30:覗き込んで、暴いてみせて
リーゼロッテ・ロウ・ファルムルカという人は、良くも悪くも人の視線を集める人物だった。
彼女自身の有する容姿や才覚もさることながら、実家である公爵家との繋がりを欲する者、英明と名高い兄とのコネを求める者、彼女の夫や入り婿の立場を狙う者まで、リーゼロッテの周りは常に人の思惑で満ち溢れている。
そして、そんなリーゼロッテだからこそ、彼女はオーリリアと名乗った少女が己の名前は知れども顔は知らなかったこと、そもそも己や兄を含む招待客たちと積極的に関わる気が微塵もなかったことを、一目で看破してのけた。
そうして彼女は、その丁重な後退に合わせる気など微塵もないといった様子で、華やかな笑顔と共にオーリの隣を陣取った。
(ラトニ、キミの相方はストレスで胃に穴が開きそうです……)
足がプルプル震え出しそうな状況に、ドリンク片手に佇むオーリは虚ろな目で脳内ラトニに助けを求めてみた。脳内ラトニはこちらを一瞥し、「だからそれくらい自分で何とかしなさいと言っているでしょう、このウミウシ娘」と冷たい目で舌打ちしてきた。……優しさが足りない(尤も、真実ラトニの本音を言うなら、「もしも没落したら僕が連れて逃げてあげますから、いっそどんどんやりなさい」だろうが、そんなことはたとえ当人がここにいたって口にされはしないだろう。唯一の相方が没落歓迎の立場である以上、どの道オーリに救いの手はない)。
一方紅玉の令嬢は、オーリの引き攣った愛想笑いにも拘わらず、極めて機嫌の良い様子だった。
もしも名乗らぬ彼女に対し、オーリが僅かでも侮る態度を見せていたなら、リーゼロッテはただ笑顔でその場を後にして、二度とオーリを顧みなかっただろう。
もしも突然話しかけられたオーリが驚きと緊張に失態を犯し、泣いたり慌てたりしていたなら、リーゼロッテは慰めと励ましの言葉を残して、やはり早々に立ち去っていただろう。
もしもリーゼロッテの名を知ったオーリがそこから家や兄の姿を連想し、媚びや期待の色を見せていたなら、リーゼロッテはオーリに一切の興味を向けはしなかっただろう。
しかし現実のオーリは、顔も知らないリーゼロッテの態度から何かを察し、目下の姿勢で挨拶を返した。リーゼロッテの名を聞いた時は一瞬心臓でも吐きそうな顔をしたものの、即座に我を取り戻して、拙いながらも礼節を尽くした対応を取ろうと必死になっている。
容姿だけ見て幼い子供かと思ったら、その勘の良さと切り替えの早さは賞賛に値した。また発言は意外にも筋が通り、慣れない話術にも垣間見えるのは確立された自我と理性だ。
――要するに、コイツ空気読める奴だな、と思ったわけである。
「オーリリア様は、甘いものはお好きかしら?」
現在二人の間にあるのは、小さなテーブルが一つだけだ。先程まで自分を取り巻いていた令息令嬢たちが気圧されたようにこちらを遠巻きにしていることに、リーゼロッテは至極満足そうな様子でオーリにそう問うてきた。
何せここで談笑している(ように見える)のは、片や十三、片や八歳とは言え、この国で限りなく上位に立つ家の令嬢たちである。如何に繋がりが欲しくとも、ちょっと失礼と割り込んでいける心の強い者などいるわけがない。
――尤もそのうち片方は、今にもとんでもない粗相をやらかし実家にまで及ぶ不興と咎めを買わないかと、内心ガタブル震えているのだが。
「はい、好きですよ。リーゼロッテ様もですか? そのドリンク、凄く甘い香りがしますけど」
リーゼロッテの手には、オレンジ色の液体が半分ほど満たされたグラスが握られている。ゆらりとドリンクを揺らしてみせ、リーゼロッテは楽しそうに笑った。
「そうよ、わたくしも兄も結構な甘党なの。だから、今回の夜会にお菓子が少ないことが悔しいわ。このドリンク、かなり甘みの強いカクテルなのよ」
「ああ、確かにお酒やおつまみは多いですけど、甘い物は十種類くらいしかありませんね」
「そうなのよね。あ、貴女、王都に来たのなら『ショコラータ』は知っていて?」
含む意図もなく告げられた単語に、オーリは半秒言葉に詰まった。
