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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
王都編
30/176

29:貴い人

「それはいけないよ、オーリリア。お前が出席することは、もう先方にもお伝えしているのだからね」


 昼の光が差し込む書斎に、デスクを挟んで向き合う親子。恐る恐る切り出した頼みをあっさりとオルドゥルに却下されて、元より駄目だろうと思ってはいてもオーリは唇を噛み締めた。

 アーシャが倒れて、今日で四日。未だ目覚めないアーシャの姿に気落ちして、今夜の夜会を欠席させてもらえないかと言い出したオーリに、父の言葉は即断の否定だった。


 困ったような表情でオーリを見詰めるオルドゥルの眼差しは、穏やかではあるが一片の温もりも感じ取れない。時折書類へと移動するその視線が目の前の己を通り抜け、今はここにいない傍付き侍女へと向かっていることを、オーリは正しく理解していた。


「……はい、お父様」


 大人しく謝罪の意味を込めて頭を下げれば、オルドゥルは満足そうに一度頷き、温厚そうな顔を微笑ませた。


「お前が付いていたところで、アーシャにしてやれることがあるわけでもないだろう。お前の望み通り、アーシャには良い医師を付けてある。使用人の心配などせずに、オーリリアは夜会を楽しめば良いんだよ。ああ、ドレスはもう届いたそうだが、気に入ったかい?」

「はい、凄く綺麗でした。ごめんなさいお父様、アーシャがいなくてちょっと落ち込んでただけなの」

「そうかそうか。ふむ、そんなに寂しいのなら、新しい傍付きをあげようか? アーシャが気に入っているなら、確か良く似た娘があれの従姉妹にいたはずだ」


 その言葉が心底本気であることが分かったので、オーリは急いで首を横に振った。

 ここで返答を曖昧にすれば、オルドゥルは言葉通りオーリの新しい傍付きを連れて来るだろう。一つ減ったから、代わりの一つを持って来たよ、と。


「お父様、私、傍付きはアーシャのままが良いです」

「代わりはいらないのかい?」

「はい、アーシャは私が赤子の時からずっと傍にいてくれた人だもの。いきなり別の人に変わっても困るし、それに彼女は優しいから、何だかお姉さんみたいで好きなんです」

「む……まあ、オーリリアがそこまで言うのなら仕方がないな……」


 除籍は当分見合わせようか、と小さく呟くのを聞いて、やはりオルドゥルがアーシャをさっさと切り捨てようとしていたことを知る。

 先日の事件によって重度の魔力欠乏に陥ったアーシャは、現在も魔力が回復しないまま目覚められずにいる。今は離れの一室で魔力回復薬を投与されながら眠り続けているはずだが、オーリが頼まなければオルドゥルは病院から引き取ることもしなかったかも知れない。


「ああ、でもオーリリア、自分の立場は弁えないといけないよ。いくら近しくても、使用人を姉などと言ってはならない。お前は誇りあるブランジュードの直系長子なのだからね、使用人と馴れ合いなどしてはいけないんだ」

「……はい、気を付けます」


 ぴくりと口端が動いたが、表立っては反抗することもなく、オーリは素直に頷いた。

 こういった貴族の家では、専ら使用人は家具の一種に数えられるそうだ。それらの文化や合理性を大声で批判するつもりはないが、オルドゥルやレクサーヌのそれが単なる義務じみた階級意識にとどまらない冷ややかさを孕んでいることを、オーリはとうに解っていた。

 きっと彼やその妻にとってのアーシャは、「娘のお気に入りの、ちょっと貴重なペット」よりも、ずっとずっと価値がない。


「まあ、オーリリアはまだ幼いから、甘えたでも仕方がないかな。そのうち大きくなれば、自然と理解できるようになるさ」


 ニコニコと諭す父親に、オーリはただ子供らしく笑ってみせた。

 反論はしない。反抗など論外だ。

 たとえ幼い故の甘さだと思ってくれたとしても、この場でこれ以上アーシャの名を口にするのは、誰よりあの傍付きにとっては決して良い結果にならないと知っていた。

 オーリに悪影響だと判断すれば、オルドゥルは迷わずオーリのために、その原因を排除する。


「……気を付けます、お父様」

「良い子だ。――ああ、それはそうとオーリリア、お前の小鳥はいつもお前にべったりだと報告を受けているのだが、今夜はどうするつもりだい?」


 思い出したように聞いてきたオルドゥルに、オーリはことりと首を傾げた。


「クチバシですか? 今日はあの子にはお留守番をしてもらうつもりです」

「そうか。うぅん、ただの獣なら置いて行ったが、些か薄いとは言え貴重な青色ならば……手懐けている姿を示してみせても良かったのだが……」

「お父様、あの子は騒がしい所は苦手だから、連れ出してもポケットに潜り込んで出て来ないかも知れません」


 元より、公式の夜会に無断で動物を連れ込むのはマナーに反する。渋々とは言えごねることもなく留守番を受け入れたクチバシは、オーリが帰るまでアーシャの部屋で待ってもらうことになっていた。


