28:君の愛を知っている
『エルゼさんの仕事の評判? そうねぇ、特に聞いたことないわ。真面目な人だってことは、本人を見てれば分かるんだけど』
努めて何気なさを装ったオーリの問いに、シエナは別段疑問を抱かなかったようだった。
今日も閉店時間前に品切れになった食料棚を片付けながら素直に答えてくれるシエナに、オーリは小首を傾げて言葉を繋ぐ。
『えー、そうなんですか? エルゼさんてすっごい美形だから、ギルドでも噂になってるんじゃないかなー、とか思ってたんですけど……』
『うぅん? 確かに格好いいとは思うけど、そんなに凄い美形かしら。あ、ひょっとしてリアちゃん、エルゼさんみたいな人が好みなの?』
布巾を使う手を止めて、面白そうににんまり唇を吊り上げたシエナに、オーリは指先でクチバシをからかいながら、『違いますよー』と笑って否定した。
『あら、恥ずかしがらなくて良いのよ。私も初恋は十歳の頃で、十五歳年上のお兄さんだったわ。お城の騎士団に入った人で、凄く格好良くてねぇ』
『シエナあああ!? パパお前が初恋奪われてたなんて話聞いたことないよおおおお!?』
キッチンの奥から聞こえてきた店主の絶叫に、振り向いたシエナは大声で叫んだ。
『父さんはさっさと二階の洗濯物取り込んで来て頂戴! 今日干してあるのは父さんが盛大にコーヒー零したシーツなんだから!』
娘に容赦なく叱られて、ダメ店主が泣きながら二階に駆け上がっていく音が聞こえる。『娘よりパパの方に年が近い男なんて認めませぇぇぇぇん!』と泣き叫ぶ声が届いて、オーリとクチバシは何となくじっとりした目になってしまったが、シエナは平然とした顔で視線を戻した。割といつものことらしい。
『……私、まだ八歳ですよ。この年齢差は犯罪だと思うんですけど』
『そんなことないわ! 年齢なんて五年もすれば全然問題にならなくなるわよ。エルゼさんは大人っぽいけどまだ十六歳らしいから、リアちゃんなら充分許容範囲内よ』
『と言うか、そもそも私、別にエルゼさんが好きだとか言ってないんですけど……』
心なしか機嫌が斜めになり始めたクチバシを宥めながら、オーリはどうしたものかと言いたげに苦笑した。女が恋話好きなのは、どうやら万国共通らしい。
『……ともかくエルゼさんの仕事内容については、シエナさんは知らないってことで良いみたいですね』
ぽつりと小さく独りごちて。
約束の一日ガイドを終え、一足先に帰っていったエルゼの背中を幻視するように、少女はきっちり閉じられた喫茶店の扉をちらりと見る。
依頼を受けて仕事をする冒険者にとって、口コミは重要なツールだ。評判が良ければ名指しで仕事が入ることもあるし、その場合は指名料が上乗せされる。逆に悪評が広まれば、自然と仕事もそれ相応のものしか入らなくなるだろう。
世間話ついでに聞いた話によれば、エルゼは普段、街外や長期の依頼を受けることはほとんど無いようだ。
王都内という、広いが狭い微妙な範囲においてのみ仕事をしているはずのエルゼの評判が、そのネットワークに全く登っていない理由があるとすれば――
『――ねえ、シエナさん。ちょっと聞きたいことがあるんですけど――』
※※※
「やっぱり幻術だろうねぇ」
一日王都巡りの日から五日が経って。
広大な侯爵家別邸の庭をてくてく歩きながら、本日はクチバシだけを連れたオーリはそう呟いた。
季節の花や灌木へと気紛れに視線を送りつつ、煉瓦で舗装された道を行くオーリの手には、満開に咲いた白い花が一輪握られている。くるりくるりと鼻先で回すその花は、肩の上で丸くなっていたクチバシが、先程摘んでくれたものだった。
――ピィ。
短く鳴き返してくるクチバシに、オーリは青灰色の双眸を細め、こくりと小さく相槌を打った。