――それは、以前オーリが食べたいと強請った菓子の名前。アーシャが昏睡に陥ることになった原因である。
「……ええ、知っています。ナッツやドライフルーツを焼き込んだ、重いチョコレートのケーキのことですよね? 私は名前しか知らないんですけど、領地に帰るまでには一度食べてみたいと思っています」
「是非試してみて頂戴、お勧めよ。――ああ、貴方、そのケーキを頂ける?」
リーゼロッテが給仕を呼び止めて、皿を二枚受け取る。皿には二等辺三角形のケーキが一切れ盛られていて、リーゼロッテは銀のフォークを手ににこりと笑った。
「良かったら召し上がってみて。ここの料理長の新作なの」
促されて、オーリはケーキを観察した。
黄色いケーキは、見たところ薄いスポンジにムース系の生地を乗せて焼いたもののように思える。
色からして、味はチーズか、はたまた卵か。クリームも果物も乗っていない代わりに、程良く付いた焼き目がシンプルな造作を引き立てていた。
「……頂きます」
ドリンクのグラスを小テーブルに置いて、オーリはフォークを手に取った。
フヴィシュナの料理は基本的に大雑把だが、こうした上位貴族の食事と、徹底的に安っぽい下町の料理は、両極端だがなかなか馬鹿にならなかったりする。
前者は言わずもがな、惜しみなく追求される食材の質と手間と繊細さで。後者は如何にも下町の味というような、豪快で朴訥な味付けで。
――さて、このケーキは如何なるものか。
期待しながらしずしずとフォークをめり込ませれば、生地はほとんど抵抗もなく、さくりと一口分が切り分けられた。
口に入れてゆっくり咀嚼すれば、味はチーズではなくプリンに近いようだ。飲み込んで唇を舐め、オーリは次の一口にフォークを刺した。
「……美味しいです。シンプルなのに味はしっかりしてて、卵の味がよく生きてる。私、こういう所のお菓子はもっと甘いものが多いと思っていたんですけど、これは控えめですね」
「そうでしょう。オーリリア様はフレンチトーストというものをご存知かしら? このケーキはそれを元に作ったお菓子だそうよ」
ごっふ。
飛び出してきた単語に、口に入れたばかりの欠片を思わず吹き出しかけて、オーリは何とか堪えた。
オーリの動揺には気付かない様子で、リーゼロッテは給仕にお代わりを要求している。甘党というのは嘘ではなさそうだと思いつつ、オーリは何度か咳をして体勢を立て直した。
「ふ、フレンチトーストですか……? 私は知りませんけど、王都のお菓子でしょうか」
「二ヶ月ほど前から庶民のお店で売り出されるようになったパン菓子よ。わたくしもお忍びで食べに行ったけど、素朴な甘さで美味しかったわ。ここの料理長が知った時には、こんな創意工夫に満ちたお菓子を作れる料理人がこんな街中に埋もれているなんてって、とても悔しがっていたのよ」
「へ、へえー……でも凄いですね。貴族に仕える料理長が街の料理人相手にそこまでライバル意識を持てるなんて、プライドもプロ意識も高い人なんでしょうね」
「そうねぇ、何十年も料理をしているし、王宮料理人にも負けないと言っているわ。わたくしも小さい頃は、この館に遊びに来るたび彼にお菓子を貰っていたの」
にこにこしながらケーキを頬張るリーゼロッテは、オーリがこっそり頬の汗を拭いていることには気付かない。
「可愛がってもらったんですね」
「ええ、良い人よ。ただ、料理に関してはちょっと暴走するところもある人でね。先日も『メープルシロップ』を欲しがって、店の店主に仕入れ先を問い詰めて泣かせたとか、自ら商店に行って大量購入して来たとか、フレンチトーストの考案者を見付けるために延々裏口に張り込んでいたとか……」
なにそれこわい。
ストーカーの如く喫茶店を監視するコック服の老人の姿を想像して、オーリは真剣に寒気を覚えた。
だが逆に言うなら、結局料理長はオーリの正体を掴めなかったということだ。シエナや店主は情報を洩らさずにいてくれたらしい。
「メープルシロップなら私も知ってます。このケーキには使われていないようですけど……」
