20:道の向こうに見えるもの
シェパから離れて旅行中と言えど、オーリの勉強は休みにならない。流石に頻度は落ちるし、シェパにいた時と同じ教師は呼べないが、歴史や数学その他の授業は変わらず続いていた。
「ではオーリリア様、次の授業までにこの文言を覚えておいてくださいませ」
そう言って数枚の紙を渡してくるドレス姿の中年女性は、マナーと挨拶の教師である。気が強そうに少し吊り上がった目が、オーリを見下ろしてきびきび指図をする様は、貴婦人と言うよりもやり手のお局様を連想させた。
「オーリリア様は動作にしなやかさがあって大変結構ですわ。後は意識して背筋を伸ばして、顎を引きなさい。微笑を絶やさずに。まずはその状態で定型文を一言一句違わず言えるようになるのですよ」
「分かりました、先生!」
「顎を引く!」
「分かりました、先生!」
「声が大き過ぎます! もっと優雅に!」
「分かりました、先生!」
分かりましたと書いてイエスマムと読む。
もうすぐ八歳児相手に優雅を求める貴族社会って怖い、と思ったが、オーリは努めて従順に、ゆったりとした仕草でお辞儀をした。
とりあえず満足したように頷いた教師に、内心ぐったりしながら微笑んでみせる。どうにもこの授業は猫被りの余地がなく、本気でやらないと付いて行けない。
「お疲れ様です、お嬢様」
授業を終えて教師が退室すると、アーシャがグラスとビスケットを持ってきた。冷えたジュースを一気飲みして、オーリはばたりと小テーブルに腕を投げ出す。
貴族の子供は市井の子と違って、早々に働かねばならない環境を持たない代わりに、貴族として恥じないレベルの礼儀と知識を身に着ける義務を負う。告げられた中でどこまでサボるかは当人のやる気次第だが、少なくともオーリが言い付けられた課題を疎かにしたことは一度もなかった。
温かそうな午後の日差しが、透明度の高い窓から射し込んでいる。授業の間中窓際で待機していた水色の小鳥が見計らったように飛んできたが、そちらには視線を向ける余裕もなかった。オーリは口の端を引き攣らせて、へへ、と力なく笑った。
「燃えたぜ、燃え尽きたぜアーシャ……。どうして貴族のお辞儀ってあんな変な筋肉使うの? 何十回も繰り返して足が攣りそうだったんだけど」
「マナーと挨拶は急いで仕上げなければなりませんからね。しばらくは厳しく教えられることになるでしょうが、我慢なさってください」
意味の分からないフレーズはいつもの通りさらりと無視して、アーシャは盆を手に微笑する。
「……やっぱり、夜会は次の機会ってことじゃ駄目?」
「旦那様がもうその気でいらっしゃいますから……」
困ったように言葉を濁すアーシャに、オーリは不満そうに下唇を尖らせた。構えとばかりに髪を引っ張ってくるクチバシを、人差し指で軽くつつく。
オーリの父であるオルドゥルによれば、近く王都で大きな夜会が行われるらしい。ブランジュード侯爵としてそこに招待されている彼は、娘の誕生日プレゼント代わりに、彼女を初めての夜会に参加させるつもりのようだった。
勿論正式なデビュタントはまだまだ先だが、この国では神殿で八歳の祝福を受けた子供は社交界に参加する資格を得る。幼い頃から将来の側近や婚約者を見つける目的で、親に連れられてやって来る子供は少なくないようだ。
「もしかしてお父様、夜会で私の婚約者見つけるつもりかも」
ぼそりと呟いた彼女に、アーシャが「そうかも知れませんね」と相槌を打った。
「ブランジュード侯爵家令嬢で唯一のお子ともなれば、生半可な家に嫁ぐわけにも参りませんからね。旦那様も、早めにお相手の目星を付けておくに越したことはないとお考えなのでしょう」
「うえー」
即座に面倒くさそうな顔になったオーリに、アーシャは苦笑した。
アーシャとて、未だ外部との交流がほとんど無く、恋物語より魔法使いや英雄の冒険譚を好む幼い主が、恋愛や結婚に興味を持っているとは考えていない。
それでもいつかは来る道である以上、出来ればオーリ本人の目で、少しでも良い相手を選んで欲しかった。可愛いお嬢様が政略結婚の末、嫁ぎ先と上手く行かなくて冷遇されるなど、到底我慢できるものではない。