「……うん、そうだろうね。多分クロードさんのくれた黒石が、自動的に幻術を打ち消しちゃってたんだ。初めてエルゼさんに会った時から、私は黒石を着けてたもの」
曰く、シエナの認識しているエルゼの容姿は、濃い灰色の髪に緑色の目。そこそこの美形ではあるが、一目で意識を惹かれるほどのものではないらしい。
五日前の王都巡りの時も思ったが、エルゼはあの容姿からすれば違和感を覚えるほどに、人目を引かない人間だった。特に気配が薄いというわけでもないので、単純に他者から見えている容姿が違うのではないかと考えたのだが――
「今度会う機会があったら、一度幻術がかかったままの顔を見ておくべきかなあ。でも、目の前で黒石を外したんじゃ、普通に怪しまれるし」
オーリは、自分がエルゼの素顔らしきものを知っていることを誰にも気取らせるつもりはなかった。
あの日喫茶店で話した内容を知っているのは、オーリとシエナとクチバシのみ。クチバシは除外して「女同士の内緒話」ということになっているので、次にエルゼに会ったとしても、シエナが彼にあの日の話を喋ることはないだろう。
幻術まで用いてエルゼが隠したがっているものを見てしまったとなれば、お互いにどんな不都合が出てくるかも分からない。そうまでして暴かなくとも害は及ばない秘密だと、オーリはこっそり判断した。
――偽りの顔でシエナたちと交流しているエルゼが、更に容姿や名前を偽って仕事をしているのか。
それとも冒険者ギルドに所属しているのは建前で、本当は別のことを本業にしているのか、なんて。
そんなことオーリには関係ないし、深く知りたいとも思いやしないのだ。
「……なに、クチバシ?」
何となく不機嫌そうにクチバシの目が細くなったように思えて、無言で思考を巡らせていたオーリは疑問符を浮かべた。
ピリ、と低く鳴き返した小鳥に、彼女は一拍置いて言いたいことを飲み込んで、へらりと眉を下げた苦笑を見せる。
「ええ、そんなこと言われても……。それは仕方ないじゃない、そう嫌そうな顔しないでよ。て言うか、私そんなにエルゼさんのことばっか話してる?」
「ヂッ!」
「でもキミ、クロードさんの話も似たようなこと言って嫌がるじゃ――痛い痛いって、耳たぶは痛い!」
小鳥相手にばたばた真剣に抵抗するオーリは、端から見ればさぞかし間抜けなことだろう。
結局いつもの通り気が済むまで突つかれてから解放され、人目がなくて良かったと思いながら、赤くなった耳たぶをむっつりと撫でた。
一方彼女の耳を離したクチバシは、そんなオーリをしばし見つめていたかと思うと、一転して小さな鳴き声を上げる。
最初に会った時と比べて格段に意思を読み取れるようになったその声に、オーリは困ったように肩を竦めて溜息をついた。
「何だ、キミ、もしかしてそれで機嫌が悪かったの? 全く、クチバシまでシエナさんみたいなこと言わないでよね……いくらエルゼさんが美形でも、そういう感情はないって言ってるじゃない」
確かそれは、先日も目を輝かせたシエナに散々突っ込まれた疑惑だった。
オーリにとっても心外なら、エルゼにはもっと失礼な話である。こんな会話をエルゼ当人に聞かれたなら、『どうして俺は恋愛感情の欠片も向け合っていない相手に、わざわざ眼中外宣言されているのかな?』と輝くような笑顔で頬を抓られるに違いない。
――だってそうだろう。
まさか本当に、あの男に惹かれているわけじゃないだろうな、とか。
クチバシにまでそんなことを疑われれば、流石のオーリも幾分呆れと食傷を覚えようというものだ。
いくら勘操られたって、繰り返してきた否定の言葉が紛れもない本心なのだから仕方ない。
エルゼのことは好きだし、その容姿も頭脳も身のこなしも、極めて魅力的な人物だと思う。
けれどそれがイコール恋に結び付くかどうかは全く別の話であり、また畏怖や憧れを恋と錯覚するほど、オーリは頭に血を上らせてもいないのだ。
