21:その出会いがもたらすもの
この国のどこよりも人と金の集まる王都イオレは、その活気に相応しく夜が更けるまで往来に人の姿が途切れない。
ただし、活動する人間の性質という点では、昼と夜とで大きく違うだろう。酔っ払いながら出歩く住民や荒くれじみた冒険者、たちの悪いごろつきに、日の下に顔を晒すことの出来ない犯罪者。そんな者たちの動きは、日没に合わせて活発になっていく。
少なくとも、自分が今歩いているこの通りを、月が昇った後も同じ調子では歩けないだろうなあ、とオーリは思った。
「今はただの、治安は悪くても活気のあるストリートなんだけどねー」
簡易な幌を付けただけの露店から、コップ入りの果汁を売っている屋台、ちょっと高級な衣装店まで。
当たり屋らしき男のボディアタックをするりと躱し、フードの下に水色の小鳥を収めたオーリは、店舗立ち並ぶ煉瓦色の道を足取り軽く蹴飛ばした。
石を特産品とする国だけあって、王都イオレの街並みは、その造りに多く石を利用している。
フヴィシュナ近辺で切り出される石は、加工によって硬度や色が変化する特殊なものだ。舗装、家、公共施設。区画によって使う石に差を付けることで、街そのもののデザインと色合いを一つの芸術品に仕立て上げている。
フヴィシュナ全土でも、ここまでの大規模な区画整理を行っているのはこの街くらいだ。
確かこれを行ったのは、六代前の王だと聞いたか。その目的が、他国からやって来た寵姫を喜ばせるためなどというものでなければ、もう少し素直に感嘆できたのだろうが。
「雰囲気で分かる程度だけど、クチバシは煉瓦色もあんまり好きじゃなさそうだよね。赤が嫌いだから?」
オーリの滞在する貴族街は白の石が、中心区に近いこのストリートは煉瓦色の石が多く使われている。他にも灰色や青の地区もあるらしいが、そちらはまだ観たことがなかった。
寝床に作った屑布さえ放り出してしまうほど、クチバシは赤色を好まない。鮮やかなワインレッドも好かないようだが、殊に嫌いなのは黒みがかった暗い赤のようだった。
なので、先日オーリがうっかりそんな色のジュースを胸元に零してしまった時などは、凄まじい勢いですっ飛んできて、早く脱げと言わんばかりに激しくつつき続けてくれたものだ。
その勢いはまさに、何か恨みでもあるのかと疑ってしまうほど。結局オーリが着替えるとすぐに収まったが、以来オーリは似たような色を見かけるたびにクチバシの顔を窺っている。あれって、色は悪いけど貴族にも人気の貴重な果汁だったんだけどなあ。
オーリの質問に、当然だがクチバシは答えない。さあね、と言うようにそっぽを向くクチバシに、オーリは肩を竦めてみせた。
「まあ、別に良いけどね。メイドたちの髪飾りにまで突撃するわけじゃないみたいだし、そもそも頻繁に見かけるような色でもないし」
それ以上追及するでもなく、オーリはしゃくりと手にしたポウの実を齧った。
ちなみにこのポウは貰い物である。露店の商品台から転げ落ちた果物を追いかけて返してやったら、大きな傷が付いてしまったものを、露店の老婆が一つくれたのだ。
緑色の大きなポウは、桃に似た味の甘い果実だ。今が旬のものなので、果物屋に行けば大抵置いてあるようだった。
特徴は柔らかい果肉と、林檎に似た芯があること。上等なものは果皮が黄色がかっているというが、これは鮮やかな緑だった。
「このポウ、香りがいいのは良いけど、ちょっと酸っぱいねぇ。甘く煮付けてパイにしたら良いのかも。でも、水分が多くて美味しいや」
もしゃもしゃ景気良く咀嚼しながら呟くオーリに、クチバシがピィと低く一度鳴く。咎めるような声色に、オーリは「うん?」と首を傾げて、ポウの欠片を飲み込んだ。
「食べ歩きはみっともない……違うな、もしかして喉に詰まらせないか心配してるの? 大丈夫だよ、私食べ物はしっかり噛む主義だし」