「……まあ、いきなり連れ出して何かあっても困る。まだ装飾品なども仕入れていないことだし、今回は諦めるか。あの色なら、細い金鎖などは良く映えるだろう」


 少しだけ残念そうなオルドゥルだったが、自らが主催するわけでもない夜会であまり勝手はできないと思ったのか、「珍しいペット」の公開は別の機会に回すつもりのようだった。

 出来ればその機会がなるだけ遠ければ良いと思いながら、オーリは無邪気な顔で「きっと綺麗です」と笑った。


 その後、オーリは二、三言葉を交わし、夜会の準備をしなくてはならないからとオルドゥルの部屋を辞した。

 作り物のように感情を読み取れない目が、ドアを閉めた後まで追いかけてきているような気がした。



 廊下を歩き出すと、窓際で待機していたクチバシが飛んできた。


 ――駄目だったようだな、と。

 頬に体を擦り寄せ、気遣うような声色で鳴かれて、オーリは苦く笑う。


「許可は貰えなかったよ、クチバシ。私がいても何が出来るわけでもないだろうって。正論だけどさ」


 感情面を除外すれば、オルドゥルの言葉は正しかった。魔術や医術に詳しいわけでもないオーリがいて、何が出来るわけでもない。見習い程度の薬学知識など、今のアーシャには微塵も役に立たない。


 ――アーシャがあんなことになったのは、オーリのせいだというのに。


(集団魔力暴走の発生範囲は、アーシャの行った菓子屋の周辺を含んだ半径約二百メートルミル圏だった。……私がお菓子を強請らなければ、アーシャは事件現場に行かなかった)


 お菓子を強請ったのは、アーシャの振った話を誤魔化すためだ。アーシャの話を誤魔化したのは、そうしなければ自分が外に出掛けられなくなるからだ。

 つまりは、自分のためだった。全部自分の我が儘が発端だった。


 ――がり、と。


 無意識のうちに食いしばった歯の間で、小さな爪に罅が入る音がした。


 ――ヂッ!


 叱り付けるような鳴き声が聞こえて、オーリは我に返った。続いて固い嘴が乱暴に手をつつく感触。両目を吊り上げたクチバシが、口元まで上げられていた右手をガスガスと小突いていた。


「クチバシ……。……もっと錐のように激しく肉を抉ってブッ刺しても良いんだよ」

「ヂッ!? ヂッ!」


 いや違うだろコレ自傷に走るなって言ってんだけど!

 そんな感じのニュアンスで若干ヒキながら叱咤を重ねてくるクチバシに、オーリはようやく肩を力を抜いた。


「……そうだね、クチバシ。確かに私が何も言わなくても、アーシャは北区に行っていた。その時事件圏内を通らなかったかどうかなんて、アーシャ本人にも分からない。……分かってるよ」


 如何に気分が乗らなくても、夜会を欠席することはできない。そんなことをするくらいなら、精々両親の機嫌を取って優秀な医師を雇い続けてもらうか、夜会でささやかな情報収集に勤しんだ方が良い。


「流石に夜会だし、私は早めに引き上げることになるだろうけど、貴族社会に出るのは初めてだな……。シェパでは他の貴族の館を訪問したことはなかったし、失敗しないと良いんだけど」


 呟いて、オーリは先日届いたドレスの造作を思い出した。子供向けながらも美しいドレスに食われないよう、言動を貴族子女のそれに切り替えねばならない。


「父上様たちは長居するだろうけど、私はなるだけ早く帰るようにするよ。留守の間、クチバシはアーシャを見ててね。キミは魔力に敏感だから、何か異常が起きたらすぐ誰かに知らせて」


