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いつか見る果て  作者: 笠倉とあ
7歳・シェパの街編
3/176

3:彼らにとっての××度目の出会い

 かつてオーリが『桜璃』であった頃、彼女は善人であったかは別として、道徳的には極めて真っ当な人間だったと言って良かった。


 暴力が嫌いだった。悪意が嫌いだった。奪われるのが嫌いで、虐げられるのが嫌いで、だからこそそれを他者に向けることを疎んでいた。

 嫌いな人間の悪口くらいは言ったけれど、実際に誰かを陥れたことなど一度もなかった。

 子供は守られて当然だった。老人は大事にして当然だった。

 殴れない自分が誇りだった。人に向かって振るわれたことのない拳こそ、平和な社会で生きる彼女が維持し続けるべきものだった。


 けれど、生まれ変わったこの世界は、そんなに優しい場所ではない。甘やかな理想を語りたいなら、まずは目の前で牙と悪意を剥き出しにしている多くの敵を叩きのめさねばならなかった。言葉を主張するために、意志を主張するために、それらを突き通すだけの力を示して見せねばならなかった。

 弱い子供は奪われた。弱い老人は虐げられた。強盗強姦誘拐殺人。ちらりと覗き見る街の裏側は、太陽の光も届かない闇に満ちていた。


 六歳の頃、初めて赴いた「外」の世界で。

 やらねばやられるということを、オーリは強制的に学ばされた。


 ――ごぎんっ、と鈍い音が鳴ったことを、一瞬誰も気に留めなかった。


 誰にも状況を理解させないまま、次の異音で二人目が倒れる。汚れた路地に押し倒されていた子供だけが、フードを被った小さな影と、自分にのしかかる大柄な男が鋭い打撃音と共に倒れる光景を見た。


「なんっ――」


 壁に凭れてニヤニヤ笑いながら見物していた男が、表情を変えて誰何の声を上げかける。その足元に回り込んで、オーリは膝を狙った回し蹴りを食らわせた。

 関節が砕ける音と共に苦鳴を上げて崩れ落ちた男の顎目掛け、伸び上がるような右の掌底。脳味噌を盛大に揺らされた男がぐるんと白目を剥いて、これで残り、二人。


 ――ひぃ、と誰かの悲鳴が上がった。一人の男は大振りのナイフを掴み出し、残る一人は色を無くして後ずさる。

 ナイフの男が口を開こうとしたその時には、既にオーリはそこにいなかった。壁を駆け上がりながら、落ちていた石を全力で投擲する。どこにでもあるただの石は避ける間もなくナイフを持つ手にぶち当たり、一瞬気を逸らした男の視界に映ったのは、間近に迫った小さな影。


 ――ゴッ!!


 目を見開いた男の頭部に、鈍器で殴られたような衝撃が叩き落とされた。迅雷の速度で振り抜いた踵落としが、一撃で男の意識を刈り取っていく。最後にその目が映したのは、凍えるような冷たさを持つ、青みがかった灰色の瞳。


 そうして倒れた男を他所に、トッ、と軽い音を立てて着地したオーリは、最後の男がよろめきながら通りの方向へ逃げて行くのに気付いた。

 一瞬考えてから、握っていた石を地面に投げる。追撃したいところだが、今は他に気にかけるべきことがあった。


「――ねえ、大丈夫?」


 努めて優しい声で言って、オーリは壁際に蹲っていた子供に歩み寄る。


 見れば助けた子供は、どうやらオーリとほとんど変わらない年頃のようだった。


 茶色みがかったショートの黒髪は、泥や土埃で汚れてぼさぼさになっている。荒れた髪の隙間から、一対の目がこちらをじっと見詰めているのが分かった。

 目元を覆うように伸ばした前髪も手伝って、子供の性別は判別できない。けれど、隠れていない口元や鼻筋は、幼いながらも小奇麗に整った形を示していた。


 きっと、数年も経てば端正な容貌へと成長するに違いない。そのせいで目を付けられたのか、はたまた子供なら誰でも良い幼児趣味の連中だったのか、そんなことまで分かるはずもないが、子供の幼さにオーリは怒りが再燃しかけるのを感じる。


 ――駄目だ。今は優先すべきことがある。


 沸き上がろうとした怒りを抑え付け、オーリは上着を脱いだ。


「急がせて悪いけど、動けるようなら移動しよう。こいつらが目を覚ますかも知れないからさ」


 服をぼろぼろにされてはいるが、幸いまだ『手を出される』前だったようだ。脱いだ上着を子供に被せ、フードで顔を隠してやってから、小さな手をそっと取る。

 怯えているかと思った子供は、意外に冷静だったらしい。震えもない手が一瞬躊躇って、オーリの手をゆっくりと握り返した。


「行こう。家まで送るよ」


 そう告げて踵を返したオーリの足が、拍子に人の頭らしきものを蹴った。

 恐らく初撃で倒した男だろう、襲撃した時一番後ろにいたはずのその男は白目を剥いて転がっている。首をおかしな方向に捻じ曲げて泡を吹いているが、どうやら呼吸はしているようだった。男の顔色を確認して、オーリは足早に歩き出す。