そういう問題じゃないとばかりにクチバシの目が細まるが、持って帰るわけにもいかないので仕方ない。構わず次の一口を齧り取って、オーリは唇をぺろりと舐めた。
言葉の話せないクチバシとの間で何となく会話が成立していることに関しては、出会って七日で理屈付けるのを諦めている。街の真ん中に聳える時計塔を見上げながら、オーリは大きく欠けたポウをふらりと揺らした。
「んー、約束の時間まで一時間以上あるね。クチバシ、どこかで暇潰しして行こうか」
今日は昼食後すぐに出て来たから、半日丸々時間がある。オーリの言葉に、クチバシが賛同するようにピィと鳴いた。
本日オーリは、シエナの仲立ちで人と会うことになっていた。
本当はシエナに王都を案内してもらう約束だったのだが、フレンチトーストが思いの外ヒットして、店を空けられなくなったそうだ。折良く案内役に名乗り上げてくれた知人がいるそうなので、これから会って挨拶することになったのである。
初めて訪れる知らない街で、ガイドがいるのといないのでは馴染む早さが随分違う。わざわざ案内をしたいと言うくらいなのだから、王都の知識には自信があるのだろうと、オーリは内心期待していた。
王都の穴場スポットや珍しい物品、安売りの店などを知りたかった彼女としては、その親切なガイドが生粋の地元民であることを祈りたい。観光マップなどを見るのも良いが、地元にしか知られていない穴場というものは存外面白いものが多いのだから。
「案内役って誰だろう。商店勤めしてるっていうシエナさんの恋人……ええと、フラスカさんって言ったっけ? その人のことではないよね。この前会った時、まだ他国での買い付けから帰ってなかったはずだし。どんな人なのかなあ。ノリのいい人が良いなあ」
ピィピィ気紛れに相槌を打ってくれるクチバシに、あれこれ話しかけながら歩みを進める。
けれど、少しばかり固さが残るポウを食べ終えた丁度その時、オーリは誰かの悲鳴を聞き止めて振り向いた。
見れば、人々の行き交う道の向こうで、大きな荷物を持った誰かが、柄の悪い誰かに絡まれていた。剣呑な雰囲気に首を傾げ、オーリは一瞬行動の選択に迷う。
絡まれている方は、大きな帽子と茶色の外套で装った、恐らく細身の男だ。ごろつきの方は、装備も着けていないし、多分この街の住民だろう。わざとらしく威嚇する顔でナイフをちらつかせているが、真っ赤な顔をしているから、昼間から飲酒でもしたのかも知れない。
ありゃまあ、と目をぱちくりさせていると、クチバシが警告するように短く鳴いて、オーリは小さく肩を竦めた。言われずとも、あそこに突っ込んだりする気はない。
「分かってるよ、流石にあんな目立つ所に飛び込まないってば。――ちょっと手は出すけどね」
言うと同時にオーリの手が閃いて、投げ放たれた小石がごろつきの肩口にヒットした。
不意を打たれた驚きと痛みに、ごろつきの喉から唸り声のような苦鳴が洩れる。小石に打たれて痺れた腕が咄嗟にナイフを取り落とし、腰が引けていた絡まれていた方の男が、びくりと体を震わせて後退った。
「ど――」
自分の身に何が起こったかを一呼吸置いて理解して、ごろつきが憤怒の表情を浮かべた。青筋を立てながらばっと人込みを見回して、多分、どいつだコラァ、的なことを言おうとしたのだろうそのこめかみに、次の瞬間的確にポウの芯が打ち込まれる。
――静寂は一瞬。
ぐるんと白目を剥いてぶっ倒れたごろつきに、被害者の男は呆気に取られて立ち竦む。
けれど、少し置いてようやく自分から脅威が去ったことに気付いた彼は、倒れ伏したごろつきから慌てたように距離を取った。方向を変えた拍子に足がもつれて一度転んだが、慌てて取り落とした荷物を拾い上げると、帽子を深く被り直して、怯えたように走り去ってしまう。
「――現地の人や冒険者には見えないし、商人か旅行者だったのかな。あの人も災難だったねぇ」