「一応隠し味にしてはいるのよ? でも、イメージに合わなくてそのまま味付けに使うわけにはいかなかったんですって」
「へえ、じゃあまた新しく、今度はメープルシロップをメインにしたお菓子を考えてくれるかも知れませんね」
それなら是非バリエーションを増やして欲しい、とオーリは思った。
メープルシロップの使い道が増えれば、自然と需要も増えるだろう。王都の貴族に仕える料理長が太鼓判を捺したとなれば、品質保証にはこの上ない。
「わたくしはこの前、クッキーやパウンドケーキを試食させてもらったの。どれも美味しかったわ。昨日はメープルシロップをそのまま固めた飴を貰ったんだけど、太るといけないから食べ過ぎないように注意しないと」
「あ、メープルシロップは健康に良いですよ。脂質がゼロだから太らないし、カルシウムとかのミネラル……えぇと、身体を維持するのに必要な栄養素が沢山含まれてます。香りにはストレス解消効果もあるそうなので、良かったら試してみてください」
シェパの出荷するメープルシロップ、正確にはマルーコ=デ=バルバルジーロラッパーシロップは、これから販路を拡大し、主要な収入源の一つになってもらうつもりである。売り文句は多い方が良い。
「あら、そうなの? そう言えばメープルシロップって、シェパの特産品だったわね」
「はい。機会があったら、一度遊覧にいらしてくださいね」
「ありがとう、考えておくわ」
返答は曖昧にしながら、リーゼロッテは悪い気もしていないようだった。
「でもシェパに行けるなら、わたくしより料理長の方が喜ぶかもね。フレンチトーストを考えた料理人に、あの方本当にお熱なのよ。もしも会ったら、一度勝負を申し込みたいと言っていたわ」
――無茶をおっしゃる!
オーリはぎょっと目を瞬かせた。全力で首を横に振りたい衝動を堪えつつ、「そ、そうなんですか」と相槌を打つ。
言わずもがな、前世特典で少々知識があるだけのオーリが、フレンチトーストを見てこんなケーキを作り上げるような料理人と真っ向勝負など、とてもじゃないが無理な話である。目をうろうろさせながら頬を引き攣らせているオーリには気付かずに、リーゼロッテは「ああ、でも」視線を彷徨わせた。
「挑戦意欲と期待が大きい分、もしも実は大したことのない腕だったりしたら、うっかり拳が出ちゃうかも知れないけれどね。若い頃は冒険者をしながらコックの修行をしていたとかで、今も凄く鍛えてあるから」
リアルストリートファイター!
オーリは愕然とした。とんでもない「料理しようぜ!」もあったものだ。
料理と書いてバトルと読む。『お主如きが我の前に立ち塞がるなど、笑止!』ラオウのようなごつい老人に問答無用で吹き飛ばされ、紙屑のように宙を舞う己の姿が頭に浮かんで、オーリは一瞬で蒼白になった。それなんて求道者の厨房!?
「いやいやいやいや! フレンチトーストを見てこんなケーキを作り上げるような料理人に、たかだか喫茶店にメニューを提供した程度の人間が勝てるわけないじゃないですか! 料理長殿の圧勝に決まってます! 試すまでもありませんよ!」
「どうしたのオーリリア様。冷汗が凄いわよ」
「お気になさらず! リーゼロッテ様も、旧知の料理長をもっと信じても良いと思いますよ! フレンチトーストなんか所詮それ一品で終わりです! 二ヶ月も経ってるのに、新しいメニューは出ていないんでしょう!?」
「まあ、それはそうだけど……」
何となく納得していなさそうな様子ではあったが、一応リーゼロッテは頷く素振りを見せた。それからふと指先を口に当て、ことりと小首を傾げて問いかける。
「――ところでオーリリア様、わたくし『店』としか言っていないのだけれど、どうして『喫茶店』だと分かりましたの?」
――ビシッ。
リーゼロッテの言葉に、オーリは硬直した。
一拍の沈黙ののち、頭の中でさっきまでの会話を高速再生し始める。体感的には小一時間、実際には数十秒。ブラフでないと悟った瞬間、オーリの顔が盛大に青褪めた。
(……しまったァァァァァァァァ!!)