 真面目な顔でそう告げたオーリに、クチバシは短く受諾の鳴き声を上げた。




※※※




 フヴィシュナにおける正式なデビュタントは、早い者で王立学院に入学できる十二歳程度に合わせることが多い。

 つまりオーリの場合、元々オルドゥルが「誕生日プレゼント」と称していたように、最初の頃両親はこの夜会に彼女を連れて来る予定はなかったのだろう。

 順当に行けば、オーリが夜会に出席するのは後四年は先だったはずだ。そして、顔合わせ程度とは言えそれを早めた理由の一つは、恐らく夜会のタイミングにある。

 この国で、正式なデビュタントの前に子供が社交会に出席できる条件の一つには、その子供が八歳になり、また神殿の祝福を受けていることが含まれた。オルドゥルにとって、ごく最近八歳の誕生日を迎え、祝福を受けた一人娘に、直後に予定されていた夜会はさぞ折良く映ったことだろう。


(或いは、折角の王都で観光にすら出られない私を、幾分不憫にでも思ったか)


 日頃よりシェパの本邸に引きこもっているオーリは、王都の盛大な夜会など次はいつ見られるか分からない。丁度誕生日プレゼントに迷っていたこともあって割合あっさり娘の出席が決められたことは、別段不自然なことでもないと言えた。


 ――まあ、だからと言って、そこに打算が無いとも言い切れないのだが。


 新品の衣装に身を包んだオーリは、煌びやかな照明の下で深々と息を吐いた。

 今夜ばかりは、流石に例の黒石のペンダントを着けてくるわけにもいかない。

 大きな宝石は身に着けていないが、耳には小さなイヤリング、胸元には花のコサージュ。コサージュにはよく見れば粉雪のように細かい宝石がまぶされて、灯りを反射してキラキラと輝いている。

 ふわりとスカートが広がるドレスは、幾重にも白を重ねた薄桃色だ。後頭部で纏められた髪は緑地のバレッタで留められ、こちらは艶のある銀が縁取りと模様を象っている。


 今夜の衣装を揃えたのはオルドゥルだが、どうやら父もファッションセンスは信用できるようだった。

 こういった余所行きの格好は、毎日だと窮屈だが時折ならば悪くない。そんなことを思いながら、オーリは人々がこぞって贅と美を尽くした衣装の群れを物珍しい思いで観察した。


(やっぱり皆、特に女の人たちは綺麗だなあ。服も化粧も、何が自分に似合うのかよく分かってる)


 あの群れのどこかに、オーリと同じく品の良い装飾で飾り上げた両親がいるのだろう。あの二人は主催者への挨拶を終えて小一時間ほどの間に、好き勝手何処かへと消えてしまった。

 父は知り合いらしき貴族の男と、母は扇を揺らしてふらりと気怠げに。

 オーリが壁際から動かなかったこともあるのだろうが、同じホールの中にいるとは言え八歳の子供を完全放置とはなかなか思い切りの良い両親だ。「自分でお友達になれそうな子を見つけてみたいんです」と駄々を捏ねて一人になったは良いものの、よく考えればオーリの年齢でここにいる方が特殊な例であり、友人になれるほど歳の近い子供など一時間探しても見当たらなかった。


(駄目だなあ。もしも良さそうな子供が見つかったら、頑張って友情を育みに行こうと思ってたのに……)


 残念そうに考えながら、オーリはしょんぼりと肩を落とす。こんな言葉をラトニが聞いたら、嫉妬で歯軋りするに違いない。


(分別のつかない小さな子供は、扱い方さえ間違えなければ知ってることをベラベラ喋ってくれるから、情報収集に便利だと思ったんだけど……)


 ――訂正。ならば良し、と重々しく頷くに違いない。


 むう、と唇を尖らせながらなかなかひでぇことを考えるオーリは、子供は大事だが利用は躊躇わない、良識もあるが割り切りも良い人間である。

 そんなオーリの手には、現在涼しげな青色の液体で満たされたグラスがあった。ブルーハワイのような色に惹かれて貰ってみたそれは勿論ノンアルコールドリンクで、レモンとマスカットをミックスしたような味がする。

 一口飲むと、炭酸に似た刺激が口中でぱちりと弾けた。炭酸より牛乳を入れたいなあ、と思いつつ、オーリは暇潰しにシェパ帰還後のラトニの反応をシミュレーションすることにする。顔を合わせて片手を挙げ、やあ久し振りの「や」まで言うと同時に鯖折りをかまされて、シミュレーションは二秒で終わった。


(駄目だ、相手が手強過ぎて暇潰しにならない。背中に鉄板を仕込むことでも検討した方が良いのかな)