たった今小さなゴミを不法投棄した手をぷらぷら振って、オーリは気の毒げにそう呟いた。つんつん髪を引っ張ってくるクチバシを宥めるように撫でながら、「私がやったなんて誰も気付いてないから大丈夫だよ」と囁く。
オーリが義憤に駆られる対象は、一位が子供、二位が同率で女性と老人。
なので、成人男性はそれほどでもない。
もしももっと他人の目があったなら無視したかも知れないが、今回は皆が事件に注目してオーリの方など見ていなかったし、小石の一つも飛ばすだけで片が付いたのでそれで良し。
最初にナイフを手放させたのは、ごろつきの意識を少しだけ被害者から逸らすためである。万一一撃で仕留め切れなかった場合、逆上したごろつきが被害者に襲いかかったり、人質にする危険を減らすためだ。
実際にはきちんと一撃で片が付いたわけだが、まさか露店の老婆も自分の商品が武器として使われるとは思ってもみなかっただろう。
如何せん、オーリの腕力で石など投げれば、下手をするとめり込むくらいで済まないのだ。石より柔いポウの芯は、止めを刺すには丁度良い武器だった。
――その時、警備隊が到着したぞ、という声が聞こえて、オーリは小さく瞬きをした。
見れば制服を着た男が二人、通行人の間を縫うようにしてやって来る。通報されたにしては早いから、丁度近くを巡回でもしていたのだろうか。
ふと何かが意識に引っかかったような気がしたが、その正体が分からずにオーリはことんと首を傾げる。
「……へえ、本当に真面目にやってるんだ」
呟きには、感心と羨望が僅かに混ざっていた。
露店の老婆が言っていたが、どうやら王都の警備隊は、最近動きが以前より良くなっているらしい。手放しで頼りになるとまではまだ言えなくとも、道端で賄賂という名のショバ代を要求されたりすることは激減したとか。
少なくともシェパでは、たかが市民がごろつきに絡まれた程度で、駆け付けてくれるなんて考えにくい。
――王都の警備隊で政権交代でもあったのかな。シェパの支部でもこんな風なら、イアンさんも助かるだろうに。
苦労性の総副隊長のことを思い出しながら、オーリはそれ以上留まるでもなく踵を返す。
その爪先が、固い感触のする何かを蹴った。
「――ん?」
見下ろすと、そこには大きな石のついた首飾りがあった。
薄い紫のラインが入った、オーリの手のひらに充分乗るサイズの黒い石だ。細い銀色の鎖は、途中で砕けて切れている。
「……ねえクチバシ、これもしかして、さっき絡まれてた人のかな?」
首飾りを拾い上げ、オーリは困ったようにそう問うた。
もしもこれが転んだ拍子に首から落ち、行き交う人の足に蹴られるがままオーリのもとに転がってきたとすれば、ただでさえ怯えていた様子のあの男は、落とし物に気付いていない可能性もある。
オーリの考えていることに気付いたのか、クチバシが少しだけ嫌そうな顔をした。
「まだ時間はあるし、追いかけてみようか。高価なものだったら悪いしね」
予想通りの言葉を吐き出したオーリに、クチバシは溜息をつく。お人好しめ、というように鳴いた後、オーリの頭頂で羽を畳んだ。
※※※
横道に入って人目がなくなると、オーリは一気に走る速度を上げた。
壁を駆け上がって屋根から見下ろし、見覚えのある人影を探す。程なく発見した外套姿に、オーリは猫のように屋根を跳んで近付いた。
とん、と背後に着地して、オーリは男の背中を観察する。
壁に手を付いてぜえぜえ言っているから、多分走ってバテたのだろう。よっぽどあのごろつきが怖かったのかと改めて同情を刺激されながら、努めてのんびりと声をかけた。
「あのー、おじさん?」
ばっ、と振り向いた男の目が、至近距離でオーリの瞳を捉えた。
この国では初めて見る、黒に近いほど暗い色の瞳。瞬間、その目が驚愕を含んで見開いたように見えて、オーリは我知らず気圧された。
「……え、あ、こんにちは、旅行者のリアです。本日はお日柄も良く」