「あら、オーリリア様……貴女もしかして」
物凄く分かりやすい動揺を見せるオーリに、一方リーゼロッテは何かを悟ったようににんまり笑う。ずいっとオーリに顔を近付けて、赤い唇で三日月型に弧を描いた。
「やっぱりそうなのね。そうでないかと思っていたのよ、貴女は大人しくお屋敷に閉じ籠っているだけのお人形ではなさそうだって。オーリリア様、貴女本当は――」
ヤバいバレた!? どこまでバレた!? どこまで察して、どこまで踏み込んでくるつもりだ!? 誤魔化せる範囲かできない範囲か!?
まさか自分がフレンチトーストの発祥点であることまで気付きはしないだろうが、次々と浮かび上がる恐ろしい予想にオーリは激しく混乱する。
ついでに至近距離まで迫った美麗な顔にどぎまぎする彼女へと、より一層唇を吊り上げたリーゼロッテは内緒話をするように声を低めて――
「こっそりフレンチトーストを食べに行ったことがあるんでしょう!?」
「――リーゼ」
「……ファッ?」
一瞬。
己の前後から何を言われたのか分からずに、オーリは思わず奇声を上げていた。
目を白黒させているオーリを余所に、リーゼロッテもまた新たな声の主に意識を変更したようだった。
キスでもできそうな位置まで近付いていた彼女は、オーリの背後を見て下唇を尖らせる。
「……お兄様」
声色を変えて呟いたリーゼロッテに、オーリの背後からやって来た誰かは、くすりと笑ったようだった。
「リーゼ、あまりお友達を苛めてはいけないよ。困っているようじゃないか」
「あら、苛めてなんかいないわ。女の子同士ですもの、これくらいは軽いじゃれ合いのうちよ」
ひょいとオーリの肩を抱え込んだリーゼロッテが、無造作に彼女を半回転させる。強制的に背後の人物と顔を合わせることになったオーリは、そこにいた非常に見覚えのある人間に、青灰色の目を見開いた。
――最初に目に入ったのは、それそのものが光を発しているかのように輝く、美しい紫銀の頭髪だった。ざっくりと太い三つ編みにされた髪は毛先まで手入れが行き届き、傷みなど知らぬというように艶やかで。
次にオーリを見下ろす双眸は、晴れた夏空のように鮮やかな青。吸い込まれそうなその色に湛える感情は穏やかなれど、秘めた真意は霧より深く老獪だ。
健康的な肌色も、見ているだけで背筋が伸びるような立ち振る舞いも、彼の持つ芸術品と呼ぶに相応しい造作を引き立てている。
しばしばオーリを怯えさせた猫科の猛獣のような鋭い眼差しは、今は完全に隠されて。その身を以て示すのは、真っ直ぐ咲き誇る水仙のような、芯の通った立ち姿。
氷の精霊じみたラトニの容貌を知るオーリでさえ初めて見た時は目を奪われた、凜烈たる美貌の自称冒険者がそこにいた。
――ただ、街で会った時と違うのは、その身に纏う圧倒的な威容。
茫然と己を見上げるオーリを見据え、かつて王都案内までしてもらった『エルゼ・マックルーア』が絶対にしないような表情で、彼は鮮やかに笑ってみせる。
それはまさしく、全てを引き付け魅了せんとする、貴人の武器たる笑みだった。
「初めまして、オーリリア嬢。エイルゼシア・ロウ・ファルムルカと申します――私の妹と仲良くして下さっているようですね」
――あまりと言えばあまりの不意打ちに。
一拍置いて今度こそ、オーリの口から魂が飛んだ。
ラトニは最大限オーリの希望を尊重するし、人助けでも村おこしでも地獄の底まで付き合う気だけど、何でもホイホイ言うこと聞くわけじゃないし、オーリに自分だけを選んで欲しいと思っていないわけでもない。
なので「没落→国がオーリを捨てた→じゃあこんな所にオーリを置いといてやる義理はない」として、その時点でオーリの意思を無視する大義名分ゲット・オーリを攫う権利が発生したと認識します。
オーリに苦しんで欲しいわけじゃないけど、二度と誰かに手を差し伸べようなんて思えなくなるほどボロボロに傷付いて欲しい気もする複雑なヤンデレ心。国がオーリを要らないって言うんだから、自分が貰っちゃっても良いよね?