 深々と溜息をつきながら、大きな青灰色の目をきょろりと巡らせる。パステルカラーやビビッドカラー、様々な色彩が溢れているホールは、長く見ていると目がチカチカしてくるような気がした。


(貴族の集まりなんて来たのは初めてだけど、これは多分盛大な方なんだろうな。出席者で多いのは丁度年頃のご令嬢、少し減ってご令息……あとはとっくに成人を越えてるおじさんたちか)


 周囲に聞き耳を立てながら、オーリはグラスをくるくると回す。海のそれに似た鮮やかな青がグラスの中で踊り、小波のように小さな飛沫を上げた。


 オルドゥルの目当てが恐らくそうであるように、彼らの目当ても出席者の顔触れなのだろう。

 聞いた話によれば今夜の主催者は、この国で最も王族に近い権威を誇るファルムルカ公爵家の縁戚に当たるらしい。その縁でか、今回の夜会にはかの公爵家の令息令嬢である兄妹や、表舞台にはほとんど露出のない王弟殿下も出席するらしいと、まことしやかに囁かれていたから。


 実際、両親が姿を消して少しした頃、何やら入り口で黄色い声が上がっていた。控えめながらも興奮した様子の女性たちがそちらに吸い寄せられていたから、きっと目当ての誰かが現れたのだろう。

 新たな客の姿は背の低いオーリには見えなかったが、貴族子女たちの囁きによれば、どうやら現れたのはファルムルカ兄妹の方らしい。

 今頃はオルドゥルも挨拶の機会を窺っているか、はたまた紹介のためにオーリを探しているか。

 或いは既に挨拶を終え、別の相手と談笑でもしているのかも知れない。階級で言えば並以上の位置に当たる当代ブランジュード侯爵が相手では、如何に色めき立つ令嬢たちでも公爵家兄妹との接触を止められはしないだろう。

 尤も、その娘はうっかり紹介などされては堪らないとばかりに、さっさと場所を移動しているのだが。


(美貌で有名なファルムルカ公爵家の兄妹は、まだ成人前で婚約もしていないって言うし、王弟の方は次期最高権力者の座に最も近い。婚期を迎えた令嬢方が浮き足立つのも仕方ないね。私も一目くらい見てみたいけど、本当に彼らが現れるとしてもどちらか片方だろうなあ)


 ファルムルカ兄妹が出席したなら、多分王弟殿下の方は来ない。――何せ現在、彼らは水面下で権力争いの真っ最中なのだから。


 フヴィシュナの現国王は、今年で齢五十になる。そろそろ後継が懸念される頃だが、問題は彼に実子がいないことだった。

 そこに来て、現在最も有力だと言われている候補がその実弟。更に王弟に次ぐ継承権を主張しているのが、現国王の降嫁した妹を母に持つファルムルカ公爵家兄妹、その兄の方というわけだ。


(ちょっと噂を聞いただけだけど、どうやら暗殺だの謀殺だのも噂されてるし、典型的な対立関係なんだよねぇ。お家騒動の余波がシェパにまで届かなければ良いんだけど……)


 ちなみに噂を聞いた場所は、メイドが沢山いる館の厨房――の、使われていないオーブンの裏の積み重なった箱の陰である。

 そんな所に潜り込んでいくからラトニに家ネズミなどと罵られるのだが、如何せんアーシャは教育に悪い権力闘争のドロドロを話し渋るので仕方がない。使用人と奥様方のネットワークは、時々本職のスパイよりも速く核心を突いた情報を流していたりするから侮れないのだ。


 ――と、その時。


「貴女、先程からずっとここにいますわね」


 唐突に床に影が差し、人の声が降ってきた。一拍置いてそれが自分に対するものだと気付き、オーリは慌てて視線を上げる。

 そうして目に映った鮮烈な色に、彼女は知らず双眸を見開いた。


 ――最初に見えたのは、どこまでも鮮やかに透き通った赤。

 そこにいたのは、赤いドレスを身に纏い、最高級の紅玉のような真紅の髪と瞳を持つ少女だった。

 年の頃は十二か三か。未だ子供の領域に含まれるだろうその令嬢は、しかし既に威厳と呼べるものを見せ始めている。

 細身で年の割には背が高い彼女の容姿は、芸術的な美貌と言うに相応しい。うっすらと微笑む顔は白磁の白さに血が通い、あたかも今まさに命を与えられた人形の如き、非の打ちどころのない美しさを感じさせた。