「え、あ、どうもご丁寧に、クロード・ウェルシェです……違う!」
思わずノリツッコミを入れた後、男は帽子を引き下げながら二、三歩オーリから距離を取る。いきなり他人に話しかけられて驚いたというよりは、何らかの理由でオーリに対して感じた動揺を、慌てて鎮めようとしているように見えた。
「え、えーと、お嬢ちゃん? その、お兄さんに何か用かな」
さり気なく自分の呼び方を修正しながら、男は帽子から覗く口元だけで何とか笑顔を形作る。その様子を見つめながら、オーリは先程見た男の顔を思い出した。
驚いたように硬直した男は、まだ二十代半ばにも届いていないだろう若い容貌をしていた。短い髪は癖があり、痩せ気味の頬からはイアンと似たような苦労性の匂いがする。
穏和と言うよりも気が弱そうな印象を受けたのだが、実はさらりとおじさん呼ばわりに傷付いていたのかも知れない。そんな思考に思い至り、オーリは内心で反省した。
複雑な年頃らしい彼に胸中ゴメンと謝りつつ、敢えてツッコミは入れずにしゃらりと例の首飾りを差し出してみせる。
「あの、お兄さん、さっきこれ、落としませんでした?」
――オーリの指にぶら下がるその首飾りを見た瞬間、青年は再び目を見開いた。
ただし、その空気は先程のそれとは大きく違う。目が零れ落ちんばかりに瞠目した彼は、ばっと右手で顔を抑え、一瞬で血の気の引いた顔を隠すように俯かせたのだ。
思いがけない反応に、オーリの体までびくりと震える。
もしや何が悪いことでもしてしまったかとおろおろ慌てるオーリの前で、一歩後退った青年は、左手で胸の辺りを忙しなく探る。その手に何も触れないのが分かると、彼は鷲掴むように手を押し当てたままの顔を、ゆっくりと重たげに持ち上げていった。
「――――……、」
こちらを向いた青年の双眸が、オーリのそれと静かにかち合う。かつての故郷の住人を想わせる暗色の瞳が彼女の青灰色を捉えた直後、オーリの視界は鮮やかな水色に染め上げられていた。
――ばさりと翼を広げたクチバシが、青年とオーリの間を遮るように浮かんでいた。
ヂヂヂヂヂッ、と低い鳴き声が、明確な敵意を持って青年を激しく威嚇する。いつもは丸い目を鋭く眇めて殺気すら纏ったクチバシは、真っ直ぐ青年を睨み付け、その前に立ち塞がっていた。
「――クチバシ!?」
驚いて声を上げたオーリを無視して、両者は尚も見つめ合う。
顔に手を当てたまま微動だにしない青年と、全身の羽を逆立てているクチバシと。きしりと空気が軋んだ気がして、オーリは冷や汗を滲ませた。
――そうして。
三十秒ほどの間を置いて、肩の力を抜いたのは青年の方が先だった。
「――……分かった、分かったよ。ごめんね、大丈夫、何もする気はないから」
じんわりと、纏う空気が平静に戻る。
顔を覆っていた手を外し、申し訳なさそうに苦笑して己に告げてくる青年に、クチバシは少し観察した後、ゆっくりと警戒を解いたようだった。くるりと身を翻した小鳥はオーリの頭へと飛んで行き、そのままぽすりとそこに蹲る。
「……な、何だったの?」
意味が分からずに呻くオーリに、クチバシは素知らぬ顔で答えない。
青年は苦笑を深くして、大きな帽子をするりと取った。
「リアちゃんって言ったね? 改めて初めまして、僕の名前はクロード。その首飾りを確認させてもらっても良いかい?」
微笑む青年の瞳が、どこか悔恨と懐旧を孕んで揺れていた理由など、オーリには分からなかったけれど。
鮮やかな赤は鮮血の色を、黒みがかった赤は空気に触れて少し時間が経った血液の色を連想させる。オーリと組み合わせると、ラトニのトラウマを直撃するらしい。
最近「いつか~」の過去編である「かつて~」の番外編を連載し始めました。王都編の間はラトニの影が薄いので、こちらで取り返そうかと思っています。本編のシリアスよりは大分明るくなる予定。




