惑は向けていないようで、オーリは悄然とした表情を作る。
「ごめんなさい。実は私、ホールを出た後で偉い人の話を立ち聞きしちゃって……。見つかりそうになって慌てて逃げたから、侵入者と勘違いされたのかも知れません」
具体的に聞いた場所とか、相手とか、話の内容とか。
後で極力誤魔化しが可能なよう、色々とぼかして答えながら、オーリは少年の顔色を注意深く観察した。
そうなんだ、と頷いて、少年は軽く唇に指を当てた。
「さっきの彼らは、ファルムルカ子爵の指示だと言っていたね。あのひとの内緒話を聞いてしまったの?」
「……ええ、部下らしき方と何か話していらっしゃいました。私はあまり聞き取れなかったんですけど……」
言葉を選びながら返しつつ、オーリは僅かに視線を彷徨わせる。
助けてもらったことは有り難いが、あまり彼の傍に長居したいとは思わなかった。
最初の驚愕が過ぎてしまうと、次は現実的なリスクが目に入るようになってくる。
警備兵たちの反応や衣装からして、彼もまた確実に相応の地位を持っている人間だった。あまり追及されるのは避けたいし、再び警備兵やエルゼたちと遭遇する前に夜会を辞してしまいたい。
――それに。
(この人は、こわい)
その感覚は、理性ではなく勘の生み出す警告だった。
彼の持つ漆黒に、心引かれる自分がいる。しかし同時に踏み込んではならないと、オーリの中で誰かが囁く。
――『これ』は、『己たち』が相容れないものだ。触れたらきっと、深淵に絡め取られてしまう。
エルゼとは違う意味で覚えた警戒心と、故郷の人々と同じ色を持つ者への憧憬が、オーリの中でぶつかり合って複雑に渦を巻いていた。せめぎ合う感情を表に出さないよう、彼女は努めて表情を整える。
しかし、ゆるりと目を細めた少年が次に呟いた言葉に、オーリは思わず思考を奪われた。
「ふうん……それはひょっとして、例の集団魔力暴走事件のことかな」
「……っ、」
肯定するべきか、否か。
咄嗟に言葉に詰まったオーリの反応を、少年は訝しまなかったようだった。代わりにうっそりと微笑んで、その真っ黒い右目でオーリの顔を映す。やっぱり、と言って、少年が一歩距離を詰めた。
「……何故、そう思ったんですか?」
「あのひとが深く関わっていて、人に聞かれたくない話で、夜会の最中にも拘わらず部下の呼び出しに応じ密談をしなければならない話なんだろう? そんなもの、今のところはその事件のことくらいしか思いつかないからね」
「貴方は、事件についてよくご存知なんですか?」
「どうかな。ぼくはあのひとに近いし、そういう意味では人より少し詳しいかも知れない」
そう答えて、少年は「興味があるの?」と問うた。庭に迷い込んでおろおろする子猫を微笑ましく見守るような、試験管の中身が何色に変わるのか観察しているような、意図の読み切れない瞳だった。
情報を得るために、ある、と正直に言うべきか。それとも安全策を取って、惚けてさっさと退却するべきか。
そんな躊躇を見て取ったように、少年はゆったりと言葉を接いだ。深い水の中にゆらゆらと浮かぶ、柔らかい泡のような声。
「丁度退屈していたから、もしもきみが興味があるなら、話くらいは聞かせてあげる。ぼくは直接事件に関わってはいないけれど、きっときみの知らない話をしてあげられると思うよ」
「貴方――、」
「街で、初めて回復したひとが出たらしいね」
ぐっと息を呑み込んで、オーリは拳を握り締めた。
図ったように言われた台詞に、アーシャのことを思い出す。もしも回復した原因が分かれば、それをアーシャにも与えられるかも知れなかった。
「それと、貴方、じゃない」
オーリの迷いを正確に悟っているように、夜色の少年はそう言って、更に一歩、彼女に踏み出す。
丁度二歩分の間を開けて、彼は彼女に右手を差し伸べた。
幼い顔に浮かべられているのは、澄んだ夜気のように透き通った微笑みだった。
「レンだよ。そう呼んで」
穏やかに告げられて、オーリは己も名乗るべきかと僅かに迷った。
レンというのが偽名か渾名かは分からないが、フルネームを名乗らないということは、つまり彼に正体を明かす気がないということだ。むしろここで本名を名乗る方が無粋に当たると判断して、オーリは少年の言動に合わせることにした。
「私は……オーリといいます。レン様」
そう言って、オーリは差し伸べられた手を握った。小さな手は見た目通りにひんやりして、細い指がオーリのそれに絡まった。
――何故だろう。
その瞬間、己が歩んでいた道の横に、新たな脇道が現れたような気がした。
ぐねぐねと曲がりくねった細い道は、オーリを手招くように長く長く伸びて行き、得体の知れない真っ黒な何かへと続いていた。
「――オーリ」
確かめるようなその声に、オーリは奇妙な錯覚から覚めた。目の前には夜色の少年がいて、長い分かれ道なんて何処にもありはしなかった。
「オーリ、ね」
硝子で出来た鈴のような声で繰り返して、レンと名乗った少年はオーリと繋いだ手に力を込める。
そうして美しい顔を緩め、酷く満足そうに笑った。