 纏うドレスはシンプルながら体のラインを際立たせ、大人びたと表現できる域を明らかに越えたデザインだ。オーリが着れば間違いなく失笑を買って終わるだろうそれを、真紅の令嬢は生まれた時から付き合ってきたと言わんばかりに悠然と着こなしていた。


 極上のルビーが人の形を取って現れたかと思わせる人間の姿に、オーリは不覚にも一瞬言葉を失って。

 けれど真紅の令嬢は気を悪くした様子もなく、白い顔を緩ませてくすくすと笑った。

 ぽかんと見開かれた青灰色の瞳に映るのは、忌避や妬みや諂いではなく、芸術品に対するそれに似た純粋な称賛。幾分不躾ながらも無邪気なそれに、向けられた令嬢も悪い気はしなかったようだった。


「ごめんなさい、退屈そうにしている子がいると思って、実はずっと見ていたの。貴女、夜会は初めてかしら?」


 無表情で立っていればそれこそ熱無き宝石のように冷たい雰囲気を纏うだろう美貌の令嬢は、真紅を湛える瞳を細めて愛想良く聞いてくる。我に返ったオーリは、慌てて何度も頷いた。


「は、はい! ご機嫌麗しゅうございます、ブランジュード侯爵家長女、オーリリア・フォン・ブランジュードと申します。社交場への出席は今夜が初めてとなりますが、宜しければ以後お見知り置きくださいませ」


 自ら名乗り、けれど自らは問わず。

 侯爵家令嬢であるオーリが目下として礼を尽くさねばならない令嬢など、この国にはそう多くない。しかし目の前の少女がその例外の一人であることを、オーリは勘と推測によって即座に察していた。

 相手の正体など分からないが、その余裕に容姿、立ち振る舞い。どう考えても並の令嬢ではないと判断して、オーリは迷わず背筋を正す。


(だ、誰だか知らないけど、ここで失敗したらとんでもなくまずいことになりそうな気がする……!)


 だらだら背中に冷や汗垂らしながらも、目だけはこちらを見つめる令嬢の視線から外せずに。

 シェパの友人であるストリートチルドレンのリーダー――イレーナ・ジネも生まれながらに人の上に立つ器の持ち主だったが、この令嬢も明らかに人を従えることに慣れた空気を有していた。

 イレーナがサバンナの大地で生き抜きながら力と誇りを培ってきた雌獅子なら、この令嬢は誰より美しく光り輝けと、生まれた時より細心の注意を払って人の手で磨き抜かれた真紅の貴石だ。野生の獣じみた優美と強さではイレーナに軍配が上がるだろうが、魂にまで叩き込まれたような貴人の威厳と高貴さならば、彼女の方が遥かに勝る。


 ある意味猛獣を前にするよりひどい緊張感を味わいながら、オーリは所々つっかえつつも教えられた挨拶を口にして。

 そうして返された令嬢の言葉に、彼女は自分の選択が正解であったことを知った。


「あら、ご丁寧に。それなら貴女、まだ社交界には不慣れなのね」

「はい。あ、でも、一通りのマナーは勿論習っています。お目にかかる方々に失礼がないよう、これからも勉めていくつもりです」

「何だか表情が固いわねぇ。――オーリリア様、改めて初めまして。わたくしはファルムルカ公爵家長女、リーゼロッテ・ロウ・ファルムルカと申します。社交界の習慣で何か戸惑うことでもありましたら、何でもお聞きになってくださいね。可愛い後輩に色々と教えて差し上げますわ」


 真紅の令嬢はにこやかに笑い、紅を刷いた唇を満足そうに吊り上げる。するりと引かれたドレスの裾が、令嬢の足に纏わり付いて艶やかな光沢を閃かせた。


 ――その名前を聞いた瞬間、口から心臓が飛び出そうになったことは、決して大袈裟な反応ではなかったはずだ。



 ブランジュード家には「侍女」と「メイド」がいる描写があるので、今更ですが両者の違いについて補足です。

「メイド」は子守りや家事を行う、家に仕える一般的な女性使用人。「侍女」は女主人の傍に仕えて、その世話や補佐をする人です(似たような立場の使用人に、男主人に仕える「近侍ガヴァネス」という役割があります)。

 侍女はメイドなどの下級使用人に対して、基本的に仕える主人に並ぶほどの優位を持ち、ある程度の社会的地位も認められているそうです。つまり「家の嫡女に仕える唯一の傍付き侍女」であるアーシャの地位は、ブランジュード家の中では公的にかなり高い方。

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