 この世界は優しい場所ではない。甘やかな理想を語りたいなら、まずは目の前で牙と悪意を剥き出しにしている多くの敵を叩きのめさねばならなかった。やらねばやられるということを、オーリはこの一年で学ばされた。


 それでも、殺す覚悟だけは、まだ持てない。




※※※




 子供の性別が男であるということは、改めて間近で声を聞いてようやく分かった。


 襲撃現場を離れた後、二人は少年の歩調に合わせてゆっくりと歩く。例の裏路地を出て幾つかの道を経由する中で、オーリは少年が最近この街に来たばかりだということを知った。


「僕が住んでいるのは、八番通りの孤児院です。コバルトブルーの屋根の建物なのですが、ご存知ですか?」

「うんうん、ちょっと遠いけど知ってるよ。何回か通ったことあるし」


 少年は、助けてもらった礼を言う時もひどく丁寧な言葉遣いだった。孤児院に入る前は良い家の生まれだったのかも知れないと、オーリは頭半分で考える。年齢はオーリより一つ下らしいが、随分としっかりした言動をする子だと思った。


「あの、あなたは、いつも人助けと言うか……ああいったことを?」

「んー、まあ、時々ね。この街、あんまり治安が良くないから。キミも気を付けなよ」

「この国の中で大きな街なら、大体こんなものですよ。あなたも気を付けてください。……正義感が強いのは良いことでしょうが、怪我で済まないこともあります」

「正義感……なのかなぁ? うまく言えないんだけど、ああいう光景見るとなんかカッとなっちゃって。どうにも我慢できないんだよねぇ……」

「いえ、そこまで肩を落とさなくても……。僕もそれで助けられた口ですし」


 こちらで物心付いてからというもの、オーリは殊に子供を狙った犯罪を嫌っていた。憎んでいたと言っても良い。一番嫌いなのは誘拐と殺人だが、一番怒りが湧き上がるのは暴力と強姦だった。とりわけ、集団で一人を囲む男達や、振り上げられた大きな拳に本能的な嫌悪感を抱く。

 被害者が大人である場合は、オーリは嫌悪はしても冷静でいられた。けれど、それが子供となると呆れるほどに血が昇る。何故対象が子供の時に限定されるのかは分からないが、子供を大事にしていた前世の価値観の名残りではないかと、彼女自身は考えている。


「あ、それよりキミ、お遣いの途中だったんだよね。小さいのに偉いなあ。そっちはもう終わったの? 何なら付き合うよ?」

「……僕とあなたはたった一歳違いでしょうに。僕は帰り道だったんですよ。近くまで送って頂ければ充分です」


 少年の言葉は正直有難かった。ついさっき襲われたばかりの少年を一人にするのは気が引けるが、これ以上時間を食えば夕食の時間に間に合わないかも知れない。呼びに来るアーシャに、脱走がバレてしまうのだけは避けたかった。

 八番通りに差し掛かった辺りで、オーリは少年と別れることにした。この辺りは暗い道はないし、人通りも多い。孤児院までは大きな道を歩いて行けば辿り着くから、誰かに再び絡まれることもないだろう。

 オーリの手を離して、少年はぺこりと頭を下げた。


「今日は本当にありがとうございました。どうお礼をすれば良いのか分かりませんが……あなたに会えて、良かったです」

「いやいや、いいよいいよ気にしないで。たまたま通りかかっただけだもの」

「孤児院の近くには警備隊の詰め所もありますから、帰りに寄って適当に通報しておきます。あなたのことは言わない方がいいんでしょう?」

「うん、お願い。あ、上着はあげるからそのまま使うか処分するかしておいて」


 彼の着ていた服は、ボロボロにされてもう使えるまい。隠すもののない剥き出しの顔でへらりと笑って、オーリはそう告げる。「大切に使わせてもらいます」と返して、少年は言葉を繋いだ。