少なくともオーリ自身にとっては、この感情は恋ではない。たとえそこに『現時点では』という但し書きが付くにしても、ならば将来的には恋心に発展するのかと問われれば首を傾げざるを得ないだろう。
(色々と油断ならない人でもあるしね……。わざわざ距離を詰めようと思うには、私たちは互いに隠し事が多過ぎる)
どうやらこの人生での初恋はまだ当分先のようだと考えながら、オーリは猫科の猛獣じみたエルゼの探るような眼差しを思い出し、ふるりと背筋を震わせた。
――それに正直、一緒に居て楽しいと言うのなら、シェパに残して来たラトニの方がずっと上だった。
思い返せばラトニ・キリエリルという少年は、異様なほどあっさりとオーリの懐に入り込んで来たと思う。
出会った当初から会話も議論も、エルゼと交わすそれよりラトニを相手にした方が遥かに気負いがなくて済んだ。互いに距離を考えつつも、圧倒的に遠慮や腹の探り合いをしなくて良い関係は、やはり他に代え難い。
あと一月もしないうちに再会するだろう相方は、きっと今も無表情でオーリの帰りを待っているに違いない。
自分がラトニを好いているように、ラトニもまた自分を好いてくれていると、オーリは当たり前のように信じていた。
(あ、でもクチバシを連れて帰ったら、ラトニはどんな顔するのかな)
微妙な懸念に思い当たって、オーリは眉間に浅い皺を寄せた。
似た者同士は嫌い合うか惹かれ合うかの二択になることが多いと言うが、随所で似たような性格を垣間見せるラトニとクチバシはどうなるのだろう。
これまでクチバシがラトニの話題に忌避感を見せたことは一度もないが、実際に会ったら気が合わなかったなんて展開はおかしいものでもない。
家庭教師がやって来た時さえ部屋から出て行かないクチバシは、反面オーリ以外の人間に懐かない。ラトニもラトニで排他的な所があるから、果たして仲良くやれるかどうか。
――ふと、遠くから己を呼ぶ声が聞こえて、オーリは表情を変えた。
「お嬢様! オーリリアお嬢様! そろそろお時間ですよ、どちらにいらっしゃるのですか!」
ピ、と小さくクチバシが鳴く。水色の喉を優しく撫でて、オーリは声の方へと踵を返した。
「あらら、もうそんな時間か……。行こう、クチバシ。アーシャが探してるよ」
喉を鳴らして体を擦り寄せてくる小鳥に、オーリは呑気に笑いかけて元来た道を歩き出す。白い花を指先でくるりと回し、鼻に触れさせるように匂いを嗅げば、甘い蜜の香りがほんのり漂った。
本日オーリは予定がある。
今の服装は、レモン色のブラウスに白いファー付きコート。わざわざ広い道だけ選んで歩いて来たのは、外出用の衣装を汚さないためだった。
「アーシャ、お待たせー」
手入れの行き届いたアーチを潜り、ひょっこりと庭の入り口に顔を出すと、心配そうに渡り廊下をうろついていたアーシャがほっとしたように頬を緩ませた。
「ああ、お嬢様。良かったです、庭にいらしたのですね」
「今日は大事な日だからって、今朝からアーシャが言ってたじゃない。ちゃんと聞いてたのに、どうしてそんなに焦るの?」
へらりと笑いながら何気なく聞いたオーリに、アーシャは溜息をついた。
「昨日お部屋に伺った時、誰も気付かないうちにいなくなっておられたことを思い出したものですから。てっきり今日も探検に出られたまま時間を忘れているのではないかと、少々慌てましたわ」
――こくり、と。
その言葉に、息を飲み込んだのは無意識だった。
興味なさそうにしていたクチバシが、触れていないと分からないほど僅かに緊張したのが分かる。オーリの表情が刹那の間動きを止め、アーシャの顔色を素早く観察した。
沈黙は半拍。アーシャが不審を覚える前に、少女はするりといつもの笑顔を作り直してみせる。