クチバシの頭を撫でているオーリに、アーシャは宥めるように言った。
「今度の夜会にはファルムルカ公爵家のご兄妹や王弟殿下もお出でになるという噂ですし、折角ですからどんな方々がいらっしゃるのかだけでもご覧になってきたら如何ですか? 他家の貴族のお顔を見るのは、これが初めてのことでしょう」
「まあ、そうだけど……」
「旦那様もいきなり婚約を確定させたりはなさらないでしょうから、楽な気持ちでいらっしゃれば良いのですよ。お嬢様は、ご婚約者に理想などはございますか?」
「……地味でもいいから真面目な人が良いなあ。優しい人なら尚良し……ぎゃああああ痛い痛い! 指と爪の間を的確に突くのは痛いって!」
「あらあら」
途端、びすびすと嘴を繰り出してくる小鳥に、オーリは割と真剣に悲鳴を上げた。
アーシャが慌てて手を伸ばすが、その手を避けて素早く移動したクチバシはテーブルの端に着地して、心なしか不機嫌そうな半眼でオーリを見上げてくる。
「何、お腹でも空いたの? 図太い鳥だなあ……」
うっかり被っていた猫が逃げかけたオーリは、クチバシを軽く睨み付けてからビスケットを手に取る。砕いた破片を手のひらに乗せて差し出すと、一瞬「そうじゃねえよ」とでも言いたげな目で見上げてきたクチバシは、それでも溜息をついてそれを啄み始めた。お前、本当に普通の鳥装う気あるの?
「つくづく表情豊かな鳥ですねぇ……」
呆れたように頬に手を当てながら、アーシャが困惑に眉尻を下げた。
常にオーリの傍を離れない奇妙な水色の小鳥は、基本的にオーリの手からしか物を食べない。オーリが三食の食事を取る時こそ礼儀正しく距離を開けているものの、お八つや間食となると必ず分け前を強請りに寄ってくる。
アーシャの用意した餌(穀物ミックス)には一切口を付けない癖に、オーリの手からは毎度様々な食物を摂取していくこの鳥の正体は、そろそろ本格的にアーシャたちの疑問を誘うところだ。
――尤も、たとえどんな疑いを持たれたところで、クチバシがオーリのお気に入りであり、曲がりなりにも当主の許可を得ている以上、怪しいからと手を出せる者などいようはずもないが。
「キミ、仲間とかいないの? キミみたいな鳥、私フヴィシュナで見たことないんだけど」
「旅行者か商人が連れ込んだのが、どこかで逃げ出したのかも知れませんわ。南の方は魔力を持つ動物も多いと聞きますから」
不思議そうに首を傾げてクチバシに問いかけるオーリに、アーシャが言い添えた。
オーリはクチバシとアーシャを見比べて、思い出すように視線を彷徨わせる。
「南……確か、アウグニス神国とかがある方だよね? まだあんまり習ってないんだけど、そこって魔力が強い土地なの?」
「ええ、ですから魔力を持つ者が多く、同時に神殿の力が強い国でもあります。私はあまり詳しくないのですが、お嬢様はそのうち先生から教わることになりますよ」
「ふうん……」
呟いて、オーリは自分の分のビスケットを齧った。
ドライフルーツを焼き込んだビスケットは、一瞬の抵抗の後ほろりと砕け、穀物の味と仄かな甘みを舌に残す。赤や黄色の彩りを眺めながら、シェパで流行のマフィンを連想した。
――そう言えば、値上がりしたナバナは南からの輸入品だって聞いたなあ。
これまで特に意識してこなかったが、オーリはふとそんなことを思い出す。
考えてみると、市場で値上がりが囁かれている食材は他にも幾つかあった気がする。製菓に使わないから縁がなかったが、あれらもひょっとして南からの輸入品が含まれていたりするのだろうか。
ぼんやりと思考に沈みながら、無意識に眉が小さく寄る。与えられたビスケットを食べ切ったクチバシが、オーリの顔をじっと見上げていた。
(――少しだけ貴重になっている南方からの輸入品。魔力の強い土地。神殿。別に南にあるのはアウグニス神国だけじゃないんだし、即ちアウグニス神国に着目するってわけじゃないけど……)
魔力のある者が多いと聞いて、未だ記憶に新しい薄金の青年を思い出してしまうのは――やはり短絡的に過ぎるのだろうか。
あの癖の強い青年――ジルを従わせることができるのだから、上にいるのは恐らく相当の権力を持つ人間だ。そんな連中が不穏な動きをすれば、国政に影響が出ることもあるだろう。