「僕の名前はラトニ・キリエリルです。次に会ったら、あなたの名前を教えてください」


 そう言われて、オーリは思わず目をぱちくりと瞬かせた。それから少し視線を逸らし、あー、と短く呻いた後で、決まり悪そうに眉を寄せる。


「や、ごめん。実は私、訳あって名前は言えないんだよね。ハートマークつけて『おねえちゃん』って呼んでいいよ」

「……無い、というわけではないのですよね? 親や家がないようには見えませんが」

「渾身のジョークさらりと流されたよ。名前はあるけどさぁ……でもちょっと、人前で呼ばれるには都合が悪いと言うか」

「ならば人前では呼びません。だから次に会った時は教えてください。……僕は、あなたの名前を呼びたい」


 さらりと言われた言葉に、オーリは何だか口説かれているような気分になった。

 次に会ったら、と簡単に言うが、この広い街で偶然行き合う確率など決して高くはないだろう。はっきり駄目だと言うべきか、回答を次回に持ち越すべきか悩むオーリに、少年はあっさり背を向けた。


「では、僕は夕食の時間が近いので帰ります。送って頂いておいて何ですが、あなたも早く帰らないと日が暮れますよ」

「あ、うん。うわやっば! 日が沈みかけてる!」


 ぎょっと目を見開いて、オーリは慌てて身を翻した。軒下の樽を足掛かりにして跳躍し、一足飛びに民家の屋根へと降り立つ。静かに見ている少年に大きく手を振って、別れの挨拶をした。


「じゃあね、少年! 名前を教えるかは分からないけど、縁があったらまた会おう!」

「……はい。縁があったら」


 言葉を返して、少年はフードの下から彼女を見送った。屋根を伝ってたちまち駆け去っていったオーリの背中に、彼はしばらくそこに佇んだまま、じっと視線を送り続けていた。




※※※




 その日、すっかり日が暮れた頃。太陽が落ちて尚暗い裏路地に、数人の人間がいた。


「おい、動けそうか」

「無茶言うな! こっちは膝砕けてんだ!」

「俺だって肋骨イッてんだよ!」


 言い合いながらももがく男達は、まだしも動ける仲間に手を貸されて何とか起き上がろうとする。


「畜生、あのクソガキ何者だったんだ……!」

「顔見たか?」

「いや、見えなかった」

「ダーラの奴、一人で逃げやがって……!」


 口々に吐き捨てる中、一人が思い出したように声を上げた。


「そう言えば、前に聞いたことがある。なんか俺達みたいなのを邪魔して回る、バカみてぇにすばしっこいガキがいるとか」


 厳密には犯行現場に乱入されるのだが、細かいことはどうでも良い。常習者らしいと知って、一気に男達の目が険しくなった。


「は、何だ、ヒーロー気取りかよ。そのイカレたガキは何考えてやがるんだ」

「知るか。だが誰もツラ見たことがないってのは確かだぜ」

「そりゃそうだろうよ、見つかってりゃ誰かが報復に動いてる」

「服装は……有り触れ過ぎてて分からねぇな。フードさえ脱いじまえば、あんな格好のガキは山ほどいる。区別がつかねぇぞ」

「だが、目だけはちらっと見えたぞ。特徴的だったから覚えてる。街中のガキを探しゃあ、そのうち行き当たるぜ」

「そりゃいいな。だがその話は後で聞かせろ、いい加減警備隊が来るかも知れねぇ」


「警備隊なら来ませんよ」


 ――するり、と。

 滑り込んできた幼い声に、ふらふらと立ち上がったところだった男達はぎょっと身構えた。一斉に視線を向け、その見覚えのある上着を着た子供の姿に瞠目する。


「知らせていませんから」


 低い身長、細い手足。けれど違うのはその声だった。どこから乱入してきたのかも分からないあの奇怪な子供ではなく、あの裏路地で自分達が獲物にしようとした幼い少年が、今、奇妙に落ち着いた様子でそこに佇んでいた。


「テメェ、のこのこと……!」

「いや待て、声が違うぞ。こいつはオレらが捕まえてたガキの方だ」

「どっちでもいい! わざわざあんな恰好して現れやがったってことは、もしかしてあのクソガキとも関わりがあるんじゃねぇか!? 一体何しに来やがった!」


 一人が仲間の手を振り払い、少年に詰め寄ろうとして、怪我の痛みに呻いた。歯軋りしながら自分を睨み付ける男に、少年は声のトーンを変えないまま、事もなげに告げる。


「いえ。……ただ、彼女が敢えてやらなかったことを、代わりにやりに」

「訳の分からんことを……!」


 壁を殴り付けようとした男の声が、その瞬間、消失した。目を剥いてぱくぱくと口を動かし、しかしどうやっても声は出てこない。声どころか呼吸そのものが停止させられていることに、数秒遅れて気が付いた。