「え、アーシャ、昨日私の部屋に来たの? ごめんなさい、急ぎの用事だった?」
「急ぎというわけではないのですが、四日後の夜会のために旦那様が注文していらしたお嬢様のドレスが届いたので、お知らせしようと思ったのですよ。昨日もお庭に出ていらっしゃったのですか?」
「うん、絵本二冊持って、池の方に行ってたよ」
にこー、と笑って返してのけるが、言うまでもなく嘘である。
何故なら、オーリが部屋に居なかった空白の時間。およそ二時間ほどのその間、オーリは屋敷にいなかったのだから。
(……昨日と言えば、時計塔を見に行ってた頃だな。でも、この分ならそう怪しまれてはいない。別邸に来てから探検好きを装ってたのが良かったな……)
王都巡りの時、エルゼに案内してもらえなかった時計塔。それはオーリが話を聞いた時から興味を引かれてならなかった、複雑な絡繰りに満ちた壮麗な建物だ。
王都の中心部に位置する時計塔は、街の各所に点在する数多の小塔を経由することで、広大な街のほぼ全域に毎日鐘の音を送り届ける。その音を聞くたびにそわそわし続けた挙げ句、昨日とうとう暇を見付けて飛び出してしまったのだが、ひょっとして見合わせた方が良かったのだろうか。
(――まあ、そんなものは結果論なんだけどね)
オーリとクチバシが部屋に居なかった間、アーシャがオーリの不在に気付いていたこと――それを今知れたこと自体は幸いだったと言って良い。もしも知らずにいたならば、どこか別の所で齟齬が出なかったとも限らないからだ。
次は誰かが部屋に入ったことを知れるような工作をしておくべきかと考えながら、オーリはアーシャを小動物のような目でしょんぼりと見上げた。
「慌てさせてごめんなさい、アーシャ。次は、予定がある時には伝言するようにするね」
「ああお嬢様、そう落ち込まなくても……分かって頂けたのなら、わたくしは充分ですよ。さあ、旦那様たちが間もなくお帰りになりますから、もうお部屋に戻りましょう。大切な祝福を頂くんですから、髪も整え直しませんと」
「はぁい」
どうやら切り抜けたようだ、と思いつつ。
元気に返事をしたオーリは、アーシャに促されて回廊を歩き出した。
――オーリは今日、八歳の誕生日を迎えた。
この後入っている「大事な用事」。それは予てからの予定通り、神殿に八歳の祝福を授けてもらいに行くことだ。
こればかりは、家を空けてばかりの両親でも流石に付いて来ないと外聞が悪い。間もなく戻るだろう両親を待つ間にこの花を活けてしまおうと、オーリは白い花をふらりと揺らした。
仕える少女が大切そうに持っている一輪の花を見て、アーシャが微かに首を傾げた。
「お嬢様、そのお花は庭で摘んだのですか?」
「うん! クチバシがくれたんだ」
「あら、クチバシが……」
復唱して、アーシャはそっと目を細めて笑う。
「それは宜しかったですね、お嬢様。もしかしたらクチバシも、今日がお嬢様の誕生日だと分かっているのかも知れませんわ」
「あははははははは」
絶対分かってるからコイツ、というツッコミはしなかった。
素知らぬ顔のクチバシを横目にちょっと乾いた笑いを浮かべながら、オーリは誤魔化すように「小さい花瓶、出してくれる?」と告げる。畏まりましたと頷いて、アーシャは思い出したように少しだけ眉を寄せた。
「――今更ですがお嬢様、あまりお一人であちこちに行くのは控えてくださいませ。お部屋に籠もっておられるより健康的かと思って黙っておりましたが、もしも池などに落ちたらどうなさいます」
「クチバシがいるから大丈夫だよ。この子は賢いから、すぐに人を呼んできてくれる」
「わたくしたちとてお嬢様にならいつなりとお供致します。一言お声をかけて下されば……」
「アーアーアーキコエナーイ」
「もう、お嬢様……」