(や、まあ流石にこれは安直だし、断定する気はないけど)
どうもあの青年の顔がことあるごとに浮かんできて困ると、オーリはこっそり瞳を曇らせた。
一々存在を意識するのは、自分とラトニの安全に直結しているからだろうか。神経質なほど気にかけることが、やり過ぎだとは思わないけれど。
まあ良い、次に市場に出たら、南の情勢がどうなっているのか聞き込みをするのも良いだろう。そういったことに関して、商人たちは結構な情報網を誇っているはずだ。
もしもジルとは何の関わりもないにせよ、輸入品に影響が出る程度には情勢が怪しい可能性はある。そう考えて、オーリは最後のビスケットを飲み下した。
「――ねえ、アーシャ。私、フヴィシュナ以外の国のこと、もっと知りたいなあ」
甘えるように自分を見上げ、そんなことを言い出したオーリに、アーシャは目をぱちくりさせた。
「周辺諸国のことを、ですか? 授業で詳しく教わるのは、大分先になると思いますが……」
「正式な家庭教師じゃなくて良いよ。それよりも留学生とか旅人とか、とにかく身近な常識や風習の話を聞かせてくれる人がいれば嬉しい」
歴史も国交も知りたいが、そちらは本でも読めば済む。今優先したいのは最新の国家情勢と、ついでにもっと分かりやすく卑近なレベルでの情報だ。
例えばアウグニス神国一つ取っても、魔術師の数、市場に出回る品物、民族的な特徴に習慣、国民の間での神殿の評判など。折しも王都に滞在しているのだから、現地で生活したことのある人間など、探せば幾らも見つかるだろう。
「それに私、将来国内の人と結婚するとは――いたたたた! 髪を引っ張るな! ほら、限らないしさ。外国のことも知っておくに越したことはないと思うんだけど」
情緒不安定な小鳥に頭皮を虐待されながらも、にこー、と笑顔を作って更に押すと、アーシャは迷いを感じたようだった。
オーリのことに関して、傍付きであるアーシャはある程度の裁量権を与えられている。
ここは領地の外なので融通の利かないことも多いだろうが、オーリの希望は決して無体なことではないし、侯爵ならば鷹揚に許可するだろう。現在取っている授業のカリキュラムに関しても、オーリの言に従うのなら後々障りにもならないはずだ。
しばらく無言で考えていたアーシャは、一分ほども経ってようやくゆるゆると頷いてみせた。
「……分かりました。では、現在の家庭教師や授業との兼ね合いもありますし、正式な教師ではなく、あくまで話し相手ということでしたら。一応旦那様たちのご許可を頂かねばなりませんが、まずは良さそうな方を何人か探してみましょう」
「わあい、ありがとうアーシャ!」
ぱあっと顔を明るくし、無邪気に喜んでみせるオーリに、アーシャもほっとしたように肩の力を抜いた。
気を取り直して新しいジュースを注いでやれば、オーリはすぐにそれを手に取った。ごくごく喉を鳴らして飲むオーリに、「冷たいものを急いで飲むと体に悪いですよ」と窘める。
「お嬢様、色々考えるのはそれくらいにして、もう少し休憩しておおきなさいませ。次の授業では、確か貴族年鑑を読まなければならなかったでしょう?」
「あー、そうだった……。私あれ嫌ーい……」
一気に脱力したオーリに、アーシャは可笑しそうに笑った。
フヴィシュナに属する貴族の名前や功績を覚えなくてはならない授業は、オーリが大嫌いなものの一つだった。
何せ人名だの家名だのがずらずら並んだ百科事典のような分厚い書物を思い出すだけで、地味に頭が痛くなってくる。オーリは前世で横文字の名前が覚えられずに、世界史ではなく日本史を選択していた口だ。
「諦めて下さい。さあ、先生がいらっしゃるまであと二十分ですよ」
空の皿を下げながら、アーシャが主を慰める。ぐでりと倒れたオーリは、演技でなく子供っぽい仕草で頬を膨らませた。
オーリの頭上に移動して毛繕いをしていたクチバシが、小馬鹿にするように短く鳴いた。
シェパでの誘拐事件の時、ラトニは二羽の鳥を同時に動かしていたけど、オーリは二羽揃っているところを見ていないので一羽しかいないと思っています。あんな妙な行動をする鳥が複数いるとも想像しにくい。