「ああ、最初に逃げた一人ですけど……そちらはもう片付いていますので。あの世で存分に愚痴でも文句でも言ってください」

「…………!!!」


 驚愕と苦痛に顔を歪め、助けを求めて背後を見る。しかしそこでは男の仲間が、例外なく男と同じ苦痛を顔に浮かべてもがいていた。


「困るんですよ、復讐なんて考えられると。あなたたちのような人間を無意識に嫌悪し、憤怒と憎悪を抱いて尚、彼女は甘い。下手に見逃して万が一のことがあったら、僕は死んでも死に切れません」


 淡々と、冷静に。

 男達が揃って喉を掻き毟る異常な光景を目の前にして、子供は平然と言葉を紡ぎ続ける。


「だから、死んでください。彼女に手が届く、その前に。――僕と彼女を虐げる連中なんか、皆皆無慈悲に無残に死ねばいい」


 轟――と強く風が吹き、被っていたフードがばさりと外れた。


 ざあ、と波打つ少年の髪は、深海を映したかのように青い。


 それは踊るように揺れる、深い深い、群青と。


 長い前髪から覗く、月のような瞳。


(――な――、)


 ――深海の青と、満月の金。それは、人ならざるものの持つ色だ。

 目の前にいるものが何なのか、一瞬男の理解が追い付かなかった。

 今の今までただの子供だと思っていた存在の持つ、異様な威圧と異常な存在感。寒気がするほど整った容貌は、永久凍土の大地に咲く、一輪の氷の花を想わせて――


(――――……っ!)


 刃よりも恐ろしい視線に囚われながら、男は己の奥歯がガチガチと震え出すのを感じた。凍て付くほどに温度のない眼差しで見据えられ、思考まで白く冷えていく。

 幼い頃聞いた昔語りが、男の脳裏を微かに過った。

 人ならざる色を持ったものには、決して手を出してはいけないよ。

 嗚呼、かつて自分にそれを語ったのは、確か――



「――――さようなら」



 ――それが、男がこの世で最後に聞いた声だった。


 ごぼりと喉の奥から何かが溢れ出すのを感じながら、男の意識はぐるりと暗転し――そして、二度と戻ってはこなかった。



「……空気中には多くの元素が含まれている。水蒸気を集めるのみならず、酸素と水素から水を合成することも可能……でしたか。試せば意外と出来るものです」


 倒れ伏す男達の口や鼻からは大量の水が溢れ出し、地面の色を黒っぽく染めている。

 指一つ動かすことなく幾つもの死体を作り上げておきながら、少年は何の感慨も覚えなかった。

 代わりに脳裏に描くのは、つい二時間ほど前に別れた、愛しい恋しい少女の姿。――全く、彼女に教わった知識は、砥げば砥ぐだけ鋭い武器になってくれる。


「嗚呼、髪の染め粉が落ちてしまいましたね……。明日までに染め直さないと」


 全員の息が絶えたのを確認して、少年は身を翻した。同時に、男達を陸上溺死させた水が残らずその場から消失する。残ったのは、死因の分からない死体が四つ。

 前髪を適当に掻き乱し、目元を隠した上から、更にフードを深く被り直す。現在の住まいである孤児院を目指して歩きながら、少年はぽつりぽつりと独りごちた。


「ようやく彼女に再会できたのは良かったけど、忘れられているらしいのが残念ですね……。でも、暴力や強姦がトラウマになっているところを見ると、やはり深層意識には残っているんでしょうか。あの二つは、僕らが散々逃げるのに苦労した覚えのあるものですし」


 この世に生を受けてからというもの、ずっとずっと求めていた。彼女が生まれているのかどうかさえも分からないまま、希望に縋り、記憶に焦がれ、探して探して探して探して。

 けれど彼女はこの街にいた。何も覚えていなかった彼女は、それでも自分を見つけ出して、助けて、笑って手を繋いでくれた。あの日のように。かつて二人で寄り添って生きた、苦しくも幸せだったあの頃のように!


(彼女は変わっていなかった。全てを忘れて尚、彼女は彼女のままだった)


 柄にもなく少年は、自分が浮かれていることを自覚していた。今なら自分を捨てた生みの親にさえ、心からの感謝を捧げたい気分だ。だって彼らが自分を捨ててくれねば、自分はこの街に辿り着けなかったのだから。


 次はいつ、会えるだろうか。まずは彼女を探して会いに行かなくてはならないだろう。それから名前を聞かないと。

 そうして、また二人で一緒に居よう。今度はもうその手を離さない。二度と見失うつもりはない。

 大丈夫、まだ、我慢できる。忘れられているのは悲しかったけれど、これからも彼女の傍に居続ける権利が、自分のこの手に戻ってくるなら。


「――今度はあなたも、僕の名前を呼んでくれますね」


 形の良い唇が、うっそりと艶やかな笑みを刻む。

 呟いた声はまるで睦言のような響きを抱いて、暗い夜道に落ちていった。

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