アーシャは溜息をつくが、オーリとしては勿論頷くわけにはいかない。今回のように万一不在がバレた時、「探検してた」は今のところ最も便利な言い訳なのだ。
自分の出歩きを、アーシャにバラそうという気は微塵もなかった。
それはアーシャに対する信頼や、アーシャから向けられる好意とは何の関係もない。
だってオーリは仮にもブランジュード侯爵家の第一子で、今のところ次期後継に一番近い人間なのだ。あまつ女でようやく八歳ともなれば、たとえ供を付けたとしても今のような外出など出来るわけがないのである。
オーリが何を訴えようと、知ればアーシャは迷わず事の次第を両親に報告するだろう。
傍付きとして、アーシャはオーリの行動を止めねばならない。止めないなどということがあってはならない。
そしてオーリは、『アーシャが確実にその選択をしてしまう程度には』、『自分がアーシャに大事にされている』自信があった。
「あのね、アーシャ」
――だから、オーリはアーシャを騙し続ける。
子供じみた冒険心と、抱き続けるちっぽけなエゴと保身と信念のために。
初めて屋敷を抜け出したあの日、もしも己が帰らないことがあれば屋敷中の人間の首が飛ぶと知りながら、それでも外へと繋がる塀に手をかけた時のように。
「今日の夜は、前に約束してた珍しいお菓子が食べたいなあ。王都には『ショコラータ』っていう、凄く甘くてほろ苦くて、美味しいお菓子があるんだって。私の誕生日プレゼントに、飛び切り美味しいショコラータを買ってきてくれない?」
「あらまあ、お嬢様……」
――小さな主が言い連ねた、珍しい我が儘に。
話を逸らされたと知りながら数拍置いてアーシャが浮かべたのは、けれど可愛くて仕方ない妹を甘やかすような、ふわりと緩んだ苦笑だった。
「そう言えばお嬢様は以前、誕生日プレゼントには珍しいお菓子が欲しいと仰っておられましたね。畏まりました、確か北区に、王室も御用達と噂の菓子屋があるとの話を聞いたことがございます。丁度そちらに用もありますし、夕食の時刻までに一番大きな箱を購入して参りましょう」
そうしてオーリはクチバシに貰った花を花瓶に残し、久々に帰宅した両親に連れられて、満面の笑顔でアーシャに手を振りながら屋敷を後にした。
やっぱりオーリから離れようとしなかったクチバシと共に王都の神殿を訪問し(神官の一部はちょっと嫌な顔をしたが、儀式の邪魔はしなかったし、機嫌の良さそうなブランジュード侯爵の顔を見て口を噤んだ)、高位神官の手から恙なく祝福を受け終えて。
再び屋敷に戻ってきたオーリを出迎えたのは、いつものアーシャではなく、黒い仕事着の老執事だった。
アーシャに別件の仕事が入るのは珍しいことではないし、両親とティータイムの予定が入っていたオーリは、その時特に気にすることもなく。
けれど夕食の時、オーリを呼びに部屋を訪れた執事の口から、オーリは初めてアーシャの行方を知らされた。
老執事が夕食を知らせに来た時、オーリは丁度、以前アーシャが用意してくれた小鳥用のブラシで、クチバシの羽を手入れしているところだった。
何の気なしにアーシャは仕事かと問うたオーリに、老執事は首を横に振り、アーシャは当分戻りませんと告げた。
奇妙な違和感に眉を寄せ、即座に問いただしたオーリに執事は口ごもったが、やがてオーリが引かないと見ると諦めたようだった。
折角のお嬢様のお誕生日に水を差す報告、誠に申し訳ございません。最初にそう謝罪した老執事は、いつもと同じ厳粛な顔でこう続けた。
お嬢様たちが出掛けられてすぐ、用事があると言付けて一人屋敷を出たアーシャ・マクネイアが、北区で発生した集団魔力暴走事件に巻き込まれ、昏睡状態で病院に運ばれたそうでございます。
――オーリの手から、小さなブラシが滑り落ちた。




